まろねふの廊下からの呟き

中年オヂさんの呟き転じて、人生備忘録となる…

切符コレクション

2006年03月13日 | 泥沼より
本棚を整理していると、当分開いた事が無いスタンプブックが出てきました。子供の頃から集めていた硬券の切符を整理しようと十数年前に買ったものでした。ご多分に漏れず、それ以降整理が進まず空き缶に大量に切符を入れたままですが…(爆)
この中から、珍しい切符と連絡乗車券を紹介します。



これは、小学生の頃に同級生から頂いた、急行「いずも」号の座席指定券です。「家のタンスの中から出てきたのであげる」と言われて頂いた物です。
かなり変色が進んでいて、地色の青色が殆ど判らなくなっていますが、今では私のお宝です。
この当時は、席番指定は番号のみでの指定だったのですね。今頃気が付きました…(汗)


これは、私鉄からの連絡乗車券です。上は島原鉄道深江駅から長崎駅までの、下は一畑電鉄の平田市(現雲州平田)から山陰線波子駅までの切符です。
島鉄の切符は、撮影旅行の際に買ったもので、窓口のオバちゃんに「本当にいいのですか?」と、念を押された一枚です。勿論、未使用です(笑) この切符を買ったお陰で、オバちゃんに使用済みの切符を何枚か頂きました。
一畑の切符は、高2の冬休みに一畑電鉄に行った際に面白半分で帰り用に購入しました。回収されるのが惜しくなり、わざわざ出雲市駅で別に波子までの乗車券を買ったので、手元に残りました。この数年後には連絡乗車券自体がなくなったようです。



驚きの国鉄連絡乗車券がこれです。なんと井笠鉄道から国鉄への連絡乗車券で未使用券です。しかも購入したのは一昨年、毎年広島で行われるバス祭りの会場で、井笠鉄道バスが販売していたものです。当日、仕事中に現F原模型店店主から「バス祭りで井笠鉄道の古切符らしきもを売ってる」と連絡があり、半信半疑で会場に行っている人に買ってきてもらいました。開業当時の物と思われる乗車券も含めての未使用券ばかりのセットで、手にしたときには鳥肌が立ちました(笑)

今では、切符を買うのも自動販売機かレシートの親戚のような切符で、何だか味気ないような気もします。ちょっと昔までは窓口で行き先を告げて購入し、硬券切符を手にしたときには、これから汽車に乗るんだ…と実感していたような気がします。これもまた失われた鉄道風景ですね…

広電 650型

2006年03月10日 | ひろでん
今日は、復帰して初めて651号を出庫し、広電前から広島港までハンドルを握りました。春に予定されているダイヤ改正で、650型2両が引退し休車になるので、乗務出来る機会も減るのだろうなと思いつつの乗務でした。

この650型は、昭和17年に大阪の木南車両で5両が製造されました。昭和20年8月6日午前8時15分、史上最初の原子爆弾の被害を受けましたが昭和23年までに全車が復旧し、戦後の混乱期の市内輸送に力を発揮しました。
被害が一番酷かった655号は張り上げ屋根での復旧となり、異彩を放っておりましたが、残念ながら昭和42年に比治山線運行中に国道2号線交差点にて大型トラックと衝突、大破して廃車となってしまいました。
残った4両は、電動方向幕を装備し冷房を搭載して市内線で活躍しましたが、近年は市内線の連接車投入に伴い、主にラッシュ時に嫌われながらも運行しております。しかし毎年8月になると、平和学習の貸切運行に連日用いられ、私も2度ほど乗務したことがあり、被爆者の方や語り部の方のお話をじかに聞いた事があります。


数年前からは、650型全車の運転台背面に由来を記した案内板を設置しております。手元の資料によりますと、各車の被害状況は次の通りだそうです。

651号・・・袋町付近にて半焼(現在の中電前辺り?)
652号・・・宇品付近にて小破
653号・・・江波終点付近にて大破
654号・・・同上
655号・・・広島駅付近にて全焼

(参考:広島市こども文化科学館 被爆60周年企画展資料より)



さて、写真は650型の運転台の写真です。上は651号、下は654号です。650型は全て三菱製のKR-8直接制御器を装備しておりましたが、近年廃車発生品の泰平電機製B-29式、TD-52式KR-8直接制御器に交換しております。市内線全体で三菱製制御器を泰平電機製制御器に交換しており、現在では三菱製制御器は651号と156号にだけ見られます。
個人の好みなのですが、泰平電機製の制御器はノッチが刻みやすくて扱いやすく、三菱製はノッチ刻みが判り難くて内部で合いノッチによるスパークを起こし易く最初は嫌でしたが、時間が経つとハンドルが小さい分、余分な力が掛からず合いノッチもなくなり、扱いやすくなりました。
ただ、651号は曲線抵抗が異常に大きく、曲線上で停車するとシリース3ノッチまで起動しないことがあり、運転士泣かせでもあります。

仕事では650型の走行シーンをよく目にする(乗務する・・・笑)のですが、実際に走行している姿を撮影した事が殆ど無く、最近の姿は留置中のものばかりです。次の休みこそはカメラ片手に街へ繰り出して、残り少ない活躍姿を撮影したいと思っております。


