英語・ダイエット・その他徒然なるままに

趣味の英語学習(TOEIC 970点)やダイエットの成功談など、色々書いていきます。

本は勉強しにくいもの(2)

2020年04月30日 21時37分08秒 | 勉強一般
前回の続きです。前回「先生を確保しろ」と言いましたが、この状況じゃあ授業なんか受けれないよ、と思われるかもしれません。確かにその通りです。今回の話はあくまで一般論として捉えて下さい。ではいきます。

(4)暗記したかどうかよりも、自分の技術がその本を上回ったかどうか

問題集ではなく講義系の本に取り組む場合、どうしてもその本に書いてある”字面”を覚えたかどうかということにこだわってしまいがちです。もちろん間違いではありませんし、本を勉強して覚えるということはそういうことです。しかし、覚えよう、覚えよう、とすればするほど、いつのまにか本そのものを覚えることが目的になってしまい、無理をして知識を詰め込むことになってしまいます。で、そのような知識というのは結局応用が利かず、ゆえに、レベルの高い試験でなかなか点が取れないということになってしまいます。

逆の例を言うと、英語が苦手だと泣き言を言っている高校生なんかでも、中学の1年、2年くらいの教科書を見返してみると、アホらしいほど簡単だと思う人が多いと思うんですね。別に、その頃の教科書を脂汗たらして死に物狂いで暗記・復習したわけでもないのに、高校生になる頃のあなたにとってはもう、簡単すぎてアホらしい本になってしまっている。もちろん、そういう中学レベルの英語の試験を仮に受けたとしても結構な点が取れる。

勉強とは本来そうあるべきだと思うのです。苦手ながらも中3、高1、高2と少しずつレベルを上げた英語と格闘していくうちに、いつのまにか自分の技術力は中1、中2の教科書レベルなら見下せるくらいの領域に到達してしまった。そういう営みをずっと続けていけば無理なクソ暗記をしなくても実力は上がっていくし、また、そうやって無理なく身につけた力でないと応用は利きません。

だとすると、高校レベルの内容も別に脂汗たらして暗記しなくてもそのような形でマスターしてしまえれば全く問題ないのですが、残念ながら、大学生になる頃に高校英語がアホらしいと思えるほどの英語力を身につけても、もはや遅すぎて報われませんし、そもそも高校生が終わった段階でほとんどの人は勉強をやめてしまうので、高校レベルの内容を中学の内容と同じように”自然に”身につけてしまうことはできないのですね。

要するに、大学受験があるために高校レベルの内容を高校のうちに無理して覚えないといけない所に全ての元凶があるわけですが、上に書いたような自然なやり方に少しでも近い形で、そして、その結果柔軟に使いこなせる形の知識を身につけようと思ったら、以下のような方法を取るしかないでしょう。

(a)できるだけ早く勉強を開始する
(b)繰り返す
(c)違う情報ソースで同じ情報に触れる

(a)は要するに”先取り学習”ですね。前回、普段の授業をその日のうちに完全理解する以上の方法はないと言いましたが、しいて言えば、この先取り学習はそれをも上回る、まさに最強の方法だと思います。先取り学習を組織的に行ってくれる塾や先生がいれば無敵ですが、そういう物が手に入らなくても、少々乱暴な勉強でも早く始めて早く一通り終えて、そして何度も繰り返すということをやれば、かなり出来るようになるはずです。受験勉強なんて所詮は時間との闘いですからね。

(b)は極めて当たり前の話で、どんなに優秀な人でも何度も繰り返さないと覚えられないということで、これもそのための時間が確保できるかどうかという話なので、(a)と密接な関係があります。

(c)はまた違う話で、次の(6)に近い話なので、そこで詳しく述べます。そして、(a)、(b)を具体化したものが次の(5)となります。ここで言いたかったことは、脂汗たらして本を覚えるというよりも、その本に書かれていることが自分にとって”常識と言えるほどの当たり前の知識”と思えるように腕を磨くという考え方にシフトすることが重要で、そのためには上の(a)~(c)が基本方針になるということです。

(5)中学・高校の全過程を何周もする

よく、公立高校は3年の秋くらいにぎりぎり高校の範囲の授業を終えるから受験に間に合わず、中高一貫の私立高校に太刀打ちできないのだと言われます。しかし、あれだけボリュームのある、そして難解な高校課程の内容を、たった一回しか回そうとしないことの方が問題ではないでしょうか?

