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シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

ビルバオ観光・・・鉄鉱石鉱山ラ・アルボレーダ村と世界遺産ビスカヤ橋へ

2016-03-26 10:07:09 | Weblog
前日の雨模様から一転、ビルバオは朝からの快晴です。
ラ・アルボレーダLa Arboledaに出かけることにしました。
スペインの産業革命の幕開けとなった鉄鉱石の鉱山があった村です。

スペイン国鉄renfeアバンド駅からの近郊線C2でトラパガランTrapagaranのウリオステUrioste駅へ、ケーブルカー駅el funicular de la Reinetaまで歩き、連絡バスを乗り継いで、わずか300人のラ・アルボレーダ村に・・・

かつて森林に覆われていた海抜700mの山頂部は露天掘りで鉄鉱石を掘り尽され、広大な凹凸のある大地に変貌、今では牧場、ゴルフ場、雨水がたまった池があるだけです。村の名前la Arboleda「森林」に当時の面影が残るのみです。

掘り出された鉄鉱石は蒸気機関車に連結されたトロッコで集積場まで運び、トラックがつづら折りの山道をくだり、ネルビオン川沿いの町セスタオSestaoの積み出し港まで運んだのです。ここから貨物船でイギリス、ドイツ、フランスなどに輸出されました。

セスタオ周辺が急激に発展、ネルビオン川両岸を結ぶ橋の建設が必要になります。数千トン級の貨物船の通行を妨げない吊り橋の鉄橋がポルチュガレーテPortugaleteとゲチョGetxoの間に架けられます。1893年のことです。これが世界遺産となっているビスカヤ橋Puente de Vizcayaです。地元ではPuente Colganteプエンテ・コルガンテ(つり橋)と呼んでいます。

19世紀末に鉄鉱石が枯渇し始めると、1902年にセスタオにイギリスの技術を導入して高炉を建設、近代製鉄生産を始めます。官営八幡製鉄所がドイツの技術で高炉を建設したのとほぼ同じ時期です。

世界遺産のビスカヤ橋のエレヴェーターで上ると、周辺の地が一望できます。東にラ・アルボレーダ村があるトリアノ山montes de Triano、北にセスタオ高炉Altos Hornos de Sestaoの廃炉を眺めることができます

ビスカヤ橋(Portugalete)とビルバオはレンフェC1線とメトロL2線で結ばれています。


*La Arboledaを中心にした観光地図です。記事に出ている町の位置を確認できます。

http://www.verpueblos.com/pais+vasco/vizcaya/la+arboleda/mapa/



 参考映像です(*一部Wikipediよりコピーしました)

1.アバンド駅構内。旧市街リベラ市場の対岸。路面電車Tramが停まる。

          

2.ケーブルカー駅への道を尋ねる。背後にウリオステ駅のプラットフォームが見える。



3.鉱山時代のケーブルカーと現在のケーブルカー。室内が平らで快適。

            

4.ラ・アルボレーダ村。バール、レストラン、宿屋などがこじんまりと固まる。

     

5.鉱夫たちが食べていた赤豆とモルシージャ(血入りのソーセージ)、豚肉の煮込み料理に挑戦、半分でギブアップ。



6.鉱夫たちの露天掘りの様子を描いた絵と彫像。ビルバオには伝統を伝える石掘り競技が行われている。

     

7.ケーブルカー駅から出るバスA3332線がビスカヤ橋のあるポルチュガレェーテを通る。チケットを購入するとき「プエンテ・コルガンテ、ポルファヴォール(吊橋です、おねがいします)と伝えるとビスカヤ橋に近い停留場で声を掛けてくれる。停留所から川岸までは急な下り坂、上り用に動く歩道が設置されている。



8.切符です。料金も確認できます。



レンフェ(Bilbao→Urioste) 、ケーブルカー(Reineta⇔Arboleda 往復、連絡バスも含む)、ビスカイバス(Reineta→Portugalete 二人分)、メトロ(Portugalete→Bilbao)



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“サンテンイチイチ”3.11と”サンガツトオカ”三月十日

2016-03-05 08:47:10 | Weblog
あれから5年の歳月が流れました。今朝のニュースでは、長男と夫を津波で亡くした相馬の女性の方の今を追っていました。
あの日、津波が仙台沖から陸地に上陸するテレビ映像を食い入るようにみていました。流される家、飲み込まれる車・・・そして多くの方が肉親を失いました。

ドキュメンタリー作家の保坂正康氏は、著作「愛する人を喪ったあなたへ」の中で次のよう記されています・・・「この天災に出会った人たちは,終生その記憶をかかえこむとするなら、これから五年、十年という単位ではなく、場合によっては八十年、九十年と続くことになる」
71年前、小学校入学の直前の6歳の時、三月十日の東京大空襲で母を失った私の場合はそうでした。

 太平洋戦争末期、全国各地が米軍の空襲にさらされるようになり、東京も安全といえなくなりました。子供をかかえて、縁故を頼りに地方に疎開する家族もありました。我が家も、東京に仕事のある父を残し、母、私、弟、そして祖母と4人で父の故郷である伊豆の土肥に移りました。

 昭和20年2月、母が用事でいったん東京に戻りました。用事が終わり、土肥に帰るため、東海道線と駿豆線を乗り次いで修善寺駅に戻ってきたのが三月九日でした。修善寺からバスで船原峠を越えれば、一時間で土肥に着きます。しかし、前日に船原峠付近には降雪があり、バスは不通になっていたのです。当時のバスは木炭車で非力でしたから、わずかな雪でも峠は越えられなかったのです。



     (雪の残る戸田峠・・・船原峠は5キロ隣にあります)

 修善寺のバスの停留場で困った様子の母を土肥で母から生け花を習っていたバス車掌の娘さんが目撃しています。次の日の三月十日にバスが運行されましたが、母は土肥には現れませんでした。東京に戻ってしまっていたのです。修善寺は温泉地ですから、旅館はありますが、戦時下のこと、女一人の宿泊はできなかったかったのです。


     
     (母が目撃された東海バスの修善寺停留場)
 
土肥では東京空襲のことを知り、大騒ぎになりました。一週間後、鉄かぶとを脇に置いた父の前に座り、号泣する祖母の姿を鮮明に覚えています。祖母は76歳で亡くなりましたが、その遺品の絹の腹巻の中に、東京の母から届いた最後の葉書がありました。母は祖母の一人娘でした。



     (母の最期の手紙・・・葉書の大きさに当時の困窮していた時代が分かる)

 母のことを記憶するのは私一人だけになってしまいました。高齢者となった今、できるでだけ長生きすることが母への供養であると思っています。私が亡くなったら一番悲しむのは間違いなく33歳の若さで世を去らなければならなかった母でしょう。母を記憶する人がこの世に誰もいなくなってしまうからです。


お母さんへ...令和7年3月10日



お母さんが亡くなってからの80年、時代は昭和から平成に、そして令和と代わりました。

家内のアルバムからです。お母さんが亡くなった昭和20年3月10日の東京大空襲から5か月後に終戦(敗戦)となりましたが、この写真はその10年後に撮られたもので、小学生が臨海学校を楽しむことができるまでに日本は復興しました。



