marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(333回目)聖餐について「実にひどい話だ」

2017-04-30 20:48:51 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 聖餐(せいさん)についてひとときふれたので、そのままでは素通りできないと考えたので書き留めておかなくてはいけないものと思われました。そのことに関する僕の考え方は、実にシンプルです。秘蹟の一つでもある聖餐については、とても大切な事柄ではあるにも関わらず僕はにぎにぎしくも(おそれおおくも)定義などはしなくてもいいと思う。なぜならイエスがズバリその意味を話されているからです。
◆330回目に掲載したアリスター・E・マクグラスの著作はDVD付き聖餐その歴史と実践(Holy Communion Its History and Practice:キリスト教新聞社2015年2月25日初版)でしたが、その中にはかの宗教改革者の定義が掲載されて、読んでも心にはストンと落ちないのは、宗教改革というそのまっただ中にいた神学実践者の言葉であるからなのだろうと・・・。今の僕にとっては初めての方にもいきなり、このような人間の言葉での秘蹟の定義の提示は初心の方にはまずいというか理解不能であろうと思う。(神学生でも神学者でも”ああ、そうですか”とうなずくだけだろうと思うわけだ。つまり、心から素晴らしいルターの定義だ、ツウィングリの定義だなどと正直感動する人はいないだろうなと・・・正直どうだろうか。)
◆当然、礼拝の中で行われる聖餐式は、イエスとその弟子たちの「最後の晩餐」での、イエスの言葉が唱えられて預かる食事で「これを記念として行え」とイエスが述べられる箇所である。しかし、イエス御自信が、その聖餐の意味をきちんと話しているのである。だから、秘蹟である聖餐の定義などの人間の言葉は特にいらないと僕は心から思っている訳です。
◆では、それはどこかといえばヨハネによる福音書第6章です。弟子たちの多くでさえこれは「ひどい話だ」と離れ去り・・・と書かれている次の言葉です。
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(6:48)わたしは命のパンである。〔・・・・〕
(6:51)わたしは天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならその人は、永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉である。〔・・・・〕
(6:54)わたしの肉を食べ、わたしの血をのむ者はいつもわたしの内におり、わたしもまたいつのその人の内にいる。〔・・・・〕
(6:58b)このパンを食べるものは永遠に生きる。 
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 聖餐については、イエスが語ったこれ以上に明確な答えはない。我々はその言葉を信じ、聖餐に預かるのである。・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(332回目)「原罪と永遠の命」覚え書き:人は存在するかぎり「性」から脱出できない

2017-04-29 09:16:00 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 アリスター・E・マクグラスが分子生物学の博士ということもあって、気になってきたことがありました。
◆肉と霊の事に書かれているパウロの手紙、「肉の思いは死なり」という言葉、そして福音書「神は霊である」(ヨハネによる福音書第4章24節)とイエスがサマリアの女に言われた言葉。
◆そしてパウロが手紙で「霊と肉」について語るところ、実際に彼の手紙は、その事に終始していたと読めなくもない。つまりは、人間が神の似姿に創造されて以来の(第一の人アダム以来の罪による死の介入のこと)、そしてカルヴァンが原罪として遺伝的罪(無論、原罪のような遺伝学のような精緻な事柄でなかったとしても)と定義の中でのべていたこと。
◆親からの遺伝があるわけだが、聖書をとおして「親族、親、兄弟、姉妹、子などを憎む」といような(これは本来、ユダヤでは日本語のそれではなく、第一とするものではない<神を第一と考えるべき事柄であるという意味合いで「憎む」という言葉が使用されているとのことです>)言葉が言われているのは、肉によるその罪の継続を断ち切るという意味合いが含まれていると思われる。そうでなければ地上のつながりから天上への帰還にはそれが障害となるからと考えられること。
◆とにかく、聖書は、まさに聖書であるから性的不道徳に関しては厳しいと見られること。第一に男女の肉的性関係以前に、心の問題として特に偶像を持つことに関しても姦淫を犯すなどの意味合いで語られていること。これは特に厳しいように読み取れます。
