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★★『心中への招待状 華麗なる恋愛死の世界』
小林恭三(文春新書)★★
四月大歌舞伎で観た日本のシェイクスピアと称される近松門左衛門の名作「曽根崎心中」について詳細に読み解いていった本であります。著者である小林恭三は、先にボクが「四谷怪談」に関する記事をアップしてし続けていたとき、その「四谷怪談」について彼が書いた新書を読んでアップした作家の方です。
まず読んでいて、なるほどそうなのかも知れないなと思わせるのが、九平次についての言及です。この物語においては、九平次は徳兵衛を騙すことによって窮地に追い込んでいくのですから、お初・徳兵衛の心中は九平次が原因のように感じてしまいます。が、著者はそうではなく“感度の悪い観客のため、演劇上の必然性を用意しただけ”と九平次の役割についてそう主張するのです。“近松にとって九平次などどうでもよかった”のであり、故に“九平次がどうしょうもない薄っぺらなキャラクター”になっていると。さらには、“癌というべき存在”とか、“一文楽の枠を超えて、日本文化における巨大な悪性腫瘍”とまでも言ってのけます。それはもうボロカスな評価なわけです。さらに時の演劇人たちは、そんな九平次の扱いに困り「曽根崎心中」の改変を重ね、およそ当初に近松が意図したところから遠く離れてしまっているかのような主旨のことを述べているのです。お初・徳兵衛の心中は二人にとっては必然的な行為であって、そこに九平次の入り込む余地はないと。ボクはそれを読んで、そこまで言うか?とも感じたのですが、一方で頷ける所もあり、九平次の存在は、心中に至る都合のいい引き金であったのかも知れないなと思い馳せるに至ったのですが…。
そして次に著者の視点で面白く感じたのは、この心中の底流に流れているのはエロティシズムであるとする点です。お初に隙間見えるエロティックな部分はさておき、心中そのものにそれを見ることです。“今この瞬間の、燃えるような愛”“それを永続きさせるためには、この愛が褪せないうちに死ぬしかなかった”故の大人の男と女による心中。ましてや女は遊女でもあり、彼等二人には間違いなく性的な関係があったと。そして著者は以下のような話を展開します。すなわち、“心中をうながす「はやくはやく、殺して殺して」というお初の叫びが、エクスタシーを得ようとする女の叫び声に重なる……他にも断末魔のお初が両手をひきつらせるように伸ばしているところや、「刳りとほし、刳りとほす」といった執拗な責め文句は、性交に没頭している男女の姿を彷彿とさせます。そしてその中でももっとも露骨なのは、「我とても後れふか、息は一度に引き取らん」です。つまり徳兵衛はいわゆる「一緒に行く」をしようとしているのです。最後ともに果てることで、心中を性交に重ねようとしているのです。よく性交によるエクスタシーを「小さな死」と表現しますが、その論法に従えば、一緒に死を迎えることはこれ以上ありえない「大きなエクスタシー」ということになるでしょう。”つまり心中とは形を変えたセックスであるというわけです。小林の論を進めれば極上のセックスのために心中したと、その考えを飛躍させることもできます。死に伴うエクスタシーはセックスにおけるエクスタシーに似ているであろうとはなんとなく想像できるのですが、それと心中を結びつけるのは、ちょっと飛躍しすぎかなと重いながらも、なかなか興味深い論旨と思いました。
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小林恭三(文春新書)★★
四月大歌舞伎で観た日本のシェイクスピアと称される近松門左衛門の名作「曽根崎心中」について詳細に読み解いていった本であります。著者である小林恭三は、先にボクが「四谷怪談」に関する記事をアップしてし続けていたとき、その「四谷怪談」について彼が書いた新書を読んでアップした作家の方です。
まず読んでいて、なるほどそうなのかも知れないなと思わせるのが、九平次についての言及です。この物語においては、九平次は徳兵衛を騙すことによって窮地に追い込んでいくのですから、お初・徳兵衛の心中は九平次が原因のように感じてしまいます。が、著者はそうではなく“感度の悪い観客のため、演劇上の必然性を用意しただけ”と九平次の役割についてそう主張するのです。“近松にとって九平次などどうでもよかった”のであり、故に“九平次がどうしょうもない薄っぺらなキャラクター”になっていると。さらには、“癌というべき存在”とか、“一文楽の枠を超えて、日本文化における巨大な悪性腫瘍”とまでも言ってのけます。それはもうボロカスな評価なわけです。さらに時の演劇人たちは、そんな九平次の扱いに困り「曽根崎心中」の改変を重ね、およそ当初に近松が意図したところから遠く離れてしまっているかのような主旨のことを述べているのです。お初・徳兵衛の心中は二人にとっては必然的な行為であって、そこに九平次の入り込む余地はないと。ボクはそれを読んで、そこまで言うか?とも感じたのですが、一方で頷ける所もあり、九平次の存在は、心中に至る都合のいい引き金であったのかも知れないなと思い馳せるに至ったのですが…。
そして次に著者の視点で面白く感じたのは、この心中の底流に流れているのはエロティシズムであるとする点です。お初に隙間見えるエロティックな部分はさておき、心中そのものにそれを見ることです。“今この瞬間の、燃えるような愛”“それを永続きさせるためには、この愛が褪せないうちに死ぬしかなかった”故の大人の男と女による心中。ましてや女は遊女でもあり、彼等二人には間違いなく性的な関係があったと。そして著者は以下のような話を展開します。すなわち、“心中をうながす「はやくはやく、殺して殺して」というお初の叫びが、エクスタシーを得ようとする女の叫び声に重なる……他にも断末魔のお初が両手をひきつらせるように伸ばしているところや、「刳りとほし、刳りとほす」といった執拗な責め文句は、性交に没頭している男女の姿を彷彿とさせます。そしてその中でももっとも露骨なのは、「我とても後れふか、息は一度に引き取らん」です。つまり徳兵衛はいわゆる「一緒に行く」をしようとしているのです。最後ともに果てることで、心中を性交に重ねようとしているのです。よく性交によるエクスタシーを「小さな死」と表現しますが、その論法に従えば、一緒に死を迎えることはこれ以上ありえない「大きなエクスタシー」ということになるでしょう。”つまり心中とは形を変えたセックスであるというわけです。小林の論を進めれば極上のセックスのために心中したと、その考えを飛躍させることもできます。死に伴うエクスタシーはセックスにおけるエクスタシーに似ているであろうとはなんとなく想像できるのですが、それと心中を結びつけるのは、ちょっと飛躍しすぎかなと重いながらも、なかなか興味深い論旨と思いました。
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