平成16年の夏の家族旅行です。お母さんが家族と過ごした疎開先、西伊豆土肥温泉です。お母さんが毎日のように通った中浜の共同浴場を譲り受けた旅館に泊まりました。



昭和14年5月の私の初節句ですね。おばあさんが買ってくださったお祝い品々のうち、戦時中の混乱のなか、兜だけは残りました。



平成21年5月、孫(お母さんにとってはひ孫です)とあの兜です。




令和4年5月、ひ孫、お母さんの玄孫に、兜が渡りました。






令和7年1月、二人目のひ孫(玄孫)と86歳になった私です。



(お母さんの写真とお父さんに抱かれた私の初節句の写真は、佐竹の叔母さんが大切に持っていてくださいました)





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富士山の写真を撮るなら、西伊豆・達磨山がおすすめスポットです

2016-02-17 10:44:49 | Weblog


 昭和14年、1939年にニューヨークで万国博覧会が開催、日本から出品されたのが富士山の巨大なパノラマ写真でした。世界の人々は初めて富士山を目にしたのです。撮影地は修善寺近くの達磨山です。駿河湾越しの富士山が雄大・・・沼津から田子の浦まで伸びる富士海岸が美しい。政府から指名を受けた撮影技師が、駿河、信州、甲州など富士山周辺を一巡し、撮影地点に選んだのがこの達磨山からの富士山でした。
 
 だるま山高原レストハウスから撮影しました。万国博覧会に出品された写真とほぼ同じ構図です。天気予報の快晴マークを確認して2月11日に東京から出かけました。三島付近では全景を見せていた富士山ですが、撮影地のだるま山レストハウスに到着した12時には雲の中・・・その姿をふたたび現したのは午後2時でした。



1.三島駅で伊豆箱根鉄道駿豆線へ乗り換え。修善寺までの通し切符を持っていない場合は三島駅をいったん出る。スイカで乗り越しの乗客が改札口に列をなす。予定していた電車に乗り遅れ、三島駅まで乗車券を購入しておけばと後悔。



2.修善寺駅は改築中。駅隣りが東海バスの伊豆各方面への路線のターミナル。戸田行き11時30分に乗る。



3.30分でだるま山高原レストハウスに着く。晴れ間はあるのだが、富士山は雲に隠れている。



4.富士山が姿を現すことを期待して、伊豆山稜線歩道Izusanryosen Trailを歩く。レストハウス脇から標識にそって登る。



5.達磨山を代表するくま笹・アセビ・マメザクラの植生が目を楽しませてくれる。アセビのつぼみが赤らんでいる。5月頃に白い花を咲かせるだろう。



6.天城山の遠景を楽しむ。



7.伊豆山稜線歩道が達磨山の山頂まで延びる。



8.まるでスキーダウンヒルコースのような伊豆山稜線歩道が金冠山に伸びている。



9.金冠山頂上。富士山がようやく姿をみせる。午後になり雲が消え、富士山だけでなく南アルプスの稜線も白く輝いてもいる。



10.安政地震の津波で遭難、沈没したロシア艦船の代船を建造した近代造船発祥の地・戸田が眼下に見える。



11.同じ道をレストハウスまで戻り、冒頭の写真を撮影。




東海バス利用のウオーキング・アドバイスです


 ○ウオーキングは戸田峠からスタート、だるま山高原レストハウスで終えます。

 A.戸田峠・・・金冠山分岐点・・・だるま山高原レストハウス(約1時間)
 B.戸田峠・・・金冠山往復・・・だるま山高原レストハウス(約1時間半)
 C.戸田峠・・・達磨山・・・戸田峠(約2時間)

健脚向けには次のルートを追加します
 D.だるま山高原レストハウス・・・梅林・・・修善寺温泉(約3時間)

 ○ 東海バス時刻表を必ずチェックしてください。
http://dia.tokaibus.jp/OrangeGuide/pc/naviSearchTop.do

 △利用できるバスは往路は実質次の2便だけです。
 修善寺9:15→9:44戸田峠  修善寺11:30→11:59戸田峠

△帰路も2便だけです。
 だるま山高原レストハウス12:23→12:50修善寺
 だるま山高原レストハウス14:43→15:10修善寺

△夕日に映える富士山を見るなら・・・
 だるま山高原レストハウス17:23→17:48修善寺
 だるま山高原レストハウス18:53→19:18修善寺
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晩秋の京都散策2泊3日の旅リポートです

2015-12-10 10:47:09 | Weblog

紅葉を求める人がどこでも列をなしていました。
今朝の新聞によると、紅葉日の全国平均は50年前と比べると18日も遅くなっているとのこと、11月23日の勤労感謝の日が紅葉のピークと考えていましたが、経験則は当てはまらくなりました。

洛東の東山を中心に南禅寺、永観堂、清水寺、青蓮院門跡を、洛北の詩仙堂、圓光寺にも足を伸ばしました。

*下記を参考にしてお読みください。

京都市内地図   
京都市バス・地下鉄路線図


*ゴヂックはバス停留所・駅、斜字は道路名


11月27日(金 晴れ)

1.東京駅10時発、京都駅12時26分着。送迎バスでウエステイン都ホテルへ。荷物を預け散策へ。琵琶湖疏水の舟運を担った蹴上インクライン(cable car inkline)とインクライン,京都市電に電力を供給した日本初の水力発電所蹴上発電所はホテル目の前。



                               

2.インクライン沿いを下ると、南禅寺入り口。三門脇を通り、方丈へ。右手に琵琶湖疏水を流すレンガ造りアーチ形橋脚の水路閣が見事に風景にとけこむ。

         

3.南禅寺境内を抜け、永観堂へ。風情ある裏道を行く。観光客でにぎわう鹿ケ谷通に出る。永観堂の白い塀が見えてくる。みかえり茶屋の混雑を予想し、門前の喫茶店に入る。ここでもぜんざいを注文する客が多い。

     

4.「モミジの永観堂」と知られ、一番人気の紅葉スポット。大勢の観光客も3千本という紅葉に埋もれ気にならない。午後の日差しに紅葉が一段と映える。

    

5.ホテルに戻り、チェックイン。午後5時、地下鉄蹴上駅から地下鉄東西線、京阪本線で四条京阪駅へ。四条大橋を渡り、鴨川とたかせ川に挟まれた木屋町通を下る。夕食は200年の歴史を誇る鳥彌三で。

      

6.午後8時、鳥彌三から都ホテルまで夜の散策。鴨川を渡り、祇園・四条通をウインドウショッピング、途中原了郭で黒七味を買う。八坂神社前を左折、知恩院道に入る。人影はないが、足元を照らす街灯で歩きやすい。神宮道に曲がる、ライトアップされた楠木の巨木が青蓮院門跡      

7.青蓮院門跡を出たのが閉門の午後9時半、三条道に出てホテルに戻る。


11月28日(土 晴れ)

1.ホテル6時30分出発、神宮通から市バスで東山安井へ。東大路通から観光客まばらな静かな八坂の塔、二年坂、三年坂を歩き、清水寺へ。東の山の陰になり、もみじの色がいまひとつ。

      

2.清水寺の門前町のみやげ物店が開け始める中、松原道東大路通まで下る。清水通からバスで四条高倉へ。堺町通を北に歩き、錦市場を過ぎイノダコヒー本店へ。20分ほど待つ間にケーキを購入。ゆっくりと朝食を楽しむ。



3.地下鉄烏丸御池駅から蹴上駅へ、都ホテルに戻り休憩。

4.午後1時に神宮通から市バスで一乗寺下り松町へ。超満員だったがほとんどの乗客は途中、南禅寺・永観堂通で降りる。宮本武蔵の逸話が残る一乗寺下り松を過ぎ詩仙堂へ。

      

