marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(42回目)

2016-06-30 20:19:03 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 
いよいよヨハネ伝の第3章に入ったぞ。ニコデモさんは、ブログを最初から読んでくれている人がいれば、最初の方に書いてきたので分かるかと思う。第3章からはいよいよイエスの真に迫る(といってもニコデモさんが叱られたように我々にはもっと分からないことだらけではあるが・・・しかし、何となく何を言っているかは観ずる?)会話の始まりです。ニコデモはユダヤ人の指導者でイエスのことを認めて夜に(真っ昼間なら人目についてユダヤ人に仲間外れにされただろうから)イエスのもとに来たと書かれている。そして会話が始まるのだがそれが分からない内容なのですね。しかし、さすがに指導者が出てくる章であるだけにイエスの会話には殆どイエスが神のもとから来られたことのすべての答えが書かれているような内容でありそうだ。
◆尋ねたその人(ニコデモ)は、ユダヤ人の指導者と云われている(第3章1節)、だから異邦人の我々と違い聖書(旧約)には精通しているはずである。しかし、イスラエルの教師でありながらこれくらいのことが分からないのかとイエスに叱られている(10節)。う~む!それでもやはり2000年たった今も僕は分からないぞ。イエスが話していることは、人を創造された神のひとり子であるから、また、私を見たのは父を見たのだと云われたから、天地の造り主である神の次元からは当然のような事柄なのであろうが(11節、12節)。「よくよく言っておく」と3度も念を押しておられるからね(3節、5節、11節)。しかし、具体的ではないけれど言われていることはなんとなく理解できそうに思うのは僕だけだろうか。
◆(3節)だれでも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない。(5節)だれでも水と霊から生まれなければ神の国に入ることはできない。(6節)肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。霊から生まれる者はどこから来て、どこへ行くのかは知らない。(11節)わたし(イエス)は、知っていることを語り、見たことを証している、これは地上でのことなのである。これが分からなければ天上のことはもっと分かるまい。とまぁ 簡単にまとめるとそうなるが・・・。僕なりの解釈、(3節)は、霊的なことが分かるように新生せよ、肉の欲求でだけで地上の快楽を求めるのだけで生涯おくると天国行けんぞ!霊的人間になって霊界である天国行くのだからね。肉体としての地上の生涯おえてもさ。(6節)同じような解釈になるなぁ、霊の動きは分かりませんよと。(5節)水とは洗礼のことかな(教会で信仰告白とやらの後の)、霊とはイエスが下さるという聖霊のことかな? いずれこれはイエスを信じて教会とやらで洗礼を受けないと行けないような解釈だな・・・。う~む! なんか見えないけれどどこかへ行こうとしている霊が僕の周りにうじゃうじゃいるような感じになってきたぞぅ・・・Ω 今日は12節まで。

世界のベストセラーを読む(41回目)

2016-06-28 22:04:14 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 
 37回目に戻り少し大切な事を追加します。今朝、薄暗がりの中で会社へ行く前に少しCoffeeなどたしなみ、聖書を読もうとしているとナタナエルさんが来てこう言うのだ。
「37回目は少し簡単過ぎるよ、私の名前がここ(ヨハネ伝第1章の終わり)に書かれていることは実は大切な事なのだよ、もう一度読んで見なさい」と。
 47節にイエスがナタナエル(12弟子のなかのバルトロマイと言われている)のことを「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言われている。実は、ヨハネ伝の初め第1章でイエスが、弟子の中ではそれからあまり名前の出てこないナタナエルに対してこのように話されるのを唐突のように僕は感じていたのだ。どうして「まことのイスラエル人だ」などとイエスは言われたのだろうかと。しかし、一番初めにイエスを「神の子である」と認めたのは弟子の中ではナタナエルなのだ(49節)。ここが重要なのだなと僕は教えられた。
 確かに、「イスラエルの王です」というのは、当時の誰でもが、旧来からの云われでは救い主というのは現実の政治を司り自由をもたらす王と考えられていたから考えに限界があっただろう。しかし、弟子の中でイエスに対等に向かい、そのこと「神の子である」と告白したのは、ペテロではなく(だれでもがペテロと考えているのではないかしら<ヨハネ伝第6章69節、マタイ伝第16章16節から>だから天の国の鍵を授けられたのだと)ナタナエルなのだ。これがとても重要なことなのだ。まことのイスラエル人であれば、古来からの聖書の中に救い主としての、神の子が来られることを読み取っているはずである。ナタナエルは、ストレートにイエスに向かい、目の前のイエスにそのことをまともに告白したのだ。だからこそ、「まことのイスラエル人である」と先にイエスは見抜いたのだ。
そのようにナタナエルは、きちんと聖書を自分の言葉で読み、救い主が来られるとの考えの下準備が出来ていたということなのだ。だから、自分の言葉で聖書を読むことが如何に大切かと・・・イエスが聖霊を送り教えてくれると云われているではないか、そして再び迎えに来ると話されたではないか、しびれを切らさず、待っていなさいと・・・そういってナタナエルさんは消えた。・・・・Ω

