marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(633回) (その5)第9章「神と実存」:人が神は絶対という時、腐敗が始まる

2020-02-28 15:34:03 | 日記

◆僕は、野呂神学にすべて賛成というわけではないのだが、この国でそして神学を自分の言葉で語ろうとする場合は、神学的には他の宗教も語らなくてはいけないというのが彼の後期の論である。僕はこれに大いに賛成なのだが、これも大いに反駁にあうだろう内容だ

どうしてこの国の宗教や歴史を調べ(まさにそれが隠された歴史だったと言われればそれまでなのだが)伝道しようとしないのだろう。毎年祝うクリスマスなどはその土地の冬至の日などは、キリスト誕生をその土地に定着させようとする努力でクリスマスになったのだとか、第一あのパウロがギリシャ人が「知られざる神に」とまで刻まれ道端に置かていた石を見て、「信仰深い皆さんに本当の神を知らせましょう」と頑張ったにも関わらず、この国においては旧約態然とした他の宗教を優先的に排他するのが正しいことだといわんばかりの牧師さんがいるのには、頭を抱える。何が事実であり、何を伝道するのか、時代は下り、哲学、心理学、社会学・・・あらゆる学問とそして、世界の実態が真の神を求め、かなり高い次元で「あくまで個人」の善(ここに真の神が求められてくるだろう)を求め続けなければかなり危うい時代になりつつあるのを感ずるのにも関わらず。(カミュはあの”ペスト”という小説の中で、この事態に何で対抗するのかという問いに、”誠実” であると主人公に言わせている)。そして、その中心には、やはりキリストの十字架があると感ぜざるを得ないにも関わらず、神大6年間くらいの知識から抜け出せないのでは・・・。数年前、「ユダの福音」(荒井献)という本が出されてましたね、というと、あれはキリスト教ではないと若い牧師に言われたことがあった。・・・おい、おい である。

◆前置きがながくなったが第9章の語るところはこうである人間が生きているリアリティーは「汝・我」の関係ばかりでなく他の次元、他の宗教についても神学は語ることができるし語るべきなのである。そうした自由によってさまざまな宗教を試した上で、なおもキリスト教が自分の中心にあるとすればそのような信仰こそ本物であると(p-339)。・・・これは真剣な自由の中で各自が実存的に格闘していくしかない問題でもあろうと。・・・神学者:野呂芳男「民衆の神 キリスト(実存論的神学)」、時代を経た論文集ではあるが今後も何度か読み返すだろう。

◆2020年日本キリスト教団出版、信徒が読む「信徒の友」2月号は「仏教の伝道」という特集であった。 ・・・・Ω 


世界のベストセラーを読む(632回) (その4)第8章「万有救済論」 輪廻転生について

2020-02-28 13:00:42 | 日記

◆僕は2010年亡くなられた野呂というキリスト教神学者がこの国にいたことにとても感銘している。「民衆の神である キリスト」が、欧米の神学によってあまりに知識偏重のエリート意識になり、民衆から離れてしまっているので、この国においては逆効果だろうと思わされる現状を思い、確かに尊いことなのだが、献身などをすると組織体に自分の進退をゆだねて自分の言葉で戦おうとしない人々がいることに対して、それはまさに自己逃避だけだろうと。個人としては組織というしがらみから抜け出さないといけないという意識を常に持たなくてはいけない。なぜなら、ネット社会で今は世界のあらゆる生きているキリストのメッセージを聴くことができるからなのである。旧約預言で今という時のメッセージを聴くこともできる。まさに、語る神は心する者には語り掛けたもう世界なのである。社会的経験も不足し、ただ、文字としての聖書を語り、しかも地位が保護的に守られるのが当然だと試練もはねのけ、それ「喜べ!」などと言っているのは、肝心のことから最も遠い存在になりさがていることに気が付かないといけない