5.徳川家康に仕えた石川丈山が隠居所として30余年過ごした詩仙堂近くに建つ家康ゆかりの圓光寺へ。

      

6.午後3時、一乗寺清水町からバス、南禅寺・永観堂通では紅葉狩りの乗客が列をなす。前もってバス前方に移動、神宮通で下車、ホテルに戻る。

7.午後4時、タクシーでイノダコヒー前を通り、堺町通から、錦小路に着く。126の店舗が狭い小路の両側にギッシリ、土曜日ということで身動きが取れないぐらいの混雑。400年前、魚屋6軒から始まる。魚の保存に井戸の冷たい清水を利用したという。魚屋町という町名が残る。

    


                                         

8・突き当りの錦天満宮に参詣、修学旅行で歩いたことがある新京極寺町通)から四条通に出て祇園に向かう。

                                                                                                       
9・お茶屋一力亭脇から花見小路通に入り、祇園やすだで夕食


                                         

10.午後8時、東大路通・祇園交差点からタクシーでホテルへ。


11月29日(日曜日 晴れ)

1.午前8時、ホテルをチェックアウト。荷物を京都駅に送る手配をする。インクライン上部から南禅寺までを歩く。南禅寺・天授庵で京都最後の紅葉狩り。

     

2.昔の南禅寺参詣道を下り,瓢亭へ。朝がゆで京都最後の食事。

           

3.神宮通からバスで四条河原町へ。タカシマヤで買い物。四条河原町からバスで京都駅へ。昼食弁当を買い2時5分発のぞみで東京へ。

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フランシスコ・ザビエルの話題も・・・バスク地方の小さな村で

2015-10-29 10:41:05 | Weblog
 憧れのエジャウリ・オテラEllauri Hotelaに2泊しました。バスク地方の小さな村に泊まりたいとインターネットで調べ、地元バスク地方はもとより、マドリッド、バルセロナの都市部、さらに海外から訪れる顧客のレヴューreviewの評価が非常に高いので決めました。

 人口1,300人のセアヌリZeanuriの村人200人足らずのアルツスタ村Altzustaにあり、ゴルベイア自然公園Gorbeia Parke Naturalaの谷間にあります。西側の斜面の丘の上にホテルがあり、谷を挟んでの正面には海抜1,481mのゴルベイア山monte Gorbeaがそびえ、裾野にはベセリbeserriと呼ばれる牧場に囲まれた孤立荘宅が点在します。
 これこそ期待していたとおりのバスクの田舎の風景なのです。



*スペイン・グーグル地図を・・・ellauri hotelaが明示されています。
https://www.google.es/maps/@43.0897011,-2.740574,15z


 エジャウリ夫妻で経営する小さな家族的なホテルです。妻のランダRandaは活発でユーモアある女性です。腰が痛いといっていましたが、朝食後、ホテル周辺の散歩に誘ってくれました。夫のケッパKeppaは誠実なバスク男性で、バスク男性の多くがそうであるように、主だった料理は彼の担当でしょう。エジャウリ名物1.5キロのTボーン・ステーキ、チュレトンchuletónの生肉をテーブルに持ってきて、重さの大部分は骨の部分なので大丈夫と少食の私たちを気遣ってくれました。



 ヒヨコマメとタラのスープsopa de garbanzos con bacalaoは高齢の私たちの口に合いました。帰国してから作ってみましたがあの味は出せませんでした。レシピrecetaを聞いておけばと後悔しています。
 バスク伝統のデザートは自家製です。バスクの自然の中で育てられた新鮮な卵と牛乳が主材料で、ゴシュアgoxuaはバスク語で‘甘い’という意味のプリン・・・レモンがほんのりと香るムースmousse de limonは絶品でした。



 Keppaは14世紀から綿々と続く家系を誇りにしており、歴史にも詳しく、16世紀に日本に初めてキリスト教を伝えたバスク人の宣教師フランシスコ・ザビエルFransisco Javierの話で盛り上がりました。
 Jabierはバスク語ではXavierと表記すると教えてくれました。大内義隆に布教を許され説法をしていた山口では、現在でも「ザビエル」でなく「サビエル」と言うと聞いたことがあります。原音が残っているのですね。
 歴史好きと見たのか、ゼアヌリの広場Plazaに送ってくれ、迎えの車で先祖ゆかりの地アレアサ村Areatzaまで連れて行ってくれました。

 バスク旅行でバスクの人々と親しく交流ができた唯一の機会を与えてくれたセアヌリへの旅は忘れることができない思い出となるでしょう。

アルツスタAltzustaへ(1日目)

  ビブラオを午後2時にタクシーで出発。高速を経て、N-240を南下、山間部に入る。セアヌリZeanuriに入る。「セアヌリにようこそ」とバスク語の表示。広場Plazaで運転手が対向車を止め、エジャウリまでの道を尋ねる。ビブラオから30分少々でホテルに到着。料金は51ユーロ。



  KeppaとRandaランダ夫婦だけの経営と知る。玄関への急坂なアプローチを合わせて40キロのスーツケースを軽々と運ぶKeppaに驚く。部屋は2階、バスタブもあり清潔で快適。広いテラスからの眺望を楽しむ。






  夕食はバスク名物1.5キロのT-ボーンステーキchuletónに挑戦、塩だけの味付けはさっぱりとして、付け合せのサラダ菜と食べる。おいしいが100グラムのステーキしか食べない私たちはギブアップ。ランダに「残りは朝食に出してあげるわ」とからかわれる。
   デザートのレモン風味の自家製ムースに感激。



午前アルツスタ、午後プラサ(セアヌリ)、アレアサ散策(2日目)

  朝食後、ホテル周辺のエジャウリ家一族の敷地をRandaが案内してくれる。植えてある葡萄は5年で収穫、バスク白ぶどう酒チャコリchacoliとなるそうだ。





  ウオーキングへ。まず、村を一望する丘のサン・ミゲル教会San Miguelへ。道を尋ねた女性から庭のイチジクを勧められる。どの家にもイチジクが植えられている。エジャウリの食卓には常にありました。当地のイチジクは原種なのか実が小粒で丸ごと食べる。胃の活動を促進、便秘に効果あり、高血圧防止、二日酔いにもよいと帰国してから知りました。








  午後から雨模様。ベランダから雨にけむる谷の景色を楽しむ。Keppaの車でセアヌリの広場Plazaへ。歴史ある村を散策、バスク伝統の球技ペロータPilotaの練習を立派な球技場で見る。子供たちがコーチの指導を受けながら練習。昔の屋外のペロータ場は駐車場になっていた。石造りの建物が時代を感じさせる。昔の家の半分だけを補修し、住まいとしている家もあった。






     
      


  迎えに来たKeppaが先祖ゆかりの地アレアサ村Aleazaを案内してくれる。12世紀から続く村はビルバオとヴィトリア・ガステイスVitoria-Gasteizを結んいた石畳の古道が残るかつての宿場町、1525年に建てられた民家が残る。19歳のサンフランシスコ・ザビエルがパリへ遊学した年に立てられたことになる。



