marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(279回目)福音書において何を求め期待すべきかⅠ  (M・ルター)

2017-03-04 08:41:27 | プロテスタント
 宗教改革から500年、時代的制約があるとはいうもののルターの語る内容は、聖書の内容であるが故にというかまったく古くない。そして、親身になり聖書を読む事との勧めと導きを語っています。むしろ、限界は今(ルターにすればいつの時代もと言えるか)あまりにも雑音が堆積してしまった読む側の僕らの困難さにあるように思われてくる。当時からそのような状況が生じていたことに対するルターの解説書に振り回されることなく真に聖書の語ることを自分のことばで聴きなさいという勧めなのですね。ルター自身が当時からそう語っている、だからこの文を書いたのだと語っているのです。不思議に教えられることがたくさんあるように思われる。
◆岩波文庫の石原謙訳の「キリスト者の自由/聖書への序言」は、学者さんらしく難しい訳です。今回の表題はその中の「新約聖書への序言(1522年)」という表題の中に書かれている内容で(p55)、読みやすい徳善義和(日本ルーテル神学大学の先生)の平凡社からの世界の思想家ルターから同じ箇所の中からの抜粋を書きます。
◆「すべてのしがらみから解放されて永遠の命を与える神の言葉をひとりひとりのものに!」僕がブログを始めようとしたきっかけ、自己紹介に記載した内容にやはりぴったし。だから、ここから始めなければならないと思います。原点に帰るために。それでは・・・
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 福音書はただひとつだけであって、それが多くの使徒たちによって書かれたのだということを知らなければならない。パウロやペテロのどの手紙にしても、ルカの使徒行伝にしてもキリストのみわざとことばのすべてを物語ってはおらず、あるものは他のものに比べて短かったり、範囲が狭かったりはするが、伝えているのは同一の福音である。四大福音書にしてからが、どれ一つとして、キリストのおことばとみわざのすべてを含むものはない。これはまた、必要なことでもない。〔・・・・・〕
 福音はキリストについての報知であって、彼が神の子であり、私たちのために人間となり、死に、甦り、すべてのものを支配する主と定められたということを伝えるのである。パウロはその手紙の中に多くのものを取り入れ、これを十分に説明している。四福音書に書かれているような奇跡や旅行にはまったくふれていないが、福音全体を十分かつ豊かに含んでいる。これは、ローマ人への手紙の始めにある挨拶の中に、明瞭かつ的確に見られる。そこでは彼は福音とは何かを語っているが、こう書かれている。「イエス・キリストの僕、神の福音のために召され、定められて使徒となったパウロが---この福音は、神が預言者たちにより聖書の中であらかじめ、み子み関して約束されたものである。みこは肉によればダビデの子孫から生まれ、聖化の霊によれば、死人からの復活により力をもって神のみ子と定められた。この方こそ私たちの主、イエス・キリストである」と。(ローマ 1;1-4)
 ここであなたは、福音が、死に、甦って主と定められた神の子、ダビデの子キリストについての歴史であることを見る。これこそが福音の全容である。キリストがひとりしかおられないように、福音もひとつであり、ひとつしかありえない。それぞれの仕方でではあるが、パウロもペテロもキリスト以外のものを教えないのだから、彼らの手紙も福音以外のものではありえない。いや、このことは預言者についても当てはまる。パウロが先の箇所で言っているとおり、また、誰でも知っているとおり、彼らは福音を伝え、キリストについて語ったのだから、キリストについて語っているところでは、彼らの教えは真の、純粋の正しい福音以外のものではない。ルカやマタイが書いたものとその点では異なるところはない。例えば、イザヤ書53章で、彼が私たちのために死に、私たちの罪を負われたと言われているのは、まさに純粋の福音である。私は真実を言おう、福音のこの理解を把握しない人は、決して聖書への光を得ることがなく、正しい根拠を獲得することがない、と。 ・・・続く
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