marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第2章23節~ニコデモとの会話)

2016-09-30 00:04:54 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆ニコデモとの会話(第2章23節~)八木誠一訳(1970年)
23:イエスが過越の祭りの間エルサレムに滞在していたとき、イエスが行っていた徴を見て、沢山の人が彼を信じた。しかしその多くは単なる奇蹟信仰にとどまっていたので、イエス自身は常に彼等との間に距離を保っていた。
25:イエスには、人の心の中に何があるかがよく解っていたからである。イエスは人間のことについて人から教えを乞う必要はなかったのである。
3-1: 律法の研究と実践に専念するパリサイ人の中に、ニコデモという名の人がいた。ユダヤの最高法院の議員であった。この人は、人目を避けたのかあるいは学ぶ熱意からか、とにかく夜イエスのもとにきて言った。
2:「先生、私達はあなたが神からつかわされた教師であられることを知っています。何故といって、もし神がともに在したもうのでなければ、誰もあなたがなさるような奇蹟を行うことは出来ません」。
 ユダヤ人にとって、奇蹟は教師の権威の証明でもあった。ニコデモはイエスの奇蹟を見て、教えを受けに来たのである。
 しかしイエスは教えない。ニコデモと同じ前提に立ち、共通に承認された事柄から出発して、彼を導くことをしない。彼は真理自体として、いきなり第一義の真実をぶつける。ここでも真理は世の要求を一旦否定して、それをより高い意味でみたそうとするのである。イエスは言う。
3:「私は君に真実を告げる。人は新しく生まれなおさなければ、神の支配のもと入って救いに与ることは出来ない」。
 新しく生まれなおす、こう言うより仕方ない事柄が事実ある。イエスはこの事柄の存在を告げる。それなのに、その事柄を知らないニコデモは、「生まれなおす」ということを生理的な意味にとってしまう。・・・つづく 

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第2章13節~宮清め)

2016-09-28 21:50:17 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆宮清め(第2章13節~22節)八木誠一訳(1970年)
13: 春になってユダヤ人のエジプト脱出を記念する過越の祭りが近づいたので、イエスもエルサレムにのぼった。祝祭の折には敬虔なユダヤ人はエルサレムに集まるのである。
14: イエスは神殿に赴いた。神殿の前庭には、犠牲として献げるための牛や羊やハトを売る人や、神殿税納入のための金を両替する人が営業していた。
15: イエスはそれを見ると、なわでむちを作って、この人達を羊や牛と一緒に神殿から追い出し、両替え屋の小銭をまき散らし、机をひっくり返して言った。
16:「みんなここから持って出ろ。私の父の家で金儲けをするな」。
17: イエスの、神の家を思う熱心を見た弟子達は、詩編(69:9)の言葉を思い出した。ここには「あなたの家を思う熱心が私を喰いつくす」と記されているのである。
18: ユダヤ人はイエスに言った。
  「こんなことをやってのけるとは、一体君はどんな徴で君の権威を証明するのだ」。ユダヤ人の言う徴とは、地上の異常な出来事(奇蹟)それ自信のことである。彼等は、それが神から権威を授かっていることを証明すると考えている。
19: イエスは彼らに答える。
  「この神殿をこわしてみたまえ。そうしたら私は三日で再建して見せる」。
20: そこでユダヤ人はイエスに言った。
  「この神殿を建てるにはもう四十六年かかっている。それなのに君は三日で再建するというのか」。こうしてユダヤ人はイエスに躓いた。
21: 実はイエスは自分のからだのことを神殿といったのである。これはユダヤ教の神殿祭儀の克服にほかならない。神殿はのちに破壊されたが、イエスは死んで三日で甦った。イエスの言葉は、ユダヤ人の徴の要求を否定しながら、実は高い意味においてその要求をみたすものである。真理は世の要求に対してはいつもこのように振る舞うのである。
22: イエスが死人の中から甦ったとき、弟子たちはイエスが先に言ったことを思い出して、聖書とイエスの言を信じた。イエス・キリストは神殿に象徴されるユダヤ教を克服して、彼自身つまり真理そのものを世にもたらすのである。

 <「宮清め」の章 終わり> ・・・ 

世界のベストセラーを読む(146回目)

