父の母、つまり、私の祖母も認知症でした。私が中学生の頃はその認知症ぶりがグレードアップしており、ほぼ誰の事も判らず、徘徊や遠出といった事も度々ありました。因みに、「徘徊」と言うとなんだかダークなイメージがあるので「ウォーキング・アラウンド」と言い換えるとポップな感じになると思われます。(本当は「wander around」だそうです)
とりあえずの余談を前置きとして、昨日の続きになります。
店を閉めて両親の傍にいようと決意したのですが、色々と問題は山積するわけです。お客様にどう伝えるのか?マネージャーはどうするのか?自分の仕事はどうするのか?自分の家族を養えるのか?店の処理をどうするのか?等々、考えたらキリがありません。しかも、時は11月、年末に向けて世の中忙しくなり始めた頃であります。
それらの問題をひとつづつ解決するのは難しいものでした。まずはマネージャーに状況を説明して閉店への理解をしてもらい、うちの奥さんに説明して理解してもらい、それで、自分の中で決定してから、いつも来てくださるお客様には直接連絡して理解していただき、その後、フェイスブックにて友人知人、お客様にお知らせし、来店くださったお客様へご報告してご理解を求め、と謝罪行脚のようでした。
しかし、有難い事に皆様に納得していただき2016年春ごろの閉店が決定したのです。
しかも、大変だったのが介護鬱になった母の入院と並行して行わなければならなかったからです。
もっと問題だったのが!(うるさいな)、母を入院させる、という事は、認知症の父をどうするか、という問題もワンセットなわけです。その辺はやはり、夫婦仲良く、というで一緒に入院してもらう事にしました。(勿論、別々に)
母は問題なく入院手続きが取れたのですが、父の場合、認知症で、介護レベル的には「4」というハイクラスな数字を叩き出しておりましたから安心しておりましたら、それでは入院理由にならないかも、と微妙な言い回しをされてしまったのです。
すぐに色んな根回し(知り合いのドクターにお願いしました)をし、即入院となり一安心と思いきや、今度は父本人を説得する事に。
「オレはどこも悪くない!」を主張する父。(その主張がすでに病気です)と思いながらも「いや~、その“どこも悪くない”っていうのを証明するために検査入院してください、っていうやつだから。まぁ、別荘暮らしだと思って、ね、ここはひとつ。」と丸め込もうとする私。これはこれで楽しいのですが、正直、息子としては辛いものです。
そんな話も交えつつ父に状況を説明すると、自分が入院することで良い方向に進むなら、とその時は正気になり、すんなり入院に承諾してくれたのです。
入院手続きをし、父を病室に送ると「それほど悪い部屋じゃないな」と一言呟きました。「オレん家よりは綺麗だよ」と冗談を言うと大声で笑い、安心したようなので病院を後にし、病室で使用するものなどを買い物に出かけ実家に向かおうとする時、病院から電話が来て「お父さんが大変なんで来てください!」という緊急情報がありました。すぐに病院に戻ってみると、父は「家に帰る!」と言い張って大騒ぎしていたのです。
病院スタッフの方が興奮気味に「急に帰るって言いだして暴力的になったので電話したんです!」となんだか怒りは私に向けられたように言い放ちました。
「おいおい、ちょっと待てよ、それが認知症の人でしょ」そんな風に突っ込みを入れたくなったのですが、なにぶんこちらの立場が弱いもので深々と謝罪して私が説得する事にしました。
父に話を聞いてみると、「自分の家があるのになぜここにいなければならないのか」「みんな自分の事を病人扱いする」「家の人間が心配する」というものでした。
話を聞いた私は「とりあえず今日だけ我慢してくれ」とお願いし、そこは何とかなったのですが、認知症の人に今日と明日の区別などないありません。そうやってある意味、架空の、と言ったら変ですが、支離滅裂な話に耳を傾け「そりゃそうだ」といってこっちのいいように持っていくしかありません。