◆「後期野呂問題」ということについて、先紹介した彼の神学集大成の本の後半第8章と第9章に書かれていること。といっても小難しいことではなく、神学者でなくともあぁ、それではやはり僕らのこの国の思う人が、同じように考えられている人が多くいるのではないかなぁと思わせられる内容だ。それは第8章「万有救済論」で、アジアの民衆宗教にながれる<輪廻転生>のへ共感である。(ここで、従来の?キリスト教界では反駁がくる)、これはインドのカースト制などのものとは無論ことなり、あらゆる存在が長い時を経る中で少しづつ神と深くかかわり合う存在に変えられていく過程としての輪廻転生という考えである。それはこの地球の上の時間に限る必要はないく、大宇宙の中の他の時間と空間であると考えても一向に差し支えないという。

◆僕は、宇宙大のことは分からないが、個人的体験として輪廻転生はあるだろうと思っている。聖書にはその片鱗がみられるし、僕にむしろこれが事実だからこそイエスの十字架はこの輪廻転生を遮断するものであったと信じているのである。イエスを今生で信じたものは、次の転生は天国のみであり、永遠の命なのだ。生まれ変わってこの壊れゆく地球の上を乗り移る肉体を求めうろうろすることはないのだ。輪廻転生が事実だからこそ、イエスは「生きていて私を信ずる者は死ぬことがない」と言われたのである。ここにイエスを信ずるすべてが掛かっていると言っても過言ではないと思う。・・・続く 

 


世界のベストセラーを読む(631回) (その3)実存論的神学「民衆の神 キリスト」(野呂芳男:著)を読む

2020-02-25 19:38:16 | 日記

◆実存主義とかは、僕らは1960年代 過去には哲学者キルケゴールが語り、サルトルやカミュなどが盛んに騒がれたころ、僕らの時代は、学生運動の下火のころだったから、といっても授業などもボイコットがあったし、警察が校内に入ったとかで学生が盛りだくさん取り囲み座り込んで大変な騒ぎになったこともあるし、フォークの時代、ヒッピーや、ベ平連などの、そういえば連合赤軍の浅間山荘事件などもあったな。・・・掲題の僕が呼んだ本は 2015年12月18日 第一刷発行(ぷねうま社)で内容はだいぶ、過去に書かれた論文をまとめたものだけれど、2000年以上も前の神の子と呼ばれた人のことを論じた神学論文は、内容は過去からの多くの神学者への考察を述べたものであるから非常に勉強になり面白い。それぞれがその時代時代において彼(イエス)をどう捉えたのか。今も生きているという彼を・・・

◆聖書を自分の言葉で読むということを目指してきているが、もともとの自分の言葉を持つということ事態が、不可能になりつつある時代なのだなぁ。彼(イエス)に会うには、朽ちていくからだを持つその叫びから喚び求めないとなかなか姿も現さない方となられたのか・・・決してそうではないのだが

◆東京への散歩で退任された牧師との会話で、「神の痛みの神学」北森嘉蔵 著について、先のブログに少しく書いたが、なんと野呂は恩師のその論文に1955年ユニオン神学校に「不受苦の神」という博士論文を提出して反論したのだった。よって、東京で会われた退任牧師先生は、この野呂の論文も読んでないといけないということ。いずれ僕は、実存論という言葉に引かれ、そののたうちまわるこの地上の不条理に(僕らは不条理な肉体を持ってうごめくが故に僕はそう考えるのだが)イエスは来られ、神の福音をのべて天に帰られたということ。それが大切だと、この地上に十字架が立ったのだということ。

◆実は「後期野呂問題」というのがあって、さまざまな神学者が格闘してきた論文を読んでも、これだけは誰も反駁するだろうな・・・と。しかし、僕はとても同感なのだった。それを次回書く。おそらくこの国においては、野呂と同じような神学経緯を経なければ民衆に受け入れられることはなかなか困難なのではないかと思われる。今の日本のプロテスタントキリスト教界は、体制的には中世のカトリシズムにのっとっている。その弱体化した組織体のしがらみに即して(逃避して、といってもいい)、自分の言葉で戦おうとしている姿は見られない。神学的深みもなく、それなりに尊いことされ、社会的試練にも揉まれなければ、実存的な言葉など出て来ようもないだろうと思う。まして、建屋に十字架を示すという「存在」としての意義はあろうが、組織体というしがらみに逃避しているので、つまりその範囲以外の考えは排除するから、野呂のような神学も排除することに疑問もいだかないということだ。これではキリスト教は広がる訳がない。・・・・続く 


