marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(280回目)福音書において何を求め期待すべきかⅡ   (M・ルター)

2017-03-05 20:01:54 | プロテスタント
 キリスト教会に初めて来れた方は、まずもって頭に浮かぶことは、聞くことはよいことか、悪いことか、何を意識として持つべきことで必要なことか、それは無論、普段に頭で意識をして自分のことばで考えることなどをしていなかったことを無理矢理、まずは考えて見るという苦しいことを強いられるというような自分の意識上に起こることなどではないだろうか。なぜなら心の中の問題など、漠然とは思っているが、その思い方、考え方自体を今までまったく意識化したことなどがなかったあえて言えば生まれたままの自然人だったからである。そして外目では同じでも内面、周囲の人との軋轢に悩んだり、身体や精神に負荷をかけたりするのである。自分の内向にであればまだしも、それが外に向かうと裁きとなるだろう。その原因と戦おうとはしない。
 聖書を読む時の注意点をルターは、前回に続けて次ぎのように述べています。
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 第二に注意すべきは、キリストをモーセにしてしまい、キリストが教えるだけであり、他の聖人と同様模範を与えるだけであるという具合に、福音が教えの書か律法の書であるかのごとくにしてしまうことである。だから、あなたはキリストのおことばとみわざとを苦難とを、二通りの仕方で把握すべきである。
第一は、あなたの前に立てられた模範として、これに従い、あなたも同じようにするのである。この意味でペテロは、「キリストは私たちのために苦しみを受け、私たちのために模範を残された」〔第一ペテロ2・21〕と言っている。彼が祈り、断食し、人々を助け、愛を示されたのをあなたが見るとおり、あなたもまた、自分に対しても隣人に対しても行うべきなのである。(注意:何事でもそうであるが、「人間的なものの根絶」だから、動機に注意である。動機がいつの間にか自分の感情に転化しての行為であれば、それは長続きはしないし、霊的に枯渇するであろう・・・これは僕のコメント)だが、これは福音においてはもっともとるに足りないことである。これはまだ、福音と呼ばれることはできない。それでは、キリストはあなたにとって、ひとりの聖人以上の役に立っていないからである。彼の命はまだ彼のところにあって、あなたをまだ助けていない。つまり、このやり方ではだれもキリスト者とはならない。ただ、偽善者を作るだけである。
 あなたは、もっとずっと高い段階に来なくてはならない。こういう仕方で説教するのは最善のことではあるが、もちろんこれは今まで長いこと、希になっていた。福音の主要条項、または根幹は、あなたがキリストを模範として把握するよりまえに、神から与えられて、自分のものとされた賜物、贈り物としてのキリストを受け入れ、認識することである。キリストが何かをなし、あるいは苦しまれるということをあなたが注目し、聞くならば、キリストご自身がそのようなみわざとお苦しみとをもってあなたのものであることを疑わず、あなたが自身がそれをしたかのように、いや、あなた自身がキリストであるかのごとくにそれを信頼してよいのである。
 見よ、これこそ福音を正しく認識するということである。これは、神のあふれるばかりの恵みであって、いかなる預言者も使徒も天使もことばをもってしても汲みし得ず、いかなる心もこれを十分に讃美したり、把握したりできなかったものである。これこそ私たちにたいする神の愛の大きな火である。これによって心と良心とは喜ばしいもの、確かなもの、満たされたものとなる。これこそキリスト教信仰を説教することである。この説教こそ福音であり、これをドイツ語に訳直せば、喜ばしい、よい、慰めの使信というほどの意味である。この使信のゆえに使徒たちは12人の使者という名をもつわけである〔・・・・〕。 ・・・ 続きます。
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