marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その7)陰府(よみ)の世界。僕らの周辺の当たり前のこと。

2024-02-26 20:58:42 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 終わりに長いですが、新約聖書のイエスが語った陰府(よみ)の世界の話、『金持ちとラザロ』の話を書いています。

ブログが当面、発信されないときにあなたは何をしていたんだ、大丈夫か? と連絡が時折、知人からある。いつも本題に行く前に、ああだこうだと書いているので、最後まで読む人いないのではないの、と。そうです。すべての人に関係があると思っているのですが、くだくだ書いて体調を改めて見て意識と言葉付けをしているんです。自己の思考の芯の確認といいますか。どうも、あれやこれやと思いが浮かんできて、書けばただ文字にはなって、たまたま暗い気分の人が、引き付けられてぐ~っとそこに潜って、その人という生き物の琴線にふれるようなこと(希望)にいきつくかもしれない、それを願っているのです。

彼ら(👽:書きようがないので宇宙人のようですが、そうではなく『とりまく霊』たちと書いた方がいいでしょう)と会話しているのですよ。無論、椅子に座っていることだけをいいことだと思っていないのです。第一、身体のために。それは、エコノミー症候群といいますか、座りっぱなしで血液のめぐりを悪くしてはいけませんからね。それぞれが身体的に持って生まれた欠点がありますからねぇ。むろんいい面も。だれも、それが私の持って生まれた思考の礎となる脳みそであり、躰から疑いもなく受け入れているのですからね。これについてもだいぶ調べました。

ところで、良い考えを持った彼らから離れないようにしているんですよ。ますます、それが必要な時代になって来たと思うんだ。先のブログに『陰府(よみ)』のことを書いた。聖書にそのことが書かれているということを。けれども僕らは、誰も肉体が消滅した体験をしていないから、その『金持ちとラザロ』の話をイエスがしたことに対して、それが肉体の消滅のあとの実話だとは思わないでしょ。けれどもあれは、実名を挙げて彼が見た『陰府(よみ)』のことを語っているのですね。

陰府のことを、日常の話のように書いているでしょう? あれ『金持ちとラザロ』の話は、創作なのではなく、次の世界『陰府』の話なのですよ。それは生きている僕らが今の周囲に同時に起こっていることなのです。その世界と繋がっているのです。怖いものではありません。僕らが気づかないだけですね。ですから、『陰府』のことを知れば(そのことも書いてあるのですが)、イエスが何を語ろうとしていたのか、新約聖書の殆どすべてが分かると言っても過言ではありません。

神は何を考えられ、独り子イエスを地上に誕生させ、彼を信ぜよ、と言われ続けてきたことが。思想や観念ではなく、現実に僕らが今、生きていることに気づけば、周囲に、そして第一に私自身にいつもそばにいて語り掛けているではないかということが理解されてくるのではありませんか。

むしろ、語り掛けてない時が、前頭葉がすっからかんで実に自分にうっとうしい時なのです。

前頭葉で自己を見つめてみたとき、それは、まったく自己集中できるとき、離反しますけど、その時の身体など考えていないものでしょう。すべてにおいてoutputに優れた人は、才能があるというのでしょうけれど、その起動となるエネルギーはどこからくるのでしょうね。そこで、凡人である僕らにとって、その起動エネルギーが持てるようにするためには、よく眠ることですできる限り十分な睡眠をとることをお勧めします。思考が肉体の疲労に引きずられないために!

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『陰府(よみ)』のことを分かると、新約の言わんとすること、それはそこからの声でもあるということが解る。というのは肉体的に死んだ人に対しても聖書(とくに新約)は語られているからです。その世界は、目には見えませんが、『同時に今、ある』という存在です。そこからの霊として分かる生きている彼らへの言葉であるからです。そして今の我々への言葉でもある。ですから、それが解れば、聖書のイエスの言葉が分かるようになります。さらに、その後に書かれた弟子たちの手紙がわかるようになります。まったく、疑いもなく。彼の厳しい言葉は、その言葉のとらえ方についての忠告であると思われて来る。

