marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(284回目)福音書において何を求め期待すべきかⅥ  (M・ルター)

2017-03-09 19:24:01 | 日記
 ルターさんの書かれたいかめしい表題も今回で終わりますが、今まで書いてきました文章もするすると読めるに、その内容をよく考えますと(繊細な意識で読むと書いたらいいでしょうか)、とても僕ら(つまり列車に乗っている側の人々)にはとても大切な注意しなければいけない事柄が多く書かれているように思われます。煎じ詰めるとルターさん曰く、神はすべての人に神の言葉を語りたもうているのであるから、すべてのしがらみ(障害)を除きすべての生ある物は熱心にイエスの言葉に耳を、心を傾け自分の物としなさい。これです。それでは、今までの関連として読まれてください。
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 だが、よく見るがよい。私たちはなんと素晴らしい、信仰深い子供であるだことだろう。聖書を学んだり、聖書でキリストを知ったりすることなど必要でないかのように、私たちは旧約聖書全体を、もう過ぎ去ったもの、なんの値打ちもないものであるかのごとく、無なるものと考えるのである。ところが、旧約聖書だけが本来、聖書という名をもっているので、福音書はもともと聖書ではなく、キリストや使徒たちがしたように、聖書を白日のもとにもちだす、口頭の言葉であったわけである。それだから、キリストご自身なにひとつお書きにならず、お語りになっただけであり、ご自分の教えも”書”とおよびにならず、福音、すななわち「よい知らせ、宣教」とお呼びになったが、これは筆ではなく、口で伝えられるものにほかならない。ところが、私たちは突っ走って、福音を律法の書、戒めの教えとしてしまい、キリストをモーセにしてしまい、助けてを単なる教師にしてしまう。このように愚かで、本末転倒の民の上に、神はどんなことを定めたもうたであろうか。私たちが神の書を放棄したのだから、神も私たちを放棄して教皇の教えと人間の偽りとの仲に引き渡したもうたし、わたしたちが聖書のかわり、嘘つきの愚か物や心黒い欺瞞者の多くの定めを学ばねばならなくなったのは当然である。どうか、神のみこころによって、キリスト者の間では純粋な福音だけが知られ、私のこのような働きなどはできるだけすみやかにに無用、不必要となるように。そのときには。聖書もまた、本来それにかなう尊厳を受けるようになるという希望もまた確かとなろう。 ・・・(終わり)
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                (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p63)・・・