marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(566回) 『私は先に行ってガリラヤで待っている』、そこは何処なのだろうか

2019-06-28 10:21:11 | 日記

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  イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1:14b-15)

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 「わたしは復活した後、あなたがたよりも先にガリラヤへ行く。」(マルコ14:28)とイエスは弟子たちに言われた。

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  若者(天使)は言った。驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。

 ・・・さあ、行って弟子達とペテロに告げなさい。「あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と。

 (マルコ16:6-7)・・・さて、ガリラヤとはいったいどこなのだろうか。それは無論、異邦人の僕らにとっては地理的にあるガリラヤ湖のことではないだろう。

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◆宗教オタクの偏狭な信者なのかと思われてもそれは違うと申しましょう。多くの人は、そう表明する人の背後にある集団、宗派とか、伝統、しきたり、それに一応神様のこと  

 が言われているのだから当たらず触らず非難もしないことにしましょうとか、そもそも良いことをされているらしいからこちらから批判することでもないでしょうからと思っ

 て居る方が殆どであろうと思われるから。しかし、低い次元ではあるが故にまずは不完全なこの地上の人の言葉や文字を借用して、伝えていくしかすべはないであろうと思わ

 れるから伝道者はそれを絶えず行う。地上に生ける人の限界であるけれども・・・。しかし、

◆神の言葉というのはそれらのこの地上のあらゆる”しがらみ”からも解放されて、まったく自由に上からのみ(つまりこの地上の三次元的な言葉ではなく)全く異なった次元か

 ら個々人に降りてくる(命としては降りている)ものなのである。しかし、あまりに一面的な長い伝統やらその歴史に積もり積もって汚れがつきすぎた。僕らは、自分自身の

 肉体をも目に見える実体としては捨てていずれ次の世界に行く。僕はその身体それをも”しがらみ”(正確には生き物としてのDNAの欠陥を誰しもが引きずって真の自己と神と

 の会話を眠らせているまとわりついた滓のようなもの。そして、それは誰でもがこれがないとはいえない、あくまで負のもの)と呼んでいるものなのだ。2019年、読む者も

 語る者も、あまりのその”しがらみ”に気づかず彼イエスの言葉を良く解釈をしようとし始める

◆しかし、待ってくれなのである。その良く解釈しようとする、そのことの判断がすでに”しがらみ”にまとわりつかれたものではないのか、と僕は抵抗する。

 新訳聖書の中の一つの言葉、例えば記事の中の土地、時代などに、更に話す者、聞く者、その先理解などに、イエスの言葉に実に多くのメタファー(暗示)がされる。それ 

 は、重奏的で、天上界から黄泉の国まで、時間的には天地創造から、この地球の終末までからの「ことば」が発せらている。

◆イエスが伝道を始めたのはガリラヤであった。かの地にはガリラヤ湖がある。復活したその朝、ふたりの弟子は若者に告げられる。ここにはおられない。かねて言われたとお

 り、先にガリラヤに行かれている。そこでお会い出来るであろうと。今、聖書のこの言葉を聞いた僕らのガリラヤとはどこなのか。そこで、僕らは復活したイエスの言葉を聞

 くために再びガリラヤで始められた新訳聖書の彼の言葉を読み始めるのです。僕らが命があり、自分の言葉で意識してイエスの言葉を確認できる「今」と言う時、そこにイエ

 スは復活して語られているのだということになるのです。その場、その時が若者(天使)が言った復活したイエスにお会いできるガリラヤなのであると。 ・・・ 


世界のベストセラーを読む(565回) まったく我らの身代わりとなって!:十字架上のイエスの言葉の解釈で問題となった言葉

2019-06-24 18:37:34 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(516回目) 神よ、どうしてなのか!

 「命に溢れてこの地に住む者はことごとく    主にひれ伏し  塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。  わたしの魂は必ず命を得  子孫は神に仕え  主のことを来たる......
 


◆「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給うや。」(文語 マルコ15:34)

 地上から自分の命が取られるというその時、病気や怪我などでという理由ではなく、全く無実の罪で、犯罪人の一人とされてその理不尽な死に方をしなければならなかったイエス。常識としておかしいだろうと普段の人は思う。なぜなら、彼イエスは神の子と呼ばれる方なのに!

