先に述べた(その1)宗教的人間の仏教である南直哉(ミナミジキサイ)の本の数ページでも読まれると、禅問答のような内容が書かれて、自分は信ずるものなどないし使える師もないと・・・詰まるところ、内面の主観からの思考の重視であって、それに言葉の語りで自己肯定しているのであるから、やはり全てにおいて、僧という存在の場(職業)でしかそれらの”語り”をやるしかないのであろうなぁ、ということになる。
それは、幼少期の個人的体験であることが原因でもあり、究極、救いは自分のような疑問にとりつかれたものは、見本として同じように”語り”の言葉を学び自己肯定しつつ、人生を歩まねば心の安らぎはないのだ、ということを言っているようにも読める。ただ「無常」に心からの感化して自己省察をはじめ、その思いを言語化、文字化をして安寧を求めてきたと思わせられるからである。
つまり、他者の言葉ではなく、自分と存在せしめている何かとの対話、”語り”である。すべて宗教というものはそもそもそういうものだと言えるかもしれないけれど。
主観性から始まるのであるとは、フッサールの現象学である。
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(その2)のキリスト教『超越と認識』からみれば、実はこちらは聖書は『神の言葉のみ』という単純さはあるが、『幼子のように信じなければ神の国に入るのは難しい』と言われたイエスの言葉があるとおり、成人してからの言わんとする信仰を持つのは、更に大きな壁があると思われる。そもそも創造された人自体が不完全な欠陥(罪)を持っているので、聖書の書かれた言葉の意味合いの理解は、考え深い人ほど高い壁となるようだ。
単純に分かりやすくしすぎ訳を作ってしまっている異端集団もあるけれど、実に大きな間違いをしている。・・・(これはまた、いずれ。)
従って、福音というものが語られて以降の人世界には、哲学というあらゆることを考え尽くし言語化するという行為が、その後の西欧で盛んとなるのだが、ここで使徒パウロが、当時の哲学の盛んなマケドニア(ギリシャ)に神の霊に導かれたと書かれているのは、今となればこれもやはり神の摂理だろうと思わざるを得ない。(使徒言行録)
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新約聖書はギリシャ語で書かれたのであった。その文字が今でも物理定数に使用されるのは、さすがに哲学発祥の地に生まれた言葉や文字であると感銘するところがある。文字によって形而上の言わんとすることを著す言葉でもあったから。言語学者を悩ませる聖書の意味の曖昧な部分はそのことを著しているようにも思える。
神学者を目指した『存在と時間』のハイデッカーもドイツ語をギリシャ語に習ってか、語ろうとするニュアンスを文字を変じて意味を著そうとしていると思われることが多々見られる。(これはボケ防止に読んで居ると以前のブログのこと、つづきはこれもいつか・・・)
だから、『超越と実存』とこの仏教者が語る際に『言葉は謎である』ことを書いているのである。内省を深めると同じ種とする人であるから、そもそもその当事者のその人(自己)はどうなのか?という事を言語化し、突き詰めていくと、西欧の哲学者、フッサールやハイデッカーの考え突き詰め言語化したと同じような内容が書かれて出てくる訳だ。
師もいらず、信ずるものなどなく、今後も信ずることはないだろうとこの仏教者がいうのは、そういう先んずる対象など信じもしないとなれば、結局、自己との語りを各自が行ってほしいということの勧めなのであろうということになる。
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さて、人が言語化するには言語の謎も著者は語るが、してみればやはり、それがいわゆる人の認識(脳を使っての言語化)なのだから『超越と認識』というキリスト教神学が、あらゆる人の言葉のでの言語化は『認識』に関わるのだから、人間学を含め(人そのものを哲学対象として突きつけて言語化する哲学)に優位があると言わざるを得ない。
神の言葉はイエス以来、次元をずっと下げて語り伝えられてきた。神に対するわれわれの態度は如何にあるべきか、と今のアメリカを思う。キリスト教の神は、創造以来、生きて、動いて、働いていると言われる。歴史を動かしつつある中での真摯な姿勢での聖書解釈であるべきだ。それは、律法的にではない、律法を完成させるために私は来たと言われた深いイエスの言葉を今一度考えないといけない。
『文字は人を殺し、霊は人を生かす』・・・これは使徒パウロの言葉である。
イエスがこのようなことを言っている。
『だから、言っておくがあなたたちから取り上げられ、それに相応しい実を結ぶ民族に与えられる。』(マタイ21:43)
・・・僕はこの民族は、この国のことであろうと思わざるを得なくなった。・・・