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◆永遠の命への帰還。天地創造なる神。人間をも創造されし全宇宙にあって神が創造されたシステムは、大変よかったのであるが、堕天使(地上に落ちてからは悪魔)以前の天上界にて、創造された人は狂いが生じてしまった。いまふうに言えば、システムは万全であったが、神の似姿に創造された人間は、その自由の判断の隙間にウイルス感染を悪魔により生じさせられてしまったということになるか・・・。従って、人間には死が入り込むことになった。(アダムによる第一の人間)
◆天上への帰還が困難になった人間を回復すべく、個々人の自由判断にゆだね、まったく天には帰れなくなった(理由は罪の伝搬による完全な当初の人間ではなくなったから)人間にその判断と了解を迫らざるを得なくなった(あまりに複雑にとても天上には帰還できない人間になってしまったので)。そこで神は、独り子イエスを地上へ送り、彼を信ずる者は、そのどんな罪の欠陥をも免除するという契約をするということの宣教を全世界に行うのです。
◆旧約聖書、信仰の父アブラハムは神の声を聞いて親族から離れて行く先を知らず、ただ神を信じて旅を開始する。また、モーセはエジプトの地から脱出を図る。約束した通り、鴨居に血が塗られた家(新約でのイエスの血を暗示)の禍(死)が通り過ぎその家の者は約束の地に向かう。その他、多数の記事。この地上で僕らが生きていること、神を信ずることはいかなる時もその方(神)にまみえるまで(その国に入るまで)脱出と前進であるというイメージなのです。無論、試練、困難は数知れず、しかしイエスがサポートされて導かれるということに・・・。
◆私たちは、地上においては寄留者なのである(ヘブル人への手紙13:14)、我らの国籍は天にあり(ピリピ人への手紙3:20)の通りです。従って、これらのことから、地上におけるパウロがコリント人の第一の手紙で述べているごとく、彼はこの地上において「霊と肉」を語り、また、当然、まったく地上の汚染された霊ではなく、信じる者、否、本当は全人類、生きとし生けるすべてのものと言っていいが神は「聖霊」を賜っているということなのだ。信ずるかどうかというより、これが満ちていないと今まで述べた地上の悪魔もうろつく汚染された霊のみでは絶望以外にないことが理解されてくるのではないかと思われます。従って、これを信じて光ある内に光の中を歩めなのです。
◆最後に一行。生物学的に「死」の対は「生」ではなく「性」なのです。体細胞が死ぬが、生殖細胞は人間が存在するかぎり永遠に生き続けるからです。聖書がなぜ「性」に関して厳しいのか。それは人間が生きているかぎり「性」からは脱出できないからなのです。・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(331回目)アリスター・E・マクグラスを読む(続き、そして終わり)

2017-04-28 23:33:06 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 連休前に当たり、少しく以前から考えていたことをまとめてみたいと思いました。世界のベストセラーとはイエス・キリストの事を書いた聖書のことです。(イエス御自信が旧約聖書も自分の事が書かれているのだと言われたので、一応、旧約、新約聖書一冊のことということでご了解ください)さて、前回にマクグラス先生の著作のお話をしました。僕の持っている他の彼の本にも必ず箇条書きにまとめられた文章が掲載されています。彼が神学博士は無論、分子生物学の博士号などもとられていますので、そのためか論理的に知識を披露して、余韻で学ぶ者に考えさせるといういわゆる大学の先生でもありますので、そのような文章の書き方となっています。
◆僕もまだ若かりし頃に「科学と宗教」などについて、彼の著作にも彼の著作にもその表題の本がありますが、つたない頭でさんざん考えましたので以降は概論的なその類いのものは一応卒業して彼のその本は読んでおりません。
◆今回はそのことを書くのではありませんが、一応、その僕の見解をまとめておきますと 結論は一点になります。イエスは「わたしは、道なり、真理なり、命なり」と有名なその言葉を言われた。「真理」とは何か。キリストもそういう問いを受けたが・・・。科学における、真理とは、誰がそのように検証しても同じ答えがでる、反復性が実証されると言うことですが、それは科学における「真理」とは無論、機械論的にみた反復性のある対象(事象)のことについての事であるとして、さらに一歩下がって、では、そもそも真理であると認めるのは誰かということです。結局、神の創造されし人間なのではないかということです。ここに真理がないと、つまり生き、考えるという基準がないと事象としての真理も真理とは認められないだろうと思うのです。人間がその事象を認めて、判断してその有用性までを確認できる、その提供者(ここではキリストになるが)が真理である、つまり僕らは正しい判断ができるようその生きる真理に繋がらないと事象結果、検証結果がそのとおりであってもその理解のしかた、用い方を間違うであろう。そういう見解を現時点で持っています。つまるところ、人間に確認されて科学というのもなんぼのものという考えが僕にはあるのです。真理とはそのそも意味を持つものであり、人間から離れた真理は、それは真理ではなくただの事象解析結果(事実の判明、神のつくられし世界はこうでしたという結果)でしかないではないかと僕は考えるからです。
