英語・ダイエット・その他徒然なるままに

趣味の英語学習(TOEIC 970点)やダイエットの成功談など、色々書いていきます。

ワールドカップ

2018年06月30日 16時04分26秒 | 日記
普段はサッカーなど全く見ない人なのですが、今回のワールドカップはコロンビア戦、ポーランド戦と、放送時間が良かったこともあり、たまたまですが見てしまいました。

ポーランド戦の最後の玉回し(?)について色々といわれていますが、私自身は試合観戦中にあのプレーを見た瞬間に

日本すげぇ

と、興奮状態になりました。頭で考えてどうこうではなく単純に、まずは実際にそういう感情を抱きました。こんな思い切った作戦ができる国になったんだ、という思いでしたね。美しいことなのか云々という”べき論”を頭で考える以前に、なにも考えず直感的にそういう感情になりました。なので、あのシーン自体も”面白かった”です。

あの作戦自体について論じることはここでの目的ではありません。私みたいなニワカがそんな事を言っても意味ないでしょうから。私自身の感想は、”とにかく決勝トーナメントに進めてよかった”です。

で、今回私が記事に書きたいことは何かというと、ああいうプレー(作戦)を肯定するか否定するかということについて、人は、完全に理性や論理に基づいて自分の意見を述べているように一見みえるんだけど、実はなかなかそうはできていないんじゃないか?ということです。何故かというと、自分自身の中に”矛盾”を見つけてしまったからです。

今回のポーランド戦の作戦について、私自身は完全に肯定派なのですが(否定派の人を否定したり争うつもりはないです。私は肯定するというだけ)、92年の松井の「五打席連続敬遠」については否定派で、よく考えてみるとこれって自分の中で矛盾してるなーって思うんです。

今回のサッカーの方は何故肯定するかというと、”予選突破という一番大事な目標を最も高い確率で達成できる作戦だから”です。そういう風に論理的に判断したつもりで、肯定するにきまってんじゃん、と思っているのです。

でもよく考えてみると、松井の五打席連続敬遠の方も、対戦高校にとってみれば”勝つという一番大事な目標を最も(ではないかもしれないが)高い確率で達成できる作戦”のはずです。だとすると、同じ論理を通すのならこちらも肯定派にならないとオカシイわけです。でも、実際には自分としてはこちらは納得していません。”勝負しろよー”って思ってしまうのです。これって、明らかに矛盾ですよね。

この矛盾ってどこから生じているのだろうと考えてみると、何のことはない、

どの立場から観戦しているかの違い

だけなんです。サッカーの場合は同じ日本国民として、完全にそのチームを応援する立場で考えている。別にW杯全体の盛り上がりとか、負けたセネガルの立場とか、そういうことよりも、自分達の日本がどうなるか(あるいはどういう戦いをしてくれるか)という、日本の事しか考えていない立場(勝つか勝たないかだけでなく、格好いい戦い方をしてくれるかどうかも含めて、日本の事しか考えていない、という意味です)で物を言っているのです。

でも上の高校野球の例では、別に自分は石川県民でも高知県民でもないので、どちらかのチームの側からだけの目線で見ているわけではない。そこの立場が決定的に違う。立場が違うと同じ論理でも通用したりしなかったりする。

人が振りかざす”一見論理的なもの”なんて所詮その程度のものかもしれない、ということが言いたいのでした。置かれた立場、責任の有無、どちらを応援するかの立場、大会全体を見ているか自分の国の事だけみてるか、色々な人が、意識するしないは別として色々な立場や目線で物を言っているのですから、色々な意見があって当たり前だと思います。むしろ、日本全体で意見が一つに統一されてしまったら、その方がよっぽど気持ち悪いのではないでしょうか。

観察眼

2018年06月24日 14時41分04秒 | 勉強一般
長々とは論述したくないと書いたものの、問題集を解いてみて実感したことでもう1つ大事な事がありました。折角なので書いておきます。