  最後の夕食はタラとヒヨコマメのスープと濃厚なソースのタラのムニエル・・・日本人の口に合う。今日のバスク伝統デザートはフランflan,バスク語goxua・・・日本に帰ったら一番懐かしくなる味でしょう。
 最後の夜は暖炉に火が入れられ、冷たいchacoliを飲みすぎる。




ビルバオへ(3日目)

ホテル前で記念撮影。濃密な時間を過ごさせていただきありがとうございました。



アレアサまで送ってもらう。教会前がバス乗り場。ビブラオのバスターミナルtermibusまで路線バスで・・・旧道沿いの村々に立ち寄るバスに乗りたかったのです。1時間に1本、土曜日、祝祭日は休止、料金は2.5ユーロ、心配していたスーツケースはバス下部のトランクに、前日にKeppaが運転手に確認しておいてくれた。



 45分でビブラオのバス・ターミナルに。タクシーでホテルへ、10ユーロ。



(outline in English)

Our two days’stay at the Ellauri hotela exceeded our expectations.
Spectacular surrounding hillside, dotted with basque farmhouses with their pastures, baserri in the basque language ,are stunning views.
We are quite impressed with friendliness and amiability of our hosts Aranda and Keppa. Aranda invited us to the morning stroll around the hotel site in spite of her leg pain. Keppa kindly sent me to the Plaza and the historical village Areatza as he found that I was interested in the basque country.
Chuleton, T-bone steak, is really the challenging food, as we usually eat only 100 gram steak. Soup of chickpeas with cod reminds us of Japanese food. After we came back home, we cooked it, but did not taste like the one in Ellauri. We should have learned the recipe.
What my wife and I miss now is Ellauri’s traditional flan and mousse ,and I will never be able to forget the cold chacoli I drank by the fireplace at the last night.
The two days we spent at the Ellauri were undoubtedly the highlight in our trip to the Basque country.

(esquema en Espanol)

Nuestros dos días en el Ellauri hotel supero nuestras expectativas. Espectaculares colinas que lo rodean, salpicada de vasco casas de campo con sus pastos, baserri en euskera ,son impresionantes vistas.
Estamos muy impresionados con simpatía y amabilidad de Aranda y Keppa. Aranda nos invitó al paseo de mañana alrededor del área del hotel a pesar de su dolor de la pierna.. Keppa amablemente me envió a la Plaza y la histórica Villa de Areatza, encontró que estaba interesado en el país Vasco.
Chuletón, t-bone steak, es realmente la comida desafiante, Ya que normalmente solemos comer sólo 100 gramos filete. Sopa de garbanzos con bacalao nos recuerda de la comida japonesa. Cuando volvimos a casa, cocinamos, pero que no saben como los de Ellauri. Deberíamos haber aprendido la receta.
Ahora lo que mi esposa y yo faltar es tradicional goxua y mousse de Ellauri, y nunca podré olvidar el chacoli frío que bebió junnto ala chimenea en la última noche.
Los días que pasamos en la casa, sin duda, fueron el punto culminante de nuestro viaje al país Vasco.



 







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スペイン・バスクへ・・・シニア夫婦の二人旅

2015-10-23 09:27:45 | Weblog
ビブラオBiblaoの街を中心に、ビスカヤ県Viscayaを巡りました。
夫76歳、妻74歳・・・おそらく最後の海外個人旅行となるでしょう。
現地でのコミュニケーションは夫のリスニングに難がある英語、妻の初級レベルのスペイン語・・・助け合っての二人三脚の旅でした。

以下、その日程です。


10月1日(木jueves)

    成田空港ターミナル1(AF275)11:00→16:35 シャルル・ド・ゴール空港ターミナル2E シャルル・ド・ゴール空港ターミナル2G (AF1376)20:45→22:20ビブラオ空港 

シャルル・ド・ゴール空港2Eから2Gへは巡回バスで移動、表示にしたがって問題なく移動。トランジット専用ターミナルは売店が少なく、時間をもてあます。

ビブラオ空港では市内バスが終わったためかタクシー待ちの乗客が長蛇の列、乗るまでに30分かかる
 
スビスリ橋Zubizuri近くのエスペリアホテルHesperia Hotel泊,ここを拠点にビブラオ観光を・・・

10月2日(金 viernes)曇り 
ホテルの部屋から歩道を眺める



午前中は旧市街Casco Viejo散策





午後はグッゲンハイム美術館Guggenheim  Museum周辺を歩く。







     

10月3日(土 sábado)快晴

ビルバオの産業革命の原動力となった鉄鉱山跡ラ・アルボレーダLa Arboledaへ。スペイン国鉄アバンド駅Abandoからウリオステ駅Uriosteへ。ケーブルカーFunicular de Reinetaと連絡バスでラ・アルボレーダ村へ。

帰路に世界遺産ビスカヤ橋Puente de Viscayaに立ち寄る。 「鉄鉱石鉱山ラ・アルボレーダとビスカヤ橋」に詳しく紹介。      

10月4日(日domingo)雨

史上初の無差別爆撃を受けた街として知られる700年の歴史を誇るドランゴDorangoへ。バスク鉄道Euskotrenアチュリ駅Atxuriから往復。
 
歴史あるアチュリ駅舎と新型列車





ドランゴDorango駅は新しい地下駅



ドランゴDorango駅周辺を散策








喫茶店で出会った家族


     
10月5日(月 lunes)曇り

エスペリアをチェクアウト。荷物をホテルに預け、新市街で買い物。

午後ホテルへ戻り、タクシーでゴルベイア自然公園Gorbeia Parke Naturalaへ。住民200人足らずの小村アルツスタAltzustaのエジャウリ・ホテルEllauri Hostelaに泊まる。

「バスク地方の小さな村で」に詳しく紹介。

10月6日(火 martes)晴れ、のち雨

アルツスタ村の歩道を2時間ほどウオーキング。

午後、雨になりウオーキングを諦める。エジャウリの主人が地区の中心地セアヌリ・プラサZeanuri、Plazaまで車で送ってくれる。1時間街散策、迎えに来た車でこの地区でもっとも歴史の古いアレアサ村Areatza を案内してもらう。

「バスク地方の小さな村で」に詳しく紹介。

10月7日(水 miércoles)

アリアサまで送ってもらい、路線バスでビルバオのテルミブスTermibus( Terminal de Autobuses )へ、タクシーでエスペリア・ホテルへ。

ホテル近くのアルチャンダ・ケーブルカー駅Funicular de Artxanda周辺の商店巡り、みやげ物を物色。

10月8日(木jueves)


   
    ビブラオ空港 (AF 1377) 07:25→ 09:05 シャルル・ド・ゴール空港ターミナル 2G シャルル・ド・ゴール空港 (AF 276) ターミナル 2E ゲートM 13:50→  
 
 出発ゲートMは免税店が立ち並び、ウィンドウショッピングや最後の買い物で時を過ごす。


10月9日(金 viernes)
 
  → 08:40成田空港 ターミナル 1

成田までのエコノミー席12時間は高齢者にとって難業でした。




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札幌から八代、人吉、伊佐、小林、宮崎、西都、高鍋、延岡へ・・・屯田兵の戦い

2015-08-19 14:22:37 | Weblog


熊本県人吉に出かけ、球磨川畔の人吉城歴史館に立ち寄りました。
西南戦争の戦いを描いた戦争画が展示されていました。
屯田兵の姿も描かれているのに驚きました。
昨年、屯田兵ゆかりの地、札幌市中央区山鼻を訪ねていたからです。

