marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(536回目)「永眠者記念の集い」にて:今生の別れに天国の保証をされた者

2018-08-18 23:00:50 | 日記
 イエスに一番最初に天国入りを保証された人は誰だと思われますか?

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 昨年、9月に親父と12月にお袋を天に送りました。永眠者記念礼拝で、教会関係者以外の方でイエス様を信じておられた方々の写真も飾って頂いておりましたので、母の写真を飾って頂くことを承認していただいておりました。

 母の遺品の中にありました証集(アカシシュウ)に、わたしはあまり真面目なクリスチャンではないと書いてありました。今のこの教会に席を移すように先の教会(神共にいますという名前)に問い合わせたところ、昔の先生はとうに替わられて今一度、受洗の記録がはっきりしませんでした。しかし、こちらの教会で出席のときは聖餐式にあずかるし、敬老の日には車椅子に乗ってみんなとの写真は今も部屋に飾られています。

 ところが、遺品の中の証し集にわたしは昭和54年7月5日に洗礼を受けたと書かれていました。仙台にわたしが居たときに通っていた先生が青森に呼ばれて特別伝道を開いたときにその先生から洗礼を受けられていました。

 昨年、25日クリスマス、代務者が担当される40分ほどもかかる小さな海沿いの教会でクリスマスのお祝いをしておりました。終わりころショートステーから電話が携帯にあり、お袋が救急車で運ばれたので来て下さいと連絡があり、だいぶ雪の深い夜になりましたがそのまま厚生医療センターに行きました。精密検査をされましたが、このまま送った方が母のためだろうと思いました。

 そして、27日の午後に静かに亡くなりました。僕は遺品を見ていませんでしたので、生前教会生活もままならず、きちんと洗礼を受けていたのか実は疑問視していたのですが、イエス様を信ずる気持ちが無くなることはなかったと思います。亡くなる30分も前でしょうか、イエス様を信じているかと聞くと、まったく疑いもないという具合に深くうなずくのです。
 
 このとき僕は、思い出されて離れない場面がありました。イエスが十字架にかけられたとき、同じく右側にかけらた男のことでした。長いこと牢に入れられたであろうイエスの奇跡や話されたことばなどひとつも知らなかったであろうこの男がこう言うのです。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときにはわたしを思い出してください」。するとイエスは、
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 真面目でもない、難しい事はわからない、牢にいたであろうからイエスの奇跡や言葉などは知り得なかったであろうこの男。しかも世間においては犯罪者だ。しかし、イエスを信ずるとは詰まるところこのことだろうと思いました。彼は、死に際、まさに自分の十字架を背負ってイエスと共にあったのですから。

 この犯罪人の男はイエス様と共に楽園にのぼった最初の人となりました。

 母の洗礼は神様との契約のことですから、きちんとしなければいけないなと思った次第でした。
 
 キリスト教会におられる方は古代の偉大な教父アウグスティヌスをご存じでしょう。彼の書いた「告白」の中にこのような一文があります。
 その母モニカは、旅先で亡くなるときに息子たちにこう言い残します。「この体はどこでもすきなところに葬っておくれ、そんなことには心を煩わさないで欲しい。ただひとつ、どこにいようとも主の祭壇のもとでわたしを思い出しておくれ」。
 
 わたしの母は、毎年もたれる永眠者記念礼拝で、彼(イエス)が再び来られる日まで、みなさんに覚えられることになりました。

「私は甦りであり命である。私を信じるものは死んでも生きる。生きてわたしを信ずる者は死ぬことがない」。

 わたしたちは今日、これを信じて先に召された先人達にしたがって、この信仰に強く立ちたいと思います。  
 
                                     (2018年8月12日「永眠者記念の集い」司会担当)                               

世界のベストセラーを読む(535回目)脱線:宗教における難しい課題と僕が思っていること

2018-08-16 10:50:01 | 日記
 このブログを始める時に自分の人生の宿題が僕にあるように思われたので書き始めてきたのですが・・・・。

 ・・・とここまで書いて玄関の呼び鈴が鳴った。誰かと思い出るとご婦人がお二人「エホバの証人」の方であった。この国の普段のプロテスタントキリスト教からは”異端”とされている。”異端”と言えば、宗教オタクの僕は、統一原理の「原理公論」、「モルモン経」も読んだし持っている。で来られた方々の「探求<神を探求する人類の歩み>」という本も・・・。いずれも偶然、手に入れたもの。

◆ところで、閑散とした僕の田舎のお墓の道路向かいの小路に小さな「エホバの会館」が出来ていた。誰も行かないようなど田舎にどうしてこのような教会ができるのであろう、と少しく聞いてみた。そんなあまりに小さな教会など無論知らなかったが、結論、無機的に書けばこれはアメリカの本部と繋がっているから補助金が出るからでしょうと。モルモンもそうですがグローバルな組織の存在は、すごいな。