例えば、1989年東大文系数学第2問なんかが典型的なんですけど、一般論ではなく、

その問題固有の状況を捉える観察眼

が解ける、解けないを左右することが結構ある、ということを意識しておく必要があると思います。

見ていただければ分かりますが、この問題の場合は題意の四角形が”平行四辺形である”ことに気づけるかどうか、が勝敗(計算量)の大きな分かれ目になります。四角形の4頂点の座標は出るので気づけなくても強引に四角形の面積を計算することはできるとは思いますが、かなり煩雑な計算になることは容易に想像がつきます。4頂点の座標をじっくり見て(あるいは、対辺の1対をベクトルで表すことによって)、平行四辺形であることが分かれば、そして、1対の対辺がy軸に平行であることにも気づけば、面積計算は非常にラクになります。

何が言いたいかというと、受験数学の問題では、このような”その問題固有の状況”に何か特殊性はないかと気を配る、一般論だけでなくそういう疑いの目を持って問題を見ることもできるようにしておかなければならない、ということなんです。

これ、割と数学がよく分かっている頭のいい子でも結構できなかったりするんです。なぜかというと、数学自体は分かっていても、入試問題を解くとはどういうことがということを体験的に理解していないと、こういうものの考え方、状況の探り方はできないからです。

数学そのものをよく理解している子ほど往々にして、”一般論”で解決しようとします。私の学生時代もそうだった記憶があります。言葉で説明するのは難しいのですが、「こうこう、こういう事が言えるから、この問題の題意が成り立つ、という風にいいたい。その”こういう事”とは何なのか?」という視点だけでひたすら突破口を開こうともがくんです。もちろん、そういう頭の働かせ方で解ける問題も数多くあります。というか、数学の”本質的な問題”を解く、という営みは、まさにそういうものです。何も間違ってはいません。

しかし、受験数学の問題を解く場合、これとはちょっと違う頭の働かせ方をしないといけない場合もあります。それが、上の東大の問題のように”この場合は平行四辺形になってるから”とか、あるいは”この問題の場合は等差数列になってるから”とか、”この問題の場合は3の倍数がならんでるから”とか、そういう問題固有の状況に着眼して計算処理に持っていく、というようなケースです。

整数問題なんかだと、眺めていてもさっぱり分からないけど、nが1の場合、2の場合、3の場合、と具体的に実験してみると法則らしきものが見えてくることが多々あります。こういう問題は非常に多いですし、こういうアプローチの仕方はそれこそ典型解法として絶対に身に付けておかなければいけないものです。しかし、数学自体の理解力は高いけどそういう受験技術に慣れていない子は、このような、実験してみてその問題固有の状況として何かが言えないかを探す、という考え方が身に付いておらず、問題が解けないということがよくあります。一般的な数学理論だけで何かを言おう、とし過ぎてしまうんです。実力がないときの私自身も実際そうでした。

繰り返しになりますが、入試レベルの問題になってくると、問題文を読んだ瞬間に突破口が分かるなんてケースは少ないです。そうではなくて、なんだかよく分からないけどまずは題意を式で書き下してみたり、あるいは絵を書いたりしてみて、それをじっと眺めたり少しばかり式をいじってみて、そして初めて何かが見えてくる、そういうケースの方が圧倒的に多いのです。だけど、受験問題ってそういうものだということを知らない子は、問題文をじーっと眺めるだけで何かをひねり出そうとしてしまうのです。そして、何も出てこず、「俺には才能がない」なんて言うのです。受験数学の問題を解くとはどういうことか、が分かっていないのですね。

おそらく、人から教わらなくてもそういう考え方までできてしまう子が「天才」なのでしょうけど、まあ凡人はそんなことは望むべくもないので、やはり受験数学の問題を解く上でのそういう必要な頭の働かせ方をちゃんと習って、意識して使えるようにしておく必要があるのです。我々はいきなりそんな事ができる天才にはなれないでしょうけど、”学習”はしないと、いつまで経ってもできるようにはなりません。ダメな子は、「あー、平行四辺形か。気づかなかったぁ」で終わり。何も学んでいない。しかし、できるようになりたいのなら、「そうか、こういう問題固有の状況が突破口になるケースもあるということだな。今度問題を解くときはそういう状況観察もするようにしなきゃな」という風に、自分に足りなかったものを客観的に認識して学習していかなくてはなりません。”曲芸”を披露するために何を身に付ける必要があるのか、をしっかり意識しながら勉強(というか練習)しないといけないのです。最終的にできるようになる奴といつまで経ってもできない奴の差は、この学習の質の差だと思います。