◆イエスが自分が十字架に掛けられることを弟子達に話したときに「そんなことがあってはなりません。そんなことを言ってはなりません」とペトロと呼ばれる弟子はイエスに言った。しかし、イエスはペテロを(ペテロの中のサタンを)たしなめて、「下がれサタン、あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と言われた とある。

◆この辺の会話は実は天上から来られたという方と、地上の人間とのクライマックスの会話なのだ!この辺に天国への狭き門が見えると思われる。彼イエスの死の意味を見いだす者は永遠の天国の門へ入り口が見えるであろうと僕は信ずる。旧約の天地創造の記事にすでに、蛇(サタン)は女から生まれた者(イエス)の踵を噛むが、彼(イエス)は蛇の頭を砕くであろうとの記事がすでに見られるからなのである。何のことやらさっぱりのこの記事が(無論、イエスとはキチンとは書かれていないけれど)天地創造からの壮大なドラマが展開されてきたのであると思わされてくる。無論、今もである。阿呆な僕らは分からないが天国への門は開かれているのであると。

◆そして、冒頭の言葉。詩編というものに先理解のない人は、なぜ神の子なのにこんな弱音を吐くのか、やっぱり人間の子か・・・と思うだろうからか、福音書でも先理解のない人々に読まれるであろう福音書にはこのイエスの叫びは箇所の記事は書かれていない。しかし、この詩編22の最後の内容は、先理解のあった使徒達には大変なインパクトだったろうと思われる。

◆彼は、地上のすべてのあらゆる苦しみを身に背負って、つまり最低の人間となった(彼は罪人の一人に数えられたとある)人々をも身におうて体現されて黄泉の国にまで下られた。死後の世界にまで行かれたとなれば、僕ら人間は神のひとり子の前には逃げ場がないということにはならないだろうか。それがどこぞの国においても全知全能の神が創造されて地上に生かされている人なのである。人びとはすべてのすべて(つまり肉にまつわりつき障害となった)自分という”しがらみ”をも捨てて、天上にかえって行かなければ永遠の世界には住めないのであるということになる。

◆しかし、この地上においては人が出来ない不完全さをその身に十字架に負われて、信ずる者は永遠の世界に入ることを保証されたのである、ということなのだ。天上においては彼を信じた者はキリストを着て、永遠の宴会に招かれるとある。この地上において自分の十字架がこの地上の堅い地面に建てられていると信じない者は、おそらく洪水に流されるであろうがその数は多い。

◆従って、表題の言葉は、決して人間的心情に理解する言葉ではない。イエスの死は僕らの肉的欠陥の補填なのだ。永遠の世界、聖書最後の黙示録には、初めの天と地は無くなったとある。つまり、この今ある継続されている初めの地上がなくなり永遠の世界となるということが書かれているのである。さて、僕らは必然的に生き物としての死を迎える。この地上の人生は、彼を信ずるか否かにすべてかかっているのだ。

◆「生きていて私を信ずる者は死ぬことはない。」とイエスは言われた。「あなたはこのことを信ずるか」彼は、いまも問い続けているのである。 ・・・ 


世界のベストセラーを読む(564回) 前回欠落コメント A・カミュの「異邦人」と 米谷みよ子の「過越の祭」について 

2019-06-24 13:12:24 | 日記
◆今日は雨模様、雨が降りそうでどんよりしている。からだもけだるくて何も考える気がおこらない。きっと寝不足のせいだろうと思う。僕の長年の肉体調査から言えば、なんとなくの意欲の湧いてこないその原因は、不眠にあると思い至ったのだ。・・・日常の僕らの思考と肉体の関係から言えば、まぁそんなところだろう・・・このように書き始められるかも知れない、誰でもが経験する事柄として。しかし、自殺したくなるとか、人を殺したくなるとかなどというところまではいかないけれど。 
 
◆「異邦人」・・・主人公ムルソーはアラビア人を殺したのは「太陽のせい」だと言う。死刑の判決を受け、司祭から懺悔の言葉を引き出そうとされるが、そんなことは人それぞれだろうと言い、自分は違うという。そこはアフリカのアルジェなのだ。暑くてすべてがめんどうくさくてどうでもよかったのだ。この小説の題名たるゆえんのクライマックス、それは死刑判決を受け、懺悔を求める司祭にたいして、死後のことなど個人の事だ、勝手にさせてくれ、俺の生き様なのだ、俺は俺として死ぬのだから自由ではないか・・・と。司祭の首根っこを捕まえて,いい加減にしろと追い出し、すっきりしたと主人公は満足するというところ・・・か。
 
