marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(306回目) ひとつひとつの教会 Ⅱ(M・ルター)

2017-03-30 21:53:29 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 ヴィッテンベルグで文学修士、神学修士、同地の神学正教授であるマルチン・ルターが、すべてのしがらみから吹っ切れさせ真の自由を与える神のことばをひとりひとりのものにとのぶっちぎりで言い切っている次のような文章は、本当に気持ちが良い。昨日の続きです。

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 第二に、教えを判断し、教師や牧師を任免し、罷免するというような事柄に関しては、人は決して人間の掟や法やしきたりや慣習や習慣などを気にかけてはならない。教皇や皇帝、諸侯や司教の定めたものにせよ、世界の半分や全体が守ってきたものにせよ、一年あるいは1000年保たれてきたものにせよ、どうでもよいことである。なぜなら、人間の魂は永遠のものであって、時間的なすべてのものにまさるからである。それ故、魂は永遠のみことばによってのみ治められ、とらえられていなくてはならない。神の御前における良心を人間の法や長いあいだの習慣で治めるということは、まったく恥ずべきことである。この点に関しては、聖書と神のことばにしたがって事を進めなくてはならない。魂を治めるというときには、神のことばと人間の教えとは決して一致しえない。互いに相争うだけである。〔・・・・・〕
 ところでキリストはただちに逆のことをなさる。つまり、教えを判断する権利と権力双方を、司教や学者や公会議から奪って、これをだれでもに、普通の、すべてのキリスト者に与えたもう。ヨハネ福音書第10章に「私の羊は私の声を知っている」〔27節〕とか、「私の羊はほかの人の声に従わず、それから逃げる。その声を知らないからである」〔5節〕とか、「どれほど多くの者がきても、彼らは盗人であり人殺しである。羊は彼らに聞き従わなかった」〔8節〕などとキリストが言っておられるとおりである。
 これで、教えを判断する権利が誰のものか、いよいよはっきりわかるであろう。司教や教皇や学者や誰でもが、教える力を持っているが、羊は、それらの人がキリストの声を教えているか、他の声を教えているか判断すべきなのである。〔・・・・・〕だから司教や公会議には、欲するままの決定をさせてよい。しかし、私たちは神のことばを私たちの側に持っているのだから、彼らによらず、おのれ自ら正しいか正しくないか判断し、彼らこそ譲歩し私たちのことばに聞くべきである。〔・・・・・〕
 キリストはマタイ福音書第7章〔15節〕で「偽りの預言者を警戒しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は恐ろしい狼である」と言っておられる。見よ、キリストはここで判断を預言者や教師にお委ねにならず、生徒や羊に委ねられる。

                             (『教えを判断し、教師を招聘し、任免する権利と力』11・408-412)
 
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