marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(477回目)「エルサレムをイスラエルの首都」には聖書的に正しいのか?

2018-01-31 02:00:57 | 日記
 掲題の事は、イスラエルとパレスチナの仲介役(クリントンがオスロ合意でお互いを認めた)のアメリカが、大統領がトランプさんに変わるといきなりの宣言となった訳で、これは何でも国連の多くの国は認めなかった(日本も)。アメリカの共和党は宗教的に福音派と言われている方が多く国民の1/4とかを占めるそうだ。当然、ユダヤ教の方も多く居られる訳だから票は多くなるだろうけれど、中間選挙の票稼ぎとしてもかなり無理があるような気がする。この福音派とは聖書に書いてあることを文字通りに信じているのだとか。日本のキリスト教会も福音派は正統とされているように思われるが、果たして日本の福音派とアメリカのファンダメンタリスト(福音派、ガチに文字どうり信じている人)は個人的に異なるように思うのですね
◆先のブログに書きました、確かに旧約聖書には、私(神)は再び呼び集める(エルサレムに、つまり紀元前1000年頃、ダビデ王様の統一した証しとしての神殿、これはその子のソロモンが完成させたのだが)と、しっかり確かに書かれているが、新約聖書には、本当にそのように書かれているように読めるのか・・・ ですね。世界中にイエス・キリストを信ずる人が居る訳だから、他の国の歴史をもつ、その地にそれぞれ生きて、イエスの再臨(再び来られること)を待っている人々はどうなってしまうのかなぁ、と素朴に思ってしまう。アメリカ共和党の多くの人は、エルサレムに再び、実際にイエスが再臨されると信じていると、それでイスラエルの国(当然、ユダヤ教の方が主)の首都をエルサレムにするのに賛成と・・・でトランプさんもこの人達の選挙の票を勝ち取れるだろうと強権発動宣言のようなことを行った訳です。ブレーンと言われる娘さんも、婿さんも、ユダヤ教徒ですので・・・かといって、ユダヤ教徒はエルサレムをイスラエルの首都にというのは大賛成なのでしょうが、イエス・キリストのことは預言者の一人としてしか認めていないのではなかったか。この辺はそれぞれでいいとこどりで理解されているのでしょう。しかし、・・・
◆新約聖書、つまりイエスのことが書かれている内容から深く読み取れば、そのように読み取れるのだろうか。パレスチナの人々は排他すべき人なのだ、で許されるのだろうか。キリストの示しにより使徒パウロ、彼は総ての地上の民族規模でこう語っているのではないだろうか。それは、キリスト者にとっては地上のエルサレムではなく、天のエルサレムなのであると
◆パウロの手紙から(ガラテヤの信徒への手紙第4章21~31節)、ここは少し旧約の内容や歴史を知らないと何のことかと思われるかもしれないが、引用します。ここでは、地上の固定された場所に固執するには自由になれない、キリストの霊により新しく生まれた者は自由な天のエルサレムにあるのであると述べている箇所です。****************************
 律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。
 子を奴隷の身分に産む方はシナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルはアラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたち(イエスを信じた者たち)の母です。・・・・肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。・・・*********************
◆ここは、当時のキリストを信じた異邦人ガラテヤ人に対して、頑なに律法を信じるユダヤ人による迫害が行われたのですが、キリストを信じることは新たな霊により生まれ、天のエルサレムに由来するものであり、実際の今のエルサレムに固執することはその代々は奴隷となっているのである、と解釈されるところです。彼らの固執は、まさにそのことの故に、聖書の神が彼らが世界に苛立ちを起こさせることによって、その存在を世界に知らしめているということになるのでしょう。・・・ Ω 


世界のベストセラーを読む(476回目)首の切られた地蔵尊:地方紙掲載(463回目に記載した内容が地方新聞に掲載されていた)

2018-01-28 22:14:12 | 日記
 ブログ463回に記載した僕の生まれたこの村の上の村の六地蔵の首は、祖母のミツ婆さんが守って今もしっかり付いていることは書いたが明治初期の新政府による廃物希釈について六地蔵の首が切られたことが1月23日の地方紙文化欄に投稿があったのでここに掲載します。
      
◆ここで僕が述べたいことは、記事の後半でこのように書いている事でした。寺の住職の紹介で郷土史に詳しいNPO法人の「浦城の歴史を伝える会」の理事長によると寺の前住職から聞いた話として次のように語ったとある内容。
 「この地区の豪農は代々神道を信じていた。明治の神仏分離令に強く傾注し、仏教から神道に改宗したという。この時に地蔵尊が壊された」・・・それで、僕が不思議の思うのは、ここでいうところの神道はどから来ていたのかということ。仏教が広まるかなり以前から神道を信じていたとすれば、古代昔から神道は日本中に広まっていたということになるのではないだろうか。
◆そこで、また僕がブログで述べてきたことに戻っていくのだが、神社の建屋の作りが古代イスラエルの移動の時の幕やに類似していたり、御神輿や、それが川を渡ったり、水浴びしたりするのは旧約時代にモーセの神の箱が紅海を分けて渡ったことに類似しているのではないかと思うこと。旧約時代の捕囚時代に離散した部族の一団は、東へ東へと向かい、日本の島まで到達していたことをどうしても思ってしまうのですね。無論、かなりの年月を経てのことだが・・・。日本中に神社があるのはどうしてなのだろう。山伏の格好はどうして昔のラビの衣装に似ていたりするのだろう。ラビは世襲制、日本の神主も世襲制である。ハレやケガレの考えはいずれにもある。古い民謡の掛け声が古代ヘブル語で解読できそうだとか。「虎の巻」は「トーラー(ユダヤ教の戒律の巻物)」のことだったのでは とか・・・etc。
◆古代、日本には多くの帰化人が来てこの国の基礎をつくったことが言われている。中国を通れば、自然、日本には漢文で書かれていた経典が多数入っていたであろうから、どれが一番かなどを空海は「三教指帰」などに著したのだが、つまりそれが仏教でなくても仏教の経典の一種として読まれてきたことがあった訳だ。デアスポラ(離散)によるイスラエルの12部族の内の10部族は何処へ行ったのかは、日本までたどり着いていた、というのが僕の考えなのです。神社が何故、つくられていったのだろう。破壊されたとはいえ、エルサレムに神殿があったのではないか、確かに! その経緯と思われる記事が旧約聖書のヨシュア記22章10節~に書いてあります
◆ルベン族、ガド族、マナセの半部族はカナンの地にあるヨルダン川に来た時、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは大きくて遠くから見える祭壇であった(10節)。・・・これを聞いた他のイスラエル人は大いに怒り、彼らと戦をするために集まるのです。そこでルベン族、ガド族、マナセの半部族は次のように弁明する訳です。・・・イスラエル人はそれに満足し神を褒め称えたのであると。以降、神社はつくられていくようになる、その本来の意図から外れぬように・・・それが、その形式がこの日本では現在まで伝えられているのであると僕は考えるのです。ルベン族、ガド族、マナセの半部族はイスラエル人にこう理由を述べる。
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(24節)・・・事実、私たちがこのことをしたのは、次のことを恐れたからです。後になって、あなた方の子らが私たちの子らに次のように言うかもしれない思いました。『あなた方と、イスラエルの神、主との何の関係があるのか。・・・こうして、あなた方の子らが私たちの子らに主を恐れることをやめさせるかもしれません。・・・(26節)それでわたし達は言いました。「さあ、私たちは自分達のために、祭壇を築こう。・・・こうすれば、後になってあなた方の子らは私たちの子らに「あなた方は主の中に分け前を持っていない。」とは言わないであろう。』(28節)また、わたしたちは考えました。後になって、もし私たち、また私たちの子孫にそのようなことを言われたとしても、その時、私たちはこう言うことができる。『私たちの先祖が造った主の祭壇の型を見よ。これは全焼のいけにえのためでもなく、またほかのいけにえのためでもなく、これは、私たちとあなた方との間の証拠なのだ。』
◆この日本という国中に、その証拠が今も残り、その伝統が行われているということになる、と考えられるのです。「ミカド」とは、「カド(族)から」という意味なんだそうだ・・・。 Ω  

〔休息〕大寒波なのでちょっと息抜き、やっぱり共有欲は食べることだなぁ!