◆さて、彼は、著作の中でカール・バルトの言葉を引用し、聖書の学び(神学は)も実際の所、ひろひとりの実践での(学ぶ)行為が伴って真の学びというものだと言っている箇所がありますので、その言葉を掲載し、今回の締めといたします。
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 神学は神学者だけの個人的な課題ではない。それは神学部教授たちの個人的な課題でもない。幸いなことに、大半の教授たちより神学についてよりよく理解した牧師たちが、いつの時代にもいたのである。しかし、神学は牧師たちの個人的な研究課題でもない。幸いわいなことに、牧師たちが神学的に幼児であるか無教養人であった時、熱心に神学を追い求めた教会員が繰り返し現れたのであり、知己には全会衆がそうであった。神学は教会の事柄なのである。
                         (アリスター・E・マクグラス 著 「神学のよろこび」 芳賀 力訳)
        ******************************************  ・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(330回目)脱線:アリスター・E・マクグラスを読む(言いたいのは後半です)

2017-04-26 20:07:27 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 おいおい脱線といえどもたいそうな表題だ! この方の著作を読むといっても結構大変な量。僕も数冊持っているが結構いい値段。神学資料集などは1万円前後だ。うんと高いのは持っておりません。
◆ここで僕が持っているほんの紹介などではありませんで、キリスト教神学を学んでいる方はこの方の本は読まれていなくとも名前は知らない人はいないほどであります。少しくかじった程度ですが、とにかく博学な方です。今回読んだのは、DVD付き聖餐その歴史と実践(Holy Communion Its History and Practice:キリスト教新聞社2015年2月25日初版) というもので、立ち読みでも読み通せそうなページ数です。左のページに英文、右に翻訳、そのときの講演の録画がDVDでついてますので、英語の勉強にもなりそうです。ただ、英国の方ですからアメリカン英語とのニュアンスは少しく異なるように聞こえます。ロンドン大学の先生から神学の直々の授業・・・。
◆著者略歴:アリスター・E・マクグラス(Alister E.McGrath) 1953年北アイルランドで生まれる。オックスフォード大学で化学と生物学を学ぶ。若くしてマルクス主義に傾倒するが、在学中にキリスト教再発見。1977年分子生物学で博士号取得。また同大学から神学博士号を受ける。オックスフォード大学ウイックリフ・ホール前学長。現在ロンドン大学教授。利己的遺伝子で有名な無神論者のリチャード・ドーキンスに対する批判者の急先鋒で知られていると。
◆この方の本の僕の第一印象(あくまで)、とにかく博学さは伝わってくる、しかし広く洗練されてはいるがどうも僕にはエモーショナルな部分に響かないのは、大学の先生らしく個人の湿った部分に立ちいて来ないからか国教会だったからなのかと思われる。時折、科学者でもあるので箇条書きもよく持ちいられる。関連知識は、提供しますから結局の所、イエスとあなたが考え納得し、生きることですというところが落としどころ。聖餐に関するM・ルターやツウィングリの文章を紹介されている。「聖餐」に関してなどは、全く信者にとっては(神学を教える大先生にとっても)神学のキモ中のキモなので、真摯に受け止めるしかなく僕らなどの言葉であれやこれやはありません。
◆ただ、未信者にも聖餐をほどこさんとするその道の方もいることに関しは招待側(つまり日本から)は課題として事前情報を入れているらしく日本の国の事に関しては自分はきちんとした見解は出しませんと言い切っておりますね。僕などは、どちらにしろ日本語で聖書をよく読まれてくださいとこれは前にも書いたことです。契約とは相手の承諾と理解があって成り立つものです。その記念として行えとイエスは言われたのですから、自分で都合よく理解、承諾されていない方に実行してはいけません。(これは僕の考え)
◆ところで後半、僕が気に入りました文章を紹介(p23) カルヴァンが論じたこととしてこう述べているところ。
神はわれわれの能力に合わせてご自身を適応してくださるのです。神は、われわれの水準にまで降ってくださるのであり、その際に様々な人々の能力に合わせてご自身を啓示することを可能にする力強いイメージや話し方を用いられるのです。誰も、自分の教育程度のために、神について学ぶということから排除されるということはありません。神が御自信を啓示されるのにそうした低き方法を用いることができるということが、神の側の不十分さを表すことでは全くありません。それはわれわれの側の不十分さを表しているのであり、神は寛大にもそれを理解し、それに対処してくださっているのです。」
