国際結婚はたいへんだった(第2章)

ボリビア人女性との国際結婚に至るまでの道のりを記録するために立ち上げたブログです。最近は妻との日常生活を綴っています。

はじめに

私(Yasuhiro)とボリビア人のLinda(通称)は2015年9月29日にニューヨークで結婚しましたが、翌2016年の1月3日にも妻の実家があるコチャバンバで式を挙げました。3ヶ月以上もの日を措いて2度結婚することになった訳ですが、その「たいへんだった」経緯については「結婚@NYまで」のカテゴリーにまとめています。

どうにか復活

2018-12-31 | 帰省(2018〜19)
一向に回復の兆しの見られない私たちを見かねてAna Maríaさんは医者へ行くことを勧めてきましたが、基本的に海外の医療を信用していない(医療事故だけは勘弁と思っている)私は謹んで辞退。それでLindaだけが診察を受けることに。その前に済ませておくと後が早いということで彼女の便をクリニックに持って行って調べてもらったのですが・・・・その検査結果がこれ↓

イタリック(斜体)ではなかったものの、私はパッと見て何かの生物の学名(ラテン名)と直観しました。検便(顕微鏡観察)でその何とかのquisteとやら(後で辞書を引いたら嚢胞)が観察された、と書かれていますが、ではその何とかとはいったい? で、Ana Maríaさんに尋ねてみたところ「○○ー○」という答え。それを聞いて私は思わず「うっそー?!」と焦りました。

帰国時に○○ー○が原因の病気(赤○)に罹っていたことが判明したため空港で足止めされ、その後病院に隔離されたという事例を複数聞いていたからです。うち1例は私の研究室の後輩で、東南アジアへの卒業旅行の帰りに引っかかり、これといった症状は出ていないにもかかわらず1ヶ月ほど隔離入院させられたとのこと。(法律で定められているため、その間の諸経費はすべて国が持ってくれたそうですが。)帰国当日午後の授業をはじめスケジュールがビッシリの私が同じことになっては絶対に困ります。(さすがにクビにはならないでしょうけど。)

内科医の診察を受けたLindaには3種類の薬が処方されました。その何とかを駆除するための錠剤と、下痢などの症状を抑える錠剤、そして腸内の細菌相を整えるためのシロップ。それで私も同じ薬を飲み続けることにしましたので、帰国時には完全に治癒していたものと確信しています。(伏せ字にしなくても良かったかな?)

なお感染性胃腸炎の症状は大抵1~2日で治まるとネットにあったので、さほど心配はしていなかったのですが、実際私も大晦日の午後から次第に体が楽になり、飲み食いしてもすぐ腹が下るようなことはなくなりました。兎にも角にも新年を迎えるパーティーの前に体調が戻ってきたのはラッキーでした。
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知らなんだ

2018-12-31 | 帰省(2018〜19)

この書類は確かLindaと私が乗らなかったラパス→コチャバンバ便の権利をお姉さん達に譲る(注)ための書類だったと記憶していますが、そのLindaのサインを見て「これ『ベ』と違うか?」と訝しく思いました。(注:直前にキャンセルできたため、それが可能になりました。手数料として半分以上持って行かれましたが、それでも新規購入よりは安く上がったそうです。)

それまで全く気が付きませんでしたが、パスポートのサインもそれっぽい。さらに・・・・・

上は後日ペルーに入国する時のものですが、こちらには「う」としか読めない字までも。それでどうしてこうなっているのか尋ねてみました。Lindaの説明はこうでした。

今から二十年以上前のこと、既に私の知人H君の妻となっていた従姉妹のAさんから日本語の読み書き(ただし平仮名のみ)を学んだついでに自分の名前 "Urbelinda" をどう表記するのかも教えてもらい、以来それを自分のサインに採り入れることにしたのだとか。実際には「うRべりんだ」と書いているようです。

これが完全な「うるべりんだ」あるいは「ウルベリンダ」になる日がいつか来るのでしょうか?(長年使ってきた署名を今になって変えるというのは賢明ではありませんが。)
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小ネタ

2018-12-30 | 帰省(2018〜19)

こちらに来てWi-Fiが常時使えるようになり、日本で見逃したNFL倶楽部の最新(WEEK17)オフトーク動画が視聴できました。ところがバックナンバー(WEEK16以前)を見ようとしたらブロックされてしまいました。なぜでしょう?

