国際結婚はたいへんだった(第2章)

ボリビア人女性との国際結婚に至るまでの道のりを記録するために立ち上げたブログです。最近は妻との日常生活を綴っています。

はじめに

私(Yasuhiro)とボリビア人のLinda(通称)は2015年9月29日にニューヨークで結婚しましたが、翌2016年の1月3日にも妻の実家があるコチャバンバで式を挙げました。3ヶ月以上もの日を措いて2度結婚することになった訳ですが、その「たいへんだった」経緯については「結婚@NYまで」のカテゴリーにまとめています。

またコケよった(笑)

2019-12-19 | 日記
大学入試改革がまたもや頓挫。英語の民間試験導入見送りに続いて数学と国語への記述式問題の導入も白紙撤回が決定し、これまでに投入された国費、時間、そしてエネルギーが全て無駄となりました(アホクサ)。1年前には「プレテスト」やらに付き合わされた私ゆえ、少しぐらい何か書いても罰は当たらないでしょう。

で、言いたいのは「小手先で入試をいじったくらいで論理的思考力を評価するのは無理」ということに尽きます。高校、塾および予備校が記述式問題への対策をしっかり練るようになれば、結局はペーパーテストの得意な「要領のいい生徒」「お利口さん」ほど高得点を取るようになるのは目に見えているからです。そういえば数学者の森毅さん(故人)は「受験勉強が役に立たん試験ほどええ試験や」などと書いてたな、と思い出したので、著書をいくつか捜してみたところ・・・・その箇所は見つけられませんでしたが、安野光雄氏(画家)との対談本「数学大明神」でこんな発言がありました。

(途中から)たとえば、詰め碁は頭の体操にいいと言うでしょう。(中略)それで、「あれは数学みたいなものだ」と誰かが主張したとするね。 ─じつはだいぶ違うけどね。─ それで、選択科目は数学Ⅰか数学ⅡBか囲碁Bか、なんていうふうになったとするでしょう。そうすると、○○社(注)とか言った受験屋さんが『大学入試のための定石三千題』とか(笑)、『入試に出る定石五千』とか、そういうのを出すわけだ。そうなるとぜんぜんダメなんです。
(注:原文は実名表記でしたが伏せときます。)

ちなみに上は(楽しみでやれば好きになる人はいっぱいいるはずの)初等幾何学も大学入試で「補助線の引き方がむずかしい問題」として多く出されるようになると、「こういうタイプの問題には、こういう補助線を引く」というハウ・ツー的なシステムになって・・・・・という歴史的経緯を受けてのものでした。思い当たるなあ。

追記
 「数学大明神」のあとがきを執筆した安野氏によれば、森氏との対談は延べにして約30時間にわたってしゃべり続け、テープが底を尽いた時に物理的に終わった(そのためパチンコの脱線話で唐突に終了)という凄まじいものだったようですが(テープは小型のトランク1杯分もあったとか)、時おり大学入試(受験)についても議論が繰り広げられ、今の入試関係者が聞いたら卒倒しそうな過激発言も飛び出していました。(とはいえ、入試を少しでも良いものにしようと考えている人間にこそ目を通してもらいたい内容ではあります。)

 「(京大には)『細かいところについては、なるべくグズグズ言うな』という変な採点方式があってね」
 「採点というのも、やっぱり文化であって、蓄積なんですよ」
 「間違いの多い手採点のほうが、間違いの少ないコンピューター採点よりずっとええで」
 「試験の前に勉強して、ちゃんとはわかっていないところを、わかったような格好だけ見せたりしたら、実力がわからなくなるじゃないですか」

で、私が本文で紹介しようとした箇所は正確には(京大の二次試験について)「主方向としては、試験勉強が通用しないようにしようということです」でした。(いい加減な記憶ですいません。以前このブログで紹介した「非国民が住みやすい国ほどええ国や」とゴッチャになっていました。)その直後に「学生さんに言わせると、受験勉強と受験技術と、二つの概念があるらしい」という発言があり、どう違うのか訊かれた学生の答えがまた爆笑ものでした。

 森「たとえば、英語だったら、単語をたくさん覚えるのが受験勉強、知らん単語があっても訳をデッチ上げるのが受験技術。」
 安野「知性と感性の違いですな。(笑)」

英語で思い出したことがあるので、以下に続けますね。

追記2
 私は中学と高校の授業で完全に英語嫌いにさせられたこともあり、入試(共通一次)直前の模試でも5割取るのがやっとという体たらくでした。それが本番では自分でも驚いたほど上乗せできたのは、決して火事場のクソ力を発揮できたからではなく、マーク式テストにおけるまさに付け焼き刃的な「受験技術」が功を奏したからに過ぎません。大学入学後もまるで勉強しませんでした。それが今ではとりあえず業務に支障が出ない程度に使えるようになっているのは、ひとえに大学4年生以降の経験(積み重ね)によるものです。研究室に配属されてからはセミナー発表や卒論・修論の執筆のため、英語の論文をそれこそ毎日のように(トータルでは数百、あるいはそれ以上?)読みましたし、博士課程に入ってからは書くことも要求されるようになりました。(あと、南米で働くため否応なくスペイン語を習得させられたことで外国語アレルギーが霧散消滅したことも大きい。帰国後は自分から進んでNHKラジオの英会話講座を聴くようになりましたから。)とはいえ、高校までの授業(読解と文法の学習が中心)でその基礎が築かれたことは疑えません。ですから私は「聞く」「読む」「書く」「話す」の4技能の強化とか小学校での義務化(「外国語活動」から「教科」へ)など、英語教育の改革には(今更ではありますが)断固反対という立場を取ります。そういえば別ブログにもいろいろ書いていました。(もう十年以上前に執筆したものですが、このページの終わりの方にも少し。直行できるようタグ付けときますね。)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする