marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

彼の不可解な言葉は霊的障害を除き天に入るべき自覚の勧めであろう:世界のベストセラーを読む(949回)

2021-12-31 23:01:16 | 日記

◆我ら人を愛されているといわれる彼がなぜ、こうも無理難題の厳しい言葉を投げかけるのだろうか! 「・・・もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切りすててしまいなさい。 両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方が良い。 もし、片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。 両足がそろったままで地獄に投げ込まれよりは、片足になっても命にあずかる方が良い。 もし、片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。 両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 」(マルコによる福音書9章43~47節) その他多数、自分のよりすがろうとするものの一切を捨てよ、自分自身まで憎め、とまで何故言われるのだろうか。「・・・もし、誰かが私のもとにくるとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってゆいてくるものでなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14章26~27)この後の言葉は、怪しい教祖が実際に現れて若者をその家族から分裂させ問題を起こすきっかけともなったイエスの言葉である。この言葉の解説について神の言葉は厳しいのだ、という印象だけで、それ以上の個人的な解説を読んだことも聞いたこともない。父母を敬えと十戒では述べ、父母を疎んじ神への捧げものだとしているファリサイ派を非難し、互いに愛せよと言われるが、ではこの矛盾しているともとれるこの彼の言葉は、何を意味しているのだろうか。さらに”我に従え”と言って、目には見えないのにも関わらずこれはまったく不可解な言葉ではある。

◆こういう不可解な言葉、現生の常識からの疑問をもつ言葉に、僕は異界の世界の入る厳しさをなぜか感ずる。憎む身体の部分を切り捨てとか、自分を捨ててまでとか、身内親族を憎んでなどという言葉は、神の霊につながり永遠に生きる霊になるには、今生で神との霊的つながりを第一にし、その他の霊的障害を生じさせるものから一切りはなそうとする自覚もつことである、と解釈されるのである。自分自身の肉体や肉親など血のつながりのある霊的に最も影響を及されやすいDNAを引き継いる人々、夫婦一体となると言われる妻をも捨てよ、とは、誰でもが神の前には霊的障害となる原因を取り除き霊的個人として立たなければならないからである、と解釈されるのではないだろうか。そもそもあらゆる宗教で修行と言われる行為は、肉体を酷使するもの、精神が肉体を超えようとするものであった。キリストの教えとしての”我に従え”とは、霊的次元において彼の遣わす清い霊、聖霊に繋がれ、ということになるのであろう。その母体となる受信機としての自己の肉体をそれに係わるこの世の肉なる人々の霊的障害になりやすいその霊に同期や同調せず、清くあれ、神の霊に繋がっていなさい、との宣告なのである、と考えられるのだ。いずれ、霊的次元からイエスの言葉、永遠の命とは、人が霊をもって生きているがゆえに無関係な者は一人もいないということなのである。


厳しい不可解な彼の言葉は霊的障害を解消し天上に入る準備なのか:世界のベストセラーを読む(948回)