さらに、他の宗教と異なり、イエスを観念としてではなく、何故、実体として生きていた真の人と言われたイエスを信じて欲しいと言っているのか、さらに、私(イエス)が与える聖霊に繋がっていなさい、と言われたのかもよく理解できるようになるでしょう。なんども言いますが、思えば彼らは、我々のそばにいます。その中でも、イエスは、送る聖霊にいつも繋がっていなさい、と言われます。そういう、不要なものの削除の思いを持ちながら、彼の言葉を、弟子の手紙を読めば、なぜ、神が天地創造来から信じた者らを引き上げるのかということが、理解できるでしょう。

陰府のことが解れば、仏教においての輪廻転生や法要のことも、なぜそういわれて来たのかかも分かってくるかもしれません。そして、よりイエスが来たことを理解されるでしょう。

イエスが例えとして、神の国でのことを言っているのか、それは次の世界『陰府(よみ)』の世界でのことなのか? そのこともイエスは、話された今居られる世界に類比して、同時性で語られる場面が多くある。それを聴いて、僕らはそうだな、そうしなければいかないな、などとの勧めは、聞いたものがその時、同時に起こっている『陰府(よみ)』の世界の同期のことなのである。つまり、繋がっているということ、同時にある、ということである。『陰府』での出来事がわかれば新約聖書の言わんとすることが解るでしょう。思った時、瞬時瞬時に彼はいます。縦軸としての今という時です。神学では、「永遠の今」という言葉も使われます。

さらに、新約聖書を読むとき、願っていることがあります。それは、歴史、時間の流れの中に彼はある、ということです。ここで、旧約が大きな意味を持ってくると思われます。天地創造来(システムとプログラムをつくり)から始まり、選民族を神の摂理のもとに演出します。世界の彼らの動きをみれば、世界の流れが、否、神の存在のありようが理解されてくるという思いです。

キリスト教神学を学ぶ人は、教養としても基本として、かの地の民族の歴史を学びます。歴史的な時間の流れを意識して、聖書を読んで欲しいと思います。さらに、世界中に散らされた彼らの歴史。。。彼らは長い、長い時間を経てこの国のかなり古い時代にも渡って来ていたという話は、とても面白いし大切な話です。

さらには、今の世界を動かしている仕組みみたいなものも見えてくる。あまり深入りすると危ないと思いますがねぇ。

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『金持ちとラザロ』(これはイエスが語った話である):ルカ福音書16章19~31節

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日贅沢に遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れていかれた。金持ちも死んで葬られた。

そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしは炎の中でもだえ苦しんでいます。』

しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前の間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に超えてくることもできない。』

金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください。』

しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちには預言者とモーセがいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者の中から誰かが兄弟のところへ行ってやれば、悔い改めるでしょう。』

アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』

*****************ここまで

以上がイエスが、陰府のことを語った話である。僕らは誰もが肉体が地上から消滅する。そして、次の世界、陰府に行くのである。そこは、肉体はないが霊世界であり、今生と同様の世界観があるようだ。新約聖書は、イエスが陰府にくだりそこでも福音を述べ伝えたのだと語っているように読み取れる。

そして時間がたち、悔悛が無ければ、最後の審判で完全に魂が消滅する地獄へと向かう。

イエスは、地上の我々の欠陥(罪)の身代わりとなって十字架に掛けれらた。我々の欠陥(罪)を補填するために。よって、彼を信する者らは、個々の罪がどんなものだろうと彼が、それを担ったとされるのである。イエスは今生にいる者たちに叫ぶ。『生きてわたしを信ずる者は死ぬことが無い』と。信じて死んだものは、陰府の世界でアブラハムの宴会に招かれるであろう。

イエスは、他の箇所で語っている。『モーセと預言者は、わたしのことを語っているのだと。』(「モーセと預言者」とは旧約聖書のすべての要という意)

金持ちとラザロの話の最後に言う。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』

新約時代となり、彼イエスは死者の中からよみがえった、復活したのであった。 あなたはこれを信じますか?