世界のベストセラーを読む(40回目)

2016-06-27 20:53:10 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ マルチン・ルターさんのお勧めにより、福音書(喜びの訪れ)を読むのであれば、まずヨハネ伝をじっくり読んでねということでしたが遅々として進まず。脱線ばかり、このブログはだらだら書いているようですが、なにぶんにも神の言(ことば)なるを学びつつありますので、僕ら思想的下級人間には少しピンとこないところが多々ありまして・・・それから時折、というか全部というかブロークン(砕けた)言葉を使っておりますのは少しでも多くの方が、とにもかくにも自分の言葉でまず読まねば始まらんということで、柿ピーをポリポリ食いながらでもいいので手に取って読んでいただきたいと心から願うからであります。今まで学んできとところによりますと、私(イエス)が聖霊を送るから分かるようにしてくださる、それからまず読みたい人は私が私の基に集めているから・・・とも読めそうなところがあるのでどうぞ難しくても、永遠の命を与えてくださる言葉であるそうですから、あきらめずに離れず学んでいただければと願うものです。神学などという小難しいことがお好きな方は必ず書いていきますのでそん時学びましょう。今までの回で少し書いてますので読んでね。
◆さて、第2章13節から2章終わりまで・・・。ここは、その通りに読めそうです。イエスが、本当に行動を伴ってお叱りになった珍しい(失礼)場面だ。考えてみるに、どの宗教問わず、この商売あるわな、やっているよね。これがあっての神様だぜという感じで、まさに「商売繁盛の神頼み」がキャッチフレーズの一つですからね。あとは「家内安全(健康第一も入れとこ)」とか たいていこのワンペア。◆「過ぎ越の祭」とは、旧約聖書出エジプト記、モーセに導かれて自由を求めエジプトを脱出した時の事件を記念しての祭り。(是非、旧約読むべし。この事件を忘れるなが伝統だった)でこれが、イエスが地上に来て彼を信じた者は、その血により(十字架により)この苦悩の地上の命から永遠の命への脱出に重なっていくのだね。気の遠くなるようなパラダイスロストからの長い話が今度は、「信じるのは今でしょう!」と常に声をかけられ、信じた者には来生のパラダイスへの帰還の保証がなされるという仕組みとなっている訳であります。17節の書いてあるとは、これも詩編69の9節との引照であります。・・・Ω

世界のベストセラーを読む(39回目)