明治10年2月に西南戦争が勃発、4月に北海道開拓史長官黒田清隆は屯田兵全部隊に出征を命じます。全部隊といっても、明治8年から始まったばかりの屯田兵制度でしたから、札幌の琴似兵村244名山鼻兵村239名発寒兵村35名にすぎませんでした。働き手が出征してしまった兵村の開墾は残された家族が担ったのです。

遠征隊と弾薬や装備を満載した汽船は4月15日小樽港を出帆し、同月23日、目的地の肥後・百貫石港(熊本県宇土市三角)に着きました。西郷軍は熊本城の囲みを解き、人吉方面へ退いており、屯田兵は八代((熊本県)から人吉(熊本県)へ進撃する別働第二旅団に編入されます。

5月1日、準備を整えた別働第二旅団は人吉に向けて進撃を開始、西郷軍の激しい抵抗を排除しながら、同月30日に人吉に総攻撃を加えます。この戦いを写実的に描いた戦争画が人吉城歴史館に展示されているのです。



(政府軍が砲台を設置した人吉駅裏の高台)



 (西郷軍が陣を敷いた人吉城)

6月1日、敗退した薩軍は人吉を撤退、屯田兵の所属する別働第二旅団は薩軍と戦いながら大口(鹿児島県伊佐市)へ、同月20日に大口陥落、霧島山北側で政府軍を食い止めようとする薩軍を撃破しながら、7月22日野尻(宮崎県小林市)、同月28日高岡(宮崎市)、8月2日一ツ瀬川(宮崎県西都市)を突破、高鍋(宮崎県)を陥落させます。

一ツ瀬川の戦闘を観戦した後続の官軍の将校が、後に「屯田兵の負傷者が屯田の下士、兵卒が多く、将校に負傷者がないのを不審に思っていたが、今日の戦闘を見て、戦っているのは下士・兵卒で、将校ではない」と講評したという話が残っています。

開拓使は長官の黒田清隆を始め、将校ともに薩摩閥が牛耳っていました。西郷軍と同じ鹿児島出身であり、できることなら直接対決は避けたいという思いがあったのでしょう。一方、屯田兵の大半は10年前の戊辰戦争で賊軍という汚名を受けた東北諸藩の出身でしたから、その恨みを晴らそうという強い気持ちで戦ったのでしょう。

別働第二旅団はこの後、内陸部を迂回するように進軍、8月7日に門川(宮崎県門川町)の薩軍を撃破、8月14日延岡(宮崎県)に突入します。ここに薩軍の組織的な戦いは終わります。

7名の戦死者と多くの戦傷者を出した屯田兵部隊は8月16日に帰郷命令を受け、同月21日鹿児島を出港し、神戸、東京を経て、29日に小樽に帰港、琴似・山鼻・発寒兵村に戻りました。

屯田兵が従軍した4月から9月という期間は、北海道では開拓に従事できる唯一の季節です。屯田兵はまる一年間開拓事業に従事する時機を逸してしまいました。入植後、三ヵ年は食料援助、給与が保障されていましたが、政府はこれを一ヵ年延長する措置を取りました。

      

(現在の山鼻兵村付近)               (屯田兵村本部と練兵場があった公園)  

                       

(明治11年創立の山鼻小学校から藻岩山を見る)



 
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昔は小学生、今は中学生・・・新潟で人気の五頭山

2015-06-13 20:48:14 | Weblog
5月20日、出湯温泉から弘法大師ゆかりの五頭山に登りました。
今年は5月3日が山開き・・・五頭山(912m)のシーズンが幕開けです。

 大正生まれの今は亡き母は水原出身、その母が子どもの頃、眺めていたに違いない五頭山に初めて登りました。昔は地元の小学生は遠足で五頭山に登りましたが、低学年は五合目の烏帽子岩(490m)へ、上級生だけが頂上に登っていたようです。

 戦後になり、新制中学校制度が発足すると、五頭山へは小学校の遠足から中学校の全校登山と代わります。阿賀野市笹神中学校では5月15日に予定していましたが、雨天取り止めとなりました。クラスで班を編成、体力に応じた登山コースを決めて、助け合いながら登る準備をしていましたが、来年の全校登山までお預けです。


    (笹神中学校の写真集から)

 登山道の一合目から五合目まで木々に掛けられた真新しい表示に励まされながら、五合目の烏帽子岩まででしたが、登ることがでできました。山開きに合わせて地元の観光協会が用意したのでしょうか。




 弘法大師ゆかりの華報寺(けほうじ)への参道沿いに温泉宿が並ぶ。参道の途中に歴史を感じさせる五頭山登山口の石碑がある。道なりに進むと舗装されたやまびこ通りに出る

    

 沢沿いに五頭山に向かって上る。途中、観光バスを何台もとめることができる大きな駐車場がある。全校登山ではバスでやってきて、ここから登るのだろう。砂郷沢橋でやまびこ通りと分かれ入山する。



 砂郷沢を渡る木橋がかかる。ここが一合目・・・杉の木立の中を登る。坂道が意外にきつい。



 三合目を過ぎる辺りから、ぶなの木が目立つようになる。登山道は雨水の流れで中央が削り取られ、足場が悪い。昔は小学生が登ったようだが、当時の子どもの健脚ぶりにおどろく。

    

 ようやく明るい尾根に出たところが四合目・・・ホッとする。ここから五合目までは尾根沿いを進むので歩きやすい。



 五合目の花崗岩の塊でできた烏帽子岩に到着、見晴らしが素晴らしい。新潟港から続く広大な新潟蒲原平野が眼下に広がる。弥彦山がうっすらと望め、阿賀野川が水田が広がる平野の中を流れる。快晴なら佐渡の山並みも見えるという。烏帽子岩周辺には平坦な場所もあり、休憩場所としては絶好の場所。




 出湯温泉から烏帽子岩まで1時間半、眺望を十分楽しんだのち下山しました。下りの道は滑りやすく、出湯温泉まで1時間10分かかりました。今回は午前中に麓まで下りなければならない日程でしたが、次回は頂上まで登りたいという思いに抱かせる良い山でした。
 途中、3組のハイカーと出会いましたが、いずれも五頭山頂上を目指す人たちでした。前夜宿泊した出湯温泉で汗を流しながら、次回の山行に期しました。

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白鳥の瓢湖を訪れ、五頭温泉郷・出湯温泉に泊まる

2015-05-30 08:41:42 | Weblog
羽越本線水原駅を午後2時30分に出発、瓢湖を経て出湯温泉までウオーキングです。
水原(すいばら)は明治の初めに県庁が置かれ、水原県があったところ・・・もしかしたら新潟県は水原県と呼ばれていたかも知れません。


水原商店街へ向かいます。板塀に囲まれた歴史を感じさせる建物があります。明治11年の明治天皇ご巡幸の際、休息所となった大地主・佐藤伊佐エ門旧邸です。



水原本町商店街です。かつての城下町、宿場町として栄えた頃の面影を残しています。和菓子・甘味処のお店が目につきます。自転車店にはシニアカーが10台ほど展示してあります。



水原代官所です。水原県の裁判所の役割を担っていたのでしょう。平成7年、当時の姿を復元しました。地元の名産品を販売する観光施設が併設されています。



30分ほどで瓢湖に到着です。水原という街の名前を知らなくとも、ハクチョウの瓢湖の名を耳にした方は多いでしょう。野生の警戒心の強いハクチョウの餌付けに取り組んだ白鳥おじさんこと吉川重三郎さんの話は小学校の教科書にも載りました。