勉強でも何でも、物事を習得しようとするときに一番無理のないやり方は、易しい内容から徐々に難しい内容へ、そして、それぞれのレベルを徹底的に繰り返して身についたら次のステップに移る、というやり方だと思います。だから、スポーツや芸事の世界では何級とか何段とか、そういうランクに分かれているのでしょう?

学校の勉強も本来そうあるべきだと思います。英語なんかは割りと学年ごとに段々とレベルを上げていくようなやり方に近くなっていると思いますが、他の教科は単に中学3年間、高校3年間で内容が分断されているだけで、順を追って難易度をあげていく、というやり方にはなっていませんよね。

これがもし、例えば、高1ではごく基本的なテキストを使って全教科ともに基本的な骨格部分だけをマスターする、高2では少しレベルを上げて細かい知識を上乗せしながら高1の内容を復習する、高3で大学入試に対応できる応用力を磨くことをしながら、その過程で身についていなかった知識をあぶり出して最後の確認をする、というようなやり方にできれば、入試の直前でまだ基本的なことが分かっていないなどと焦りまくる必要もなくなるし、高校課程の一通りの内容を3回も繰り返すことになり、知らないうちに覚えていた、に近い状態になれると思うのです。同じ教科、科目でも、高1コース、高2コース、高3コース、があって然るべきだと私は思います。

勉強の仕方を自分で勝手にこのように変えてしまうのは、よほど力のある人か勇気がある人でないと無理かも知れませんが、ごく基本的な所だけでも先取りして早い段階で基礎(初歩的な、という意味の)を身に着けてしまうくらいのことは出来なくはないと思うのです。早い段階でそのような知識の核ができてしまえば勉強はかなりラクになるはずです。

(6)本よりも問題演習

受験勉強に限っていえば、その目的は本を暗唱することではなく入試問題が解けるようになることです。当たり前ですね。で、問題を自分で解くためには当然、その前提となる教科書や参考書に書かれている知識が頭に入っている必要があるわけですが、ここで勘違いしてはいけないのは、前提知識を覚えているからと言って問題が解けるとは限らない、ということです。別の言い方をすれば、教科書や参考書に書いてある知識を覚えていることは、問題が解けるための必要条件ではあっても、十分条件ではないのです。

「あんなに勉強したのに問題が解けない」という歯がゆい思いはほとんどの人が経験しているでしょうから、こんな事は言われなくても分かっているでしょうけど、なぜ問題が解けないのか?を深く考えてみたことがあるでしょうか?まあ私も受験指導のプロではないので断言はできませんが、その原因は、

問題を解いた経験が不足しているから

としか言いようが無いと思います。ではもっと突っ込んで、なぜ問題を解く経験が必要なのでしょうか?それは、

問題を解くことでしか得られないものがあるから


です。では、問題を解くことでしか得られないもの、とは何でしょうか?それは、

基礎知識をどのように使って頭を回せばいいのか

基礎知識がどのような形で問われるのか


についての経験上の理解です。簡単な試験では本に書いてある知識がそのまま問われるだけなので、本を覚えているかどうかだけが問題となります。しかし、難関試験では上のような感覚をもっているかどうかが勝負になるわけです。

本で覚える知識そのものと試験問題演習を通して得られる知識って何が違うんだ?どちらも同じ知識じゃないのか?と思われると思います。確かに両者の違いを言語化するのは難しいです。が、例えば数学だったら、”あの公式はこんな風に、こんな場面で使うのか”というような感覚だったり、化学なら”この化学反応式は入試で書かされることがあるのだな”というような、問題を解くという側面から見た知識の整理が出来ていないと問題がスムーズに解けないことがあるというのは誰でも経験があると思います。要は、知識を単に”暗唱”しているだけではなく、問題を解くための道具としてその使い所まで熟知していることが必要なのです。

また、問題を解くプロセスを通して知識を確認する作業を行うことによって、同じ知識を違う視点から眺めることになり、結果として記憶が強化されるということが起こります。以前、同じ英単語に違う媒体で出会った時に定着度が一気に上がるというような話をしましたが、受験勉強でも、1冊の本だけで脂汗たらして覚えようとしてもなかなか覚えられなかったことが、問題を解いたり違う本を眺めることによって覚えられてしまった、ということはよくあることです。