ところで当地でGoogle検索しようとするとこんな表示が出ます。接続元のIPから自動判別しているんでしょうね。
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無気力&無食欲

2018-12-30 | 帰省(2018〜19)
この日も体調は全く優れず、入っては出るの繰り返し(嘔吐も1回)。

午前中にティキパヤの朝市で正月用の買い物をするということで同行しましたが、昨年とは大違いで写真は下の5枚しか撮りませんでした。(とにかく体がだるくて仕方がなく、歩いている時以外はほとんど座り込んでいました。)


Lindaも見た目は大丈夫そうながらお腹が痛いと言ってはトイレに行っていました。


人の頭ほどもあるブロッコリーが面白いということで。

大好きな多肉植物と一緒に。持って帰れないので(土が付いているものは検疫で没収)もちろん買いませんでした。

午後は当初の到着予定日(26日)に訪れるはずだった墓地へ。3週間前(12月7日)に亡くなられたお父さんの名前はまだ墓碑に彫られていませんでした。

残念ながらこの約束は果たされず、あとちょっとのところで「もう一度お父さんの世話をしたい」というLindaの願いも叶いませんでした。なお彼女は次の命日まで喪服(黒っぽい服)で過ごすとのことです。

墓参り後、2組の葬列と遭遇しました。棺を積んだ霊柩車(キリスト教なのでそのまま土葬)を先頭に喪服の会葬者の行列。その中でバンドが生演奏(一組はメキシコのマリアッチで歌入り、もう一組は短調の行進曲)をしているのが目と耳を惹きましたが、不謹慎なので撮影はしていません。


戻る途中の路上でトウモロコシが山積みで売られていました。近くの畑で収穫したばかりと思われます。それをご家族が大量に買い込んでいました。帰ったらすぐウミンタ(huminta)を作るそうで、家には実を外してすり潰す専用の機械もあるのだとか。Lindaはそれが動く様子を見に行って「面白い!」と言っていましたが、私には部屋を出て写真を撮りに行く気力は全くなし。また出来上がったウミンタを皆が「美味い美味い」とバクバク食べていると聞いても食欲は全く湧かず。とにかく今は寝ていたいという気持ちだけでした。
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人生最悪

2018-12-29 | 帰省(2018〜19)
注意:今回は汚い話が出てくるので嫌な方はスキップして下さるようお願いします。食事中は絶対ダメです。

私たちが乗った夜行バスは2階建てで、もちろんリクライニングシート。完全に水平とまではいかないものの、結構倒せる(135度ぐらい)のでそれなりに眠れるだろうとは思っていました。しかしながら・・・・・・

仰向きに寝たら背中が痛くてたまらない。その後いろいろ姿勢を変えてみたものの、シートと接する部分が痛んで眠るどころではありません。結局短時間ウトウトしただけでした。ところが、あと少しでコチャバンバというところで痛みは嘘のように引いていきました。その時ペシャンコになったペットボトルを見て私は独り合点しました。気圧の低い所では背骨と背骨の間隔も少し拡がっていたのだろう。それで一種の「成長痛」のような現象が(もう若くはない)私にも起こっていたに違いない。だから標高が下がる(気圧が上がる)につれて収まったのだ、と。(後で考えるにそれは大きな勘違いでした。)

市内に入ってまもなく、とにかく喉が渇いて仕方がありませんでした。自分のペットボトルの水を飲み干した後も渇きは収まらず、他の人からも譲り受けてガブ飲みしました。(少なくとも1リットルは飲んだはずです。)ところが渇きは収まるどころか増すばかり。この時点で体の異変に気が付くべきでした。

3日遅れでLindaの実家に到着。部屋で少し寝ました。出発してから1度も便通がなかった私を心配した彼女がlinaza(亜麻仁)のジュースを出してくれました。少し甘くて飲みやすいものでした。下剤の効果があるとのことでしたが・・・・・(ちなみにパラグアイ在住時代に私の家の周囲で広く栽培されていたヒマ (蓖麻) の種子から採取される蓖麻子油はさらに強烈ですが、それは脂肪酸の構造が特殊で腸が消化・吸収できないためです。以上、私の担当講義科目「栽培植物各論」より。)

30分もしないうちにお腹がゴロゴロ鳴り始め、便器に座って間もなくクリーム状の中身がドロッと出ました。暢気にも「効果あるなぁ」と思った私ですが、その後は液状化が進む一方。それでも出す物を出し切ってしまったら収まるだろうと考えていました。大甘でした。