今はレントの時期となっている。苦しみの中にあるイエス。今年の2014年の復活祭は3月31日である。・・・


(その6)実はイエスは当初から現存する陰府のことを語り続けていた。

2024-02-14 13:56:30 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 僕らが物事を理解する、とかという行為は、もともと、育ってきた伝統や因習や親の教えなどが先にあっての、その内心の一致点があっての了解があるものだろう。

陰府(よみ)については、イエスの他にも、たまたま、今まで生き返った人もいただろうが、こういう世界だったというのは、一般に宗教書の中では殆ど耳にしたことがない。時折、youtubeで見たりするけれど・・・。『人間は死なない』などと言う本が、たまによく売れたり、読まれたりする。終活近くなると関心があるのか、やはり、知っておきたいと思うものなのだろう。

けれども、お寺さんには詳しく聞こうなどという人は殆どいないだろうなぁ。訊いてもやはり『輪廻転生』だろうし、自分死んだら野となれ山となれ、なのだろうか? 思い通りにいかない肉体、生まれつきの欠陥、病気やトランスジェンダーの悩み、自分は何で生まれたんかと悩む人ら、自分の運命に幻滅し、あるいは格闘している人々。戦争で、あるいは天災で命を落とす人々。

『苦しみに会ったのは良いことでした。私はあなた(神)の掟を知ったからです。』(詩編119)

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『わたし(イエス・キリスト)は、あなたがたを孤児にはしない。』

全地全能と言われる神は、死後の世界(陰府)を願えば、我々に教えてくれるのだろうか?

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キリスト教では、陰府(よみ)の国も、現生と同じ世界があるようだ。しかも、三次元の物証界ではなくて、霊的な世界の次元である。神の言葉はそこからも来る。全てを見通しておられたイエスにとってこれは、彼が観た次元の異なる霊の世界『陰府』のことだろうと思われることが、実ははっきり書かれていたのではないだろうか、と思われる箇所がある。

冒頭に述べたように、ここで僕らが理解するという前提には、先理解があってしかるべきなのだが、現代もようやくこれほど地球の裏側のことが瞬時に分かるようになったのに、今、僕らが生きているこの時間、この空間を共有している次元の異なるその世界のことなどは、さっぱりわからないし、知る術もないということなである。

とすれば、まして2000年以上も前のことならな おさら先理解のことなど、どうこうのという時代ではないということになる。それにしても、イエスの弟子たちは、感じていたというか、知っていたのだろうと思われる言葉が記されている。人が今生に誕生し、そして生涯を終え、次の世界へいくということのその世界。

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イエスは、その世界をありありと見ていた。殆どは例えで語られたが事実としてそのあり様を語っていた。陰府(よみ)の世界のこと。それが書かれている箇所とその世界にもイエスが救いを宣教しに行ったことが述べられている箇所である。それにしても宗教の異なる人にも、イエス・キリストであると述べ伝える必要があるのだろうか?

あの世でも『わたし』が誰彼でなく、『私としての霊』としてはっきりと自覚し、その不完全さもキリストを着ることにより補填修繕され、いち個人として(誰彼のアドバイスを受け入れるとしても)生き続けるには、真の人と言われるその方との会話が必要になるということ。そこに人格があることは、前に述べた。人は観念でだけで生きるものではなく、一個人の実態として次の世界に生きるためには、対応する完全な一人格者がおられるということなのである。必要だということなのである。

それはキリストでなくてもいいのではないの、とトーンダウンしそうな声が聞こえる。しかし、再度、よくその声の出所がどこにあるか、捜して欲しいのだ。世界において、すべての人の信仰の質を求めていくとどこにいくかと言えば、実のところ、どこまでも洗練されたその原点の行きつくところ、所謂『神』に行きつくのである。イエス・キリストはそれを伝えるために来られたということである。

彼を信じない者は、罪に定められる、と書かれている。あぁ、だからキリスト教は排他的などと・・・。いやいや、実はその話は超えなければいけない。

神の声はどこから来るのだろうか? 彼を信じないで死後の世界に行った人々は、それは実際に存在する異界、異次元、肉体の死者の行くところからも来るのであって、その世界も我々と同じ、神に近ずく精進、浄化が行われている所となるだろう。

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『はっきり言っておく。わたしのことばを聞いて、わたしをお遣わしになった方を信ずる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いたものは生きる。』(ヨハネ伝5:24-25)

『キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。』(ローマ14:9)

『彼らは生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。』(Ⅰペトロの手紙4:5-6)

『汚れた霊は、人から出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来た我が家に帰ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。、そこで出かけて行き、自分より悪い他の七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。』(マタイ12:43-45)

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◆旧約聖書の話に『ヨナ書』がある。一読、願いたい。この不思議な物語は、実はイエスが語ろうとした陰府の世界の重要な話と思われる。ピノキオという子供向けの物語の下書きのような物語であるけれど、このヨナは実在した人物として他の箇所に書かれている。(列王紀下14:25)

この不思議なヨナの物語は、大きな魚に飲み込まれたヨナが、つまり肉体では陰府に行って、そこで回心する(ここが分からないと実際の僕らが行く、次の世界がわからないだろう)、そして大きな魚に吐き出され、神からの使命であったニネべの人々に神に帰れと宣教した物語なのである。それでも救われたヨナは、神に文句を言い、人間的に神の思いを察することができなかった弱さをもっていたが、そのことも通して、神の全人類に対する深い愛を示そうとされているという思いを教示された物語である。

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ここにイエスが、キリストを知らず亡くなった人への陰府に降り、福音を述べ伝えたというもう一つの深い隠れた物語が読み取れるのだ。だから、神にとっては、生きている者にも死んだ者にも、神の独り子となりすべてにおいて福音が述べ伝えられるということなのである。陰府の世界の話なのである。これは、イエスにとって重要な事柄であった。

◆ここで、『使徒信条』を思い出して欲しい。『・・・・陰府(よみ)に降り、三日目に死人のうちよりよみがえり・・・』

しるしを見せてくれと問われた時、イエスはこう語った。

『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、ひとの子も三日三晩、大地の中に居ることになる。ニネべの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネべの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある』(マタイ12:39-41)(ルカ11:29-32)

『・・・このように空模様を見分けることを知っているのに時代のしるしを見ることができないのか。・・・ヨナのしるしの他にはしるしは与えられない。』(マタイ16:3-4)

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イクスースは、古代ギリシャ語で「魚」を意味します。この言葉は、キリスト教において特別な意味を持ちます。具体的には、以下の頭文字からなるモノグラム(組み合わせ文字)として用いられています:新約において魚はイエスを示すシンボルとなった。

  • Ι(イオタ): イエスース(イエス)
  • Χ(キー): クリストス(キリスト)
  • Θ(セータ): セオス(神)
  • Υ(ウプシロン): フイオス(息子)
  • Σ(シグマ): ソーテリア(救い主)

これらの頭文字をつなげると、**ΙΧΘΥΣ(イクスース)**という言葉が現れます。このモノグラムは、初期のキリスト教の信徒たちによって、キリストの象徴や教会のシンボルとして魚の形をしたものとして用いられていました

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◆最後に、実際イエスが、陰府の世界を垣間見たであろうその話が載っている箇所。これは死者の世界の話である。普段、『例え』で語るイエスが実名で語っているのだから、陰府の世界をそのまま見たことを語ったものと思われる。一読されたし。『金持ちとラザロ』の話である。陰府の世界があるということである。(ルカによる福音書16:19-31)

『ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめていた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴会にいるアブラハムのすぐそばに連れていかれた。金持ちも死んで葬られた。・・・・・アブラハムは言った。「もし、モーセと預言者に耳をかたむけないのなら、たとえ死者の中なら生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」』・・・


(その5)僕らが100%必ず行くところ。陰府(よみ)の国。

2024-02-13 22:20:51 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 僕の話は暗い話ばかり。といっても実はそうではない。僕らが知らないだけで、知らないこと、なおかつ、不思議なことは僕らが勝手に怖いことや暗いことだと思って、退けているだけなのだと思う。僕らが日常、明るく生きていているように明るい話でもあるのですがね。

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それで、寒い季節に結局、暗い話じゃん、と思われることから始める。冬なのに・・・。

