marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(189回目)脱線Ⅲ ティヤール・ド・シャルダン&スピノザ

2016-11-30 22:19:38 | 日記

◆ローマ人への手紙 第1章20節「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。」
◆さて、ズピノザさんを書かねばならない。こうのようなお顔立ち、当然写真などある時代ではないので
自画像   スピノザはどうして哲学をはじめたのか。あまり読まれないだろうから大きな本屋でないとまず立ち読みはできんと思う。んで、読むとおそらく、面食らうぞ! デカルトさんをすごく研究した人で、言葉の定義は厳密に彼から学ぶ。17世紀最大の哲学者の一人。彼の考え方とか本の内容を書くと皆さんにはまず読まれないこと絶対といっていいほどなので、その哲学をはじめた動機が「知性改善論」の冒頭にあるのでそれを書いて彼についてはおしまいにしたい。(つまり、ティヤールとスピノザさんを書いて、僕の186回目に書いたことのお約束を終える。) その内容、少し入りこみ知りたくもなる決心が書かれています。    
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◆「一般の生活で通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったものは、どれもただ心がそれによって動かされる限りでよいとか悪いとか言えるのだと知ったとき、私はついに決心した、われわれのあずかりうる真の善(本当のよいこと)で、他のすべてを捨ててもただそれだけあれば心が刺激されるような何かが存在しないかどうか、いやむしろ、それが見つかって手に入れば絶え間のない最高の喜びを永遠に享楽できるような、何かそういうものは存在しないかどうか探求してみようと。」(『知性改善論』第1段)・・・ Ω 


世界のベストセラーを読む(188回目)脱線Ⅱ ティヤール・ド・シャルダン&スピノザ

2016-11-29 19:15:37 | 日記
◆パウロさんが書いたローマ人への手紙 第1章20節「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。」から、・・・ということは、被造物を知ると神の永遠の力と神性は明らかに認めることができる(前と後ろをひっくり返しただけなんだけど)ということですね。(ここまでは前の回の一部)。で、カトリックの司祭、地質学者、古生物学者であるティヤール・ド・シャルダンのお写真を今一度掲載します。 実はこの写真額に入っていてね僕の机の横の本棚に飾ってあったのだ。しばらくぶりで(少なくても30年後ね)実家に戻り、机をあけるとそのままあるので引っ張り出したという訳だ。それで、パウロさんのローマ書の第1章20節を読むとね、いつも僕はこの人を思い出すのです。
◆それで、脱線してつづいてまたこの人のことを書こうと思う。なにぶん僕の暗い時代に一つの光を投げ掛けてくれた本だったからね。「現象としての人間」の序文に神学者N・M・ウィルディールスという方が簡潔に彼のことを紹介しているところがあるので書いてみます。
◇ティヤール・ド・シャルダンはキリスト教と現代科学の知識との綜合という、第二の、もっと広い綜合を、自分の研究と思索の不断の対象とした。精神のうちに少しづつ成熟してきた宇宙観の輪郭をさらに追求していくうちに、特に聖パウロの囚われの時代の書簡に描かれているように、キリスト教はもっと奥深い本質において宇宙進化全体の傾きを飾り、その完成となるものとして考えられねばならないということが彼にはますます明らかになってきた。聖パウロと同じようにティヤール・ド・シャルダンにとっても、キリストは、世界という現象の軸であり、終局であり、ありとあらゆるものがそこに昇華する玄妙なる一点、終局(おめが)の点なのである。それゆえに彼の目には被造物全体が「受肉したロゴス」(キリストにおいて人となったロゴス)に依存しているように見えるのである。(みすず書房 全集「現象としての人間」p4)
◆ここで注意して欲しいのは、観念的に思考をあれやこれやとこねくり回すにはそれはそれで知的快楽を得るものだけれど、彼の場合はまず第一に神学的な議論は除外して論証しているところなのです。あくまで科学者としての目でもって、実態に出あっているということなのですね。自分が科学的な検証を持って調査研究して、総じて宇宙大の考察をしてみれば、そこには(それは実に長い期間に渡っているのだが)一筋の光を想定しないことには、ならないし、そこに行こうとすることが見えてこざるを得ないというのですね。(最後には世界の終末も書かれています。)この本読んだときすごく感激でしたよ。今も世界はそれに向かって動いているといえるでしょうね(キリストの再臨までということになるだろうけど)。もしその働きが無ければ人類は絶望だろうな・・・。これが著されたのは1948年。
◇彼は被造物を調査することによって科学的目線での論証でキリスト教は現実的なものであるという。「プラトン、スピノザ、ヘーゲルなどは神の託身という思想と広範囲に対抗する見解を発展させたといえるかもしれない。しかし彼らの形而上学のいずれも、イデオロギーの限界を超えるに至ってはいない。それらは次々に人々の精神を照らしたかもしれないが、決して生命を生み出すには至っていない。<自然科学者>の眼にとって、キリスト教という現象の重要性と謎をなすものは、存在の価値、現実の価値、行動範囲の大きさによる生命の量的価値、新しい意識状態の出現による質的価値でもある。」(同 p358)キリスト教はあくまで実際的な価値を人間界に及ぼしてきたというのですね。
◇あくまで実際的だ。「信仰から信仰へ」(1:17)をK・バルトは「真実から信仰へ」と訳した。まさにその「真実」に当たるものと言えるだろう。そしてそれはヨハネの第一の手紙第1章1節「わたしたちが目でみたもの、よく見て手でさわったもの」と書いた物なのだと僕は思うのである。・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(187回目)脱線 ティヤール・ド・シャルダン&スピノザ