戦後の昭和25年に、突然、37羽の白鳥が飛来しました。吉川重三郎さんの情熱で300羽まで増え、町ぐるみで取り組みがなされるようになってからは1000羽、2000羽、3000羽と加速度的に渡来数が増え、現在では約6千羽のハクチョウが10月から3月までに瓢湖にやって来ます。



瓢湖から西に聳える五頭山に向かって歩きます。用水路を挟んで昔の街道筋の雰囲気が残る家並みを歩きます。



五頭山に近づくにつれ、田んぼに囲まれた一本道となります。秋から春にかけて、瓢湖を朝に飛び立ったハクチョウが田んぼで餌をついばむ姿が見られます。



ようやく五頭温泉郷の看板が迎えてくれます。五頭山の麓に、出湯、今坂、村杉の温泉が並んでいます。



出湯温泉です。昭和3年に建てられた清廣館に泊まりました。昔は近隣の米作農家が秋の収穫が終わると骨休みに湯治に訪れ、大変な賑わいを見せていたそうです。
水原駅から2時間30分かかりました。8キロの道のりでした。




新潟駅から瓢湖へのアクセスですが・・・

バス利用を勧めます。新潟駅近くの万代シテイバスセンターから瓢湖前までバスが出ています。
時刻表をどうぞ・・・・

出湯温泉のアクセスですが・・・

阿賀野市の市営バス・五頭温泉郷線がありますが、市民(主として高校生)のための公営バスで、観光客が使える時間帯の便はわずかです。
往路例
 万代シテイバスセンター(越後交通)14:05→14:59瓢湖前
 白鳥の湖「瓢湖」前(市営バス)15:41→15:56出湯温泉
復路例
 出湯温泉9:00→9:17白鳥の湖「瓢湖」前9:53→11:06万代シテイバスセンター
 出湯温泉10:15→10:32白鳥の湖「瓢湖」前11:53→12:54万代シテイバスセンター
*瓢湖・出湯温泉間のタクシー料金は約3千円です。

鉄道ファンの方にはJR新津駅経由、羽越本線水原駅下車がお勧めです

 新潟駅から信越本線で新津駅に向かいます。かつて新津は住民4人に1人が鉄道関係者という鉄道の町で、蒸気機関車を方向転換させたターンテーブル跡と14路線の機関車を収容した扇形機関庫の一部が現役で使われています。



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菜の花の二宮・吾妻山公園と真鶴半島を歩く

2015-02-18 14:22:17 | Weblog


2月14日、日本列島は西高東低の冬型の気圧配置、
北日本は暴風雪でしたが、太平洋側は快晴・・・
そんな日を選んで神奈川県の湘南・二宮町と県西・真鶴町に出かけました。
気温は10度を少々超える程度でしたが、春を思わせる日差しに歩くと汗ばむようなウオーキングでした。
冒頭の写真は二宮の吾妻山公園から撮りました。

アクセス

 東京駅・東海道線9:22→10:32二宮駅

  吾妻山公園散策

 二宮駅・東海道線12:57→13:21真鶴駅

  真鶴駅から真鶴岬まで散策(昼食・磯料理)

 真鶴岬・箱根登山バス15:00→15:20真鶴駅

 真鶴駅・東海道線15:27→17:06東京駅


吾妻山公園へ


駅前町民会館裏が入口、300段の階段がある登り道



木々の間から二宮町と相模湾が見え隠れする。



明るい林間の花壇に疲れを忘れる



うさぎ園・滑り台・管理棟がある広場を抜ける


海抜136mの芝生広場がある広々とした吾妻山山頂。360度の眺望が開ける。
江戸時代には大山詣で賑わった関東屈指の霊峰・大山が目の前・
菜の花が咲く一月初旬から二月中旬が晴天にも恵まれ、富士山眺望ベストシーズン

       

二宮から、小田原・箱根が眼下に・・・箱根駅伝のコースが一望


 
真鶴半島と伊豆半島・・・伊東市のシンボル大室山、天城山も・・相模湾で漁をする船と伊豆大島、写真には写っていないが利島、式根島も見える。相模湾の南東に房総半島が見える。源頼朝が真鶴から房州へ小船で逃れることができたのも納得。


   
         
    
          
真鶴岬へ


駅から真鶴岬までは3キロ弱・徒歩50分。駅前大通を下り、真鶴港へ・・・停泊する大型船は石材運搬船。真鶴の石材の歴史は古く、鎌倉幕府の和賀江島の築港、家康の江戸城・城郭にも使われた。真鶴町は石材業と漁業が主要産業の「半石半漁」の町



波消しテトラポットが置かれた海岸歩道を歩く

    

磯料理店が並ぶ一角から奥が県立真鶴自然公園。鬱蒼とした照葉樹林の森は天然林のように見えるが、江戸時代に小田原藩が幕府の命で15万本の松苗を植林し「御留山」として立ち入り禁止、明治時代は「御料林」、戦後は「国有林」となり、現在では「魚つき保安林」として漁業組合に保護管理されている。樹齢数百年のスダジイ、クスノキ、クロマツの巨木が道路沿いに・・・漁港組合が植樹したばかり木も見られる。



真鶴岬の先端にある三ツ石・・・周辺は好漁場で「魚つき保安林」からの栄養豊富で温度が一定の地下水にプランクトンが集まり、それを求めて魚が集まるといわれる。

      

 真鶴名物レストラン。昔は海にせり出す海上レストランだった




参考までに・・・

* 東海道線は平日には通勤・通学の利用で混雑します。土曜日ならと考えていましたが、混雑は相変わらずでした。帰りの真鶴駅からはほぼ満員,グリーン車両もありますので、その利用を勧めます。
     
* 真鶴半島には磯料理を提供する店が海岸沿いにあります。創業56年の「うに清」で食事をしましたが、午後2時でも満席でした。

* 中川一政美術館http://www.nakagawamuseum.jpは次の機会に見学する予定です。




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金子みすゞ「鯨法会」の青海島・通(かよい)を訪ねる

2014-12-15 14:15:34 | Weblog
金子みすゞのふるさと・仙崎駅を下りると地元の子どもたちが描いた壁画が迎えてくれます。大羽いわしの絵はよく知られた「大漁」のようすを描いたものです。鯨の絵はどの詩を描いたものでしょうか。金子みすゞ記念館で見つけました。「鯨法会」でした。




鯨法会は春のくれ、

海にとびうおとれるころ。

はまのお寺が鳴るかねが、

ゆれて水面(みのも)をわたるとき、

村のりょうしがはおり着て、

はまのお寺へいそぐとき、

おきでくじらの子がひとり、

その鳴るかねをききながら、

死んだ父さま、母さまを、

こいし、こいしとないてます。

海のおもてを、かねの音は、

海のどこまで、ひびくやら



 漁師が羽織を着て鯨法会に急いだという「はまのお寺」を訪ねて見よう思いつき、仙崎の方に尋ねると、青海島の通(かよい)にある向岸寺だろうとのことでした。

 仙崎駅前からバスで通に向かいました。隣に座った方から、漁業組合前で降りると鯨墓とくじら資料館があると教えられました。






 くじらを屋上に載せた2階建ての立派なくじら資料館があり、その脇の細い路地の階段を登ると鯨墓がありました。元禄五年(1692)に、向岸寺五世讃誉上人が、隠居所である清月庵(観音堂)の敷地に建てたもので、70数体の鯨の胎児がここに眠っています。