◆詰まるところ、このブログの主旨である。自分の言葉で読むということです。イエス御自信が、その人にふさわしい言葉をその都度お与えになるだろうということ。ですから膨大な知識量も多くの博学な神学者がおられてもおそるに足りません。もう一度、振り返りルータが言われたヨハネによる福音書のイエスの言葉を丁寧に読みなさい。そして、復活の時、天使が言われたその言葉を信じなさい。「あの方にはガリラヤでお会いできるであろう」。弟子たちにとってガリラヤは自分たちの住んでいる日常の場所だった。再びそこで会えるであろうと。つまり、あなたの今いる日常、あなたの隣でイエスはいつも語りかけられているということです。・・・Ω 
  





世界のベストセラーを読む(329回目)復活後イエスが話した言葉 「罪をゆるしなさい」

2017-04-25 22:50:29 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
ヨハネによる福音書第20章19~23節
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(20:19) その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスが入ってきて、彼らの中に立ち「安かれ」と言われた。 
(20:20)そう言って、手と脇とを彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
(20:21)イエスはまた彼らに言われた。「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
(20:22)そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった「聖霊を受けよ」。
(20:23)あなたがたのゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう。
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◆ずいぶん以前から、心に残っていたことです。ヨハネ福音書によれば復活後、弟子たちに現れて(個人的にはその前にマグダラのマリアに現れたのですが全員にということ、このときトマスさんいなかったけど・・・)「聖霊を受けよ」と言われた後、次のように話されています。「あなたがたのゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう。」
◆「罪をゆるしなさい」と言われたことばを僕が唐突のように思うのは、すこし小難しく言えば、ここに他の人間への配慮が突然に出てきているからなのです(対象として他者が・・・)。まず、イエスの自分の関係、その群れ(共同体)とイエスの関係とかではなく、もう個人の諸々の問題課題はすべてイエスによって解消されているから(完了ではなく、イエスと共に解消されていくからと考えるべきだろうが)まず、他者との関係における罪を許せとの勧めなのです。突然の他者が出てくる、しかも罪を許せと・・・。
◆とすると、異邦人の僕らは、「罪」という言葉が出てくると振り出しにもどった気にさせられるのです。パウロが語る肉の働き(前前回に書きましたが)それらの諸々のことは、霊と結びついていない人のあるいは心の結果としての表出のようだが、一般に神との関係がずれている「的外れ」が罪と言われるけれど、自分の罪もままならないのに、他人の罪を許せと仰せられるには、とても深い意味が含まれているのではないかと、僕はまた考えてしまうのです。
◆第一に僕などは「罪深い」などと、とてもそこまでの言葉にも出てこない自分がいるのです。これまた小難しくなるが、言葉を使うということは、その言葉の意味を先に理解しているからできる事ですからねぇ。本当に罪深い僕らはというか、異邦人だからよく分からないからといおうか、キリスト教が個人に難しい(信徒が増えない)と思われる一つは、先理解のない言葉が多々あることではないだろうか。それを覚えないと心から納得して信者になぞとてもなれんと考えるからではないだろうか。あのような分厚い聖書の文字だらけに・・・それで、信者になったとしてもそれらの言葉が後出しじゃんけんのように出てくるとまず、知識において僕らは、閉口してしまうことにならないか。ここで自己疎外感を群れの中で感じてしまうだろうのではなかろうかということです。
◆ここで僕は一つの回答を話してしまっているのではないか。イエスのこの言葉は、復活されたイエスに預かった弟子たちに話された言葉なのです。21節は、宣教の勧めを弟子たちに話した言葉ととれます。主を知る、これほど預かった者が優位を誇れる者はないでしょう。罪がどういうことか、またゆるす方も目の前に知り得た。その一員としての使命と心がけで最も大切なことをイエスはこのとき弟子たちに話されたと考えられるのです。
◆しかし、また先に書いた「霊の人」もあるとすれば、肉において持ったゆるされない罪はどこかの「肉の人」に入り込んでその人を苦しめるのではないかとも思ってしまうのです。神がイエスを通し我々をゆるされたのだから、その「愛」を知るべし。・・・Ω