2016-11-28 19:18:23 | 日記
◆風邪ひいた。 わずかでも僕の日記ブログを読んでくれる人がいるんですね!意識レベル高いです。もっと意識レベルも高くなるけど完全オタクのように採られることは全く意に反するのね。もと東京神学大学の近藤勝彦先生の「組織神学の根本問題」、K・バルトさんやその他神学者の方のいろいろこと書いてみたいくらいなの。でもそこまでいけば完全オタクだなと・・・どのように書いたらいいのだろうと、ブロークンの言葉にしたらええか? 方言まき散らしたらええのかなど苦労してんのというわけでも無いけれど、本当に世界の終わりはだんだん近くなってきているような。だから、いつ何時、お隣の国の原子力発電が壊れました(韓国にも中国にも沢山)、放射能拡散しましたなんてことがあれば黄砂やpm2.5でどうのこうのの日本はおしまいよと思っているんだ。(おそらくニュースでは狭小の出来事しか報じないだろうけど)だからいつこの世とおさらばしても確実に天国参りましょうということを語っているのだね。新約聖書の「約」は契約の「約」な訳。だから、イエスを信じ生涯を終えた人には確実に天国(パラダイス)に行けて永遠に生きることができると天地を創造されたイエスの父なる神が申されているのでありがたくちょうだいし僕は信じている訳なの。教会に行けば献金はあるだろうけど、総じてこれを手に入れるのは無料なのね。囓り掛け少し堅いかも、でも自分の言葉で噛んでいくとすごい世界が広がっているのよ・・・。
◆パウロさんが書いたローマ人への手紙 第1章20節「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。」から、・・・ということは、被造物を知ると神の永遠の力と神性は明らかに認めることができる(前と後ろをひっくり返しただけなんだけど)ということですね。
◆もともと僕は理系頭なんだけど、一時、昔ね宗教(キリスト教)と科学はどう関わるかなどの議論があったのだ。で、そのとき、カトリック司祭で哲学者、自然科学者としてのティーヤールを知って目から鱗だったのだ。みすず書房から全集が出てたんで購入したのだね・・今から36年も前の話。著名なのは「現象としての人間」。人類進化(ダーウィンのではない)への見方で地質学的な編年体系の中に配列して人類進化全体の流れを広い視野に立って統一的に把握する仮説的な見通しを立てようとしたこと。生物学を囓ったことがある人は分かるだろうけどちょうどバクテリアから始まって上に行くに従い分岐していく生命の樹という奴、お金の成る木のような形の生命進化の図だ。最後に霊長類がある例の奴。それは彼によれば最終、Ω点に向かって中心思想は進化していくということなのだ。そう考えざるを得ないと。現にそれは今も光を待ち望んで向かっているということになる。つまりそのΩ点はキリストということになるの。(ここでいきなりキリストかよ! と思われた方は、まずはすべてのしがらみを捨てきらないといけませんね。特に先理解のない僕らこの国の人は。キリストというだけでもそれは深い深い思想が流れて来ているので、まあそうなのか、植物が光に向かうように我等人をも含めてすべての神につくられし被造物はすべてその光(キリスト=Ω点)に向かって前進しているということなのだとご理解ください。)彼は科学者の目線で、そのように考えたのね。精神現象学を書いたヘーゲルさんの科学版かなと一時思ったりしたが、なぜか数十万年単位の長い目線の中で書かれているのでなぜが壮大な神の見取り図の一端を見せられたような思いにさせられた訳なのでありました。
◆で、テヤール・ド・シャルダンは このようなお顔立ちです。鼻筋がとおってこの写真はいい顔してます。で、なにせ宇宙間における一貫性についての思索だから、天地創造来、人間は進化の軸であり宇宙の中で踏みとどまっている一分子ではなく、自分の中で生きようとする普遍的な意志が一点に向かって集中し人間完成への道を上りつつあるというのである。最終は、人類はキリストの体であるという一点に向かって。一見、楽観論だなと思われるかも、しかしイエスが十字架にかかったとう信仰が土台にあることが当然ベースにあるのです(むろん、悪についての考察もあります)。・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(186回目)ローマ人への手紙(第2章1節から16節)