2021-12-31 09:09:09 | 日記

◆詰まるところ、天国においては、一人一人がしっかり自分としてすっきり理解され、微塵も障害となる何をもなく、疲れもなく常に言葉では例えられない光に包まれたベストコンデションで永遠にいられるということらしい。霊の次元から聖書を読むと不可解な言葉が少し理解されてくるのではないかと書いて来た。というか、実にその観点から読み込んでいけば我々を神の独り子イエスという方をとおして、”永遠の命”に導くため十字架に掛かられたということが理解されて来るのではないかと思ってきた。ここまで書いて、護教論のように思われて苦い思いがされて来る人がいれば、詳細にそのご自分の考えにどんなフィルタ―がかかっているかを取り除いていき、直接、自分の言葉で思考することである。そうすれば彼は今も生きていて、求めんとする者に声を掛けられていると言われるし、浮遊し生身の人に関わりたいと願う霊が取り巻いているのだから(インカーネーションしたい霊か、命を消滅させたい悪霊か)まして聖霊はあなたの求めに必ずや語り掛けてくださるであろう、ということになる。◆イエスご自身が、「神は霊である。」と言われているし、人は神に自分の似姿に創造され、これ以上の完璧さはないと喜ばれた傑作なのであったのだから。つくられたということは、それを動かすプログラムもあった筈であろう、それが、パウロが手紙の中で”霊の法則”と呼んだものだったのではないか。神の霊につながる人の霊、これが永遠に生きる霊、”生ける者”と聖書で語られているものである。”死ねる者”とは、地上に誕生して霊を持っても、それ以上の天上の霊に繋がっていないから肉体が消滅すれば霊も消滅していく、つまりなくなるものなのである、となる。◆イエスの弟子達への厳しい言葉は、天上からの霊に結びつくためには、現に天上を知らない浮遊する霊、あるいは汚れた霊、そもそも生まれつきのままの霊を持った肉なる霊に同期、同和、同調しないようにとの厳しい言葉なのである。浮遊する霊の同調は目覚めていないと非常に強く、その同調の母体(肉体)までも消滅するまでも力の強いものであることを知ることである。だから、すべてを捨てて我に従え、などという言葉も、此の世においておかしな教祖がでてきて事件なども起こったりする怖い言葉でもあるが、このような現生からの解釈よりも、第一に霊的な次元から解釈することが大切な言葉なのである。それは、常識的にそれを捨てたらおかしいだろうと思うことがらも、それに霊的障害を引き起こされてはすっきりした求める霊にはならないだろう、との意味合いから来ている言葉のようだ。◆特に結婚は、神の神秘と書かれ、姦淫するな、とはいずれも特に霊的同調をひこ超すものである。肉体の性的結びつきは、霊の一体化を起こすものなのである。新しい命の誕生に結びつく(霊的インプットの始まり)となるものだからである。死ねば解放され、ひとり一人がその人として何に束縛されることもなく天上に住まうことになる。イエスがレビラート婚と呼ばれるもので、次々亡くなった夫の妻は、死後誰の妻になるのか、と問われ、天上においては誰かれに縛られることはなくひとりひとりが天使のようになるのだ、と答えたことは、今生において、キリスト教が人格、人権の基となった話なのである。


介護施設での殺人、放火事件を霊的に思う:世界のベストセラーを読む(947回)

2021-12-30 15:03:19 | 日記

巷でニュースになっている介護士は、空気注射で今までに何人かを死に至らしめているという。女性介護士は、血管に空気を入れたらその人は死ぬということを思わなかったのだろうか。そんなことはないだろう。放火殺人はなぜ、また起こったのか。悪霊は人に入り込み、無意識のうちに殺人者にしてしまう。悪魔は飲み尽くすべき人を探して歩き回っている、と聖書にある。

◆ルカ福音書にイエスが語ったこととしてこんなことばが載っている。「汚れた霊は、人から出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、「出て来た我が家に戻ろう」と言う。そして、戻ってみると、家は掃除して、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分より悪い他の七つの霊を連れて来て、中に入り込んで住み着く。そうなると、その人の跡の状態は前よりも悪くなる。」(ルカによる福音書11:24~26)さらに イエスはこう明言する。「悪魔は人殺しである。」(ヨハネによる福音書8:44)と。

◆霊と肉、天地創造において人は創造主である神から霊を吹き込まれ、万物創造の最後の完成品として人を創造されたという。地上で悪霊に介入され、錯乱し命を消滅される運命となった人類の歴史の中で、光と希望を求める人々とその命を消滅しようとする悪霊との今も続く長い歴史の戦い。神からの霊の受像器に欠陥を持ってしまった人類に、イエスはこういう厳しい言葉も言い放つ。「自分を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ伝12:25)これは生前のイエスの言葉だ。しかし、復活のイエスに会い、第三の天にまで導かれたというパウロは、エフェソの信徒への手紙でこのように記す。「我が身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわる者です。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。」(エフェソの信徒への手紙5:29-30)僕はそのような、上からの聖霊としての神の言葉と地上での100%死亡率のある肉体を持つ人が解釈する言葉との意味するところの齟齬に、天上への異界の扉の入り口が見えてくるように思われて仕方がないのである。