以降は何を飲んでも食べてもそのまま素通り。思えばあのバス車中での異常な喉の渇きも腸が水を一切吸収できないため脱水状態に陥っていたということでした。

こういう重度の下痢の場合、私は絶食して回復を待つことにしているのですが・・・・・・Lindaのご家族が「何か食べないと回復しないわよ」と勧めてくれる食事を断るのも悪いので無理して食べたのですが、その度にトイレに駆け込むことになりました。さらに胃も(ガスが異常発生しているのか)膨張してゲップを連発。やがて気分が悪くなり、とうとう吐いてしまうことに。それも爆発的なものでした。

私はこれまで海外で酷い下痢を何度も経験しています。とくにスペイン語の実地研修で1ヶ月半滞在したメキシコではほとんど3週間近く続きました。が、出入りがコントロールできていたので、さほど深刻な事態には陥りませんでした。下痢と嘔吐を同時に発症したのは今回が初めて。それでこれが単なる食当たりの類ではないと遅まきながら気が付きました。(腸管が食べ物 (とくに動物性タンパク質) の腐敗でできた毒素にやられているなら出してしまえば収まるはずです。)

これは感染性の胃腸炎(体の痛みも十中八九それが原因)に罹っているに違いないということで、まず疑ったのはノロウイルスでしたが、ならばトイレで糞便や吐瀉物を撒き散らしたにもかかわらず、感染力の極めて強いウイルスによる被害が他の人に及ばないはずはない。それで何かの細菌の可能性が浮上しましたが、思い当たったのは二人だけで食事したコパカバーナ初日。

私に少し遅れてLindaにも同じ症状が出始めましたので、この夕食の何かが悪かったと考えざるを得ません。(彼女は野菜にも火を通してくれと注文を出していましたが。)もしこれが濡れ衣なら風評被害として店から訴えられても仕方のないところですが、上画像や26日最後の写真だけで店を特定するのはまず無理ですから大丈夫でしょう。
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絶景→ぶち壊し

2018-12-28 | 帰省(2018〜19)
広場でラパス行きの乗り合いタクシーを拾うことになりました。が、私たち一行8名だけでは発車してくれず、満席になるまでしばらく待たされました。(定員11名でした。)タクシーは次第に高度を上げて・・・・・・・




そしてコパカバーナの全景が見えました。素晴らしい!


その後撮影した写真もことごとく見事なものでセレクションに苦労したほど。琵琶湖の12倍の面積を誇るといっても、その大きさは湖岸にいては絶対に実感できないものです。

これが最高地点なのかは判りませんが、少なくとも4200mは超えていました。



峠を越えてからは次第に高度を下げ、ティキナという所にある船着き場へ。コパカバーナから約1時間でした。


ここでは車と人を別々に渡すのが面白いと思いました。(そういう規則なのでしょう。)

ここからラパスまで2時間という話でしたが・・・・・・近郊都市のエル・アルト(国際空港の所在地)に入って間もなく、車はほとんど進まなくなってしまいました。

フライトの欠航のせいでリマ〜ラパスの移動手段を失ってしまったLindaと私は、何が何でも帰路を確保する必要がありました。それで一行は二手に分かれ、かつてラパスで学んだことのある二女のElmaさんが私たちに同行し、他の人達は先にラパス観光をするという方針でした。ところがこれでは・・・・・

しかしながら、この国の首都圏にはミ・テレフェリコ(Mi Teleférico)という名の交通手段(ロープウェイ)がありました。(日本のテレビ番組でもしばしば紹介されていますね。)そこで私たち3人はタクシーを降りて直近の乗り場から乗車。一度は乗りたいと思っていたのですが、それが予期せぬ形で叶いました。




写真を撮りまくりましたが、その多くはガラスに付いた雨滴が写り込んでいて残念。



乗車後しばらくして大渋滞の原因が解りました。交差点に無秩序に突入する車、車、車。多くは乗り合いタクシーのようですが、交差点の角であればどこでも乗り降り自由というのがとにかくよろしくないと思います。これでは動かなくなるのも当たり前。人口が増えに増えていつの間にかラパスを追い抜き、今やボリビア第2の都市となったエル・アルト(こちら参照)ですから、交通量が限界に達しているといるのは間違いありません。(それを捌くのにテレフェリコだけでは明らかに不十分です。)


終点で降りてタクシーで空港へ。(この間の渋滞も相当なものでした。)しかし、ここでは何もできないと言われ、教えられたラパスのオフィスへ向かうことに。(またしてもたらい回しかい!)


