marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(287回目) 肉と霊について (M・ルター)

2017-03-12 21:37:49 | 日記
 前回までのイエスの言われた地上での霊について、その触り(先の「幽霊」あるいは行き場のない「浮遊する霊」など)を考えて見るとイエスが言われた上からの「聖なる霊」(聖霊)ということも実態の感覚のようなこととして理解されてくるように思われてきます。
◆聖書を読むとき、特に新約、イエスが地上に神から送られその内実(真実)を語られ述べられたからには、僕らは、命の言葉(イエスのことば)を自分の言葉で読むことにおいて、その視点を、常に自己の内面の霊とキリストの上からの聖霊の関わりから意識してでも読んでみようとされてはどうだろうか。これは僕だけのことかもしれないが、そのとき思うに、自分のこの不条理な肉体はなぜきちんとしていないのだろう、ゆがみや漏れがあるように何とはなく思わされてくるのは何なのだろうと考えさせられることです。(完全や”きよめ”を目指せと言うのはこの辺のことかなと・・・)いずれ今は答えが出ないが、肉と霊について、ルターの文章から読み取って見ます。
     ******************************
 肉と霊とをここであなたは、肉とは貞潔でないことにかかわるもののみを指し、霊とは心の中の内的なことにかかわるものをいうという具合に理解してはならない。むしろ、キリストがヨハネ福音書第三章(6節)で、肉から生まれるすべてをさしておらえるように、パウロにおいては肉は、からだと魂、理性と全感覚をそなえた人間全体のことである。だから、人間にあってはすべてが肉を追い求めている。それ故、恵みなしで、高度の霊的な事柄について多く夢想し、教え、しゃべくりまくっている連中をも、あなたは肉的と呼ぶようにならなくてはならない。このことは、ガラテヤ書第五章〔19節以下〕にある肉の働きから十分学びうることであるが、そこではパウロは異端や憎しみをも肉の働きと呼んでいる。また、ローマ書第八章(3節)では、肉によって律法が弱められているとパウロは言っているが、それは貞潔でないことについて言われているのではなく、すべての罪について、それも特に、もっとも霊的な悪である不信仰についていわれているのである。
 逆にもっとも外的な行いをしている人でも、例えば、弟子の足を洗ったキリストとか、舟をこいで漁をしたペテロとかのようにこれを霊的と呼べる。つまり内的にも外的にも、肉の役にたつこと、この世の生活に役立つことをめぐって生き、行為する人間は肉なのであり、内的にも外的にも、霊に役立つこと、来るべき生に役立つことをめぐって生き、行為する人間は霊なのである。これらの語のこのような理解なしには聖パウロの手紙であろうと、聖書のどの書であろうとあなたは決して理解することはなかろう。だから、だれであろうと、ヒエロニムス。アウグスティヌス、アンブロシウス、オリゲネスなどであろうと、これらの語を違った具合に用いるすべての教師には注意するがよい。 (『ローマ書序文』DB7・2-12)
     ****************************** ・・・ Ω