広島港にて予備車待機中




千田車庫にて


キハ52

2006年03月05日 | 廊下から
またまた懲りずに古い写真を…
山陰地区では、木次線にキハ52が集中配置となっておりましたが、同線がキハ120に置き換えられると、山陰本線輸送力列車運用の予備車として益田まで運用される事がありました。この輸送力列車とは米子区のキハ一般+キハ58で組成されており、通常キハ一般車にはキハ47が用いられていましたが、キハ52やキハ45も用いられておりました。私が実見したすさまじい編成はキハ47+キハ45の編成で、キハ45は便所使用中止で運用に入っておりました。カメラが無いときに限って珍編成がくるので、ご多分に漏れず写真がありません(涙)

さて、山陰のキハ52で有名なのが128番でしょうね。これは国鉄時代から一般色を引き継いだ唯一の車両で、今日のリバイバルカラーのきっかけを作った車両ではなかったでしょうか? 同車は昭和58年、木次線出雲坂根~三井野原間で脱線転落事故で廃車となったキハ53-6の代替として盛岡区から転属してきました。転属当初からツートンカラーであり、国鉄最後のカラーリングと当時の職員の方から聞いた覚えがあります。それ故に、最初の全検時に朱一色へ塗替えをやめ、予算の都合上か何かで後藤工ではなく、木次で塗装したとも聞きました。今となっては証明する資料はありませんが…
平成2年にワンマン改造され、トイレも撤去されましたが、最後まで山陰本線で注目され続けお星様となりました。
写真は、母方の祖父の墓参りの帰途浜田駅で留置中の同車を発見し、慌ててカメラを実家まで撮りに帰り、益田まで同車に乗車し追っかけをした時の写真です。さて、いつだったか…

浜田駅1番ホームにて


客室を望む


定番のトイレ跡…(笑)

続いて、実家に帰省途中で偶然乗り合わせた、キハ52-139です。これまた予告も無くめぐり合えたので、ストロボの電池が無くぼやけた写真となりました。撮影したネガに、急行「あきよし」を改称した「ながと」が写っていたので、同列車の廃止が決定した平成4年1月頃の撮影と思われます。この撮影後、同車は高岡鉄道部に移動となりました。


さて、木次のキハ52の珍車に簡易荷物車に改造された、キハ52-651がいました。同車は荷物輸送廃止後、簡易お座敷車「むらくも号」として、小口団体輸送にも活躍しました。この「むらくも」時代に2度目撃しており、一度は単行で、もう一度は木次線~芸備線~三江線~山陰をの一周した団体列車でした。当時、三次区と浜田区ではキハ52を取扱えなかったので、両区が運転する側に回送のキハ58を連結した編成で運行されました。
写真は、平成4年に「SL江の川号」を運転した際に、片道利用者の為の臨時快速列車として運転された時のものです。浜田鉄道部のキハ47ワンマン編成の間に、境線のお魚列車ことキハ40-2033とキハ52-651を挟んだ4両編成で運転されました。この時は、SLとキハ52を充分堪能しました。



平成4年11月 三江線石見川本駅にて

いやぁ、またまたヂーゼルカーのネタになりました。実は客車好きでありながら、客車の写真が少ないんです…

島原鉄道の廃車体

2006年03月01日 | 廊下から
島原鉄道の車両の廃車体として知られたものが、南島原機関区のキユニ4505、詳しい場所は忘れましたが、国道沿い(?)にあったキハ16がありました。
南島原のキユニは車体のみが部品倉庫と使用されており、独特の湘南マスクを平成に世まで伝えていました。初めて訪れた平成4年には正面ナンバーが色分けしてあったりと状態も差ほど酷くありませんでしたが、平成7年11月には車体腐食が酷くなって正面ガラスが外れそうになったりしておりました。後に正面は鉄板を溶接したようですが…
2回目に訪れた時に、係員の方に車内を案内していただき、現役当時の雰囲気が残っていた事に驚いたものです。同車は最後まで直通ブレーキ(SME)方式で、自動ブレーキ方式のキハ55に連結する場合は、切替コックを用いて制御可能とし、制動弁の違いから必ず後位に連結した。また総括制御は可能だったので、併結相手はキハ55には限らなかった…等、貴重なお話を聞く事が出来ました。今では廃車体の姿は見れないのでしょうか…


平成4年8月7日


荷物室側から郵便室側を望む


荷物室の書状差し付近


トイレ付近(開けて撮影しておきたかった…笑)


島原外港駅付近だったでしょうか、国道沿いの空き地にキハ16の廃車体が存在していました。当時、雑誌か何かで存在を知っておりましたのでしたが、詳しい場所も判らず探した記憶があります。
撮影時には、使用されていた形跡は無く、隣に普賢岳被災地の復興関係者の事務所がありました。車体の道路側は再塗装されていましたが、反対側には現役時代の塗装が残っておりました。エンジン類は外されていましたが、DT-19台車は残っており、私有地ゆえに入るのを躊躇ったのが後悔されます。災害の被災地でカメラを持って浮かれている事にも後ろめたさはあったのですが…



道路側から


反対に回ると、現役当時の車体広告まで残ってました

おそらく、この廃車体が最後まで残ったキハ16の姿だったはずです。子供の頃にキハ16に乗っていますので、その懐かしさとで感動したのを覚えております。