 墓石には 「南無阿弥陀佛 業尽有情 雖放不生 故宿人天 同証仏果」と書かれ、「南無阿弥陀佛 業尽きし有情、放つと雖も生ぜず。故に人天に宿して、同じく仏果を証ぜしめん」と読み、「大洋を見ずしていのちが終わった子鯨よ。仏の功徳を受け、やすらかにここに眠って欲しい」という願いが込められています。


 くじら資料館は一階が受付と事務所、二階が展示室です。階段の壁には古式捕鯨のようすを描いた4枚の浮世絵が飾ってあります。(*許可を得て撮影)







 解体の際に胎児が見つかると、丁重にこもに包んで寺に運び、戒名をつけ法要、鯨墓に葬ったのです。

 鯨の漁期は秋に始まり、春に終わります。「鯨法会は春のくれ」と詩にあるように、鯨漁が終わると漁師はそろいの羽織姿で寺に集まり、その年に命を頂いた鯨の法要を執り行ったのです。法要の様子を撮影した古い写真も資料館にありました。

 金子みすゞが仙崎で生まれたのが明治36年、おそらく鯨漁のことを耳にしたことはあっても実際に目にしたことはなかったでしょう。幕末の頃から鯨油を求めてアメリカの大型捕鯨船が日本近海に現れ、捕鯨銃による大量捕獲を行ったため、日本海に回遊する鯨が激減、網と銛による沿岸の古式捕鯨は廃れていました。

 しかし、春のくれに行われていた鯨法会だけは続いていました。





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LCC・鉄道・船・路線バス・新幹線・・・山口県を巡る一人旅

2014-12-05 14:17:24 | Weblog
 ようやく夢がかないました。山口県への旅です。関門海峡の町門司と下関、山頭火が愛した川棚温泉、金子みすゞのふるさと仙崎、明治維新胎動の地である萩、大内氏ゆかりの県都山口を3泊4日で訪れました。川棚温泉と山口市ではボランテイア・ガイドの方に案内していただきました。

 その日程と時程です

1日目 
   
    東京駅・JR快速エアポート成田5:04→6:30成田空港
   
    ジェットスター7:05→9:10福岡空港    
   
福岡市地下鉄空港線9:23→9:29博多駅・鹿児島本線特急9:38→10:28小倉駅
    
    鹿児島本線10:32→10:46門司港駅 

          
        
    ◎ 門司港駅の規模に驚く。門司港レトロ散策、ここから数百万の兵士が大陸に出征したと知る。
    
    門司港・関門汽船11:50→11:55下関唐戸港

          

◎ 唐戸ターミナルのコインロッカーに手荷物を預け、唐戸市場へ・・・食品卸センター以外は終了。昔食べた味が忘れられずウニの瓶詰めを探
すが、下関近海のウニは今では採れなくなくなり、輸入物しかないことを知る。ターミナル隣の小さな食堂でふぐフライ定食、ふぐみそ汁がおいしい。
雨が降り出す。
     
                       
    唐戸・サンデン交通バス13:00→13:15城下町長府
    
 
   ◎ 下校途中の長府中学校の生徒さんに道を訪ねる。長府毛利邸を見学後、国宝・功山寺へ。途中の、武家屋敷の雰囲気が素晴らしい。総門は工事中だったが、国宝仏殿は特別開扉、地元の方より由来、構造、仏像などの説明を受ける。

        

    城下町長府唐戸(コインロッカー)→下関駅

    下関駅・山陰本線15:36→16:13 川棚温泉駅

    ◎雨止み、晴れ間がでる。川棚温泉まで青龍街道を徒歩30分、出会った人は子どもを自転車に乗せた親子ずれのみ。一人旅を受け入れる寿旅館へ

2日目
 
    ◎ 朝、川棚の杜・ボランテイア・ガイドの方に種田山頭火ゆかりの地、妙青禅寺、川棚クスの森を案内していただく。妙法寺ではご住職が朝の落ち葉掃き。

 
       
    
    川棚温泉駅・山陰本線10:58 → 12:31仙崎駅

        

◎ 金子みすゞ記念館見学、「鯨法会」の詩に出ている向岸寺へ向かう。

    
     仙崎駅前・サンデン交通バス14:21→14:44青海島・通(かよい)漁協前

     ◎ 鯨墓・くじら資料館見学

        

    通漁協前16:05→16:39長門市駅

     ◎ 山陰本線2時間待ち、駅観光協会で紹介された「やきとり・ちくぜん」で夕食

     長門市駅・山陰本線19:19→19:56東萩駅

     ◎東萩駅前の萩ロイヤルインテリゲントホテル泊

3日目 

     ◎午前中に松下村塾、吉田松陰生誕地周辺を散策、萩市一望の眺望に感動。

        

     ◎午後に市内散策、明倫館付近で激しい雷雨に会い、タクシーで萩城跡にある萩博物館へ。2時間後、雨が上がったので南古萩町の武家屋敷を散策、いったん東萩のホテルに戻る。

        

      ◎萩で評判の創作料理MARUで夕食、見島産の見蘭牛の煮込みが絶品。
    
     ◎萩ロイヤルインテリゲントホテル泊

4日目

    東萩駅前・JRバス7:40→8:38山口県庁前  

             
    
    
     ◎ 古城ケ岳の懐に抱かれるように建つ山口県庁の威容に驚く。国宝・瑠璃光寺五重塔、秀吉を祭る俊龍寺、山口ゆかりの政治家が集った菜香亭、西の京と称された大内氏遺構、幕末志士たちが密議を重ねた十朋亭、旧山陰道、山口道場前アーケード街へ。午後、周防灘へ流れる椹野川から大内氏が物資を運んだ一の坂川、山口市の展望台・亀山、山口サビエル記念聖堂、山口県政資料館を散策、昼食をはさみ6時間の濃密な街角ガイド、山口駅まで車で送っていただく。

     山口駅・山口線15:28→15:50新山口駅
     
     新幹線15:58→16:34博多駅 福岡市地下鉄空港線→福岡空港  
 
 ジェットスター19:55→21:40成田空港(予定)

     ◎成田空港が濃霧のため、上空で40分待機したが、結局降りられず、羽田空港に着陸。成田空港に戻る客のみ交通費支給。
     

     羽田空港・東京モノレール23:30→浜松町→23:59東京駅   


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早朝の札幌市内を散策、屯田兵村の歴史に出会いました

2014-08-11 20:25:01 | Weblog
中島公園近くに滞在、山鼻地区を散策しました。山鼻小学校と山鼻公園を目指しました。屯田兵村の中心地と聞いていたからです。



 山鼻地区の東西を走る一直線の平坦な道路です。かつては広大な原生林が広がり、アイヌの人々は「鹿の住む林・ユクニクリ」と呼んでいました。開拓者は南に聳える藻岩山に因んで「山の端(鼻)」と名づけました。
 写真右手に山鼻小学校、正面の突き当りが豊平川、左手方向に札幌駅が、右手に藻岩山が見えます。この辺りに屯田兵村本部が置かれていました。



