marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(298回目)キリスト教会の改善に関してドイツのキリスト者貴族にあててⅠ(M・ルター)

2017-03-23 07:36:07 | プロテスタント
歴史において僕らはいかに学ぶかということに関して、今年は2017年 今から500年前の1517年10月31日、M・ルターがヴィッテンベルグの城教会の扉に掲示したといわれている贖宥(ショクユウ)(通称:免罪符)についての提題-95個条。(この掲示には異論を挟む学者さんもいるがそういうことにしておく) いずれ、この話題が短時間の内に各地に広がった。何に対してかはあえて詳しく書きませんが、時代が時代とはいえ、やはり神の導きによるものだったのだろうと考えざるを得ない。「神、我らの見方ならば誰が我らに敵せんや!」しかり・・・「われ、今ここに立つ」とルターさんは戦った。(感激だー!)
◆それにしてもだ!。我々の常識からしてもあまりに何というか聖遺物や聖体拝領など言葉にできないほどひどすぎた。たまたまyoutubeで昨日それらを見てしまったので具合が悪く(ちょと怖い物見たさも正直あったけど・・・)といっても今もその場所の方々は、うやうやしくそれらに頭を下げてお祈りしているのですからどうしたものだろうと。これほど、人々の日常生活から神のことばが隔絶されると、何かに追従、物体に隷属するものなのかは心理学の学問の対象にするのもおこがましいというものであると思ってしまう。
◆聖書に書いてあることは、確かに僕らの言葉で捕まえきれないところはあるけれど、どこ読んでも、あがめ奉る対象物が三次元的にそのままあるなんてことはどこ読んでも書いていない。むしろ禁止なのに。おまけに金まで取っているとは。遺体を切り刻んで、腐敗防止の薬づけで各教会に配ったのがこれとか、聖人は死んでも腐敗しないとかで当時の最先端の防腐剤で処理してガラスケースに安置・・・おい、どうなっているんだ と今以上にルターさんは、極めて理性的に怒った訳だ。ご遺体は当時以降の物であろうけれど、ルター時代には本当に読むと笑えるような聖遺物もある。
◆今、改めてルターの掲題の文章の中から抜粋を掲載します。もろに批判対象は書きません(少しふれてますけど)。ルターさんの対抗(プロテスト)すべく三つの城壁としての見解の抜粋です。
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◇第一、霊的階級や世俗階級などの解説は偽りである。誰も、怖じける必要はない。その根拠は、すべてのキリスト者は真に霊的階級に属し、職務のため以外には、彼らの間になんの区別も存在しないということである。パウロがコリント第一の手紙12章〔12節以下〕で「私たちはみなひとつのからだであるが、それぞれの肢体は、他の肢体に仕えるためにそれぞれ独自の働きをもっている」と言っているとおりである。
 私たちがひとつの洗礼、ひとつの福音、ひとつの信仰をもっており、みな同じキリスト者であるということはすべてに値する。なぜなら、洗礼と福音と信仰とのみが霊的にするし、キリスト者をつくるからである。しかし、教皇とか司祭(※僕にも知人がいるけどこれ当時の)とかが油を注ぎ、剃髪させ、叙品し、聖別し、平信徒と違った衣服を着せると、偽善者やでくのぼうをつくることはできようが、決してキリスト者、すなわち霊的な人間を作ることはできない、私たちはみな洗礼によって、祭司として聖別を受けているのである。(※万人祭司のことだな)〔第一ペテロ2:9、ヨハネ黙示5:10〕 
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◆人間とは弱いものです。時代は違えどです。だから、宗教による戦争も起こってきたのだろう。だからこそ、今も生きておられるイエスに従え、人にではなく自分の言葉でイエスと対話することだ。「耐えず祈れ」とはそういうことだろうと僕は考える。「主は霊である。そして、主の霊のあるところには自由がる。」(コリント第2の手紙3:17)のだから。・・・ 続く