◆「過越の祭」・・・1985年、この小説は芥川賞と新潮新人賞をもらっている。女性特有のといえば叱られるが、アメリカでユダヤ人の作家と結婚したのだが、障害を持った子どもが生まれ、夫の無理解とその育児にストレス。おまけに夫の親族の「過越の祭」という訳の分からん儀式に参席を促され,長々としたその儀式にとうとうぶち切れて、途中で夜の町へ抜けだし、清々とした気持ちに解放されるという話。
※小説には出てきませんが実のところ、この夫君は代表作「ハリーとトント」で、ハリウッドの著名な映画脚本家です。息子さんの名前はノアというそうです。彼女はこの本を英訳したとき肝心なところを(やはり)改訳されていたようです。 さて、・・・
 
◆これらの小説もすべて、特に宗教とは、人の心理とか、国の歴史を学ぼうと思えばその知識が共有化される現代となっては、後退した内容の小説かと思わされるけれど、僕にとっては、結局のところ、自分を含めた人を理解する、その伝統や風習、宗教を思う、環境も含めた時代、歴史とその人と同期して考えて見る、つまりは主人公は、自分がぶち切れるその原因について実際のところの他人と自分に関わるその事柄の先理解が不足していたというところに落ち着くのであった。 ・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(563回) A・カミュ「異邦人」 と 米谷みよ子「過越の祭」

2019-06-23 20:16:32 | 日記
世界のベストセラーを読む(518回目)生存をおびやかす不条理(アルベール・カミュ:Albert Cmus )
 まさに不条理。この間の長いブランクは、まったくもって、観念的な、つまり個人だけの考えだけでなく、そのこと、つまり書き続ける主旨の事柄が、実際に身に振り掛かってきた時のその全くもっ......

『子は親の鏡』 ドロシー・ロー・ノルト氏

2019-06-21 10:26:08 | 日記
 ◆親の子どもへの虐待に心を痛めています。
 親は自分も子どもだった時のことを忘れてはいけません。
 もし、自分が不遇な子ども時代を過ごされたとすれば、それを自分の子どもに
 過去の解消としてぶつけてはいけません。
 むしろ、まったく逆に自分の宿題として解消するために命が与えられた今生の
 自分の責任として子どもに接するべきです。
 命を与えられた神様はそれをきっと見ておられるでしょう。
 
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   『子は親の鏡』
    けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
    とげとげした家庭で育つと、子どもは乱暴になる
    不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
    「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、
    みじめな気持ちになる
    子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる
    親が他人を羨んでばかりいると、
         子どもも人を羨むようになる
    叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子な
    んだ」と思ってしまう。
    励ましてあげれば、子どもは自信を持つようになる
    広い心で接すれば、キレル子にはならない                                                                                                   
    誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
    愛してあげれば、人を愛することを学ぶ 
    認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
    見つめてあげれば、子どもは頑張り屋になる
    分かち合うことを教えれば、
       子どもは、思いやりを学ぶ
    親が正直であれば、
       子どもは正直であることの大切さを知る
    子どもに公平であれば、
       子どもは正義感のある子に育つ
    やさしい思いやりをもって育てれば、
       子どもはやさしい子に育つ
    守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
    和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この
    世はいいところだと思えるようになる
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     著者プロフィール:ドロシー・ロー・ノルト氏 1924年1月12日生まれ、3人の子ども
    を持ち、2人の孫、6人のひ孫を持つ。2005年11月家族に見守られ永眠。
   著書「子どもが育つ魔法の言葉」は22ヶ国に翻訳されミリオンセラーになる。
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 ※僕はコピーされいただいたこの紙を机の前に画鋲で留めている。戦争中、東京から父親の生まれ故郷に
  疎開されこの地に来て結婚され、幼稚園の先生を長年勤められた高齢の方で僕が時折、教会からご自宅
  まで車で送ってあげている。その父親という方は、かの白州次郎という方のもとでお仕えしていたとのこと。
  写真をいただいたことがある。 ・・・