皆さんが知っているけれども、お寺さんの住職も公には決して話さないこと。それは『輪廻転生』のことである。お寺さんは、どなたでも僧侶の勉強の時、学ぶことではある。みんなは、なんとなくそれを感じる。毎日、お仏壇にお水をあげ、お経を読まれ、時期が来れば法要を行い、お盆やお彼岸にはお墓参りなどをする。

それは亡くなった方が、生きて残された人が今生で功徳を積むことによって、次のより良い世界へいけるようにすること。そして亡くなくなったら自分も!。仏教には六道というのがあって、天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄をぐるぐる生まれ変わる。それで、それを抜け出す涅槃の世界へ行くことが願いとされる。坊さんたちは、一応、このことを学ぶ。

僕は知りたかった。次の世界のこと。そして僕は誰になるんだろうか、ということ。

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『輪廻転生』のこと。まじめに考えて、本当にそうなんだろうか? 例え、そうだとしても、もっと本当のことを知りたいとは思わないのだろうか? 終活近くになって真摯に思ってみると僕らは夜も眠れないのではないか。僕らは必ず死ぬんだよ!次の世界はどこの何に生まれ変わるというのだろうな。死んでからうろうろするのは嫌だな。冷たい墓の中で!!

それで、いちおう、よみ(タイプを打つと『黄泉』と出てくるけど、キリスト教では『陰府』と漢字になる)の世界へ行って、そこでは肉体は亡くなってはいるが、霊として眠ったり、あるいは今生で目には見えないが、現存していて、誕生寸前の赤子にインカーネーションしたり、あるいは現生の肉体の人に作用して、次の世界を生きるらしいことは推論できそう。その世界では、できる限り前の生よりは精進して次元の高い霊に、あるいは不埒なひとに入り込みもっと悪さをして現生の人に復讐を果たすとか、する。

仏教では、前に述べたように、六道状態をぐるぐる生まれ変わって、その人(肉体)にあった霊の状態になるらしい。キリスト教では、キリストを知らない人を最悪、天地創造の時、唯一の創造主に手伝った天使の長が、創造された人を俺も支配したいと思い上がり、地上に落とされ堕天使(悪魔)となって、地上の人を自分の味方につけるべく、猛烈に活動しているとされる。地上の肉なる自己も、他者の人命を破壊させるべく猛烈に働く。

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『よみ』の世界では、どうも殆どの人は安らかに眠っているようだが、中でも動いていて生前に実現できなかったことを生まれ変わって、新生児にあるいは、時を見つけて霊がインカーネーションして、次の世界で自己事後実現しようと復帰して生まれ変わる霊が多くあるようだね。したがって、霊は今生の人がエッチな思いをもつと、見えないけれどその浮遊霊は、そのひとの周囲をうろうろして、生殖行為時に適度な、再生可能であろう肉体に入り込むらしい。

そのインカーネーションは、殆どは新生児にそのことが起こるが、肉体その弱さがあると、成長時や大人になってからも、ちょい借り入れという感じで、浮遊する霊がいたずら?し、つまりこれは不完全な霊が実に多いのだけれど、その人間を不幸のほうに引きずり込むことをするらしい。人は自己との戦いをして生きていく。

悪い霊の究極は、気分落ち込みという自己否定の自殺である。あるいは、生まれた来た自己実現したかった肉体に入った霊と、その自己否定する霊の格闘がおこり、つまりそのギャップに腹を立て、自分の肉体にけじめをつけてしまう(自殺する)ことも起こる。若い方々よ、決して自ら命を絶ってはいけない!

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『みだらな思いを持つな』とはどの宗教でもいわれること。それは、現生に帰りたいと願う浮遊する霊も、同じ思いで低級な霊を引き付けやすいからであると思われる。先にのべたあらゆる浮遊する霊がうろついているので、我先によくも悪しくも、むしろ悪しき霊が闘争し一般に勝つことが多い。したがって、その時にインカーネーションした霊は、次の世代に今生で肉体との様々な闘いを起こす。それが、僕らが目にする人間のドラマである。

