marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(544回) 「我らの戦いは血肉にあらず・・・」(エペソ人への手紙6:12)

2019-02-20 23:24:25 | 日記
 今回は前置きがかなり長くなってしまった。ゴーンさんの語録は次回へ持ち越し・・・

◆彼はまだ この日本の国の拘置所の中で過ごしている。私はイノセントinnocent(無実)であると主張し続けている。もと検事の優秀な弁護士を抱えて、たいそうな額の弁護料を支払っているのであろうけれど、ルノー側もフランスベルサイユ宮殿への援助金が私的結婚披露宴のお金に使われていたとのニュースだ。・・・で、ここしばらくのブランクの間に御優秀なもと東京地検特捜部長さんでは2回もの拘留解除願いも通らず、彼の語録によれば、できない奴は辞めてもらうということであろう理由で弁護士交代と相成った。・・・しかし、この件の完全弁護は難しいかなと思われる。

◆語録の続きを書こうと思う。何しろ、僕は彼のご先祖様が、世界のベストセラーの生まれたかの地の出であることに非常に興味を持っていたし、車も好きだし、彼の仕事を通しての経営感覚というかそれらからの人生訓から得るものが多かった時代を過ごした世代だから・・・。これからも少し書く彼の語録からは勇気をもらったものだった。それと気になるドイツのキリスト教民主同盟のメルケル首相(時期交代されるが)も牧師の娘であるし、同じこの方も1954年生まれなのである・・・。

◆この年にこだわる意味は過去のブログに少し書いたが世界で聖母マリアの顕現がもっとも多かった年なのである(だから何なんだと言われればそれまでなんだけれど・・・)。僕の中の異界の世界でずっと鳴り響いている事柄でもあるのだから。つまりである2018年は世界が大きな曲がり角を通過したのである。僕のブログの主旨から言えば、「生ける汝ら、あなたらを創造せし神が世界を動かしおることを知れ・・・」ということになる。新訳聖書のヨハネ黙示録や、旧約の神が預言として世の終わりが暗示された(預言された)、そのままでは全然チンプンカンプンだったあのダニエル書やエゼキエル書の記事が、・・・・世界の動きが(裏の動きが、とあえて書こう)確かにそう読めるなぁと、あからさまにそうなってきた思いが僕にはしきりとするのだ。

◆世界動きの事も含め、彼の事も含め、無論、僕個人のことも含め、頭の中で昨年来からいつも鳴り響いていたのは次の聖書のことばだった。
  
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  我らの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
  (エペソ人への手紙6:12)

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◆彼の若い日の神父の教えは、この世の我々の肉の世界に対する教えであろう。真のキリスト者は最終、神に教えられるのである。・・・
 
 

世界のベストセラーを読む(543回) (1)カルロス・ゴーンさんの語録「解のない問題はない」(「ルネッサンス」から)

2019-02-12 21:09:14 | 日記
解のない問題はない

 収益の上がる会社にしたいなら、マネージャーには問題の核心を見抜く能力が不可欠である。これは私が学んだ大切な教訓のひとつである。
これまで経営難に陥った会社を任されたときに、あらかじめ解決策が分かっていたことは一度もない。だが、ありがたいことに打開策を見つけられなかったことも一度もない。これはひとえに、機能不全で異常としか言いようのない事態に何度も遭遇したおかげで、どんな問題でも、核心を見抜くことができれば解決できるという自信が植え付けられたからだろう。「解のない問題はない」という格言の正しさを経験が実証してくれたのである。

 私のスタンスはこうだ。試練を恐れない。危機的状況に対応できる。仕事には緊張感を求める。・・・緊張感はゴーン流マネジメント・スタイルの必須条件だ。
では、危機的でない状況ではどうすればいいのか。私は新しい目標レベルを設定したり、新たな挑戦の機会を与えるといった方法で緊張感を作り出している。会社こういう形で危機意識を持続することができなければ、社員のモチベーションは明らかに鈍り、真の収益性にとって大切なことを軽視するようになるだろう。・・・緊張感はトップが作り出さなければならない。これも私が身をもって学んだ教訓のひとつである。


神父の教え
 
 S・J・ラグロヴォール神父はイエズス会神父で、その後の人生にも十分通じる教訓を与えてくれた。物事には明確さ、簡潔さが必要だという教訓である。又、正しい人生を追求することがいかに重要かということも語ってくれた。

 「アマチュアは問題を複雑にし、プロは明晰さと簡潔さを求める」
 「まず、耳を澄ませなさい。考えるのはそれからです。大事なのは、自分の考えを可能な限り分かりやすい方法で表現するよう務め、何事も簡潔にし、自分でやると言ったことは必ずやり遂げることです」 