そして、この状況観察能力も突き詰めていえば計算です。数列とか、図形とか、数式でも、実際に手を動かして絵を描いたり式に落としたり、あるいは幾つか例を並べてみる、そして、目の前の状況をじっと眺める。そういうことを面倒くさがらずにやる中で身に付けるしかないのです。手を動かしましょう。

端的にいうと

2018年06月24日 12時45分43秒 | 勉強一般
あまり長々と論述しても近頃の若い子たちは読んでくれないと思うので、(受験の)数学に関して言いたい事を一言でいうと、

こんなの思いつかねぇ

とあなたが思ったその解き方について、

最初は思いつかなくて当たり前。今回出会えたその解き方をよーく頭に叩き込んでおいて、次から思いつくようにすればいい

これだけです。はい。

これが受験数学の勉強の本質でしょう。前にも書きましたが、曲芸を磨く競争なんですよ。残念ながら、受験数学というのはそういうもの。クソみたいな営みですけど、大学入試の問題を見る限り、そうとしか言い様がない。

授業で習う”本質”をしっかり理解していることは当然求められますが、競争はそこではなくて、問題をいかに解きほぐして基本の計算問題に落とし込んで計算結果を出すか、という曲芸の競い合いなんです。

少々の訓練では身に付かない曲芸なんだから、最初はできなくて当たり前だし、当たり前の数学の勉強をしているだけでも残念ながらできるようにはならない。経験値を上げて技を磨いていく競争であって、頭の良し悪しもあまり関係ない。頭よければ上達は早いだろうけど、別に頭悪くても訓練しさえすればいい。そういうもの。

それともう1つ大事な事。

発想の柔軟性もあるに越したことはないけど、実は計算の巧拙が、あなたが思っているよりずっと大きな支配要因として存在している


ということです。これは自分で手を動かして問題を解いてみると嫌というほど実感します。意外にしょーもない所の計算でモタモタしてしまうケースが多いですよ。そんな状態で発想力とかそんな事をいっても仕方ないでしょ。この力は普段の当たり前の数学の勉強の中でも要求されるものです。だから、学校の授業などの曲芸以前の基本勉強を疎かにすることは許されません。解法暗記や曲芸の鍛錬”だけ”に走って基本を疎かにした人は、こういう基本的な計算力が身に付かないから、やはり失敗するのです。

本当は学校の教師がこういう真実をちゃんと語ってあげて、学生に不要な精神的徒労をさせないようにしてあげる必要があると思うんですけどね。

ちなみに私自身は、教科書に書いてあることを完全に理解しておけば入試問題は解けるようになる、という言い方は嘘だと思います。数学に限らずどの教科でも。そんな簡単な話だったら誰も苦労しません。教科書に書いてあることがベースであるのは確かだし、初期の段階ではいたづらに難しいものをやるより教科書で基礎を固めるのが先決なのは確か。でも、それだけで入試で求められる”曲芸”が身に付くほど甘くはない。

要するに、「入試問題をいかによく知っているか」が問われているだけなんです。

精神的成熟度

2018年06月23日 20時55分02秒 | 勉強一般
久しぶりに時間があるのでもう1つ書きます。

なんだか受験カウンセラーみたいな内容が続いていますが、本来このブログは英語学習に関するものでした(それとダイエット。あ、このたび15キロほど減量しました。その内容はまた後日)。が、大人の英語学習も学生の受験勉強も似たようなもんなので、私の経験に基づいて喋れる内容は喋って、ご参考にしてもらえればと思っています。

