marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(487回目)大知識人:養老孟司さんと故加藤周一さん(その1)

2018-02-28 19:00:00 | 日記
 先に女流作家のお二人を見たので、最近本新潮新書から『遺言』という題の本を出された養老孟司さん、2008年12月5日に亡くなられた知の巨人と言われた加藤周一のおふたり大教養人(知識人)について少し思わされたことを述べます。養老孟司さんの新著『遺言』(新潮新書)について「感覚より意識優先の矛盾」と題して論壇インタビューが地方紙に掲載されたので思わされたこと。・・・その前に、又、いきなり身も蓋もないようなことから・・・
◆「神の言葉」、「信仰の言葉」、「いのちの言葉」などというと、先理解の設定があっての後理解なのだろうと思われるだろう。これは新約聖書において使徒パウロがその手紙の中にしきりに書き留める言葉であるが、確かにそうなのである。書かれている文字である「言葉」の前の「神の」とか、「信仰の」とか、「いのちの」の言葉を受け入れるのはそのことに対する先理解があってのことだからである。・・・が、ここにまったく、先理解のない人は、まずそのことの理解から捜し初め、しがらみにまとわりついた実に多くの雑音を聞くことが始まるから嫌になるはずである。人の数だけイエスとの会話があるからと・・・。このことが誰にも分かる一般化で説明できないことは、それが体験(つまり、個人の今を生きている肉を持っての会話)からの生じている言葉だからである。
◆物事の物理的対象物があり、それが第三者に話せば分かるという相手にも対象物に対する先理解があっての共通理解というものではなくて、さらに、お互い観念的な言葉上だけの共通理解が先にあっての話の理解でもない。
 実は、求めているのは、直接、あなたが自分の言葉で、その中の主人公であるイエスと語ることを目指さなくてはいけない(このようなことを書くとまたまた身も蓋もないのであるが。M・ルターは新約聖書はヨハネ伝、ガラテヤ書をまず読みなさいと勧めている)。唯それだけなのであるが、自己納得から信じようなどとすればこれが難しい。それは、通常の読み書きの、肉体を基盤とする理解に基づく(起因する)言葉では分からないからである。この辺のところは、神学者八木誠一さんの「宗教と言語・宗教の言語(日本基督教団出版局 1995年)」に詳しい。けれども理解される方はある程度の差はあるとは言え理解しているから信仰者が起こされているということでもある。ところがである・・・・
◆そういう人たちは、単純に理解していたのだろうか。実は多くの人は、そうではない、この空間に今ある自分の存在に言葉にならない絶望や悲しみというか、虚無感というか、実に後ろ向きの言葉にできない体験からイエスとの対話が起こされていることを思う。さらには、出逢う会話も深く傷ついた思いもさらに自己の中の奥深い湿った闇の中に埋没する、否、埋没させられる体験をするのである。自分の言葉が要求される、それは自己を見つめる、誰にも話さないが、表せば「告白」となるだろうそれは、あからさまのような言葉での現れにおいても、さらに言葉にならない深い底にあるものに起因することが理解されてくる。それが、まさに今まで気が付かなかった自分という今を生きる不完全な(完全ではない、自分では完全を維持できない)肉体への、あるいは肉体から引きずられている後ろ向きの言葉の考えの是正への戦いを経験していくのだ。
 ・・・ここで、今までの事を心底から体験として理解されない方は、次の言葉はなんとも気楽な逃避でしょうと写るに違いない。あるいは、哲学者ヒュームが言った「知性は、情念の奴隷である」なんていう言葉を思い浮かべるかもしれない。とかく人は、心情でまるめ込まれれば何とも言いようがなくなるものだから。とくにこの国の人々は・・・。あの大戦において多くの人が亡くなった、それは、あの場のいきさつで、あの場の空気で大戦を始めなければいけなかったのだと戦争を始めた人たちは言った。
◆イエスは言うのだ。「もう悩まなくてもよい、私が来たのだから、あなたが話しているわたしがそれだ」と。自分の肉の力量ではいかんともしがたい絶望、人間の限界において求める言葉に彼を見出すもの、彼の言(ことば)に触れた者は、慰めを見出す、そして理解する。少なくともそれだと意識できる外部からの反応に対しというより、肉体という器官を通さずに内から起こされる声といったらいいか。それは、彼が不完全な自分で選択できない、そして、死がこの地上では必然なこの肉体を担い十字架に掛かられているということ、それが無ければ、死から解放されることは他には決してないであろうことを信じた者達のこの地面に深く打ち込まれた十字架から発せられることばなのである。・・・2018年2月14日(水)から受難節を過ごしている。 続く・・・   