世界のベストセラーを読む(630回) (その2)実存論的神学「民衆の神 キリスト」神学者:野呂芳男を読む

2020-02-25 11:32:06 | 日記

◆「生きることはキリスト、死もまた、益なり」と使徒パウロは手紙に書いた。<苦しみ、悩みも、またみ恵~♪ >などという讃美歌(これはパウロの手紙にある)もあるが、実に逆説的な内容で彼の手紙の内容は満ちている。僕ら一人ひとりの生き様は、確かに「我と汝」の関係になる「汝」キリストを、その時代、時代の神学者たちがその生き様の中でいかに捕えようとしたかの格闘の跡をその著作に読むことができる。それらの中に僕らは多くの「今生の存在意義」を知らされる。しかしなぜ、キリストなのか。その数は、古代から膨大なものである。キリスト教を知ろうとするときに、あまりに膨大な書店での本があるが、それはピンキリであるから、これも素人目には、逆に障害になっていることも考えられる。その中には悪魔の声も聞こえてくるものもあるから・・・。それで、人々はキリスト教会へと向かう気持ちがあったとしても、そのような膨大な著作と何がそれなのかが、結局のところ分からない。またとうのそれは第一分厚く一目読んでもチンプンカンプンなので、門をたたく以前でこれも行動に移すまでは実に心もとなく様々な抵抗に会うのである。

◆いざ、飛び込んで、たてられた方にそれはどのように理解したらよいのか、と質問しても自分の言葉として返答されんかった場合、つまり、「すべて神にお任せを」(これは神を理解した人には可能な言葉であるが)なんていうものだから、てんで心からの納得などできんわ、というのがほとんどのところだろうと思われる。実に心もとないとなる。世において試練にあって経験的にイエスの言葉を理解した人とは雲泥の差が生じてくる。それは、自分の身体で思考する(考える)ということが求められ、そういう経験がなければ(つまり人生を通して、人は試練に会わずに生きとおせるという人はいないのだから)、究極、「神よ、何故なんだ!」という叫びに行かなければ=本当の自分の言葉から彼にぶつからなければ、彼の十字架は理解されないであろうと。そうでなくても人は、必然的にこの地上から肉体において飛び去るのに、どうして人は、しっかりとした次の世界を考えないのだろうか。

◆実は答えは簡単なのである。彼は問うている「あなたは私を誰というか?」この答えを見つけることである。そこに答えがある。つまり、答えはあなたの中にあるのだ、と彼は言っているのある。ただ、それだけなのである。・・・しかし、多くはそれが見つけられない。(自分であるのに自分を知らない)。

◆福音記者ヨハネが、イエスのなした業(わざ)を書き留めるとすれば、この世では収めきれないであろうとまで、書いている。実のところ現在まで、それ(書き留めること)が続いているわけで、イエスが再臨されるというまで続けられることだろうということになる。中世的カトリシズムと言えば、僕は前に、シモーヌ・ヴェーユという女性哲学者もカトリックでなければ(プロテスタントであれば)、あのような考察はしなかったであろうと以前ブログに書いた。「神を待ち望む」、時代といえばそれまでなのだろうが、プロテスタントでは、待ち望むどころかもうすでに来られているのだという確信がある。(だから、悪魔も逃げ場がなくなりつつあると)。ただ、我らは目が曇っているいるためにその存在が認識しにくい。あの時代においても目で見ていてもひとりも理解した弟子はいなかった。むしろ、この地上で見るという限界があったゆえに。・・・いわく、こころの目で見なければ見えないものだ、ということになろうか。だから神学者は彼が来るまで思索し問う言葉をやめない。