高速道路の下にラパス市街が見えました。27年ぶりです。

日本の中古車が並走していたので例によって(お約束の?)1枚。

市の中心部に到着。5分ほど歩いてPeruvian Airlineの事務所(販売代理店)に入りました。対応したAF(イニシャル)女史は「それはお気の毒でした」と同情の意を示し、ラパスからリマまでの帰路の手配をしてくれました。「交通費も食事も宿泊費も全てこちらが負担しますのでご心配なく」ということで、随分テキパキと、しかも誠実な対応をしてくれるじゃないか、とその時は思ったのですが・・・・苦情があまりにも多いので手慣れていただけかもしれません。後でその誠実さを疑わざるを得ないような事態に直面しましたから。

とにかく、ラパス→クスコの陸路(バスで12時間)およびクスコ→リマの空路ともに席が取れ次第、連絡するという説明に納得した私たちは事務所を出ました。(その後、他の航空会社のチケット売り場にも足を運びましたが、ラパス→リマ便はことごとく満席でした。)

ところで、この旅程変更によりLindaと私は当初の予定だった1月5日より1日早くコチャバンバを発たなければならないことになりました。そうなると同地で4日に行われることになっていた追悼ミサにも参列できません。それが判った途端、リンダは泣き出しました。(Orlandoさんの誕生パーティーがあった26日に着けず、さらにまたしても、ということで抑えていた感情が一気に噴き出したのでしょう。)が、Elmaさんが「日は変えられるから大丈夫」となだめてくれたので落ち着きを取り戻しました。(ただし前日の3日は予約で一杯だったため、ミサは2日前倒しとなりました。)



少し歩いてサンフランシスコ教会前の広場で別行動を取られていた5人と合流しました。渋滞を抜けてからはスイスイと進み、私たちが乗ったテレフェリコとは別の路線でラパスに入られたとのこと。(エル・アルトほどではなかったもののラパスの渋滞も酷かったですね。地下鉄か高速道路でも造らない限り解決しないでしょう。)

どなたか(誰だったっけ?)がイチ押しのファストフード店で少し早めの夕食(フライドチキンのセット)。食後しばらく散策しました。が、ある公園からの眺めに愕然。教会の後ろにそびえ立っている高層ビル。あれはいったい・・・・・・

Google Mapにはショッピングモールと出ていますが、新しい官公庁のビルで大統領が建てさせたのだとか。景観ぶち壊しじゃないですか。(京都なら絶対あり得ない。)

別の方角でも何やら建設中。リマ(旧市街)と違ってラパスは世界遺産じゃないからいいのか。

その後はショッピングモールに入ってティータイム。同じ広さのコーヒーショップがズラッと並んでいました。


バスターミナルでコチャバンバ行き夜行バスに乗車。21時半発ということでしたが、ターミナルを出るまでにえらく(1時間近く)時間がかかりました。

何とかして夜景を収めようとシャッターを押しまくりましたが、収穫はありませんでした。

これで28日の日記は終わりですが、翌29日は1枚も写真を撮っていません。30日と31日も数枚程度。なぜそうなったのかについては次回で。
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家族の絆

2018-12-28 | 帰省(2018〜19)

28日の朝はある重大イベント(後述)が7時から始まるため、早めに宿を出ました。Lindaは羊乳のチーズを買っていました。(が、訳あって私たちがそれを食べることは結局ありませんでした。)


前夜の夕食と同じく市場内で朝食。揚げパン(サトウキビの糖蜜をかけて食する)、普通のパン、コーヒーその他というメニューです。

ところで、(何年ぶりなのかはわかりませんが)久々にコパカバーナへ来られた皆さん(Lindaも含む)は口々に「昔と随分変わってしまったなぁ」とおっしゃっていました。以前は静かな保養地だったのに今やすっかり観光地化してしまったとのこと。その大きな理由にウユニ塩湖目当てながら当地にもついでに立ち寄るという旅行者が増えたということがあると思います。ウユニへのバスツアーの看板をそこら中で見ました。

その後、中央広場(2月2日広場)に面したカトリック教会(Basílica de Nuestra Señora de Copacabana)に入りました。そこでは毎朝7時からミサが執り行われているそうですが、謝礼を払えばプライベートな案件についても特別に祈ってもらえるとのこと。祭壇にはLindaのご両親の遺影が置かれました。言うまでもなくお二方の供養(それでいいのかな?)をしてもらうためです。(他にもミサの冒頭では「結婚○周年」「○歳の誕生日」などが読み上げられていました。)