◆新約聖書の、この地上の僕らには不可解な、矛盾しているようにも思われる聖書の言葉。それは、次元の異なるその人の真の霊を神の霊に結びつけようとするまで求めつづけた言葉であり、この地上で、すべてのしがらみから解放されて、あなた自身として真に生きる者となることを心から願う言葉でもあったのだということになるのだろう。自分では選択肢のないDNAを持つこの肉体と、あらゆる霊的障害からの解放と聖霊との繋がり。ここにおいて真の自由があると言われるのである。・・・


霊的次元の中に我らは存在している:世界のベストセラーを読む(946回)

2021-12-29 21:11:42 | 日記

◆何もスピリチュアルな次元のことでその空論を語ろうとしているのではない。事実としてあるのだから薄気味悪いものでもない。ただ、僕らは、普段に常時、その世界とつながる頭脳の中の呼応するその部分とのチューニングがあっていないのである。で、前回の話でどの解説書にも書いていないだろう僕なりの回答を書こうと思う。旧約聖書も新約聖書も、霊的次元からの言葉が部分的に著されて来ているものである。だから、やさしいイエスの言葉もなにやら実に人間世界からは不可解な、あるいは矛盾しているようなこととして書かれている箇所があるのである。イエスは「神は霊である」と言っている。さらに、「人を生かすのは霊である、肉は何も役にたたない」と言っている。ここまで明確に書いてある宗教書を僕は知らない。事実、イエスは復活し、その永遠の命ということを実証した。・・・と、ここまで結論しなくても彼の復活の事実に弟子たちが触れなければ世界にこれほど広まることは決してなかっただろうと思う。その霊的次元から解釈する。◆ヨブがサタンに試され家族が事故死させられ、そして自分の身体までも病気という危害を加えられ、友人との長々との会話にも、結局、結びにおいてはヨブは神に祝福を受ける。死んだ家畜は2倍となって生まれ、子供たちは同じ数で誕生した。しかし、家畜はまだしも先の子供が死んだのに喜べるのか、先の子供たちがかわいそうではないか、と普通、柄谷行人でなくても違和感を覚える。・・・しかし、この物語は霊的次元の例えでもあるのだ。物語の冒頭でサタンの試練に遭い、死亡する息子、娘たちは、結びにおいて新たに誕生した息子、娘たちの”霊が同じ”なのである。これが答えなのだ。同じ母親から生まれても、形体は同じという訳ではない。これは、マリアが復活したイエスのことを墓を守る庭番と思ったとか(ヨハネ伝20:14)、弟子に現れたが分からなった(ヨハネ伝21:4)、エマオの二人の弟子に共にイエスが歩いてご自身のことを話されているに気が付かなかった(ルカ24:16)などからも分かるだろう。◆地上における肉は、異なる形体を示すだろう、けれど、この話の場合、一度地上から肉体を解放されたその霊、先の同じ息子、娘の霊が再び話の結びで誕生した息子、娘に入ったことを示しているのである。肉体が滅んで形体が以前と異なっても霊は生きていて同じ息子、娘として地上に再生、復活したのである。霊的に復活した後の方が、より鮮明により美的に誉ある存在としてよみがえるのだ。つまり、地上に霊を受けた者としてより、自分として鮮明に自覚して生まれ変わるのである、という地上の人の霊のありようと天上の神とサタンのドラマが描かれている物語なのである。◆さて、僕らは今、この瞬間も生きている。をもって生きている。ただ、少なくとも僕は自分の過去性を知らない。人生は何の為にあるのか、との答えをキリスト教界は、今生において永遠の命を与えるキリスト・イエスに会うためにある、と語り続ける。彼は実際、目には見えないが、今も聖霊として思う人の心に語り掛けているという。あなたは、人の言うことなどまずは無視していい、あなたが会うのであるから。心のドアノブはあなたの内側にしかついていなのだから。・・・あなたはこのことを信ずるか。