で、勉強に関していうなら、その方法や内容はもちろん大事なんですけど、それと同じくらいに成否を左右する重要な話があると思っていて、それが表題の「精神的成熟度」です。ようするにメンタル面。

まあ勝負事に際してはメンタルは強い方が望ましいのは論を待たないでしょうけど、今回はメンタルの強弱を話題にしたいわけではありません。そんな事よりも、できるだけメンタル方面での踏ん張りが必要ないように、余裕を持ってラクに勝負を乗り切る戦略を取る、そういう賢さが重要だということが言いたいのです。そのためのキーになるのが精神的成熟度です。

それって何?と思われると思います。そりゃそうです、私の造語ですから。簡単に言うと、”どれだけ大人の世界の事情が見えているか”。要するに、大人の事情を斟酌して世の中の仕組みを俯瞰できるおマセさんかどうか、ということです。おマセさんであることが望ましいです。

真面目に勉強するのに結果が出ない子、わりと出来る子だったのに受験に失敗する子が少なからずいます。どうしてでしょう?私が思うに、精神的に”子供すぎる””ピュアすぎる”からです。メンタルの強弱とはまた少し違う話です。

世の中の、あるいは大人の、綺麗な所も汚い所も含めて見えているか?

ということです。これが見えている子は成熟度が高くて、見えていない、子供っぽいピュアな子は成熟度が低い、と定義します。

”要領がいい、悪い”という言い方もありますよね。そう言えばピンとくるでしょうか?それに近いです。受験に関してはテクニック的な方面から”要領”という言葉がよく使われますが、ここで話題にしたいのはそれに近いんだけど微妙に違っていて、自分の心の持ちようをいかに平静に保って淡々と勉強できるか、という側面での要領です。私が思うにそれは、上に書いたように、要領というよりは”精神的成熟度”と言うべきかなと。似てますけどね。

前置き的なものが長くなってしまいましたが、受験(勉強)というものの仕組みや本質が見えていて、一喜一憂したり自分を追い詰めたりしない、そういうことができる能力、のことを言っています。一喜一憂したり必要以上に自分を追い詰めるとはどういうことか?これは受験を経験したことがある人なら大体経験があるはずです。教科書の問題は解けるのに模試の問題は解けなくて偏差値低くて落ち込むとか、志望大学の過去問が難しくて萎えるとか、問題集やっても解けない問題が多くて自分の数学の才能の無さにウンザリするとか、みんな経験ありますよね?でも、今になって思うと、それって全部

騙されてた

って思うんです。はい、大人が高校生を騙しているんです。そして、そういう事態、つまり、模試や入試の問題の難しさを突きつけられて落ち込むような事態になってしまうということは、まんまとその騙しに引っかかっている、ということなんです。

よく考えて下さい。入試とは、特に有名大の入試とは、みんなが入りたいと思う大学が、みんなを入学させることなんてできないから、受験生の多くを”落とす”ために行われるものです。一方で、入試問題は高校の指導要領の範囲内で作ることが義務付けられていて、それを逸脱して作成することは許されません(国立だけ!?)。その2つがあるとすると、入試問題ってどのようなものになってくるでしょうか?50年、60年と変わらずに行われているそのような入試の問題の集合体って、勉強の真っ只中にある成長途中の高校生にとってどのようなシロモノに写るでしょうか?

そう、受験期直前以外の、成長途上真っ只中の高校生にとっては「解けなくて当たり前」のシロモノのはずです。どんなに生まれつき頭が良かろうが、日々の勉強をどんなに真面目にやっていようが、そう簡単に解けるシロモノでないことは当たり前です。成長途中の高校生が簡単に解けるシロモノだったら、選別マシンとしての機能が果たせるわけがないですよね。

なのに、大人は「お前の偏差値は十分じゃない」とか「もっと勉強しろ」とか、「お前は学年で何番だ」とか好き勝手な事を言って、成長途上にある学生を脅しまくるんです。まだ解けないのが当たり前の問題をやらせておきながら。効果のある勉強方法を伝授してくれるわけでもないのに。

