marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(276回目)プロテスタント・キリスト教の論争(K・バルト)

2017-03-01 18:49:53 | プロテスタント
◆マルチン・ルターが理解していた「人間的なものの根絶」について、また、先の275回には、エラスムスとの論争のことを書きましたが、ルターの考えと20世紀最大の神学者カール・バルトの「脱人間学化」の考えが似ているなと思わされたのです。元東京神学大学の学長の近藤勝彦先生のバルト解説の一部を下記に述べます。また、最後に近藤先生がバルトの基本的な神学的事項について疑義を呈している点も書いておきたいと思います。   ******************************
(バルトの著した)『ロマ書講解』(第二版)は当時神学の世界に広く衝撃を与え、それ以前の神学、19世紀の「学問的神学」あるいは「自由主義神学」と言われたものとはっきり決別した、あたらしい「神の言葉の神学」の出発点になりました。そこでは従来神学の基盤であった人間の宗教経験とか、それを把握する心理学方法や歴史的方法は拒否され、神と人間との無限の質的断絶が強調されました。「神のみを神とせよ」。あの第一の戒めが高らかになり響きました。神学において文化的な前提とか、歴史的な資産に対する依存性は覆され、まったく圧倒的に上から迫ってくる神の言葉が強調されました。「危機の神学」とも言われたように、人間的、文化的、社会的なものは、すべて「危機」の相の下に見られ、垂直線の上方から迫る神の言葉、多くは審判的な神の言葉にさらされました。
 その上でバルトは、やがて「神の言葉」をもっと積極的に語る「教義学」の再建に向かっていきました。今日なおその間の経過は多くの人に興味をもたれ、研究され続けています。この経緯を弁証法からアナロギアの思惟へという転換と見る人もおり、この間にバルトが行ったアンセルムス研究の意味を重視する人もあります。私としては、その中間に『キリスト教教義学』を書いた段階と、そこからさらに『教会教義学』に進む段階において神学的な思惟における「脱人間学化」が推し進められたことに注目しています。
                      (近藤勝彦著『啓示と三位一体』、教文館、2007年、p49以下)
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◆僕が思うに、ルターもバルトもいずれも時代的背景の制約の中での人間における限界を見据える位置を同じにした到達点であったろうと思うのです。ルターは、ご存じのように宗教改革を起こさざるを得なかった経験をし、バルトは第二次世界大戦におけるナチスの教会支配、ヒトラーは教会に「帝国監督」を置き、その任命権を行使し、ドイツ福音主義教会を彼の支配の下に掌握しようとしたに対する大変な戦いを経験したからです。不完全な肉なる人間が、少しでも自分たちの言葉で、神の言葉をかり、あるいは自己肯定をし始めるなら、その隙からいかようにも神から離れざるを得ないほころびが起こってくる、両者はいずれも経験を通しそのようなことを心から感じていたに違いない、僕はそのようなことを思うのです。いずれ、キリスト教に出会ういかなる人も自由意思とか神の意図とかの関係を一度は考えるのではないでしょうか。 さて、
◇近藤先生のバルト批判は、「へぇ-」という思いです。それは、僕が12月にバルトのロマ書の解釈について、それは違うのではないかと書いたのも、まんざら先生によればピントがずれていたものではなかったように思われてくる。近藤先生によれば、バルトが20世紀最大と言われてきたのは、その内容ではなく、膨大な著作量についてのみだったのかい!?というような煎じ詰めればほとんどそんな内容で驚きます。「啓示概念」、「三位一体論」、「聖霊論」、御子キリストと聖霊が相互関係に理解されておらずこれは聖書の証言に鑑みて正しくない。教義学の全体構造の中枢に位置する「神の恵みの選びの決意」についても疑問がある。「三位一体の神の救済の計画」として考えるべきであるその歴史牲が説かれていない。(ロマ書の「信仰から信仰へ」は僕の解釈がふさわしいということだな) 大きなテーマでいうとバルト神学では「神の業と歴史的世界」の二元論的区別が克服されていない。晩年におけるサクラメントの喪失は大きな問題である・・・などなどです。神学の基本となる考えがすべて不完全ということ。自分の言葉で読む素直な会得が一番ということですね・・・