前回例に挙げたアンモニアソーダ法ですが、「塩化ナトリウムの飽和水溶液にアンモニアを溶かし、その後二酸化炭素を吹き込む」という手順は私もなかなか覚えられませんでした。というか、何回か勉強して覚えようとしたつもりなのに、前回の記事を書いた時は結局覚えておらず、本を見ながら文章を書いたのです。しかし、前回の記事に書いたことがきっかけで、もう完全に覚えてしまいました。不思議なものです。このように同じ情報に対して違う角度から接することは、暗記の効率を大きく向上させてくれるものです。

だから、問題を解きながら基本知識を確認するというのは非常に有効な作業であり、逆に言えば全部完璧に覚えるまで問題演習をやらないという姿勢は非常に効率が悪く、受験勉強が時間切れになる可能性も高いです。教科書傍用の基本問題集の存在意義もそこにあるのです。

少々長くなりましたが、最後にまとめじみたことを書いておくと、幼少期の乱読や社会人になってからの自己研鑽の勉強と違って、受験生には時間がありません。ただただ漫然と本を読み進めるというやり方では上手くいかないことが多く、記憶の効率化と知識のメンテナンスを考える必要があるのです。それが面白いと感じる人と、面白くないと感じる人、両方いると思います。受験を技術を競うゲームのように捉える人は面白いと思うでしょうし、純粋に知識を愛する学者タイプの人は面白くないと思うのです。

本は勉強しにくいもの

2020年04月29日 17時38分57秒 | 勉強一般
本の話をしたので、ついでに、特に受験を控えた勉強をしている若い学生さん向けに、本で勉強する際の注意点みたいなことを話しておきたいと思います。まあ、今まで分断的に言ってきている内容の繰り返しではありますが。

(1)基本的に、本で勉強するのはあまり良くないこと

学校や塾の普段の授業をいい加減にしている人に限って、あとで参考書で大勉強して逆転しようというようなことを考えたりするものですが、基本、それは無理です。というか、授業を大切にした方がはるかに勉強がラクだし、理解も深まる。まともな教え方をしてくれる優秀な先生に勝る本などありません。授業を真剣に聞いてその場で一発理解する、分からない所があれば質問して、遅くともその日のうちに解決しておく。これ以上の方法はありません。

本というものはその性質上、すべてを丁寧に記載することなどできるはずもなく、したがって、独りで完全に理解するのは無理なのです。どうしても行間を読む必要が出てきますからね。”詳しい本”というのは情報量が多い本ということであって、そういう本は大抵は独りで潰せる代物ではありません。また、いくら詳しくても、普通の人が疑問に思うような事が意外ときちんと説明してくれていなかったりすることが多いです。導いてくれる先生を確保しましょう。

我々のような社会人が本で独学してもいいのは(というか、そうするしかないのですが)、受験のように後から知識を”試験”されることがないからです。つまり、隅々まで完全に理解する必要はない、という前提があるから、少々乱暴な勉強でもいいのです。隅々まで完璧にしないといけない受験生とはここが違います。

(2)教科書で理解は進まない

国語(現代文、古典)の教科書は、その文を”どう読むか”についての方法論は書かれていません。英語もそうです。理科や社会の教科書が分かりにくいのはご存知の通り。数学は、その内容に閉じた範囲では非常に分かり易く書かれていますが、あれをマスターしたからと言って受験の問題が解けるようにはなりません。何が言いたいかというと、分かり易さという点では教科書はほぼ失格であるということです。あれは最低限の知識を、文科省から怒られないようにできるだけニュートラルな(偏向が無く当たり障りがないってことね)形で記載したものであって、理解させることを主眼に書かれたものではないと思います。

なので、受験は全て教科書の内容から出題される、教科書を完璧にすれば怖いものは無い、という物言いも、私は誇張だと思います。確かに、教科書レベルの知識でも、それらを本当の意味で完璧に理解し、もれなく記憶してしまえば相当な実力になると思います。しかし、教科書の記述は分かりにくい(数学は別)し、本当の意味で完璧に理解するための十分な情報もないので、教科書だけで本当の理解を獲得するのは不可能です(”教科書を”完璧に覚えることは頑張ればできると思いますが、むなしい営みだと思います。無理して字面を覚えているだけなんだから。分かりにくーい日本史や世界史の教科書の字面を一生懸命覚えて無理やり分かった気になろうとする、あれです。なお、個人的には、政治経済の教科書は良くできていると思います)。