 ラグロヴォール神父は私に深い影響を与えた。彼にフランス文学を習い始めたのは私が14歳のときで、ちょうど人生の手本となるような人間を探し始める年ごろだった。彼は明らかにそういう人間のひとりだった。しかし、ひとりの人間に自分が求めるあらゆる特性が備わっているわけではない。人はさまざまな人間にで出会い、それぞれの長所を学び取り、それを再構成して自分の中に組み込み、独自の個性を作り上げていくものである。

 彼が私の中に残してくれた影響がどれだけ強いものであったかに気づいたのは、あれから30年もたって日本に来てからだった。彼は多くの教訓を与えてくれた。「分かりやすい人間であれ。明晰な言葉で説明せよ。やると言ったことはやり遂げなさい。」いずれも日産の再生を目指した私の姿勢に反映されている。
  
・・・彼の教えは今でも私の中に息づいている。  ・・・・  続く     

 

世界のベストセラーを読む(542回) 肉体を動かすもの〔 再考 〕

2019-02-11 10:50:37 | 日記
掲題◆カルロス・ゴーンさんの言葉を書こうとしておりましたその前に今回はしばらくぶりのヲームアップのみとなってしまいました。

◆本当に昨年2018年は、あまりに世界的に大きな目に見えないであろうが僕にとっては大きなうねり(曲がり角)があって、夏頃からまったく頭が働かなくなった。一日中、立ちづくめ動きどうしの仕事、それはあえて僕が嫌にも思わず老化する体力維持の為にと僕自身が内心望んでいたことでもあったのだが、体力的に気力に追いつかなくなってきたことも一因であるかもしれないし、老化が進んだということなのだということかもしれないのだが、そればかりではないと感じているのだ。仕事の中でだからブログで書いた来た、工場で働いたフランスの女性哲学者、シモーヌ・ヴェーユやアルバート・カミュの「シーシュポスの神話」は忘れたことがない。

◆「感じている」と書いたが・・・とここで、いつも僕は、ブログの主旨のおおもとに戻っていくのだ。それは、誰でもが生きているということを自分の言葉では普段は改めて言葉にすることなどはないであろうところの自分の肉体からの影響なのだ。あるときは体調と呼ばれ、あるときはそれは気分と呼ばれ、実はそれは外部環境、内部の身体的状況、血流や血圧、神経系の作用やそれがホルモンバランスだったりといったような・・・。人という生き物としての基本の「肉体」に関する事柄なのである。

◆だからというか、そんなことは人それぞれでいちいち言われることでもないでしょうと普段誰でもが思うであろうことが、改めて次のように書かれて、自分の言葉で認識してその意味は何か、なぜ自然発生的な心情現象に過ぎないのにと思うことに対し言われねばならないか、ここでイエスがなぜ出てくるのか、と改めて思わされ、その意味を獲得したいと願ってきた者なのである。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
   これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。」(新約聖書「テサロニケ信徒への手紙一5章16-18節)

◆神が人を創造されたとあるのだから、この立場は人と神が逆転することはない。だから、人の位置は神のもとにあるのだから、世界の「宗教」というジャンルにも本来、聖書の神は入らないのである。

◆僕などは神岡伸一の書かれた「生物と無生物のあいだ」などに書かれたことをさまざまな現象に肉体と物質の意味を問うて見たくなるのである。それは、時折、思考に顔を出す。そして肉体ばかりでなく、生き物に霊を与える神の御心というような事柄にも不謹慎ながら頭を突っ込みたくなるのである。

◆上空数千メートルに寒冷低気圧があってなどと言い寒波が到来するといった天気予報で、実際明け方、まだ暗いうちに暴風雨がきてそれが猛烈な風雪になって建屋を揺るがし始めた時、寝ていてその音に起こされ目覚め始めた時の気分のいらつき(神経系の煩雑な乱れと言ったらいいか)が起こるのはなぜなのか? 東北の人は慣れているのだろうが、冬空のどんより暗い空のもと、神経的に鬱になるのは太陽の光を浴びて過ごしてきた人にとって肉体神経系に対する必然現象として起こるものなのだ。生き物は目には見えない環境にもその考え、気分にも多大な影響を与えるものなのであるということ。しかし、それには無論個人差がある、神経系に過敏な人、そうでない人など・・・。まして、先の言葉手紙は実際に肉体に危害が加えられるという迫害の中で書かれたものなのですね。

 それでも、「いつも喜んでいなさい」 と使徒パウロはテサロニケの信徒に勧めをなしているのです。・・・ Ω