そして、多くの子が、そういう大人からの叱咤を真に受けて、「もっと勉強しなきゃ」と思いつめるならまだマシで、「こんなの解けないから志望校下げようかな」とか、「マジ勉強の仕方が分からない、助けて」とか、最悪なのは「どうせ俺は頭悪いから」とか言って諦めて戦線離脱していく。多くの子供たちがそうなっていくのは、まだまだ大人の世界の事情を見抜く目を持たない”精神的成熟度が低い”子だからです。まあ低いというのはちょっと酷で、歳相応だという事です。我々大人の目から見ると成熟していない、というだけ。

でも、稀に、この精神的成熟度が高い子がいます。こういう子供はおそらく次のように考えます。

”入試問題?そりゃ落とすための問題なんだから、そんな簡単に解けるわけないじゃん”

”でも、指導要領の範囲で難問作るにも限界あるだろうから、パターンはもう大体出尽くしてんじゃね?”

”だから、今は出来なくても受験の時までにパターンになれて出来るようにすれば無問題”

このように考えて、今問題が解けようが解けまいがそんな事はあまり気にせず、パターンが有限の入試問題の征服を受験当日までにやればいいと考えて、日々の勉強を淡々とこなす。大人たちの叱咤なんて、完全無視。

これが、精神的成熟度が高い、ということです。大人の側の事情、世の中の仕組みというものを完全に見抜いちゃってるんですよ。勝負の世界で勝つにはこういう賢さというか、物事の本質を見抜く力、が必要だと思うのです。

後生大事に育てられた、温室育ちのいい子ちゃんが失敗するケースの多くの場合、この能力が欠けていることが原因ではないかと思うのです。ピュア過ぎて、物事の本質が見えておらず、頑張り方が闇雲で、結局最高峰を極められない、そういうパターンって多いんじゃないかと想像するわけです。なぜかって、はい、私自身の失敗談だからです(笑)。

受験も世渡りの一つです。世渡りの上手な賢い子に育てるには、大人の世界の汚い事情や論理もある程度教えてあげて、視野の広い子に育てた方がいいのだと思います。それは子供自身ではなく大人の側の仕事でしょう。ただただひたむきに頑張る素直な子が最高の結果を出せる世界が一番美しいのかも知れませんが、ピュア過ぎて潰れてしまうこともあるのです。

計算ドリル、教科書傍用問題集をバカにするな

2018年06月23日 18時58分09秒 | 勉強一般
計算力が大事だという話をしました。

考えてみれば当たり前の話で、学問をする側の立場を想定してみても、別にとてつもない天才的な発想ばかりを積み上げることが仕事ではないはずで、そんなことよりもむしろ1つ1つの論理を正確に積み上げていきながら新しい知見を開拓していくことが本来の営みのはずです。天才が天才的発想によって大仕事をすることはあるでしょうけど、本来それは想定外の出来事のはずですし、そんなことができる人間を人の手によって育てることもできないのですから、プロの数学の世界といえども、凄い発想より緻密な論証の方が通常は重要な営みになってくるはずです。

なので、若い人達に求められている能力も、いかに正確な論証、計算をきちんとやってくれるか、ということの方がメインのはずです。天才は時々現れてくれればラッキーという程度で、別にそんなものは誰も求めちゃいない。

しかしこの計算力ってやつも、じつは一朝一夕に身に付くものじゃない。そういう意味で、全然バカにするようなシロモノではないんです。いや、バカにするどころか、18歳くらいの人間を選別する上ではもっとも重要な指標の1つとなるはずです。受験直前の付け焼刃のクソ暗記勉強では身に付かない能力なんだから、長年コツコツと真摯な勉強を積み重ねてきた人間かどうかを見極めるのに最適な指標なのはうなずけると思います。

