どうして当時、世界のいずれの国の都市の中においても非常に反映していた江戸という町の成り立ちは、第一にそういう古来からの職業人や技能を奨励し、土木や治水などの開拓に知恵を結集したのは、その黒子DNAをもつ取り巻きが多くいたからなのだ。
第一に彼、家康が幼少の頃から人質になった経験をしていたこと、取り巻き達の歴史も多くの書物で学んだこと、そして当初、武田軍との戦いで取り巻きのアドバイスに従わず大敗を期したことなどの猛省により、彼は今までの武将たる覇者の思いだけで政治争いは収まるものではないという非常なる謙虚さを学んだことにあったのである。
※取り巻きの良きアドバイザーはそういう耳を傾ける謙虚な為政者を好ましく思うのだな。ですから『どうする~』という大河ドラマの表題はより適切に彼の心情を語る題名でもあると思われてくる。(以下、大いなる脱線も踏まえて)
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(※今までの経緯から言えば記憶を生きる民は、古来この日本に来ていたのだからその黒子のDNAとして先祖から聞き及んでいたであろう旧約聖書の話をここで入れる。記憶に生きる民は2023年の現代においても紀元前の自らの先祖の歴史を決して忘れていないのだ。)
あのダビデ王の息子ソロモンが国を統一して”ソロモンの栄華”と言われたほどに当時の周囲の国々に羨ましがられたその国は、何故そのように繁栄したかと言えば、ソロモンが第一に願ったことが ”民を統治する知恵をお与えください” という祈りであったことを神は非常に喜ばれたのであった。
南の国からそのソロモンの英知と繁栄を確かめにサバの女王が来訪する。彼女は色が黒く毛深かったようだがとても美人、これが黒いマリア像として見られる謂れとなった。古代サバの国の対面にアフリカのキリスト教国に地下教会が世界遺産となった国がある。あの一帯はサバの国の領土にあった。彼女はソロモンの子供を孕んで国に帰ったらしい。アフリカのあの周辺は昔、大そう繁栄したのだそうだ。
その生まれた息子に国が栄えるから大きくなったら、あの国を訪れこの指輪をその王に見せるようにと託す。それはソロモンから帰国時に女王に贈られたものだった。それがよく本来の知られる”ソロモンの指輪”と言われるものである。
大きくなった落とし種の訪問にソロモン王はとても喜んで、サバの王国はその後、大そう繁栄したのであった、と。(※ポール・モーリアの”サバの女王”というメロディーは有名ですよね、そういう背景を思いながらyoutubeで聴いてみてください。)
当時、本当に王国は繁栄をしていたのだなぁと思わされるのは、モロッコの国旗の★一つは、当時のソロモンの繁栄にあやかろうとして成りたったらしい。何故、★ひとつがそうなのかは彼ら(👽)に繋がっていくのだろうけれど。あの時代、地中海沿岸一帯にソロモンの栄華は知られていたのだねぇ。
しかし、結局、彼ソロモンも繁栄に慣れ親しんで取り巻き(古来からのDNAである黒子)のアドバイスに耳を傾けなくなっていく。多くの妃を異国から迎え、神の戒めから離れ、神を苦しめその王国は結局、分裂するに至ったのである。
それが北イスラエルと南ユダという国の分裂の始まりとなるのだった。北イスラエルは失われたイスラエルの10部族と言われ、世界に離散する。東を目指した部族がいて、これが古代日本にわたって来ていたというのが、再び今、言われていることなのである。・・・
ここまでは大いなる脱線!