教科書の分かりにくさの例を1つ挙げると、化学に出てくるアンモニアソーダ法(炭酸ナトリウムの製法)の説明でいきなり、”塩化ナトリウムの飽和水溶液にアンモニアを吸収させた後、二酸化炭素を吹き込み”みたいな事が書いてあるわけですよ。化学の初学者は当然「え!」となるわけです。「塩化ナトリウムの飽和水溶液にアンモニアって、、一体何がしたいの?どういう意味があるの?」という疑問が湧いてわけがわからなくなるのは、寧ろ正常な頭を持っていることの証でしょう。その心は教科書には書かれていません。これで”教科書で十分”なんて言われても、私にはその言葉の意味がわかりません。

某巨大掲示板に、「東大英語といえどもすべてアルファベットで書かれている。アルファベット以外からは問題は出ない。だから、アルファベットを完璧に覚えれば東大英語も解ける!」という書き込みがあって笑ってしまったことがありますが、言い得て妙だと思います。教科書で十分という物言いは、ほとんどこれに近いと言っても過言ではないと思います。

非常に分かりにくーい教科書。先生の授業をベースにして、ラクをしながらさっさと理解してしまって、後は何度も復習して必要最低限の知識の漏れを無くす。教科書なんて、それ以上のものではないと思います。もちろん、最終的には、教科書に書いてあることすら頭に残っていないのでは話にならないですよ。要は、最低限の必要知識の(雑な)チェックリストにすぎないということです。教科書ガイド。。。どうなんでしょう?使ったことないので知りません。

(3)1冊の本を完全に潰すには複数の本が必要

(1)、(2)の話とほぼ同じ。言い換えるとこういう事になります。”1冊の本を完璧に”というのは非常に耳障りのいい言葉ですが、そういう姿勢で勉強しようとする人に対して、その要求を単体で満たしてくれるような完成度の高い本など、まずありません。それに近い参考書はあるにしても、ベースにあるのは教科書で、その部分は割愛していることが多いです。

もちろん、あれもこれも手を広げる時間がない人は”メインの”本を絞る必要があるわけですが、そのメインの本が分からないときに補助となってくれる別の本が手元にあるに越したことはありません。まあ、この辺は(親の)経済力との兼ね合いでもあります。でも、どんなに優れた本でもネットに勝てないです。ネットを活用することですね。

ちょっと話がずれますが、桁外れな出来方をする超優秀な人は、受験なんかまだ全く考えなくていい小さい頃から、興味のおもむくままに大量の本を乱読するということをやってしまってるんです。そうやって、膨大な情報源に触れながら、本当の理解を積み重ねた人達なんです。”1冊の本を完璧に”なんてけち臭い受験テクニックで能力に磨きをかけたわけではないのです。スケールが違います。

誤解がないように念を押しておきますが、多くの、時間がない凡人受験生は”あれもこれも手を広げすぎない”勉強は正しいのですよ。というか、現実的にそんな事をしている時間はない。ただ、1冊のメイン本を完璧に仕上げるということと、本は1冊だけ準備すればいい、ということは必ずしも同じではないですよ、ということです。

ちょっと長くなってきたので、ここらへんで切って、続きは次回にしたいと思います。こんな事を書こうかと思っています。

(4)暗記したかどうかよりも、自分の技術がその本を上回ったかどうか
(5)中学・高校の全過程を何周もする
(6)本よりも問題演習

本を読もう(駄)

2020年04月29日 01時12分49秒 | 日記
ゴールデンウィークに突入です。そんな物はないという方もいらっしゃるかも知れませんが。

この状況下で田舎に帰省するほど私は非常識な人間ではありませんし、もともと外に出たり人と会ったりすることは嫌いなタイプなので、例のウイルスの心配を除けば(このリスクも極力排除していますが)、いたって過ごし易い、嫌でも私の趣味思考に合った休みの取り方になると思います。

はい、家にこもって本を読みまくります。日頃から読もう読もうと思っていてなかなか時間が取れず読めていない本が山ほどあるので、できるだけ潰してしまおうかと。あー、幸せ。え!本を買いに出かけるのかって?とんでもない。日頃から読みたいと思っている本は全て購入済みです。部屋の中に山ほど積まれている。あとは読むだけ。

英語関係の本で言えば、定期的に購入しているもの(TIME、CNN、EJ、TOEICプラマガ、NHK)に目を通すのは当然ですが、これを機会に前にちらっと言った「思考訓練のための英文解釈」に本格的に取り組んでみようかと考えています。英語オタクとしてこの本をまだ制覇できていないのがどうしてもひっかかるので。

