marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(307回目) ひとつひとつの教会 Ⅲ(M・ルター)

2017-03-31 18:14:50 | プロテスタント
 命に関わる心の問題は他人にその命のことばの解釈を任せてしまっては行けないと言うことです。よく考えると僕らも面倒くさいと(それは何故かと考える必要があるけれども)、特にいのちの言葉に関しては、それは自分のことだから、相手がいくら権威があり、組織だっているとはいえ、しっかりと自分の言葉をもつ努力をしないといけないと言われているように思われてくる。
◆特に宗教制などについて仕組みができあがってくると、いわゆる組織に乗っかってしまっていれば楽だから、精神的にも肉体的にも、なにが神の目から正しいかは直接に語ろうと自分の言葉を模索するときに、自然に湧き上がってくるようなことが実際あるものなのである。いつも喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ! 
 ルター-の昨日の文の続きを読んでみましょう。

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 第三の言葉は、パウロのテサロニケ第一の手紙第5章〔21節〕である。「すべてのものを識別して、よいものをまもりなさい」とある。見よ。
パウロはどんな教えであれ、聞いている会衆によって、識別され、よいと認められないかぎり守られる必要がないとしている。識別するということは、教師のことがらではなくて、それを人々が識別しなくてはならないのである。〔・・・・・〕

 結論を言おう。福音をもつキリスト教会があるところでは、いまの司教たちや修道院長などがしている悪を避け、これから逃れ、これを廃止遠ざかる権利と力とをもつばかりではなく、キリストが洗礼において与えたもうた義務に従って、魂の救いのためにそうする義務があるのである。第二にキリスト教会は、神のことばなしにあるべきでないし、あることもできないから、先に述べたことからして十分強力に教会はみことばを伝える教師、説教者を持たねばならない、という結論が出てくる。〔・・・・・〕私たちは聖書に従って実を処しふさわしいと思える者、神がさとりをもって照らし、さらに賜物をもって装いたもうた人々を私たちのあいだから召しだし、立てねばならない。

                      (『教えを判断し、教師を招聘し、任免する権利と力』11・408-412)
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          (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p109)・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(306回目) ひとつひとつの教会 Ⅱ(M・ルター)

2017-03-30 21:53:29 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 ヴィッテンベルグで文学修士、神学修士、同地の神学正教授であるマルチン・ルターが、すべてのしがらみから吹っ切れさせ真の自由を与える神のことばをひとりひとりのものにとのぶっちぎりで言い切っている次のような文章は、本当に気持ちが良い。昨日の続きです。

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 第二に、教えを判断し、教師や牧師を任免し、罷免するというような事柄に関しては、人は決して人間の掟や法やしきたりや慣習や習慣などを気にかけてはならない。教皇や皇帝、諸侯や司教の定めたものにせよ、世界の半分や全体が守ってきたものにせよ、一年あるいは1000年保たれてきたものにせよ、どうでもよいことである。なぜなら、人間の魂は永遠のものであって、時間的なすべてのものにまさるからである。それ故、魂は永遠のみことばによってのみ治められ、とらえられていなくてはならない。神の御前における良心を人間の法や長いあいだの習慣で治めるということは、まったく恥ずべきことである。この点に関しては、聖書と神のことばにしたがって事を進めなくてはならない。魂を治めるというときには、神のことばと人間の教えとは決して一致しえない。互いに相争うだけである。〔・・・・・〕
 ところでキリストはただちに逆のことをなさる。つまり、教えを判断する権利と権力双方を、司教や学者や公会議から奪って、これをだれでもに、普通の、すべてのキリスト者に与えたもう。ヨハネ福音書第10章に「私の羊は私の声を知っている」〔27節〕とか、「私の羊はほかの人の声に従わず、それから逃げる。その声を知らないからである」〔5節〕とか、「どれほど多くの者がきても、彼らは盗人であり人殺しである。羊は彼らに聞き従わなかった」〔8節〕などとキリストが言っておられるとおりである。
 これで、教えを判断する権利が誰のものか、いよいよはっきりわかるであろう。司教や教皇や学者や誰でもが、教える力を持っているが、羊は、それらの人がキリストの声を教えているか、他の声を教えているか判断すべきなのである。〔・・・・・〕だから司教や公会議には、欲するままの決定をさせてよい。しかし、私たちは神のことばを私たちの側に持っているのだから、彼らによらず、おのれ自ら正しいか正しくないか判断し、彼らこそ譲歩し私たちのことばに聞くべきである。〔・・・・・〕
 キリストはマタイ福音書第7章〔15節〕で「偽りの預言者を警戒しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は恐ろしい狼である」と言っておられる。見よ、キリストはここで判断を預言者や教師にお委ねにならず、生徒や羊に委ねられる。