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写真は仙台の伊達政宗の墓所である。仙台駅の正面の大通り、青葉通りを広瀬川側に向かって突き当たり大きく右に曲がる付近を左に広瀬川方面におりていくと霊屋下というところに伊達三代の墓所がある。各地に武将の像があるけれど仙台城にある市内を見渡す政宗公騎馬像は、一番スマートでカッコイイと思うなぁ。
ここに書こうとしているのは、あの月の浦から支倉常長をヨーロッパに派遣したその真意を知るまで伊達政宗が、南の南蛮貿易をしていた大名にならってイスパニアと独自に貿易をして(鉄砲などを買い込んで)あわよくば、東北の覇者において天下を取ろうとする野望を持っていたのか、というような思いにさせられるがこれは、多いなる勘違い。いまでもそう考える人がいるかと思うが、これは間違いである。
家康の対外政策の継承であり、幕府の許可と技術援助があったことは、伊達家治家記録にきちんと記録されていることなのである。せんじ詰めて言えば、常長と同船する宣教師ソテロも家康には会見しているし、政宗においても多数の貴重な手紙をローマやイスパニアの総長にしたためているのである。
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青葉通をそのまままっすぐ広瀬川を渡る大橋の左側袂にキリシタン殉教碑が建っている。元和9年(1623年)この橋のたもとでポルトガル神父ガルバリヨ以下日本人信徒含め9人が水攻めの刑で亡くなった。その碑は昭和46年刑場に近いその大橋の東詰というところに建てられたのである。
純粋に我々が考えると、信仰熱心な人々の哀れを思う者なのであるが、遠藤周作が、日本に宣教することは泥沼に種をまくようなものだと『沈黙』で言わせているけれど、ここに人の言葉と心、思いと伝達、あらゆる不条理と限界が露呈してくると思われるのである。
日本ばかりでなく、キリスト教の歴史をみれば今から考えて、火刑などにあった殉教者の考えは全然おかしくないのではないか、と思われるものが多いのだが、これが時代に生きる人間の限界か、と思わされてくる。
マルクスは「宗教はアヘンだ」と言い、ニーチェは「神は死んだ」と言ったなど、さらには聖書のパウロの手紙に「上の権威に従うべきだ」と書かれているのに、英国の歴史のように統治する王の首をちょん切ってしまう程の考えが何故出てくるのか(名誉革命)・・・同じ創造された人として思うになぜ、あの時代、大衆に向かって何を言いたかったのか、何を信じて実行したのかをよく考えて見ることである。神は地上の人を不逞に翻弄させようとしているのか。これらのことに神に創造されたと言われる人が現世での生き方に於いて使命のようなものがあることを思わずにはいられないのではないだろうか。(今の世界を見ても)
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大衆の心を掴む宗教性の怖さ、それを実行する時、命をも顧みない彼岸への思い。家康はその異国からの宗教のありように今とかわらぬこの国に古来から背後に動いた黒子達の思いとはまったく異なる悪魔が存在することを察していたのである。
秀吉はすでに背後にイエズス会が最後には背後に軍隊を用いて恐怖をもとに布教せんとする、つまりは国をのっとる思惑を垣間見て布教を禁じたのであった。”サンチャゴ(聖ヤコブ)!”と叫んで、あのインカ帝国を滅ぼした国がまじかに目の前に来ていると、アドバイスしたのは海で遭難し流れついて家康の腹心になったのが、あの三浦按針(ウイリアム・アダムス)であった。彼は当時、陽の沈まぬ国と植民地制覇に乗りだしていたヨーロッパにおけるポルトガル、スペインの状況であったことを知っていたのである。
彼は英国人で、当時のキリスト教の歴史において宗教改革後のプロテスタントであった。三浦半島を通る海外船の水先案内をするゆえに領地を与えられ三浦按針と名乗った。彼は、家康に尊く用いられ彼の設計で船を建造する。領地も与えられ、この国は自国の歴史とは異なった安寧を求める不思議な国だと思っていたに違いない。その後、英国からの迎えにも、自分の人生は大いなる恵みを神によって与えれたと帰国することなくこの地で眠っている。
その後のヤン・ヨーステン(彼の与えられたところがご存じ彼の名にちなんで名づけられた東京の八重洲である)も家康に多大に海外の栄えた考えを伝授することとなり大いに貢献する。彼も個人の独立を尊んだプロテスタントであったのである。按針のように遭難であっても彼らこの国への貢献は、神の摂理(導きであった)と言えるのではなかろうか。
出発点はオランダである。さまよえるオランダ人!? この国は宗教に囚われず自由な国であった。ヨーロッパで宗教改革の嵐が吹き荒れ、またユダヤ人が迫害された時、この国は大きな転換点を迎える。ピューリタンたちはこの国を基点にイギリスに渡り、更に西を目指したのである。アメリカはそうしてできた。そして更に太平洋を渡って日本に来たのである。
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結論はこうである。家康は、異国の富をもたらす当時の貿易を直接行おうとし政宗にそれを奥州の地からやらせようとしたのである。太平洋を渡ればイスパニアやポルトガルに行ける。イタリヤのローマ法王にも会わせようとしたのがソテロ(フランシスコ会)であった。九州の切支丹大名(イエズス会)が少年使節を派遣したことを知っていたのだ。
結局、家康はさらに進んだ技術文明と学問を取り入れようともし、政宗に東北の地に神学校(コレジオ)をも造ることも認可したのであったが、カトリックにおけるイエズス会とフランシスコ会との相剋、フランシスコ会内部の暗闘、ソテロ(フランシスコ会)とヴィスカイーノ(イエズス会)の離間、日本をめぐる旧教国ポルトガルとイスパニア、新教国オランダとイギリス、直接貿易を貿易不振を憂えるマニラ商人の反対、日本水軍に対する新イスパニア総督の危惧などによって暗礁に乗り上げ、最終的に家康の禁教令にによって慶長使節の目的が頓挫してしまったのであった。この辺のやり取りは親書に残されている。
これらのそれぞれのやりとりの詳細な手紙は先の資料に載っている。その辺のいきさつは、アメリカの民主党(フランシスコ会に似ている)と共和党(イエズス会に似ている)のいがみ合いや足の引っ張り合いのようである。いわば、それぞれの本部に対する貢献度合いの優位性と他への排他性・・・。あぁ、時代が変わっても人の罪深さはなんということか!!