1876年(明治9年)東北の元士族239戸、家族を含めて1114名が山鼻に屯田兵村を開村します。3500坪の耕地と敷地150坪に屯田兵屋(写真は北海道開拓村保存兵屋)が、本部と練兵場の周辺に配置され、更に各戸一万坪の開拓地が供せられました。3年間は給与と食料が支給され、兵役と開拓に専念できる体制となっていました。



 練兵場であった山鼻公園の巨木に当時の屯田兵村の様子をうかがい知ることができます。公園を散策されている方のお話では20年前までは開拓当時の家並みが残っていたそうです。今では路面電車・地下鉄が通り、四つの高校、マンション、スパーマーケット、商店、駐車場などのある札幌の中心的市街地となっています。



 公園の隣にある山鼻小学校は開村の翌年1878年(明治11年)に開校、創立136年の歴史を誇ります。1881年(明治14年)明治天皇北海道巡幸の折、屯田兵村を視察され、小学校にも立ち寄られ休息されました。小学校の一角に「明治天皇御駐蹕(ごちゅうひつ)之地」碑があります。
「山鼻」の由来は「山の端」と同意語で、この地が背景に見える「藻岩山」の近くにあることからきています。



当時の北海道への交通事情です

 上野駅・青森間の鉄道が完成するのが1891年(明治24年)ですから、当時の国内での移動は徒歩か馬車が基本でした。北海道への定期航路はなく輸送船で海を渡りました。山鼻屯田兵一行は小樽に上陸、徒歩や荷馬車で40キロの道程を山鼻へやって来たのです。

 1881年(明治14年)の明治天皇北海道巡幸では、幌内炭鉱(現三笠市)と小樽港を結ぶ石炭運搬鉄道敷設が着工され、前年に小樽・札幌間が完成しており、明治天皇はお召し艦で小樽に入られた後、北海道初めてのお召し列車で札幌までおいでになりました。


 札幌から八代、人吉、延岡へ・・・屯田兵・西南の役へ

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スペイン・バスク地方の世界遺産ビスカヤ橋とセスタオの高炉

2014-06-22 14:39:32 | Weblog
明治5年(1872年)建設の富岡製糸場が正式に世界遺産に登録されました。
19世紀から20世紀にかけて日本の近代化を支えた生糸生産の象徴的な存在として、世界から認められたのです。

 固有の言語、文化を持つ民族であるバスク人が生活するスペイン・バスク地方に唯一の世界遺産ビスカヤ橋があります。19世紀末、ビブラオ郊外、イバイザバル川(ネルビオン川)がビスカヤ湾に流れ込むわずか1,500人の河口の町は、鉄鉱石を産出することから製鉄業が急速に発展、両岸を結ぶ橋の建設が急がれます。イギリスを中心にヨーロッパ各地へ積み出される鉄鋼を運ぶ大型船舶の航行の妨げにならないよう建設されたのが、人や車両をゴンドラに乗せて渡す運搬橋ビスカヤ橋でした。



 完成したのは1893年、近世の技術革新の証として世界遺産登録されたのは2006年・・・地元の人々は愛着を込めて、「Puente Colganteプエンテ・コルガンテ(つり橋)」と呼んでいます。高さ45メートルの鉄橋からワイヤーで吊り下げられたゴンドラは、100年を越えた現在でも、一度に6台の車と50人の人々を乗せて、160メートルの川幅を行き来しています。

 ビブラオにはもう一つの産業遺産があります。ビスカヤ橋近くの町セスタオSestaoの高炉です。1902年建設の高さ30メートルの当時の世界水準を超える高炉で生産された銑鉄は、製鉄業・造船業を発展させ、バスクはスペインでの産業革命の中心地となりました。
日本では官営八幡製鉄所が高炉を建設、近代製鉄を始めたのもこの頃です。




下の写真は製鉄が盛んな頃に河口上空から上流を撮影。ビスカヤ橋、煙を盛んに上げるセスタオ高炉、右手には鉄鉱石を産出したトリアノ山が見えます。
写真では大型貨物船が数隻停泊している港は、製鉄が中止されたあと埋め立てられ、ビスカヤ橋をくぐる大型船舶を見ることができません。



 その後、バスク地方では製鉄業・造船業は衰退しますが、ビスカヤ橋・セスタオ高炉建設で培った技術は、工作機械・航空機械工業・新技術産業に受け継がれ、スペイン屈指の工業地帯となります。
 バスク地方の人口はスペインの5パーセントに過ぎませんが、産業生産は10パーセントを越え、スペインの中で最も豊かな地方となっています。

*掲載写真はWikipedia公開写真からコピーしたものです



 
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初夏、びわの季節ですが、究極の白びわが土肥温泉にあります

2014-05-25 09:29:03 | Weblog
近くの店の店頭に枇杷が並んでいました。
ひとつずつ丁寧にカゴに入れられていました。
首都圏に出まわるビワは房総の富浦で採れたものでしょう。
実が大きく、濃いだいだい色で、初夏の香りがひろがってきます。
びわは果物中では最も高尚な味をもっていると言う人もいます。
さっそく購入・・・ひとつずつやさしく表皮をむき、ほおばりました。

疎開をしていた西伊豆の土肥(とい)から東京に戻ったのは小学校3年の4月の初めでした。すっかり身についていた語尾に「ずら」をつける伊豆方言で友達になじめなかったのを心配したのか、6月のある日、父親がびわを買ってきてくれたのです。戦後間もない頃、びわは高価な果物でした。

懐かしい土肥のびわより、一回り大きく、色もずっときれいな立派なびわです。手のひらに載せて、重みを感じながら、土肥でやっていたようにそのままかぶりついたのです。しかし、何かが違うのです。甘さが足りず、なにかぼんやりとした味だったのです。

今でも、東京でビワを食べる度にあの日の食感を思い出します。私だけの感覚なのかと思いましたが、東京にいる土肥出身の従姉妹も同じようなことを言っていました。その理由が分かったのは最近になってからです。



 明治10年、中国に視察に出かけた静岡県知事が洞庭湖近くのびわの種を持ち帰り、県内の農家に配布しましたが、真冬でも氷が張ることがない温暖な風土の土肥にだけ根付きました。
 親戚の山にあったびわは大木で、やぶ蚊に刺されながら、竹さおの先でびわの房をひねり落としました。この木は知事が持ち帰った種から育った原木だったかもしれません。

 へん円形の小さな実で、表皮は淡い黄色、白肉でほんのりとした香気があり、甘いおいしいびわですが、種は大きいのです。子どもの頃に身についた食べ方は、実をまず半分かじり取り、ぶどうを食べる要領で果肉を口に押し込みます。残りの半分はまず種を捨て、どうようにして味わいます。この食べ方だと、あっという間にひと房を食べることができるのです。ただ、果汁で両手がべたべたになるのには閉口しました。

肉質が緻密で白く、果汁が豊富で甘味が強く、甘みと酸味のバランスが良く、上品な味わいは群を抜いている」と専門家は評価しています。しかし、特においしく食べられる期間がほんの一時期に限られることや、果皮・果肉が柔らかくて傷がつきやすいことから輸送が困難で市場に出回っていないことから、「土肥びわ」は「幻の白びわ」と呼ばれています。



かつて銀座にある高級果物店で販売されたことがありますが、品質管理が難しいのか、今は手に入りません。5月末から6月初めに西伊豆・土肥温泉にぜひお出かけいただき、この「究極の白びわ」をご賞味ください。

(冒頭の土肥びわの写真はサイトびわの品種からコピーさせていただきました)

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