◆伝道熱心な事には頭が下がるが、日本語の文語訳聖書には神様を”エホバ”と訳されていますが、どうぞ怒らないで聞いて下さいと、今は誰でもが書店で読める聖書の解説でもエホバと訳されるのはヘブル語からの誤訳であり間違いで今はそうは言わないのですと話してあげた。伝道に熱心なだけにとても残念。それから聖書が教えて下さっていると彼らが配布する「ものみの塔」は日常のケースに起こる困難、課題への対応書、倫理道徳的指導書と言ったらよいか、そのような内容の冊子である。その総括本のような先の「探求」も世界の全ての宗教に於いて(ユダヤ教も含む)、キリスト教が、否、あのイエスという方が本当の神から使わされた、つまりキリスト教がまことの神を示している、しかもその中でも宗派的な争いから、人類にどの宗教が本当の神であるかが示されている、まことの神に帰りなさいとの勧めがなされている。 総括的にとてもよく研究されている本である。この中にはヘブル語のヤーウェからエホバと読まれるなどの説明もあるが、巷のキリスト教のノウ・ハウ本でもこれは誤訳であると誰でもが読めるものが捜すと多数。それ故にこそ残念なのだが、ここは議論の場ではないので・・・。世界中の熱心な研究者からの寄稿を集約したような内容でした。世界の殆どの宗教、例えば、日本、神道、仏教、キリスト教の混在、平田篤胤が集約させて日本神道で戦争に突き進んだことまで書かれています。宗教改革者カルバンが、三位一体を否定したスペインの医学者を焚刑したことまで・・・。しかも、この「探求」という本は世界中の信者が読めるように各国の全ての言葉に訳されているようです。毎週、そして聖書を研究され、歴史から現代の僕らの生活の所作までのことごと。訪問されて来られた方のようにその宣教を実践することに使命を持っていく。しかし、僕らは組織のしがらみ囚われることに留意されたい。議論するために組織に入る訳ではないので。

◆それから、外出すると町の中でモルモン教の若い米国の青年お二人が歩いているのに出くわした。今日は、そんな日なのだろうと・・・。

 正直、僕らが(僕が)自分で嫌悪しているのは、イエスとの会話からいつの間にか、(キリスト教に拘わらず)その組織体の維持の言葉にすり替わってしまうことなのです。例え、一般に善いと思われていることでも・・・。詰まるところ、どのような組織におられても、最後は、普遍なる命を生かしめている根源と自分との会話ということになるように思います。漫然と組織に従属して安心してしまう、牧師と言えどもそうだろう。それを僕は、大きな”しがらみ”になりやすい障害だと思っているのです。これは、あくまで個人、つまり自分に関することなのです。ですから真摯なる黙想が必要なのですと。少なくと僕はキリスト教が人間に責任を与えこの世に「合理性」と「衛生」、「契約の概念」などを与えてきた点を考慮するだけでも絶大だったと思っている。効果を確認すると言えば、ともすれば観念的なことから実際、現実の生身の世界が進展しこの世に当たり前のように善くなってきたと言えるのは、天地を創られた万能の神を信じてきた決して歴史の表舞台には出てこないユダヤ人達がいたからだと僕は思っているのである。

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 イエスは彼(ヨハネ)に言われた。「やめさせないがよい。あなた方に反対しない者は、あなた方の味方なのである」。(ルカ9:50) ・・・  

 


世界のベストセラーを読む(534回目) (その2)「あの世のこと」を考えていた

2018-08-15 10:46:08 | 日記
 日本おけるいわゆるお盆に最も近い日曜日をキリスト教会では、「永眠者の記念礼拝」なるものをおこなっています。

◆「永眠者」とは、文字のごとくイエスを信じてこの地上を生き、天に帰った者は肉体は地上から消えたが天(ここにおける天とは距離的に遠隔や空間、時間など、つまりこの三次元的な物理的「場」とは異なる次元のようです)に於いて彼が再びこの地上に来られて、起きなさいと言われるまで眠っている人々ということになります。彼が再びこの地上に来られるときを「再臨」といっていますが、そのとき天使のようになりしっかりと、物理的感覚としてもクリアーに理解され復活すると言われます。 先、532回目の最後にイエスの言葉を書きました。
「『次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちはもはや死ぬことがない。天使に等しいものであり、復活にあずかる者として神の子だからである。・・・神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。』」(ルカによる福音書第20章25~38節)
 ここに於いて、過去の地上に生きて(肉体として)死んだ人は、肉体が亡くなっても今も生きているのである、ということを語っているのです。どういう人が・・・それは前に書かれている「復活するにふさわしいとされた人々」という。
◆何度か書いてきました新約聖書に於いて「生きる」とか「死ぬ」という言葉は、この肉体とは異なる次元でその生かしめている神の霊に繋がっているかどうかに掛かるようです。ですから、新約聖書(イエスがわれら人の命を生かしめている神の霊との関係を示された物語)において、この神の霊(これをイエスは明確に体現して示された)を念頭に置いて読めば、イエスの示された「永遠のいのち」ということがより深く理解されるように思われます。
 つまるところ僕らが目に見える人が生きていてもその霊を知らないで離れている人を「死んでいる人」、同じく神の霊と繋がっている人を「生きている人」と言われているようなのです。しかし、誰が?というその判断基準は被造物である不完全な僕ら側にはありません。聖書には、そのように読める箇所もあるが、その判断は決してこの不完全なこの地上の人の側に委ねられていないのです。宗教改革者、カルヴァンの「予定説」なるものの不人気さは、時代背景として仕方なかったか知れませんがここにあります。
◆断然注意すべくは、それならクリスチャンは全て天国にいくのか、そうでない人は行かないのか、他の宗教の人は、地獄なのか、あるいは迷う霊になるのか・・・ですが、それこそ、どのような宗教であっても、地上の肉なる人である僕らには分かりませんということになるのではないでしょうか。これまでの歴史に於いて、ゴミのような人が天地を創造された神の摂理(法則といってもいい)をわずかにかいま見たところで、天下ををとってきたように人々を裁き、争いを起こしてきたことをよくよく考えて見なくてはいけない。今もそうです。
 ただ一つはっきりしていることは、新約聖書のイエスは僕ら生命のあるその霊としての法則を明確に示された、もっとも永遠に生きるその霊との近道、否、その道そのものを示されたということです。これをキリスト者は、他の宗教を否定することなく一方的に声を大にして主張し続けるのです。
◆ここでも困難は、聞いた人々は一般化され流布された知識からは彼に近づくことができるでしょうが、しかし、彼は生きているのです。人それぞれがイエスというその方と直截、会話するまでにならないと、今も捜せばありあまる程の流布されている聖書の知識に流されて胡散霧散となるだけです。そこに、イエスが言われた「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」というその自分を見つめるその言葉が要求されているのです。・・・ 続く 