2018-01-27 10:50:39 | 日記
 関西、関東の方面で大雪でしたが、東北のこちらはそれほどでもと思っていたら、途端、天気予報の通りこちらも大寒波がいきなり訪れ、といっても僕の幼少の頃に比べるとまだ雪は少ないのですが、仕事で日中、ハードワークで疲れもたまり、躰も心も縮こまってしまいそうな日が続きました。それで、こういう時は、小難しいことも何なので人である生き物は、やはり食べることも楽しみの一つなので、僕のここ最近のキャンプ飯(メシ)をご紹介することにします(ちなみに、丁寧な料理などは当然しなくて言われるところの男料理です)
◆それで、これは屁理屈を付け足しなのですが、世界のベストセラーについて何で関係があるのかといいますと、とかく宗教関連の話となると地に足が着いていないような話になりやすいのですが、「人はパンのみにて生きるにあらず」と言われているとおり、人はパンで肉体を支えていることが基盤にあるからこその、「生きるにあらず」なのであって、これが心もとなく「神は~」などと言ってもどうなのよ!と言うことなのは、実は誰でもが言いたいことなのではあります。この辺もデリケートな問題がありますから、いずれ。
◆ここに掲載した写真は、僕の田舎の自然農法での野菜です。田んぼや畑は僕のとても敬愛する祖父の子孫の為にと残してくれたものだ。戦争で引き上げで零からの耕作で大層苦労したことは、昨年無くなったお袋がよく語ってくれたことだ。それで、僕の頭の中では、地に関すること(農業=食)と天に関すること(神様のこと)、それから今(仕事=肉体)と共有感覚(人との和)、そして世界というようなことがらが、どこかで繋がっていているのです。田舎の農地は、祖父の代から好意にしていただいている農家の方につくっていただいている。
 形はえらく不格好。自然農法で農薬は使ってない
 大根は大雑把に輪切りにして皮をむいて大鍋に入れて、カツオだしを少々入れてことこと煮て、甘いお味噌で頂きます。大根は中央部は甘く5mmくらいにスライスしてマヨかケチャップつけてパンサンドにしても旨いです。先端は辛みがありますから、おろしですね。
 白菜は、冷蔵庫に浅漬けの素がありましたので、簡単ですからこれにします。追いカツオの素(3倍濃縮1.8L)などを1本購入しておきますと何でも使えますからお勧めです。
◆お肉が食べたい時は野菜たっぷりにします。値段が安いそれなりのお肉は硬いなということはそれなりにということを理解。
 ブロッコリーとにんじんは茹でて、これは田舎の畑からのものではありませんが、躰にとてもいいので食べるようにしてます。インスタントラーメンは塩分に気をつけてます。以上の写真にご飯はつきます。あまった野菜は、リンゴ、みかん(皮ごと)、バナナなど一緒に牛乳(カルシウム、鉄と箱に書いてある)を少々入れてミキサーでジュースにして・・・結構、いろんな野菜を試せて、どんな味かは面白さの一つです。・・・ 今回はこの辺で 


世界のベストセラーを読む(475回目)カズオ・イシグロ、ノーベル文学賞と作家村上春樹について

2018-01-21 08:35:29 | 日記
 作家村上春樹さんのファンの方には再度、ごめんなさい、であるが、ノーベル文学賞次は村上春樹か、と騒がれパブあたりでその発表を待ち望んで居られた方々のニュースが流れていた頃、数年前から新聞のある記事を読み彼は貰えない、と思ったと偉そうな事をこのブログに書いた(466回目)。無論、この選択肢も時代が反映されるものであると思う。しかし、時が迫って来ている中、その方向性は、長い長い将来、大上段に構えれば人類の未来に向けたメッセージを要求し始めて来ているように思われる。時は縮まっている。そして、新しい人間の時代が真に始まるように思われるのです。人類の”暁”の時代です(こいう言い方もたいそうな物言いだが)
カズオ・イシグロがノーベル文学賞をもらった時、その受賞の思いの記事をこのブログにも書いたが、僕と同じように村上春樹のイスラエルでおこなったスピーチを思い出したという記事が地方紙に載った。地方にある劇団の方の記事(2018年1月8日)
◆村上春樹のスピーチが掲載されていたのでここにその記事の抜粋を掲載します。
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 先月、ノーベル賞受賞式でのカズオ・イシグロさんとサーロー節子さんのスピーチを聞きながら私はふと、2009年にイスラエルの文学賞「エルサレム賞」を受賞した村上春樹さんのスピーチを思い出した。
 「もし、硬くて高い壁と、そこにたたきつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ」。村上さんは、人は唯一無二の卵であり、高い壁はシステムだと言った。役者の仕事は、いろんな卵の声なき声に光を当て、舞台から届けることなのかもしれない。・・・ 
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◆村上春樹の言った、高い壁、とは何の事かと思われる方もいるかだが、今のその地にある壁のことですね。この記事を読んで、いいこと言うではないかという殆どの方は思うだろう。それで、ブログに掲載したカズオ・シグロの物書きになった原動力の思いを読み返して欲しいのです。イシグロ、村上、彼らの視点は、同じ歴史を過去と現在を歩んでいるその人々(ユダヤ人、イスラエル)についての過去の歴史と現在の場所を言っているのです。
◆僕なりに言わせて貰えればですが、ここに深い洞察が必要です。
 いきなり空をつかむような話に飛ぶことを許していただければ、天地万物の創造主、”人”という生き物を”自分の似姿”に創造された神の歴史から洞察すれば、”人の良心、命への感情”というものは、人類の歩みの中でつくられてきた(積み上げられてきた)感情なのですね。”人権”や”人格”や”人類”とか、”人の命”などという事柄を、人間自らが考えられるようになったのは、その歴史からみれば、まったく最近の事なのです。
◆僕は決して良いことだとは思わないが、ユダヤ人、彼らは戦っているのです(と書いても彼らの肩を持つつもりはない)。全人類に反旗を翻して、苛立ちを起こして。この地球の行く末は、この地球に住んでいる一人ひとりの日毎の普段の僕ら人間のありように掛かっている(これまた大層な言い方になったが)。そんなあたり前のようなことの自覚の促しが誰しもに起こり始めていることをこの新年に思わされているのです。・・・・


