marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(289回目)神のことばゆえ迫害を受けているすべての人に対する回状Ⅰ(M・ルター)

2017-03-14 19:36:15 | プロテスタント
 神のことばをひとりひとりのものに・・・。今年は宗教改革から500年ということで、ルターさんを読んでいますが、時代的制約はもちろんいろいろありますが、やはりすごいですねぇ。神学大学の先生でもありましたし、当然、古代教父からの神学書、哲学の部類は網羅されていましたし、体をなげうって修練をして、時代と戦い、ために神学を学ぶに必要なこととして”試練”ということもあげてありましたら・・・、そのような中で万人に神のことばを伝えんとした優しさのようなものがひしひしと伝わってくる。これは、日本ルーテル神学大学の先生でした徳善義和先生の訳もいいのでしょうけれど。しばし読み、感激に浸る・・・。さて、
◆前回、「霊と肉」のことについて書きました。最近のニュースは、今まで常識では考えられないようなニュースがあります。政治学者の姜尚中(カンサンジュン)の「悪の力」ではないが、人が苦しむのが見たかったと薬物を飲ませた女学生がいたり、知能身体不自由者はいらないと施設に乗り込み殺人事件を起こしたりなど、どうして考えにくい恐ろしいことが起こるのか・・・。
 肉なる自分という基が自分の選択にない(脱ぎ出したいが脱げない)ものであるならば、真に早く、キリストを信ぜよ! 分かってからなどということ自体がそもそも理解することば自体が自分には無いのだから諦めて、イエスのことばをそのまままずはその通りと理解する(人目など無視して)。それで、霊の話なので生身の人間に悪霊が入り込み悲惨な事件、事故を起こし・・・と、震災で亡くなった方の霊のことを思いながら、命に敵対する悪霊のことも書こうとしたが、ミイラとりがミイラになりそうなのでこの辺でやめとく。それで、何はともあれ
第一にキリストを信ずることはそのようなことからも守れられているということである。前置き長くなりました。掲題のルターの言葉を聞きましょう。
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  罪を犯したのであろうと、よいことをしたのであろうと、なんであれ、ひるまず、恐れずにいようではありませんか。なぜなら、よいことをしたとてそれに頼らないように、罪を犯してもひるむことはないからです。私たちの信仰が、善行や罪以上のものであることを、わたしたちは神に感謝しましょう。なぜなら、すべての憐みの父である神が木製のキリストでなく、生けるキリストを私たちに与えて、信じるようにしてくださったからです。このキリストこそは、罪と聖さとの主であって、たとえ私たちがいつでも千や二千の罪に落ちても、わたしたちをたて、保ちたまいます。このことに関して私にはなんの疑いもありません。サタンがもっと高度に、もっと悪どく試みてもキリストを神の右手から引きずりおろすというような攻撃をしないかぎりわたしたちをくたびれさせることはないでしょう。キリストがかしこに座しつづけたもうので、私たちも罪や死や悪魔やすべてのものに対して主であり、君侯でありつづけるのです。そんなものはなんでもありません。・・・続く。 (『神のことばゆえに迫害を受けているすべての人に対する回状』10の2・56-59)
                   (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p154)  
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(僕のコメント:当時、ルターがキリストのことばをを持って戦った相手が今や光の衣をまとって姿を変えている。人の良心とか見た目ではないこと、あくまで真実のキリストをみることである。心すべし) ・・・