それから両親の入院生活が始まりました。父は暴れた罰として(ウソです)隔離病棟入りになりましたが、週に一回会いに行くと嬉しそうに、母の事や私の仕事の事などを何度も何度も、何度も何度も聞くのでした、まぁ、認知症ですからね。
そんな生活が3か月ほど続き、店は閉店特需で忙しさを極め、母は精神的に回復をして退院のめどが立ち、今度は父を施設に入れるための算段をしなければならなくなりました。
そして、奇跡的に店を居抜きで入ってくれる方も見つかり、すぐに店の撤退作業を始め、すべて撤退した4月半ば、母から電話がありました。
「父が急に具合が悪くなり今日明日がヤマだ」という事で急いで病院に駆けつけるとドラマで見るような酸素吸入器を付けられた父がベッドに横たわっており、どう考えても最悪な状況になっていたのです。
話を聞けば「腎臓が悪い」との事でしたが、認知症の薬は腎臓に負担をかける、との話を聞いておりましたので不思議ではありませんでした。
急いで私の子供たち、父の孫たちを呼び寄せて合わせると意識不明だった父が目を開け、孫の名前、私の名前を呼び始めたのです。
「意外と、これで大回復?」などと楽観的になった自分は本当に楽観主義だと今回思いました。それから4日後の深夜、父は帰らぬ人となりました。
現在母は、父の介護という任務から解かれたからか以前のように明るく暮らしています。
葬儀後も心配だったので私はずっと実家にいたのですが、母から遠まわしに「別に実家に帰ってこなくてもいいよ」と言われてしまったので、私は現在、自宅で家事をしながらたまに入る料理教室で料理を教えに行っております、ホントにたまにですが。そして、マネージャーともたまに会ってワインを一緒に飲んでおります。ホントにたまにですが。
今となっては「店を閉める必要があったのか?」と思う時がありますし、時々人からも言われますが、父の事を思えば、閉める必要があったんだと思います。
それと、よく「これからどうするんですか?」と聞かれますが、いつもこう答えます。
「とりあえず、フリーの料理人で頑張ります。仕事無いですけど。」
因みに、先日、フリーの料理人としてハローワークに行ってきましたけど、何がしたいんだか判らなくなってきました。
そんな、悩み多き、フリーの料理人。
いずれ認められる時が来るでしょうか?
来ないでしょうな・・・
とりあえずの余談を前置きとして、昨日の続きになります。
店を閉めて両親の傍にいようと決意したのですが、色々と問題は山積するわけです。お客様にどう伝えるのか?マネージャーはどうするのか?自分の仕事はどうするのか?自分の家族を養えるのか?店の処理をどうするのか?等々、考えたらキリがありません。しかも、時は11月、年末に向けて世の中忙しくなり始めた頃であります。
それらの問題をひとつづつ解決するのは難しいものでした。まずはマネージャーに状況を説明して閉店への理解をしてもらい、うちの奥さんに説明して理解してもらい、それで、自分の中で決定してから、いつも来てくださるお客様には直接連絡して理解していただき、その後、フェイスブックにて友人知人、お客様にお知らせし、来店くださったお客様へご報告してご理解を求め、と謝罪行脚のようでした。
しかし、有難い事に皆様に納得していただき2016年春ごろの閉店が決定したのです。
しかも、大変だったのが介護鬱になった母の入院と並行して行わなければならなかったからです。
もっと問題だったのが!(うるさいな)、母を入院させる、という事は、認知症の父をどうするか、という問題もワンセットなわけです。その辺はやはり、夫婦仲良く、というで一緒に入院してもらう事にしました。(勿論、別々に)
母は問題なく入院手続きが取れたのですが、父の場合、認知症で、介護レベル的には「4」というハイクラスな数字を叩き出しておりましたから安心しておりましたら、それでは入院理由にならないかも、と微妙な言い回しをされてしまったのです。
すぐに色んな根回し(知り合いのドクターにお願いしました)をし、即入院となり一安心と思いきや、今度は父本人を説得する事に。