Lindaも含め、ご一家は全員プロテスタントだそうですが、その何人かは前に出て神父さんの祝福を受けるとともに、振り払われた木の枝葉から飛んでくる聖水を浴びるという儀式にも加わっていました。一方Lindaは自分の席に留まったまま。このように兄弟姉妹で他宗派に対する態度に違いがあるのは面白いと思いました。(Lindaはやはりニューヨーク在住時代の教会での奉仕が長かったからでしょう。)なお教会内の写真が全くないのは撮影禁止だからです。

ミサ終了後に記念撮影。この後、次男のOrlandoさん(中央)が「父の最後の言葉はFamilia(家族)だった」と言い、さらに続けると皆が一斉に涙を流し始めました。そのスピーチがよほど心の琴線に触れるものだったのでしょう。そして私も(中身はよく理解できなかったものの)思わずもらい泣きしてしまいました。その後は誰からともなく全員が全員とハグを交わすことに。今回のボリビア滞在中で最も感動的な場面でした。

とにかく、この家族の絆の強さには最初から最後まで感心させられ通しで、私も少しは見習わなければと思ったのでした。(うちが決して仲が悪いということはありませんが、妹や弟との関係はずっと希薄ですから。)
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唯一の憩い

2018-12-27 | 帰省(2018〜19)
今回コチャバンバから来られたのはLindaの兄弟姉妹(彼女を除いて7人)のうち一番上の長男さんと一番下の六女さんを除く5名、それに長女さんのご子息(Lindaの姪御さん)。再会を祝して全員と握手および抱擁。

とくに予定は立てていなかったそうなので、とりあえず湖畔まで下りてみたら、呼び込みらしい兄ちゃんが大声で叫んでいました。よく憶えていないのですが、たしか一人往復15ボリビアーノ(240円ほど)で島まで連れて行ってくれて、そこでお昼も食べられるのだとか。で、そのお誘いに乗ることに。

まずは動画でどうぞ。



長女のAna Maríaさんは「海のない(戦争に負けて沿岸部を取られてしまった)ボリビアに住む私たちにとって、この湖の水は唯一の憩い」みたいなことを言っていました。(実はLindaも前日同じことを。)確かにボリビアには熱帯地域(アマゾン流域)は別として大きな河川もありません。(南米では他にもう1ヶ国、パラグアイも内陸国ですが、あちらにはパラグアイ河とパラナ河がありますからね。)

籠の中で鱒の養殖をしているそうです。



島とはいってもトトラという水草の葦を多数重ね合わせた人工の浮島ですね。(Lindaはその彩色を悪趣味と言っていました。)

父とのペルー旅行でもウロス島という同様の浮島を訪れましたが、そちらはずっと大規模でした。



網ですくった魚をその場でフライにしてくれるとのこと。(前夜も同じメニューだったので私としては文字通り食傷気味でしたが、皆さんが食べたがったので。Lindaはどうだったのでしょうか?)


再び再会を祝して乾杯! 前回帰省時に持ち帰った甘口の黒ビールです。アルコール度数は高くありません。食後は速やかに帰路へ。


この船頭さんはたしか76歳だったと聞きました。


宿に戻ってしばらく休み、Lindaと二人だけでまた湖畔に来ました。夕日が見たかったからです。が、この後は曇る一方で残念。(湖面に映る光の筋はきれいでしたが、それももう少し風がなければ・・・・・・)

日が落ちてから市場内の食堂で夕食。写真がないのはLindaから「盗られるからカメラは出すな」ときつく言われていたからです。食後にちょっとだけビデオ撮影しました。「ザー」というノイズは大雨がトタン屋根を叩いている音です。

この頃は体もだいぶ楽になっていましたので、もう大丈夫だと思っていました。それでも例の丘に登ろうと誰も言わないことを願ってはいましたが。

追記
 高地に順応した今の状態で1月12日の県大ニューイヤーマラソンに出たら凄いタイムが出るかもしれないな、などと想像もしましたが、実際の結果は同日の日記に書いた通りダメダメでした。
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感動の再会

2018-12-27 | 帰省(2018〜19)
ご家族は11時頃到着とのことでしたが、連絡が取れず困りました。ホテルはWi-Fi完備のはずが前日夜中から接続できず。フロントに何とかほしいと頼んだところ「雨が降るとよくそうなる」との返事。(その時は「なんじゃそりゃ?」と思いましたが、この後移った別の宿泊先でも同じだったので、現地では普遍的現象なのかもしれません。それにしても何と脆弱なネット環境であることよ!)