評論家、柄谷行人がヨブ記を読んで不可解に思ったこと:世界のベストセラーを読む(945回)

2021-12-28 11:37:13 | 日記

聖書は霊的次元をもとに解釈すると不可解な記事も理解の助けになるやもしれない、ということを書いてみた。学問というのは、過去のことにおいても知識において文字として残り、検証できなければ権威あるものとして受け入れられない。では、検証もできない体験としてあるものは仕方がないとしても、実はおかしいところはおかしいのではないかという素直な聖書の学者さんはあまりいない。田川健三という神学者くらいか、でも初めての方は彼の本の前書きやあとがきなど読むとひっくりかえるからおすすめはしない。それはともかく、僕が思うところの霊的次元をもって聖書を読むことは、大いに助けになり、イエスが地上で実際に取り巻いている”風”のように例えた霊について思いを馳せて読むと何とはなく理解したようになってくるのだ。・・・◆柄谷行人という評論家が旧聖書のヨブを読んでこれは納得できないと書いていたのを思い出す。無論、彼はおかしくないかと思ったと書いているだけで、これで納得したとは終わっていないかった。ヨブ記の専門家が学者である並木浩一先生も”ヨブ記注解”という21年の今年出しているが、今まで書いて来たような霊的次元からどうのこうのとまでは踏み込んでいない。これは信仰深い地上における東の国一番の富豪であったヨブが、天上での神とサタンの会話の駆け引きに試され、それに三人の友との問答が長々と続く物語である。中身を今までの社会通念での善悪の常識から読み進めると、何が何やらわからないと面食らう物語である。とても知られた格言も最初の章には書かれている。高い次元に上って俯瞰しないと最終よく理解できないが、僕なりのまとめてしては、天上における神の善悪の判断は、この地上での我々の次元で神の善し悪しの判断しては勝手にしてはならないこと、という結論になるだろうか。◆で、その不可解なところがどこかと言えば、ヨブの子供たち7人の息子と3人の娘たち、そして多くの家畜(羊、ラクダ、牛、雌ロバ)を持っていたが、神との駆け引きに試されサタンによってすべて事故死させられてしまうのである。・・・そして、最終結びにおいて主はその後のヨブを以前にもまして祝福されたとあり、家畜はそれぞれ数値まで書かれて、きちんと2倍に増やされているが、息子、娘は同じ数なのである。先の子供たちは、既に亡くなったのだから祝福されて子供ができたといってもこれが喜びとなるのだろうか、ということが柄谷が疑問に思たことなのである。しかも新しく生まれた娘たちは名前まできちんと書かれているのである。「主はその後のヨブを以前にもまして祝福された。ヨブは羊1万4千匹、ラクダ6千頭、牛1千匹、雌ロベ1千頭を持つことになった。彼はまた7人の息子と3人の娘をもうけ、長女をエミマ、次女をケッィヤ、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。ヨブはその後140年生き、子、孫、4代の先まで見ることができた。ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。」今までの苦渋に満ちた会話から結びに至って、美しい娘さんが詳しく書かれたいるのに心がほっとするのである。・・・◆柄谷の持った不可解さは皆さんも思われただろうか、僕も思ったのだから。そこで、人の霊の次元について思いを馳せながらこのことを考えて見られたらどうであろうか。ニコデモにイエスが語った記事に戻りつつ、僕なりの結論に至ったヒントを提示してみたい。読者も考えてみて欲しい。・・・「肉から生まれた者は肉である。霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネ伝3章6節)