慶長18年12月23日(1614/2/1)家康は全国にキリスト教禁令を発し、高山右近らを国外追放したのであった。
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常長遣欧が世に知られるようになったのは、実は明治6年にヨーロッパに派遣された岩倉使節団であった。ヴェニスで支倉常長の関係文書を発見し目にしたことが、人々の目を引くようになった。その後、明治9年仙台で開催された博覧会に常長の遺物を明治天皇に天覧したことがきっかけで常長の名前が全国に知られるようになったのであった。
どうだろうか。事柄は僕らが日本史などで学ぶような単純なものではない。家康の認可のもと行われた政宗の”慶長遣欧使節”は、政宗が常長に委託した丁重な様々な手紙などを読むと、その視野が遠く海外にも及んでいたことを示し、日本の外交通商史上、重要なできごとであった思われるのである。そのやりとりは、今のこの世界においても変わることがない。
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奥州王政宗の雄大な夢を乗せて支倉常長が牡鹿半島の月の浦から出航したのは、慶長18年(1613年)だった。一行は、宣教師ソテロを案内人としてメキシコを経てスペインに入り、スペイン国王に謁見、その後国王臨席のもと洗礼を受けている。月の浦を出航して726日、常長一行は苦難を乗り越えついにローマに到着。ローマ法王パウロ五世に謁見、政宗公の書状を呈した。
元和元年9月24日(1615/11/15)ローマ市議会の決議により、常長の随員は4日後のローマ元老院枢密会議によりローマ市の公民権が与えられ、同年10月2日(1615/11/23)常長はローマの貴族に列せられた。同日、常長の秘書官小寺外記(ドン・パオロ・カミルロ・シピヨーネ・コンデライケ・ゲキ)の他、尾張の住人ドン・フランシスコ・ノマノ・ハンペー(野間半兵衛)、山城国京の住民ドン・トマス・タキノ・カヘウエ(滝野嘉平衛)、津の国の住人ドン・ペドロ・イタミ・ソーミ(伊丹総見)にもローマの市民権が贈られた。後の三名は日本切支丹代表としてローマ法王に嘆願書を提出するため常長の随員としてローマ法王に謁見した人々であった。
遣欧使節一行の目的は,通商、文化の移入、切支丹布教にあったが、常長の努力にもかかわらず、幕府の鎖国政策によって梯子を外されたかたちとなって儚い夢と終わってしまったように見える。
満7年の歳月を海外で過ごした常長は元和元年(1620年)、マニラにソテロを残し、新イスパニアにサン・ファン・バウチスタ号で帰国したが、不遇の生涯(僕はそうは決して思わないが)元和8年(1622年)に終えている。享年52歳であった。
フランシスコ派の働きにここでもイエズス会は足を引っ張り常長は棄教したのだと報告した記録があるが、1624年(元和9年)1月20日付け法王宛のソテロ書輪によれば「自分の家で妻子、家来、下僕をキリスト信者にし(中略)、支倉に臨終の秘跡を授け、又、死の床に居合わせた修道士たち、またその他の人たちが以上のことを私(ソテロ)に伝えました」と記している。
事実、隠れキリシタン訴人の為、又、イエズス会神父のジャン・バプチスト・ポルロの密告により常長親族は刑罰に会い殉教しているので支倉家は断絶したと言われる。決して支倉家は棄教していなかったのである。
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バチカン文書館文書に残されている次の文書も永久に残るものであろう。
「支倉常長の請願に対してローマ法王は常長及びその子孫を、法王の廷臣とし、パラチノ伯に任じ、騎士となす事、又他に例なしと雖も、私の祈願所を設くることを許可する事。」
著名な手を合わせ祈りをする支倉六左衛門常長像は仙台市博物館で見ることが出来る。
******* キリスト者の国籍は天にあり・・・FIN
少し、長いので、半分くらいの原稿がいいなと思います。
後半斜め読みになってしまいますので。個人的な希望ですみません。