世界のベストセラーを読む(486回目)女性作家:瀬戸内寂聴さんと曽野綾子さん

2018-02-23 17:40:56 | 日記
 瀬戸内寂聴さんの記事が、地方紙にも掲載されるようになりました。
僕は学生時代、新刊で彼女の本を買ったことがある「ひとりでも生きられる」という本でした。「瀬戸内はるみ」というお名前だったころの本、出版は青春書房とかでした。こういう本はたいてい新書で買わないですが「ひとりでも生きられる」なんて無理だと思ったので、そういう考えや心理はどこから来るのだろうと知りたいと思ったのです。結論は、やはり無理、と思っていたらしばらくしたら仏門に入られました、そして寂聴さんという名前を賜り今のように活躍されているということになります。どうして、このようなことを書くのかと言えば、人は一人では生きられる者ではないからです。そういう人は何らかの宗教性に結びついて、自己の安住の礎を持たなければ不安でどうしようもなくなるからと僕は思っていたからです。やはりなぁと・・・。で、もう一人の女性作家、曽野綾子さんはどうでしょう。この方はカトリックです。最近、「夫の後始末」という本を出されました。年代層は異なるようですがこの方も人気がありますね。
◆仏教とキリスト教を語るに、そのお二人のいずれも女性作家のお考えの比較をされると面白いかもしれない。寂聴さんは、自分の身体のことは自己肯定化、綾子さんは人間の身体を突き放します。どこかの出版社で両者の思考の道筋について、その支える信仰の面からといえばいいか、その同じ女性でも考えが異なるのか比較をされると面白いかもな、と思ったりします。しかし、注意して欲しい。物書きと宗教家は、どこまでも自己肯定化できるものだから。自分の言葉で、自己肯定化でき、それが大衆とつながっていればそれはその考えを認めらたことになるのだから、それは嬉しいに違いない。宗教がバックにあって、何を表明するかについては、実は多いなる責任があるように思う。行き場がなくなって、大衆とつながりがなくなれば、宗教のことを語れば何がしか、誰がしかは必ず耳を傾けるものだから。間違ってはいけない。どこまでもそこに逃避出来るのだ。非難される対象ともならず、あがめられる存在であり、その事において自己を肯定化ができる。実は、知識のみでは現代、得ようと思えば出来るのである。要は宗教家は常に「死」を語るのであることを忘れてはいけない。
◆梅原猛と瀬戸内寂聴の対談を聞いたことがあった。何となくの雰囲気である。~であろう・・・のような良い話のような雰囲気は、聞いている時だけの心の慰めというものであろうか。お叱りを受けるが仏教は、厳密さがない。謂われや、言い伝え、伝統の中からのしきたりに浸っているだけである。それは長い歴史の中からのしきたりであろうけれど、肝心のそのこと、そして、そうしている自分の今、このときの(刻々、死に向かいつつある自分の今)を理解させるものではない。つまり、この今の「場」。それは生きている者の死者への気持ちでそうするだけであって、死者の霊そのものとは何ら関係ない所作諸々である。仏教は、死者、過去への郷愁を死人に求め、将来はどこぞやにあるかもしれない浄土へとうやむやに拡散する。
◆少なくとも、仏門に入るくらいの人生を歩んで来たならば、人生は一度、自分のように自由に生きなさい、などと語ってはいけない。最後に・・・そして仏門に入りなさい、というのだろうか。まさか、それはないだろう。瀬戸内はるみさんの人生を知ってる人は何を語っているかご理解されるはず。人は自分が蒔いた種は、刈り取らねばならないからである。これは、霊的においても法則である。神は生きていると言われる。「死人は死人に葬らせよ」とは聖書が語る言葉である。後者の死人とは、霊的に生きている神とのつながりがなく霊的に死につつある人を指す。肉体が死んでも永遠に生きている神の霊と繋がらなくてはいけないと。そうで無ければその場を何度も求めうろついた霊は再びこの今生での人生を歩もうと赤子に霊が宿る。今生で精進を続け、さらに又・・・その霊が昇華するにはとてつもない長い時間がかかるということになる。
◆曽野綾子さんが夫に対しても素っ気なく対象物体のように「~後始末」というような対象物のような物言いは、人というものはこういうものだということを理解しているからであろう。少なくともキリスト教の神は、神の目線からの人という生き物を相対化させる言葉を持たせられる。自分も含めて。煎じ詰めれば、この肉体に与えられた霊は、この肉体を与えられて「私」という十字架を担ぎ、あるいは担がされ、不自由な体で生き抜いてそのことが精進となり、無論、神の霊(聖霊と言われる、その子の霊)とつながり生きて、生き抜いて、この地上での不自由な(これには親を選べない、遺伝子も過去からのもの)肉体という殻を脱ぎすてて永遠の国へと旅立つことを知っているのである。この方は自由に生きなさいとなどと無責任なことは決して言わない。キリスト者はたいていそうであろうと僕は思う。その人生の試練が信仰の言葉というものに突き抜けたとき、新しい人生が到来する。
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 「誰でも新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ伝3章3節) ・・・ 