何年か前に伊藤和夫さんの「英文解釈教室」を潰したという話をしましたが(時々復習しています)、この本を潰したとき、自分の中に英文を捕らえる際の感覚の違いが芽生えるのを自覚できたので、思考訓練の方も何かしらのブレークスルーが得られるのではないかと期待しています。今の大学入試レベルの英文では正直物足りないので、思考訓練で思いっきり頭をいじめてみようと思います。私程度の実力では相当手こずると思いますが、手こずるから実力が上がるんです。

英語以外では、言語学やAI関係の専門書を幾つか潰したいと思っています。AI関係の本は数式が山ほど出てくる難解なものなので、1冊、あわよくば2冊くらい潰せれば上出来でしょう。

あとは他にも、政治経済の基本的な本とか、歴史(日本史、世界史)関係とか、そういう社会化方面の知識も強化して教養を深めたいと思っていますが、全部はできないので、この休みは特に高校時代に取らなかった世界史の基本的な所を一通りなぞってみようかと。社会科にこだわるのは、この辺の知識がネックになって英文が読めないことが時々あるので、そういう弱点を補強したいと常々考えているからです。

他にも物理、化学、生物、地学などの理科系の知識ももっと充実させたいのですが、さすがにここまでは手が回らないでしょう。ちなみに強烈な苦手意識を持っていた化学はこの1年くらいでかなり”出来る人”になれたと思います。まあ高校レベルですが。この休みは物理系を軽く強化しますかね。この辺は単純な趣味(知識欲)です。

もし、キャリアアップのための勉強とかそういう事を一切考えなくてよいのなら、本当は一番時間を割いて没頭したいのは数学です。この歳になって数学の面白さに目覚めてしまったという非常に遅咲きの人なんですが、こんなに面白い世界は他には無いと思いますね。正直、英語よりも面白い。ただ、数学に関しては、面白いけど自分の才能の無さを痛感せざるを得ないので、あまり深入りはできないんですね。数学が超優秀な人というのはおそらく、就学前とか小学校低学年くらいの時にこの面白さに気づいた人達なのでしょう。

ここまで読んで気づいた方もおられるかも知れませんが、私って、縦書きの本を全く読まないんです。はい、全く魅力を感じません。文学とかビジネス系の啓発書とか、全く興味ないです。そういう意味では、やっぱり根本は理系人間なのか。いや、そういう事じゃなくておそらく、他人の人生経験から何かを学ぼうという考え方、他人の主観が入っている物に触れたいという感情が無いんです。


ドリフの思い出

2020年04月13日 21時15分41秒 | 日記
皆さんご存知のように、志村けんさんが亡くなられてしまいました。大変残念です。今50歳の私は全員集合とかドリフ大爆笑とか、まさにど真ん中世代ですし、私自身も子供の頃は全員集合は毎週、ドリフ大爆笑も毎回見て笑わせてもらった人間ですので、なんとも悲しい、やり切れない思いです。

若い人は志村どうぶつ園、なんですかね。今自宅にテレビが無い私はこの番組は知らないです。ということで、50歳の私が志村さんやドリフにどのような思い出を持っているのか、若い人達に少しお話ししてみようと思います。同世代、または私より上の世代の方は、共感して頂ける部分も多いかも知れません。

今50歳の私の中で、志村けんさんについて覚えている一番古い記憶は、「東村山音頭」ですね。76年ですから小学校一年のときです。これくらいの年齢ならそりゃもう、はっきり覚えています。当時、”なぜ2丁目がないのか?”が大きな疑問でした。

この東村山音頭、実は、志村さんが歌っていたのはカバーで、元歌というか、もっと古い原曲があるのをつい最近知りました。皆さん、知ってました?1963年に作成されたそうで、三橋美智也さんが歌っています。導入部分は志村さんバージョンとほぼ同じ。平田満バージョンもあるそうです。

志村さんがドリフの正式メンバーになったのは74年だそうですが、東村山音頭より古い、志村さんに関する記憶は私の中にはないです。でも、それより前の、カトちゃんの”ちょっとだけよ”とか、ジャンボマックとかは覚えているので、幼くて覚えていないというわけじゃなさそうなんですよね。たぶん、ドリフ加入直後はまだそれほど子供の記憶に残るような強烈なインパクトが無かったのかも知れません。荒井注さんとの交代劇も全く覚えていないです。というか、荒井注さんのドリフ時代も私は覚えてないですね。ドリフを脱退された後の荒井注さんはよく覚えていますが、ドリフ時代の記憶はないです。