世界のベストセラーを読む(533回目)お盆・・・「あの世のこと」を考えていた

2018-08-14 15:10:00 | 日記
 7月末会社から3日ほど休暇を貰い旅をしていた。
◆前からお話があれば聞きたいと思っていた方の講演があって行っていたのである。そこで僕の宿題が又、ひとつ解けた。

 それから・・・
◆その会場で、教会に関係する書店やさんが来ていて講演会場の入り口で開店していたので、前から読みたいと思っていたカトリックシスターの鈴木秀子さんの本が数冊有り、ずばり「あの世のこと」という本と他、数冊本を購入した。
◆そのひと月ほどまえだったかたまたま見たNHK Eテレの「こころの時代」で”苦難を幸福に変える”という副題であったかと思うが、鈴木秀子さんが祈りについて語られていたこと、それを聞いていて、あぁ、本当の祈りとはこういうのだろうなと思わされたことであった。病んでいる人の体に手を置き、お祈りする。心も病んで直った青年が会いに来る場面がでてくる、にこにこ元気になって。聖書には、それが「手当」という語源になったであろうけれど、まさに手を置き、祈り、回復する場面がときおり出てくる。イエスであり、またその弟子たち。当時の祈りは、実際に体も心も直す働きをもたらしていたものであった。
◆テレビの中で彼女はいう。「自分の基軸を持つことです。わたしの祈りとは、わたしが虫眼鏡となって太陽の光を病んでいる方の心や患部に神様の力を集中させてあげることなのです」と。毎日のシスターとしての朝夕のお勤め(黙想、祈り)をされておられる方の霊的なわかりやすいイメージである。普段の生活が整えられなければ、その力はでないものなのだろうと思わされる。
◆聖神女子大学で作家の曽野綾子さんが同級だったという。それでも他の彼女の本にある経歴は、東大人文科学博士課程、文学博士、仏、伊に留学、ハワイ大学、スタンフォード大学で教鞭をとり・・・そうそうたる学歴。これは、単なるオカルトではなく学識のある方の見解なのだということ。彼女は臨死体験をしていたのです。「あの世」をかいま見せられていたということなのでした。また、この本には、これまた大変な経歴の持たれ、日本での宗派に属さない、仏教の本質に基づく実用的な考えを伝える働きをインドでなされている草薙龍瞬というかたとの対談が載る。とくに宗教という外枠のとらわれではなく、その本質は同じ高みに行くような思いにさせられたことであった。
◆昨年、両親を天に送り僕が思ってきたような同じ「あの世」なので、この本をしばし涙して読んだ。
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 時間と空間を解き放たれた死者は、たとえそれが地球の裏側であろうが、宇宙の果てであろうが、愛する人の呼びかけに応じて即座に移動でき、しかも、複数箇所に同時に偏在することができるのです。
 そして、そのことは、私たちが一体である証しであり、愛こそが私たちの本当の姿だということをいかにも物語っています。・・・本当の愛は、神の愛が私たちを通して溢れ出るもので、尽きることなく、すべてを包み込むものなのです。蝶はさなぎから脱し、軽やかな飛翔の旅に出ます。肉体という衣を脱ぎ捨てた私たちもまた、制約のない自由な世界へと飛翔し、ひとつに溶け合います。そこは、無条件の愛で溢れています。神の愛が至るところに偏在し、亡くなった人を温かく包み込みます。こうして、死者は愛そのものとなります。何の見返りも要求することはありません。ただ、神とともに愛を与え続け、今度は混乱と葛藤の多いこの世に暮らす人たちを助け、平安へと導いてくれます。それが、彼らの喜びであり、平安なのです。(p58~60)    ・・・