世界のベストセラーを読む(474回目)『自分の立つ軸足の強さを持とう』 作家 曽野綾子(産経新聞: 元旦 年頭にあたり) 

2018-01-20 22:17:20 | 日記
 掲題の表題は、元旦の産経”オピニオン”の「正論」という欄に掲載の作家曽野綾子の評論です。曽野綾子さんは女性に人気がありますね。母の葬儀に来た親族が列車の中で読んだのか、家に来て差し出されたのが産経新聞の「年頭にあたり」という記事の掲題の表題なる作家曽野綾子氏の記事だった。彼女(曽野綾子)はカトリックにも拘わらず正面切ってキリストを信じろとは言っていないというような話。それはそうだろうさと、佐古純一郎のような評論家はまだしも作家が正面切ってキリスト教の伝道をしようものなら、それは作家でなくなる。あくまでそのレールの外に立って、あるいは列車の窓から外を眺めることを示す程度で無ければ、売れなくなること請け合いだ。ちなみにノーベル文学賞をもらった大江健三郎の師である東大のフランス文学者渡辺一夫はキリスト者。だからなのか、大江の物語や本の題名は聖書的な事柄を暗示しているものが多い。
◆昨年来のこのブログで、パウロのかっこええ写真を掲載したものがあったが、その本は実は、パウロの旅を曾野綾子が司祭とカトリック神学者と一緒に巡る旅を著した書物の見開きの写真なのである。彼女は、司祭様と神学者をきちんとその専門性から崇拝されている言葉使いをされていた。
◆キリスト教はいいことやるにも拘わらず1%にも満たない、どうして広まらないのか・・・僕の前にそんな疑問が呈された。僕はこう返答した。「直接、周囲の人がどうのこうのではなく(まったくしがらみがなく・・・これは僕のブログの主旨でもあるのだが)自分の言葉が要求されるからではないでしょうかと」。相手は、おそらくなにを言われているのか分からなかっただろうけれど、仏教との比較を話しているらしいかった。まずは、その曽野綾子の記事というのは
◆*********「自分で立つ軸足の強さを持とう」***************(記事の中程を抜粋)
 ・・・今は「平和」が普通で、「不幸」や「貧困」が目立つ時代になった。一つには人々が寿命を受け入れなくなったからだ。人間はいつか死ぬのである。死ぬという執着点が確認できていない人には、どうしてあげていいかわからない。人生の多くの要素は自分で創るものなのである。・・・(メイン記事はここのところ)
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◆実は、「自分の足で立ちなさい」とは、イエスが、自分を著したその相手の人間に要求を促した事柄なのである。 人間はいつか死ぬのである、という言葉もそれはまさに、キリスト者だからの自覚なのである。キリスト者は、十字架というものが立っている建屋(教会)で毎週礼拝をしているのである。イエスの死と現在の今の自分の生を重ねているのである。パウロは、その手紙の中で語っている「私たちは日々、死んでいるのである。生きているのはもはや私ではない。」とまで言うのである・・・。聖餐式、これはイエスが「私の躰である」といわれ裂いて示したパンと流される血を象徴するブドウ液に預かる儀式なのだが、そこで司式者が唱えることばは、「再び来られるまで、彼(イエス)の死を告げ知らせるのである」というのである。毎週、キリスト者は彼(イエス)の死と自分は必然的に死ぬ者であることを自覚させられるのである。
◆曾野綾子は、最近「夫の後始末」という本を出された。人気がある理由は、女性で有りながらも、その生き物としてのしがらみを捨てきって要るように思われるからだ。女性の多くの不自由は実は自分の思い込みで、自分で束縛しているだけなのではないだろうか。重要なこと、それは彼女は若いころ修道女として訓練され、還俗された経験を持つ方なのであるということです。・・・・