2016-09-28 00:10:25 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 今回も少しラジカルなことを・・・
先回145回目の後半に述べたことは需要なことだと僕は思っている。そしてどうだろう、あなたが2016年の今、その道を伝える人だとして、イエスのことを信じてもらおうとした場合なのですがその力は湧いてくるでしょうか。その意気込みは湧いてくるでしょうか。僕らは、異邦人でユダヤ人のようにパラダイスにおられる天の父なる創造主のような、歴史を支配している神がおられて生身の人間がその神の”証(あかし)”をなしてきた歴史を持っているわけではありませんし、それでなくても今という時を刹那的に生きているこの国の我々なのですからどうしたものだろうと考えてしまうわけです。今は、言葉も豊富になり、お金があれば何とかしのげる社会になってきて、一人でもお話し相手がいれば、穏やかに人生を過ごせると考えてしまうのではないでしょうかね。確かにイエスの言葉に癒されることが多くあります。しかし、これもその言葉に耳を傾けようとする人がいる一方でまったく気にも留めない方もおりますね。
◆さて、何度か書かせていたいただいた佐藤優さんは  神学はまず生きている神学でないとダメであると言い、今後、日本でクリスチャンは増えることがありますか?の問には「考えられません。基本は斜陽産業です。」(p112)と答えています。
◆そこで、読んできたヨハネ伝を考えて見たいと思うのです。福音記者ヨハネは何を最も伝えたかったのか”イエスを信じて永遠の命を得ることだ”とは何度も書かれていることです。ユダヤ人のように先祖伝来の長い伝統のあるその先理解(旧約における歴史など)のない我々には、その何度か書かれているヨハネの言葉も聞こえない人には聞こえないのです。しかしそれでも聖書は、イエス・キリストを信じなければ永遠の命には入れないと語っているのです。
◆さて、記者ヨハネの伝えたかったことは、イエスの言葉と共にその動かしがたい”わざ”の事実だったのです。それがヨハネの第一の手紙の第1章1節にしっかりと書かれていますね。その事実はいかんともしがたく神のわざ(しるし)であったと述べ伝えざるを得なかったのです。ようやく最近のYou tube には震災の場所に現れる亡くなった方の霊のことが流れています。それは僕が 前に紹介した本の中にもありました。この霊が可視化するという事実はどうしたものでしょう。イエスは、ニコデモに地上のことを話して分からなければ天上のことはなおさら分かるまいと言われました。この地上の事実は確かならイエスの復活も又、我らが信する永遠の命も当然、アーメン(その通りです)と言わざるを得なくなるのではないかと思うのです。・・・Ω 

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第2章1節~カナの婚礼)

2016-09-26 19:34:51 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆カナの婚礼(第2章1~12節)八木誠一訳(1970年)
2:1-3: それから三日後にガリラヤのカナで結婚式があり、イエスの母も出席していた。イエスとその弟子たちも結婚式に招かれていた。宴会の最中にぶどう酒が足りなくなったので、イエスの母はイエスに「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
4: するとイエスは母に答えた。
 「御婦人、それがどうしたというのです。まだ私が栄光をあらわす時ではありません」。
5:イエスは他者の言葉に直接拘束されない、自由な存在なのである。他方イエスの母は召使達に「この人の言うとおりにしなさい」と言いつけた。
6: さてその家には、ユダヤ人が食事の前後に手を洗い潔める儀式に使う水を入れた石のかめが六つおいてあった。それぞれ百リットルほど入るものであった。
7: イエスは召使い達に言った。「水がめに水を満たしなさい」。
8: 彼らは水をいっぱいに入れた。するとイエスは言った。
 「今すぐ汲んで宴会の世話人のところへ持っていきなさい」。
9: さて世話人がそのぶどう酒を味わったとき ― つまり水はぶどう酒になっていたのである。
10: 世話人はもとよりその事情を知らなかったが、水を汲んだ召使たちは知っていた。―
 彼は新郎に声を掛けて言った。
 「たいていは初めに良い酒をだして、酔いがまわると悪いものを出すものだが、あなたが良い酒を今までとっておいたのは御立派です」。
11: イエスはガリラヤのカナでこの最初の徴を行って彼の栄光をあらわした。徴(しるし)とは、地上の事件でありながら、自分自身を超えて真理そのものを指し示す出来事である。ユダヤ教の潔めの水がぶどう酒になったとは、イエス・キリストが此の世にそれまで欠けていた全く新しいもの、すなわち真理そのものをもたらしたことの徴なのである。
 弟子達は徴に接してイエスを信じた。しかし問題は、信ずる者の眼が地上の異常な事件そのものに釘づけにされてしまうか、それを通して地を超えた真理そのものを仰ぐかということなのである。
12: このあとイエスはカペナウムに下った。イエスの母、兄弟、弟子も一緒だった。彼等は数日そこにとどまった。

 <「カナの婚礼」の章 終わり> ・・・