2016-11-25 19:46:09 | 日記
◆神の正しい裁き◆
初めに第1章で、地球上の生き物、普遍的な意味合いで、造られしものはすべて神の息の基にあるという考えにあることばを書き残しておきます。少し脱線も交えて・・・。
(1:20)「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神聖とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。」
◆通常、キリスト者でない一般人の方でもこの言葉は、なぜかすっきり、そうかもしれないなと頭に入ってくるのではなかろうか。現に、創世記に神は万物を創造され、最後にご自分の似姿に人を創造されたとありますから。それで、神様を知りたいということで、パウロの言葉からでもそうだが、被造物つまり神に造られたものを解析すれば、(パウロの言葉によれば)神の永遠の力と神聖は知り得るのではないかということで科学が始まったといっても過言では無いわけですね。むろんキリスト教以前のギリシャ、アジアでは歴史の長い中国などでは科学らしき物があったのはそうですが、僕が話したいのは秩序立てて根本からの理由付けで、一つの方向性を持った学問の形成というような意味合いでです。そこで、次回は脱線して、学生時代から気にかかっていた二人の人を取り上げたいので、こうご期待。
◆さて、パウロさんは、「信仰義人」という大前提、来年は宗教改革500年だが、M・ルターさんを大変身させた神からの啓示の言葉といったらいいか、このことをルターは、ローマ書の中にまたガラテヤ書の中に(3:11)、その他にその言葉(パウロさんの神学思想の中心)を発見し奮起する訳なのであった。パウロはそこで、パックス・ロマーナの首都、ローマには行かねばならないが、その前にと手紙を書くのです。パウロさんが神学思想たる論文めいた手紙をどのように理解させるために苦慮して書いたかを押し計るにいろいろなことを考えさせられるのである。
◆まず、手紙は読まれるために書き、読まれるためには相手も内容に少しでも理解を示している必要があり、いくらエルサレムとの人の交流があったとはいえ、そしてエルサレムで起こった事件、主の十字架がユダヤ人伝来に言われてきた救い主のその時であったことを理解しているとしても、はなはだ、異邦人の中に集うユダヤ人にとっては心許ない信仰であったであろうことをパウロは案じていた。まして、同調した異邦人(ここでは代表としてギリシャ人として書いている)に対しては、ユダヤ人の古来の民俗宗教律法を越え、普遍的な意味合い、天地創造の全人類という普遍的なもの言いでパウロは苦心をしていることが推し量れるのだ。
◆以上のことからパウロの書き方は、まず、一般論での異邦人にも訴える(これは天地創造来からの摂理<神の計画、神の恩寵を説く>)から、今の僕らでもすっと頭に入るが、その次は核心の人々、その神の摂理に選ばれしユダヤ人への訴えを書く。周辺から中心へ、一般論から核心論へ筆を進めて行くのである。そういう書き方をして、異邦人に対してパウロは神学論を展開するのであった。
◇「人類の罪」と小題の付いた(1:18)から(1:32)とそれに続く(2:1)から(2:16)までが、異邦人への一般論、次に(2:17)から(3:8)までがユダヤ人に対して、さらに(3:9)からまた、ユダヤ人もギリシャ人もと一般論、(3:28)から(4:12)までがユダヤ人に対して、(4:13)から(4:25)までが一般人(異邦人)に対してという具合に論理は展開していく。そして、第5章に入り、「信仰によって義とされて」という小題がついて、初めの人(全人類の祖)アダムが出てきて、最後の神から使わされたまことの人、キリストの登場があり、「こうして、罪が死によって支配されていたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。(5:21)」という展開となっているのである。・・・Ω  