世界のベストセラーを読む(485回目)主体的な言葉は肉体に引きずられる言葉ではないのか

2018-02-21 20:00:00 | 日記
 教育の手段と言えば、中学時代特別ば部屋でソノ・シートという薄いレコード板のようなものにイアーホンをつけて数学を解こうとさせる授業を受けたことがある。頭の良くない僕などは、覚えることの媒体に機械を使うのに心理的に何か気持ちが悪くなってきた思い出がある。機械操作を覚えるのも抵抗があれば、機器だから答えはその中にすでにある訳で、その機械に結果を出させることのこちら側の内なる、思考する言葉がついて行けなかった、というのが気持ち悪さの原因のようだった。
◆僕などは、先のパウロの言葉ではないが、自分の思いと自分のからだとが分裂している思いをいつも持っていたものだ、それから人という生き物はどういうものか、無論自分という生き物も含めてなのだが、そのことを考えることは今でも続いている訳だ。それから大学にようやくさ入学したのはいいが、工学系だったが、自分のその存在の居座りごごちの悪さは如何ともしがたく、暗い青春時代を過ごしたのだったけれど、E・H・エリクソンの「アイデンテティー(自我同一)」などの言葉が出てきた時などは感激したことを覚えている。で、それから自分とはなんぞやという問題が頭を占めるようになったと言う訳で、やはり、永遠不変の真理ごときものを得たいという経緯で、あれやこれやで、行き着いたところが十字架に掛かって死んだイエスという男の話だった。
◆それ以来、神が自分の似姿に人を創造された、などと天地創造の神様なる言葉を聞くと、自分の身体、無論肉体ばかりでなく、意識や、やる気やその他、もろもろ人に係わるいっさいがどういう関係なのかと知りたくなってきたのであった。そうすると、主体的な言葉などを育成しようとすることより、もっと手前の人というものはいかなるものか、というようなことを教えるのが先決であるように思われるのである。ぐっと、話の内容を絞って・・・
◆手短な例をいうと、数年前、教会の関係で東京のキリスト教関係の幼稚園から小学高校、大学までを見学する機会に恵まれた。一つは小学校でIpadを使って、学級の新聞をつくろうとさせているようだったけれど、便利な機器もいいけれど、それを使いこなせる基準が良いとか、悪いとかを思う生徒が必ずいるのではないだろうか。お金のない家ではスマホも買えないだろうし、第一に手っ取り早く画像や言葉の意味の検索を捜すのに目から入ってくる回路情報は、一番鍛錬しなくてはいけない(つまり、主体的な言葉、自分の言葉を持つところの)前頭葉を通らないのである。目から入る画像は第一(間脳)~小脳に瞬時に伝達されるのではなかったか。前頭葉ではないのである。その印象は人により異なるから、前頭葉での意識化がその後に行われ、言語化が行われる。といっても、見ても意識化まで到達しない人もいるけれど。
◆それを、聖書的観点から言えば、イエスが言われた「目は心の明かりである」とか「良く見なさい」とか「何を見ているのか」という叱責もあった。つまり、まったく人が人であるところの前頭葉での言語化とその発露をイエスは求めておられるような勧めなのである。それでも個々人の正確もあり、会話の不得手な人たちもいる。その事の評価をどこにその土台を持つのか、そして子供達に自分の言葉をどう持たせるように対応するかは、やはり一人ひとりが異なっていて、神の言葉、真理の言葉、信仰の言葉を持てるように願うべきであろうと思われてきて、それが最優先だろうなと思うのである。
◆その考える言葉であるが人は結局、その人の考えは、物理的音として発するか、文字として表す以外に周囲の人は分からないものだろうと。人は信じて言葉にして、救われるとある。それは、この地上に再びこの肉体をもって(あるいは、誕生に生まれかわるその人として、他人ではなくその当人と同じ人として)再生するために必要なことなのだろう。しかし、パウロはさらにこう語るのです。その人の内なる霊以外に誰がその人を知り得ようかと。これは、つまり、神と語る、具体的には霊的イエスと語る言葉である・・・というよな(これまたなんとも、というようなことにはなるのであるが)、しかし、考えてもみたまえ、実に多くの言葉を発せられない人々がいるではないか。これは、不幸にも医学的に欠陥がある(そのような誕生をした)ということばかりではなく、身体として機能的に欠陥がなくても言葉を発せられない多くの人がいるのを察することが出来るのではないだろうか。多くは性格という言葉でまとめられているけれど。ここに悪霊は飲むべきものを尋ね歩いていることを知らなくてはいけない、その闘う言葉が続く・・・ 