◆パウロは、アジア州に伝道しようとしたときに、キリストの霊がそれを許さなかったという記事がある。それで彼は西に向かったのだが、それはなぜか? 地球の人の歴史の実から見れば、現代のあの膨大なユーラシア大陸での人の動きの方がものすごく古いのにも関わらずである。確かに、人の発生はアフリカだったとしても人という生き物の動きとしては、の話。その結果は、現代を見ればおおよそ理解されるのではないだろうか。優先的に言葉を発して世界を動かしているように発言するのは、欧米である。キリスト教化のされた欧米なのだ。言葉、ひとに与えられた言葉なのである。それは神の(人にとって善としてばかりでなく悪魔の粉飾かもしれないが)言葉なのである。

◆今や、古代から全世界に真の神の言葉の布石があったことが知らされ始めて来ているように思わされる。(僕の追及は東へ向かった部族たちである)。それは、僕らは今生を自分の肉体を通して思考していることの再認識である。その土台である肉体はいかなるものかも、解明されてきつつある。この現存する自分の肉体をとおして自分への言葉として思索する。それが実存である。僕ら「人」という生き物は誰ひとりこれから除外される者はいないのだ。・・・続く 


世界のベストセラーを読む(629回) (その1)アルベール・カミュ(Albert Camus)作品の神学的意味

2020-02-24 10:21:34 | 日記

 ◆のブログ紹介のカミュの作品に周知のとおり「ペスト」という作品があって、新型コロナウイルスが騒がれるとこの作品を再読してきた。特にバヌルー神父の箇所を注目してね・・・。と、同時に「民衆の神 キリスト」実存論的神学 完全版 (野呂芳男 著:ぷねうま舎)を 時折、読んできたが、その「序章 現代の状況と福音の理解」の中にカミュのことが紹介されている箇所があったので紹介したい。  *******************************

 私は、「近代後」の精神をもっともよく表現した人物の一人は、アルベール・カミュであったと思う。・・・彼の思想は不条理への反抗がその根底をなしている。カミュの不条理は、合理性の彼岸にあるものであって、・・・「近代後」の状況を露呈している。人間が質問しない訳にはいかないようにしておきながら、しかも、その質問に応えない宇宙というような、人のおかれている状況がカミュにとって不条理なのである。人間は宇宙によって失望させられている。「死」によって表現されている人間の「生」の不完全。また、悪によって表現されているそのまとまりの無さ、ーーーーこれに対して、人間は心の底から反抗しない訳にはいかない。彼は死ななければならない存在であることを承認することを拒絶し、また、このように多くの悪に満ちた生存を彼に送らせる力に対し、服従することを拒絶する。これこそ、反抗者の「生」である。これは単に、彼ひとりの反抗に留まらないのであって彼をこのように反抗させる彼の中にある人間性は、他の人々の中にも発見される。他の人々の失望に対しても、我々は連帯意識において反抗しない訳にはいかなにのである。この反抗において、カミュは自分と他者とを連結する存在的基盤を見いだしている。

「私は反抗するーーーそれ故にわれわれは存在する」(I rebel, therefore, we exist.)。カミュは確かに、反キリスト的である。ところが、カミュのキリスト教の理解は、主にローマ・カトリシズムからきているもののようである。ローマ・カトリシズムの神観は、言うまでもなく中世的であって客観的。世界観的に神を認識しようとの努力である。神を世界観的に認識する以上、そのような神の支配する世界には、究極的には、不条理には存在しない筈である。ところが不条理は厳然と存在するのであるから、もし、神が、この世界の究極的な支配者として世界観的に存在するのであるから、もし、神が、この世界の究極的な支配者として考えられるならば、殺神(deicide)こそ人間の義務である、とカミュは主張する。・・・わたしは、カミュの世界観的なキリスト教へのこの反逆に賛成する。 ( p-24)  ・・・以降考察は続いてますがここまで。

 ****************  ・・・・続く