世界のベストセラーを読む(185回目)ローマ人への手紙(第1章18節から32節)

2016-11-24 19:01:12 | 日記
◆人類の罪◆ 前回の表題、節が間違ってましたので改めてこの小題のところを読みます。
ところでどうして、パウロさんはこの壮大な人類の創造を背景に「人類の罪」ということに話を広げるところから手紙にしたためたのであろうか。そして、突然に、第2章1節で「だから、すべて人を裁くものよ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。・・・」と書く。その間に書かれたこの文章(18から32節)は、今の僕らにも時代錯誤は少しはあろうけれど、その内容は今の僕らにも理解できるものだ。それは、人間を創造した神との関係が「的外れ」になってきたからなのだとパウロは嘆いて説明をしているのである。ユダヤ人の伝統いかんにかかわらず、まずはこの事態は異常な事態であるとの訴えから投げかけているのだ。当然、離散したユダヤ人たちも多くローマにはいたわけだから、その人たちが、エルサレムでの救い主の事態を聞き伝えて信仰に入っていた者も多くいたわけだから、その人たちに向かって手紙は(むろん、先理解を学んだ異邦人に対しても)発信させられている。律法、つまり彼らの伝統により神の言葉としてのそれを(罪の指摘)書くことは、きちんと聞くべし(読むべし)との汽笛を鳴らしたことに等しい、前書きとしての訴えになっているのだった。「彼らにも」、「彼らには」、「彼らが」・・・と出てくる「彼ら」とは「人間のこと」、神を認めない「人間」のことを指しているのです。
◇ここは、パウロさんらしい論理的な書き方となっていますね。こんな感じ。(口語訳で)
 「18節 → なぜなら 19節 だからです」、「20節 → なぜなら 21節 だからです」、「22、23節 → ゆえに 24節」、「25節 → それゆえ26、27節 →そして 28節 = すなわち 29~31節」、 32節でまとめ・・・というような書き方である。
正常な神との関係となっていなければ、いわば収集がつかない状態であり、本来の神との正常な関係に戻らなければ、いずれ、後戻りはできない状態となり人間は滅びに向かうしかないと腹の底から訴えているのである。これは、ローマの人々は読まないわけにはいかないという書き出し、しかも論理的な書き出し内容は、かなりアピールしたのであった。
◇2016年、今では僕らは、いろいろな学問、哲学や心理学、その他 いろいろな諸学、総じて人間学などが知られているから、多少、パウロさんが書いた心配事も、個々人の心の中でまともに軌道修正できるようになってきているけれど、それは、本当に歴史を見れば、真理を追究しようと努力されてきた人たちの努力のおかげなのであるが、もし基盤となるものが何もないとすれば、ソドムとゴモラのような、空恐ろしいい取集のつかない事態になって人類は滅ぶしかないなというような事態だったのではないだろうか。 
◇ローマにいるユダヤ人であるあなた方、現状自体に知らんぷりするのか、神は裁かれるぞ、律法をしらない異邦人とて神の裁きからは逃れられないのであると訴えていく手紙の内容に、異邦人に向けられた神の言葉の峻烈さを思わわずにはいられないのであった。自分達もローマにいる、異邦人もそしてデアスポラ(離散)となった、(神によりさせられたと考えたであろうけれど)その現状の事態を考えても神は選ばれしイスラエルの民族宗教から、全世界の世界宗教への兆しを感じないわけにはいかなったのである。・・・ Ω