計算が速い、正確である、計算上の工夫に長けている、これって結構凄い能力なんですよ。簡単な問題を解く時間が短くなるし、計算ミスもないし、だから、難しい問題をじっくり考える時間も増える。いろんな解法を試す時間が増える。今の形式の受験で闘う上では一番大事だといっても過言じゃない能力じゃないですか。もちろん受験だけじゃなくて、数学的なものを仕事で使うようになったときにも、仕事のパフォーマンスを決定づける大きな要因になります。プログラマーがプログラムを書くのにどれくらい時間がかかるかも、アルゴリズムを検証する計算力なんかに大きく依存するはずです。

もちろん暗算10段とか、そういう電卓と競うようなレベルまで追求する必要はないでしょうけど(もちろんそれができれば超素晴らしいが)、計算力を磨く事によって得をすることってとても多いんです。理系科目ならその勝敗の大部分は計算力で決まるんです(文系科目なら国語力・読解力ね。読み書きそろばんって言うでしょ)。

分かる、分からない、もブレークダウンしてみると結局、頭の中で計算的なものができている、できていない、という話でしかないんです。高校程度の数学なら、発想が分からないなんて高尚な話などほとんどないはずで、要するに式変形が分からんってことがほとんどのハズなんだから、これは計算の話。物理だって化学だって、式の意味や立て方がぴんと来ないとか、反応式が操れないとか、こんなのも要は calculation が出来てるかどうかということ。計算力の有無、これがアナタの人生の可能性を大きく左右するといっても過言ではないのです。

しかし、繰り返しになりますが、この計算力ってやつは実際に自分でどれだけ手を動かして頭を使って格闘してきたか、幼少の頃からのその蓄積によってのみ養成される能力です。人から教えられる事をただ理解すればいいということではなく、自分の体に覚えこませることでのみ磨かれる能力。だから、小学生の子供には計算ドリルをとにかく真面目にやらせることが大事です。私もそうでしたが、計算ドリルをこなすのが人より速くなってくると自信がついて、勉強がどんどん楽しくなってきます。逆に、こういう計算事が遅くてそれがコンプレックスになってくると、勉強というものが億劫になってきて、次第に勉強しなくなっていきます。子供の頃の計算ドリルへの取り組み一つが、勉強に対する正負のスパイラルの原因になるのです。恐ろしいですね。

しかし、小学生の頃に出来た子も、中学・高校となってくると、どんどん出来ない方の仲間入りをするようになります。この年齢になってくると、小学校の頃の計算ドリルに相当する教材がなくなってくるからです。

殊勝な子は、学校で配られる教科書傍用の問題集とかそういうのをきちんとこなしたりしますが、普通はなかなかそこまでやらないですよね。でも実は、そういう営みをきちんとやったかどうかの差が、じわじわと基礎力の差になってくるのです。そして、大学受験を意識しはじめる頃には、もう絶望的な差になってしまっています。数学だけではなくて、今では物理とか化学なんかも教科書傍用のいい問題集なんかが配られると思いますが、ああいうのを高校1年、2年の段階でしっかりやっておけば、受験期には大きなアドバンテージになるはずです。

どんなに高度な内容も、基礎的な事項の上に成り立つものです。その基礎的な事項をいかに正確に素早く操れるか、は学力の伸びという物に対して、多くの人がなんとなく考えているよりもずっとずっと大きく影響しているのです。そして、一流大学といわれる所が子供の学力として見たいのも、実はそういう所なんだと思われます。問題みれば分かります。1年や2年では身に付かない能力をしっかり身につけている子、それ以上に何を求める必要がありますか?って話ですよ。問題を作る上でも、高校の指導要領の範囲内で差が付く問題にするには計算量を多くするのは有効な方法ですし、とりたい学生を選別するにも計算力を見るというのは大事な側面になってくるんです。

計算できるものは理解できるんです。計算を面倒くさがって計算できなくなってくると、理解が及ばなくなってくるんです。圧倒的多数の凡人が、確率論とか統計学とか信号処理とか微分積分とか、いわゆる”理論”ってやつを理解できないのはどうしてでしょうか?どこかの時点で、一生懸命計算式を追うという作業を放棄してしまったからです。つまり、”分からない”の出発点は”計算できない”なのです。