世界のベストセラーを読む(484回目)『高校学習指導要領改定案』主体性云々というより「自分の言葉」を持つことが先決です

2018-02-19 19:00:00 | 日記
 実は、僕ら人間の死後の行く末を整えるところからの言葉の土台を持たないと、不安でしょうがない、という生徒が実は多くいるのではないだろうか。そうで無ければ、親はもっと自分の子供達のお仕着せでない、まさに一人ひとりの内からの考える言葉の引き出しを促すよう、日々の生活で言葉をかけてあげる事がとても大切になってくると思います。言葉が多過ぎ子供の思考を代行してしまうから考えることをやめてしまう子供も多くいると思う。先に生きる親である大人としての考えの土台も当然、それは重要な事であるのは言うまでも無い。さらに、親にあらずとも歳をとっていれば、安心なのかといえば、決してそうではないのは、周囲を見渡せば理解できること。何を生きがいとしているか、何が最後の礎になっているのか。「神の元に帰らなければ人というのは決して安らぎを得られない」と言ったのは、あの教父アウグスティヌスだったが、彼はまさに、その自分の言葉で自分を見つめ神と対話した人で、あの「告白」を書いたのだった。これなどは、先のブログ言えば、かなり自分を見つめる後ろ向きの後退している内容なのだ。つまり、自分の言葉が要求されるところのその自分の言葉なのです。教会用語では「証し」などと呼ばれるものなのかもしれない。
◆結論から言わせていただければ、教育と言えども手段までのノウ・ハウまであって、もともとその人(生徒)の根の部分に自分で触れる(つまり、自分の命に触れる)言葉の育成には決してなっていないことですね。人の一生は、いろりろ紆余曲折あっても結局は、この言葉の獲得に向かって生きているものではないでしょうか。神の言葉の獲得、命の言葉、信仰の言葉と言うものです。今の子供達側に対しては宗教の言葉を、与えてあげるのが第一と思うのです。さて、そこで総てのしがらみを越えて、子供も大人もその言葉は、どこから来るのかといえば、我田引水のようですがやはり、聖書からと言わざるを得ません(しがらみそぎ取って)。
◆なぜなら、僕らが生きる世界の総てを包括している言葉であるから。宗教教育はねぇ・・・と考える人は「哲学」はどうでしょうか。しかしですねぇ。この国ではあまり盛り上げないのですねこのジャンル。個人が自分の意見を持つということに。それですから、教育において主体性どうのこうのは手段を振り回すだけで、何ら根に基づいていない周囲の雰囲気(空気)に同調して、よしとしてしまう傾向にあるということです。不安な子供は、言葉にならない不安を抱えて人生を過ごすのです。表にでないからこれも分からない。で、教育現場では、積極的に言葉を発する人間が評価が高くなるという具合です。イエスがパンを五つのパンと二匹の魚からパンを生じさせ、5000人以上の群衆を満腹させなお余った。それのみを求めてぞろぞろイエスに追いかけたという事実も忘れてはなりません。イエスを十字架に掛けろ、十字架に掛けろと叫んだのもこの大衆だったのです。真の自分の言葉、命に繋がる言葉を持たなければ、いくら主体性を持った言葉がどうのこうのと叫んでも、結局、何れかの大衆の一人になるかもしれないことを心すべきでしょう。
◆僕らは、社会の成り立ちは住む、国や社会によって異なりますが、この自然、宇宙、被造物の仕組みなどは、人という種に於いて総てが共通なこと。例えば、人の躰の成りたち、自然の成り立ち・・・結局、天地創造の神の被造物の一部として、人という生き物は地球に存在しているということなのであるから、このこと、この関係、では、その物理的音声などの言葉に為し得ないいその言葉までに於いて、その満足をここに得ようとすれば、それは創造主のもとにやはり尋ねる以外にないと思われるのです。もしかすれば、僕らが勉強するとは、大前提の基底にこの目的があるのであると。
◆結論は、この言葉にいつも繋がっていなさい、です。欧米の著名歴史のある大学の定礎には”神を畏るるは知識の初めなり”とある。使徒パウロは、ローマ人への手紙第1章20節にこう述べる。
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 神の見えない声質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。
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僕らの学校での勉強の大前提の目的と言えば、学問というものを通して神に近づこうとしている、神を知ろうとしていることに他ならない。
◆先の不安について言えば、使徒パウロは、ローマ人への手紙第7章23節~24節にこう述べる。自分の肉と、霊の思い一致の解消には、この不安のギャップを埋める言葉を誰もが持たなければならないと思うのですね。
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(23)わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中にわたしをとりこにしているのを見る。(24)わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれがこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
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 誰しもが思うであろう、このギャップを埋める言葉をもつことは、実のところ自分の人生の宿題に答えを見つけようとすることに他ならないだろう。おそらく、自分の言葉で、この解消をしようとすれば、それは「聖書のことば」以外にやはりないだろうと僕は思っているのです。・・・ 続く 