2016-06-26 20:41:44 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ ヨハネ伝第2章 結婚式に出られて祝辞お願いしますなんて言われたら(まだないが)、僕はきっとこの世界で初めてイエスが奇跡を起こしたのは、いつ、どのような時であったかなどと得意になってこのカナの婚礼の話をするだろうな。4節のぞいてですけれどもね・・・随分自分の母親によそよそしいが、尊敬を込めた言い方だと解説にある。「婦人よ(これは新共同訳)」、「あなた・・・女の方(これは「い」社」と。実は、深い意味合いがあるのよね。人間界のなれ合いではないのね。母親もいきなり奇跡を起こしてもらいたいと願ってイエスに「ブドウ酒がありません」といった訳ではないのだろうから・・・。どうしてもなんらかの深い意味合いを読み取りたい方は、「い」社のチェーン式の下の欄にそれらしきこと書いてます。6つの瓶は7でないから不完全数だとか、ブドウ酒はイエスの流す血のことの象徴との解説ですが僕はそこまで読み切れませんでした。
◆本筋にもどり、結婚は神の偉大なる奥義とされているし、綾小路うたまろの「あれから40年」ではないが、ういういしい心ときめく男女の結婚も、あれから40年でお互いの新鮮さも愛情もなれ合い惰性になってくたびれてくるという人間の性向には、このイエスの結婚での奇跡、しかも常に新鮮であるのが出てくるという話は、とても最初の奇跡にぴったしだといつも思うです。(11節)イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。・・・Ω ※今日は2回目分書きましたので短く では。

世界のベストセラーを読む(38回目)

2016-06-26 19:32:11 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 36回目に書いた今回の英国のEU離脱に宗教がらみ当然ありだねと、その道を説く方に話したら、それは面白いな自分も調べてみようと言ってたな。正直、僕も離脱はないだろなと思っていたら、これが民主主義だと言わんばかりのすっきり感でしたね。知らんぞ、経済混乱するなぁ・・・日本でも1000社くらい英国で商売してんでしょ、大陸EU目指して。一人の女性がりきんでカメラに向かって大英帝国は独立自尊で行けるんだと・・・、離脱に投票もそれなりの意見で生活に本当に逼迫する人も出てくるのは分かりそうなものなのにな。それにしてもオープンばかり(グローバル化という意)でどうして国全体の和(が先にある)というのを考えられんのだろうな。やっぱ一様な民族でないからなのだろう。日本国民は優秀だ。それなりに自尊を保とうと頑張っているからな、欧米のキリスト教国は何でこうなんだと思わない?(そもそもEUというのを作ろうということ自体、キリスト教ベースの不完全人間の政治機構の創作のように思われてきた。ちなみにEU政府は西ドイツにあるんではなかったの)。そこで、僕は言った訳よ。同じ、イエスを信じてどうして分裂してんのよ。これだと「我に来たれと言えんだろ、あんた!」目の前の梁(これイエスの例えにあり)が見えないというか、気づかぬ壁作って満足しては駄目よと・・・ね。
◆偉そうに上から目線で言わせてもらえば、ルーターさんも、カルヴァンさんも神学的な欠陥が少し残っているということだよ。何の?結局、人の質、魂のQualityの問題なのだな。無論、人は罪人なのだろうけどイエスが十字架掛かられてみんなOKよとか、予定説で人には自由意志無いものねとか、何とか信条とか・・・なんて不完全な人間の言葉で再定義しがちになるからね、100円販売での聖書を良く読めだよな。実態としてのその人間個人(聖書的には「肉」)が何故に地上に生を受け、その十字架を背負うという個人の課題をどう捕らえるかにすべてが掛かってくるということなのではないの(これが「救い」という奴か)。これは決して一般化できない「自分」のこと、個人がどう自分の地上の誕生と生を考えるかに掛かってくるからなのでないの。そして、その次に、他との和解があるという順番があるということさね。でないと、何でも心情OKでいっても、決して不完全な肉の集まりを維持していく機構はうまくいかんと思うのよね。(つまり、不完全な人間世界を総括して見ている神を忘れるでないぞということ)で、先に紹介した荒井献著(イエス・キリスト<上>)は次の言葉から始まっている。(p14) 「1 イエス・キリストとの出会い イエスを語ることは・・・『イエスを語ることは自分を語ることである』と言われる。私はこの言葉をある意味で正しいと思う。」・・・Ω ※今日はりきんでしまった。