                             (『教えを判断し、教師を招聘し、任免する権利と力』11・408-412)
 
****************************************** ・・・続きます。・・・
 
 
 

世界のベストセラーを読む(305回目) ひとつひとつの教会 (M・ルター)

2017-03-29 19:34:08 | プロテスタント
 何度でも書きますが、決してイエスという方は、そちらの列車に乗ってしまっただけの方(信者さんのこと)ではないことを覚えていただきたいと思います。むしろ私たち初めての人が、この国でキリスト教と聞いたときに何か胡散臭いように感じてしまうそのことはなぜか、それはどこからくるか、を考えて少し自分の言葉で格闘して欲しいと思っているのです。
◆キリストがカンテラ(ランタン:灯火)をもって扉をノックしている絵があるのです。その絵の要(かなめ)は外側にノブ(扉を開く取っ手)がないところ。そう、内側から開かないと(つまり自分から開かないと)イエスを迎え入れることができないとうことを暗示している絵なのです。人から強制的に開けろといわれる扉ではないことは納得されるでしょう。どうぞ、世界のベストセラーをあなたもお読みください。
◆私たちの本来の自由な姿になるまでは、歴史を通して政教分離に至るまで長い戦いがあった訳です。ローマ・カトリック教会の権力が、西洋社会の最大の政治権力の最大のものでしたから、その壁を崩したルターの言葉は確実に今にも通ずる礎を作っています。
 それでは、キリストの教会ということについて、続けて彼の文章を読んでみましょう。

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 第一に必要なことは、キリスト教の教会はどこにあり、どのようなものであるかを知ることである。それは、キリスト教会という名の下に人々が人間的に事を処理することがないためである。そこで人は、キリスト教会が、純粋な福音が説かれるところに存在すると、確実に認識すべきである。〔・・・・・〕このことについて私たちは神の確かな約束を持っている。すなわち、イザヤ書第55章〔10節以下〕に、「私の口からでる私のことばは、空しく私に戻ってくることはない。雨が天から地に降って、地を実り豊かなものとするように、私がことばを送るなら、そのことばもまたすべてのことをなしとげる(と神は言われる)」とあるとおりである。それゆえ、福音が説かれるところでは、キリスト者がいかほど少なく、また、いかほど罪があり、欠陥があっても、そのキリスト者が存在しないということはありえないと、私たちは確信する。同様に、福音が説かれないで、人間の教えが支配しているところでは、キリスト者がどれほど多く、また、いかほど聖く、立派に生活していても、キリスト者だけで、異教徒が少しもいないということはありえないと確信する。〔・・・・・〕続きます。 
                         (『教えを判断し、教師を招聘し、任免する権利と力』11・408-412)

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                 (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p107)・・・         

世界のベストセラーを読む(304回目) 我らの国籍は天に在り (ピリピ書 第3章20節)

2017-03-29 18:51:55 | 日記
 今回は脱線します。
 4月は移動の時期です。会社の移動の時期、わたしの仕事の隣席の方が、歳は僕より若いのですが移動となりました。
 東京方面の自宅の方に戻られ、そこから通うとのこと。
 彼のおばさんがシスターで修道院に二十歳頃献身されて入られたそうです。鎌倉の大船にあるとか。
 彼の家族はそのためもあってカトリックの信者になられたのだそうですが、彼だけがそうではないと。
 そいういうことで抵抗もなかった為か、僕の通っている教会の礼拝 に一度参席していただいたことがありました。
 3年間という短い期間ではありました。
 彼は体は大きいが丈夫ではないようでした。
 家に戻られてから開けてくださいと彼に送別の記念としてDVDを差し上げました。  
 大統領になるまえのトランプさんのような役をジャック・ニコルソンが演じています。(どうぞ皆さんもごらんください)

