marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(291回目)神のことばゆえ迫害を受けているすべての人に対する回状Ⅲ(M・ルター)

2017-03-16 20:21:04 | 聖書・聖句
 ルターの言葉は前回からの続きです。いついかなる時でも試練はある。悲観的に考えることはありません。鬱(うつ)傾向の症例を書き連ね、そのを肯定するようなことでは無論ありません。
 ルターは神学を研究するに必要なことがらに”試練”をあげておりました。肉体で生きる人生において、大小問わず様々な試練があります。
 「艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずる」というパウロの手紙の言葉を思いおこします。試練により、魂が耕された人は、信仰において強くなると思います。
 万物を創造し、その中で神の似姿に創造された人間、生きるも死もすべてのすべてにおいて包括している神の世界での人生は、その試練において、イエスの死には比べうるものではないが、そのこと故に私たちはむしろ、キリストの十字架の苦しみの少しでもその近づきとして迫害や試練は、むしろ大いに喜ぶという逆説が興ります。
 3月1日からレントに入りました。冬の寒さの厳しさに、イエスの十字架の道行きの苦しみを共にし、歩むという想像をし過ごします。そして2017年の今年は第三週に受難週を過ごし、そして春の訪れを感じながら復活祭を迎えます。それでは、昨日のルター掲題表題文章の続きです。
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 ペテロでさえもキリストを否定し、弟子たちはみなみもとから逃げてしまい、ユダが主を裏切って、とらえさせた、あのキリストの時ほどには、私たちの事態はまだそれほどひどくなっていません。たとえキリストの時ほどひどくなったとしても、だめになってしまうとうことはなく、わたしたちのキリストが朽ち果ててしまうということはありません。
 こうしたことや、こうした類いのことが起こるのは、共通の試練と吟味とが行われるためであって、その結果、それぞれの人にふさわしく、強い者は認められ、弱い者は強められ、認められた者は賞賛され、謝った信仰を持つ者は明らかにされ、敵や神のみことばを認識したり、保持したりする値打ちのないものはつまずかされ、かたくなににされるというようになることを、私は知っていますし、確信しているのです。〔・・・・・〕
 私たちは心をあげて神に感謝すべきです。神は気づかれて、聖なるみことばをまだお取り上げにならなず、あなたがたや他の人々にむしろ、みことばに対する倦むことのない霊と愛を賜ったからです。これこそ、彼らが人のゆえではなくみことばそのもののゆえに信じていることの証です。    (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p155)
      ****************************** (いつもながらアンダーラインは僕です。)・・・