ジャンボマックス。。。若い人は知らないと思いますが。3メートルくらいあるでっかい、髭面のおっさんの風貌をしたぬいぐるみで、全員集合とか、他のTBS系の番組にちょくちょく出ていました。未だにあれが何者なのかよく知りませんが(何かの企画もの?)、私の中で、全員集合に関する一番古い記憶はジャンボマックスですね。4歳くらいの頃だと思います。

東村山音頭の次に古い記憶は、”早口言葉”。これはもう踊りまで覚えている。そして、、しばらく全員集合が3人になった時のことですね(知らない人は調べて)。で、その次がひげダンス、かな。”最初はグー”が誕生した、仲本さんとの決闘のコント(じゃんけんで負けた方が罰を食らう奴)もよく覚えています。同じ頃でしょうか。

最近ネットを調べていて、最初はグー、は初めの頃はもう少し長くて、”いかりや長介頭はパー”とか言っていたという情報を見つけて、「そういえばそうだったかなー」と、薄っすら覚えているようないないような感じなのですが、そうでしたっけ?

最近思い出したと言えばもう一つ、東村山音頭の少し後にやっていた”ディスコ婆ちゃん”。あー、そんなのあったなーと。

コントは、それこそ数限りなくありますが、女優さんや歌手との絡みで印象がつよいのは、古くは桜田淳子さんとか研ナオコさんですね。ヘマをやらかして”陰・陽”がコロコロ代わるやつと、生卵、です。

ドリフ大爆笑系のコントで印象に残っているのは、加藤さんと一緒に逆さづりになって、カメラも上下逆にして、”擬似無重力状態”になるやつ。あまりに斬新で、初めて見た時のインパクトは強烈でした。あとは、”威勢のいい風呂屋”。これは初めて見た時は腹がよじれるほど笑いました。中学生の頃だったと思います。

この風呂屋のコントのように、たまにいかりやさんをいじめる系のコントが出てきますが、ドリフって、いかりやさんとそれ以外のメンバーとの軽い不仲というかゴタゴタした部分というか、そういう物もチラチラ出していたのを子供心によく覚えていますし、それが大人の世界の人間関係についての勉強にもなりました。”ああ、これで日頃の鬱憤晴らしをしてるんだな”と、子供ながらにそんな事を感じながら見ていたもんです(もちろん、本当に仲が悪かったわけではないでしょうが)。

とまあ、とりとめのない書き方になってしまいましたが、私の中でドリフについて特に強く記憶に強く残っている事はこんな感じです。

全員集合が終わったのは85年ですが、その前年の84年の始めころまでは見ていたと思います。その年は中3で高校受験を控えていたので、さすがに後半はテレビを見ている余裕はなかったですね。85年はもう高校生で、さすがにこの頃は見なくなっていました。最終回も見ていないと思います(勉強で大変だった)。

ちなみにこの1985年というのは、それまでに続いていた名物長寿番組がバタバタと立て続けに終わっていった年だと記憶しています。時代が変わっていくなー、というようなことを初めて感じた年でした。未だに、この年になぜそのような事が起こったのか、色々調べてはいるのですが明確に説明してくれている情報に出会えていません。なぜなんでしょう?昭和が終わったのは4年ほど後ですが、”昭和的なもの”はこの頃から終わりつつあったのかも知れません。

加トちゃんけんちゃんご機嫌テレビ、は大学受験勉強の合間の息抜きに時々見ていましたが、これはもはや”ドリフ”ではなく、”加藤茶と志村けんのコンビ”というイメージでしたね(そりゃそうか)。バカ殿の頃は、自分自身の進路などの事で大変で、テレビを見て笑う余裕は完全になかったです。

最後になりますが、ドリフ、そして、志村けんさんのようなタイプのお笑いレジェンドが出現するようなことは、もう二度と無いと思います。ひょっとしたら、笑いの才能や実力では同じくらい力のある人が現れることはあるかもしれませんし、今のお笑い界にもそういう人はいるのかもしれません。しかし、それを支える土壌、簡単に言えば、昭和の時代のテレビのようなパワーのあるメディアは今の時代にはありません。日本国民の半分が見る番組、老若男女を問わない皆んなのスター、を生み出す社会的土壌はもう存在しないのです(ネットは明らかにそういう性質のものではない)。なので、ドリフや志村さんのようなタイプのお笑いレジェンドが出現することは、もう二度と無いと思います。