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  ○○ さん

    短期間でしたが、教会の礼拝に一度参席していただきありがとうございました。
   DVDを記念として贈ります。家族の方とご覧ください。
   健康に留意されてお過ごしください。
   おばさんに会う機会がりましたらよろしくおつたえください。

   ”我らの国籍は天にあり (ピリピ人への手紙 第3章20節)”

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  (※文語訳でピリピ書第3章20節です)

世界のベストセラーを読む(303回目)キリスト教会の一致(教会のかしらについて) Ⅲ (M・ルター)

2017-03-28 18:56:32 | プロテスタント
 すべてのしがらみから解放されて命のことばをひとりひとりのものに! すべてのしがらみとは、行き着くところ自分自身も入るのではないか・・・と言おうとされているのが次のイエスのことばのようで、僕はこの言葉をそのように受け取ったとき僕の中のキリスト教的に言えば肉のしがらみという障害から吹っ切れた思いにさせられたのです。
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「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。(ヨハネによる福音書12:25)
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◆ひとりひとりがイエスの言葉を自分の言葉で聞く。我々はとても弱いから、ある組織や決まり事に依存して満足してしまいやすい生き物です。そのために、また、しきたりができて、教派の分裂や争いが起こったりするのです。それでは、命のことばは我々に知らしめられねば良かったのだろうか。この国のように! しかし、世界ニュースに上がらずともこの国でも同じような争いはあったのだから。
◆漫然とした心情の中でみんな仲良く漂うだけでいいのだろうか。”そうではない”と言えます。命のことばは我々に委ねられて、自らの足で生活の場を立ち上げ、天になるごとく地にもなさせ給えと多くの者が神と格闘(無論、意識せずとも)を行ってきて、これほど豊かになったのだと僕は考えているのです。だからこそ、それを維持し続けるためにも僕らは戦い続けねばならないのです。
◆そこで、掲題文章の最後、ルターの文章を読んでみましょう。ここには、やはり、イエスの前にはひとりひとりが自ら立たねばならないことが述べられています。宗教改革から500年、本当にM・ルターが述べているこの神髄は揺らぐ事はありません。前回からの続きです。
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 さて、キリスト教会のかしらについて見てみよう。上述(前回まで)のことから結論されるのは、第一のキリスト教会が唯一の真実の教会であって、地上においてはかしらを持ち得ず、司教であろうと教皇であろうと、地上においてはだれによっても支配されえないことである。ここでは天にあるキリストのみがかしらなのであって、主のみが支配したまう。人間は自分で知りも、認識もしていないことをどのようにして支配できるだろうか。だれが真実に信じており、誰が信じていないなどということをわかるのだろうか。〔・・・・〕さらに、この教会においてはキリストはひとりの代理者もお持ちになることはない。〔・・・・〕
 この〔真の〕教会がこの世のどこにあるかを外的に認めうるようなしるしは、洗礼であり、聖餐であり、福音であって、ローマとか、こことか、かしことかの場所ではない。なぜなら、洗礼と福音のあるところには、たとえゆりかごの中に赤ん坊だけしかいなくても、そこに聖徒がいるということをだれも疑うべきではないからである。ローマとか教皇の権力とかはキリスト教会のしるしではない。なぜなら、洗礼や福音はキリスト者をつくるが、そのような権力はキリスト者をつくりはしないからである。従って、教皇の権力は真のキリスト教会の一部をなすのでなく、人間的な秩序にすぎない。〔・・・・〕キリストは、信仰のある者も悪しき者も、天使も悪魔も、乙女も売女も、すべてのものの主であるが、しかし霊において集められた敬虔で、かつ、信仰のあついキリスト者以外のもののかしらではない。   (『ローマの教皇制』6・292-302 ) 
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                          (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p106)・・・ Ω