世界のベストセラーを読む(483回目)書かれていることは一つ、霊と肉体とその行く末と・・・

2018-02-18 19:46:37 | 日記
 この寒い季節にストーブの前でつらつら思うことその六。
 霊と肉体と、その後の行く末について、僕らはしっかり自覚しておかなければならないこと。それはそのようになっているという霊の法則で事実であるということ。ですから、これは、心の安らぎとかという気分的な事柄を越えて、流布されているような宗教ジャンルを越えている内容である、ということ。
◆そして、その中で、人間界の中に「霊」は歩み、あるいは、肉体に影響を与え、様々な霊に惑わされているのが普段の僕らであるとすれば、無論、その中には悪霊もあり、人を死に招き入れるものもある(それに憑依され事件を起こしてしまう人間も出てくるという始末である)、であるから、聖霊を受けよ、私(イエス)に繋がっておれ、としきりに勧められるのである。これも気分や気休めではない、信ずる者には、事実として体現されるというのである。キリスト者が、アーメン(確かにその通りです、信じますという意)を唱えるのは、信条ごときお題目や呪文ではなく、触れることのできる実態として体現できること、そのものなのである。キリストの復活は、まさにそうだったということになります。それは、もっとも長命だったと言われるヨハネの第一の手紙の冒頭に書かれている、それは、・・・
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 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目でみたもの、よく見て手でさわったもの、すなわち命の言(ことば)について・・・(ヨハネの第一の手紙第1章第1節)
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◆聞いて、目で見て、手でさわって・・・とある。観念的な、ましてや意味不明な呪文でもない、この僕らがこの制限のある三次元の人間世界の中で確認ができている事実(アーメン)であるということです。とくに、キリスト教の中でも、意味不明となりやすい、やはり創作ではないのかというような話になりやすいもの、それは、マリアの処女懐妊やイエスの復活でしょうが。何故か僕は全く疑っていないのです。疑い深い僕個人のいろいろな経験からですが・・・。さて、ヨハネの手紙の続き第2節から4節はこう続きます。
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(2)この命が現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父とともにいましたが、今やわたしたちに現れたものである・・・(3)すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子(みこ)イエス・キリストとの交わりのことである。(4)これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。(ヨハネの第一の手紙第1章第2節~4節)
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◆ヨハネによる福音書第三章に、イスラエルの教師ニコデモとイエスの会話が出てくる。霊から生まれるものとしての有り様を語るがこの地上の人間の霊のことが述べられているのに信じなければ、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか(11節)とニコデモはイエスに叱責を受ける。そしてこうイエスは語る。「(15)それは、彼(イエス、自分)を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」と。それに続く16節は、特に有名な聖書の言葉である。
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(16)神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子(みこ)を信ずる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
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