「オレはどこも悪くない!」を主張する父。(その主張がすでに病気です)と思いながらも「いや~、その“どこも悪くない”っていうのを証明するために検査入院してください、っていうやつだから。まぁ、別荘暮らしだと思って、ね、ここはひとつ。」と丸め込もうとする私。これはこれで楽しいのですが、正直、息子としては辛いものです。
そんな話も交えつつ父に状況を説明すると、自分が入院することで良い方向に進むなら、とその時は正気になり、すんなり入院に承諾してくれたのです。
入院手続きをし、父を病室に送ると「それほど悪い部屋じゃないな」と一言呟きました。「オレん家よりは綺麗だよ」と冗談を言うと大声で笑い、安心したようなので病院を後にし、病室で使用するものなどを買い物に出かけ実家に向かおうとする時、病院から電話が来て「お父さんが大変なんで来てください!」という緊急情報がありました。すぐに病院に戻ってみると、父は「家に帰る!」と言い張って大騒ぎしていたのです。
病院スタッフの方が興奮気味に「急に帰るって言いだして暴力的になったので電話したんです!」となんだか怒りは私に向けられたように言い放ちました。
「おいおい、ちょっと待てよ、それが認知症の人でしょ」そんな風に突っ込みを入れたくなったのですが、なにぶんこちらの立場が弱いもので深々と謝罪して私が説得する事にしました。
父に話を聞いてみると、「自分の家があるのになぜここにいなければならないのか」「みんな自分の事を病人扱いする」「家の人間が心配する」というものでした。
話を聞いた私は「とりあえず今日だけ我慢してくれ」とお願いし、そこは何とかなったのですが、認知症の人に今日と明日の区別などないありません。そうやってある意味、架空の、と言ったら変ですが、支離滅裂な話に耳を傾け「そりゃそうだ」といってこっちのいいように持っていくしかありません。
それから両親の入院生活が始まりました。父は暴れた罰として(ウソです)隔離病棟入りになりましたが、週に一回会いに行くと嬉しそうに、母の事や私の仕事の事などを何度も何度も、何度も何度も聞くのでした、まぁ、認知症ですからね。
そんな生活が3か月ほど続き、店は閉店特需で忙しさを極め、母は精神的に回復をして退院のめどが立ち、今度は父を施設に入れるための算段をしなければならなくなりました。
そして、奇跡的に店を居抜きで入ってくれる方も見つかり、すぐに店の撤退作業を始め、すべて撤退した4月半ば、母から電話がありました。
「父が急に具合が悪くなり今日明日がヤマだ」という事で急いで病院に駆けつけるとドラマで見るような酸素吸入器を付けられた父がベッドに横たわっており、どう考えても最悪な状況になっていたのです。
話を聞けば「腎臓が悪い」との事でしたが、認知症の薬は腎臓に負担をかける、との話を聞いておりましたので不思議ではありませんでした。
急いで私の子供たち、父の孫たちを呼び寄せて合わせると意識不明だった父が目を開け、孫の名前、私の名前を呼び始めたのです。
「意外と、これで大回復?」などと楽観的になった自分は本当に楽観主義だと今回思いました。それから4日後の深夜、父は帰らぬ人となりました。
現在母は、父の介護という任務から解かれたからか以前のように明るく暮らしています。
葬儀後も心配だったので私はずっと実家にいたのですが、母から遠まわしに「別に実家に帰ってこなくてもいいよ」と言われてしまったので、私は現在、自宅で家事をしながらたまに入る料理教室で料理を教えに行っております、ホントにたまにですが。そして、マネージャーともたまに会ってワインを一緒に飲んでおります。ホントにたまにですが。
今となっては「店を閉める必要があったのか?」と思う時がありますし、時々人からも言われますが、父の事を思えば、閉める必要があったんだと思います。
それと、よく「これからどうするんですか?」と聞かれますが、いつもこう答えます。
「とりあえず、フリーの料理人で頑張ります。仕事無いですけど。」
因みに、先日、フリーの料理人としてハローワークに行ってきましたけど、何がしたいんだか判らなくなってきました。
そんな、悩み多き、フリーの料理人。
いずれ認められる時が来るでしょうか?
来ないでしょうな・・・