相変わらず "Las Rocas" は見つからない。チェックアウト時刻(10時半)が迫ってきたので、インターネットのあるカフェに入りました。そこで私が頼んだのがこれ。(なお「マテ」の名は使われていてもパラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジル (一部地域) で嗜まれているマテ茶とは異なり、マテの茎葉は使われていません。)その日の朝食時にも2杯飲んでいましたが、それが高山病の症状を軽減するのに役立ったと思います。

閑話休題。カフェのマスターに 「"Las Rocas" ってホテル知らない?」と訊いたところ、「もしかして"Roca Sagrada" (聖なる岩) じゃない? だったらすぐ近くだよ」とのこと。で、Lindaのお姉さんにSkypeで確認したところやっぱりそうでした。(また判ってみればHotelではなく Hostal (民宿) でした。)聞き違いというよりは早口の会話のためLindaの耳に "roca" しか残らなかったということでしょう。

何はともあれ、これで "Roca Sagrada" に移ることが決定。(重いスーツケースを引きずりながらの登り坂のキツかったこと! すぐ息が上がるので10メートルごとに休みました。)

チェックインして待っていたら・・・・・・お姉さん(次女のElmaさん)が現れました。その時の嬉しかったこと! 行く手に立ちはだかる困難が大きければ大きいほど、それを乗り越えた時の喜びも大きくなるというのは本当です(つづく)。
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高山病

2018-12-27 | 帰省(2018〜19)
次の日は朝食前にしばらく散策。(またしても "Las Rocas" は見つからず。)以下撮影順に写真を貼っときます。

石碑には緯度・経度とともに標高(3841.3m)が彫られていました。



この湖面が富士山頂よりも高いというのは(頭では理解できても)どうしても実感が湧いてきません。

実はホテルを出て最初の交差点まで(30mほど)の登り坂で既に息が上がっていました。疲れが残っていたにせよ、これはちょっと憂慮すべき事態です。ここから高山病について書いてみます。

私は1991年の7月から8月にかけて(JICAボランティア時代に休暇を取って)ボリビアを旅したことがあります。その時はサンタクルス(標高416m)→コチャバンバ(同2574m)→スクレ(同2810m)と来て最後の訪問地がラパス(同3593m)でした。徐々に高度を上げていったのが良かったのかもしれませんが、ラパスに着いたその日に宿舎まで早足で歩いても、また翌日に遺跡を訪れるためバス停まで急坂を登っても全く平気でした。後で聞いたところでは、その宿舎で1週間寝たきりだった同僚(先輩)もいたとか。しかもその人は柔道の指導に来ていた見るからに頑強な男性でした。私は決して身体能力が高い方でも赤血球の数が多い訳でもありません。献血時の測定値は男性の標準値を下回ることの方が多いくらいです。ということで、体格あるいは血液の酸素運搬能力と高山病の罹りやすさとの間にはあまり関係がないと考えてきました。

2012〜13年にかけてツアー旅行で父とペルーを訪れました。その時はクスコ(標高3399m)やプーノ(同3827m)で偏頭痛を覚え、それは低地のリマに戻るまでずっと続いたものの、運動に支障が出るようなことはありませんでした。(ちなみに、そのグループでも寝込んでしまう若者が複数出た一方、一番元気だったのが最高齢 (当時77歳) の父でした。なので年齢とも直接には関係しないということかもしれません。)

つまり6年前と比べても今回のしんどさは圧倒的に上回っていました。

それで「前来た時はみんなであの丘のてっぺんまで登った」というLindaの言葉を聞いた時、もし今回もということになれば辞退しようと心に決めました。また最悪の場合は自分一人がホテルで静養することになるかもしれないと覚悟もしていました。

が、一回りしてホテル(上画像、一番下は0階なので私たちが泊まった5階は最上階)に戻る頃には少し楽になっていたので、徐々に慣らしていけば大丈夫かも、と思いました。なお顕著な自覚症状としては、6年前と同じ偏頭痛に加え、心拍数の多さ(ジッとしていても毎秒2回、毎分120ぐらい)が挙げられます。おそらく酸素が薄い分を補おうとして心臓が頑張っていたからでしょう。

12月27日の日記はまだ続きます。
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