先の霊が、障害を起こして何らかの霊の障害を生きている世界に知らずに残骸というべきもの残しているばあい。次の世代はその生涯を回復する努力を背負わされるか、その生活に戦い起こる。結婚生活で不幸が起こる原因ともなる。ここでいう不幸とは善悪の判断ではなく、様々な結婚生活に起こる苦労やその産まないという生殖活動や、まったく放棄が生ずる。否定的な意味ではなく、その人の考えによって意志的にとい場合もあるということ。異性を断ち切る。子供をつくらない傾向となるなど。

キリストは言う。私は見えなくなるが、聖霊をあなたがに遣わす。それに聞きなさい。いつも、繋がっていなさい、と。

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したがって、どの宗教でも結婚は、命を産むという生殖活動に神聖さを求める。それは、霊の媒体でもある次なる肉体を産む行為でもあるからである。であるから肉体としてDNAと、それを引き継ぐ霊の関係は、キリスト教では非常に重要な点でもある。『結婚は神の偉大な奥義である』と言われる。神の似姿に人が誕生し、初めて地上の人間界のドラマが起こるからである。そもそも、人が居なければ(役者がそろわなければ、シナリオがあってもドラマにならない)。

地上の悪魔は、ドラマの時間があまりないことを知り始めたので、人の殺害に多大な勢力を傾き始めた。とすれば、僕らはますます、次の世界でどうなるか知っておく必要があるのではないだろうか? 『罪』とは、人のドラマの為の壮大な神のシナリオの筋書きから、個々の人の仕組みシステムから、外れてくることを言うのである。普段、『的外れ』と言われる。

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第一にキリスト自体と会話することは、非常に難しいと思われている。キリスト教というと、すぐさま、その歴史や解説書や難しい本から思考の補強をしようと務める。何故なら、読んでも分からないからである。しかし、究極は、生きているキリスト、自分に語る生きているキリストと語り合うことが最終と到達点である。何もいらない。次元が異なるだけだ。

そのまま読んでもさっぱりわからない。それで我々はそこですでに障害が発生する。おまけに、我らは『罪びと』と呼ばれる。昔は、道徳的意味合いが解説書では多かったが、『罪びと』とは『的外れ』と言われる。先に述べた通り万物創造の神の摂理、シナリオから外れている、ことをいうとのことである。

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さて、ここまで書いてもおいおい、なんだよそれはで面白くない。宗教談義か? 実にキリストと語ることは、難しいようで簡単で、でも難しい。これを書くととりとめもない。教会にいってまず、説教をききつづけてくだい、と。これが語られるのは、難しいようで簡単で、でも難しいと思われるからだ。

何故なら、私は私であり、誰彼にはなれない、とうこと。それで、生きているキリストを一般化して具体的に語ることは、無理ということ。それぞれの人に語るからである。様々な解説書や、証集(信者になった人のイエスとの出会いの語り)などは、山ほどあるけれど、それらは参考になり励ましを受けるだろうが、それらは参考であって、中にはおいおいというのもあるだろうが、結局は聖書を自分の言葉でよみ、生きているキリストと今、同期するということらしくある

『信仰問答』というものもある。『ハイデルベルグ信仰問答』とか。けれど、信者への確認としてはいいでしょうが、普段の人は、へぇ~こんなの信じているのかとさっぱりPINとこないものだろう。

最低限、どういう神の独り子を信じているのか、という『使徒信条』(教会では礼拝のたびごとに唱える所もある)は、一般化されたもので共有化される言葉である。

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それで、キリストを信じるとは、実は、像があるような思考や物的対象や観念としての対象となる思考を信じることではないのである。今を生きているキリストとの会話である。つまるところ、普段の私の基点(本来に芯の自分)に戻ってくるのである。それでは、もとにもどってキリストなんて信じなくてもいいじゃん、とは、実はならない。

それは、独りの人格者、完全なる(神から遣わされた人)との会話が行われるからである。聖書を自分の言葉で読む、ということが必要となる。人格者と私という人格との会話となる。したがって、観念という哲学やイデオロギーではない。人(神)と私(人)の最終、会話である。ここから、人格や人権が生まれてくるというのである。論文も沢山ある。

ここで、自分の生まれつきのままのすべてが理解されてくるように思われて来る。人には別に語らんでもいい欠点。対話を重ねることにより、内なる自己の矯正が始まる。モチベーションが高まると言う具合である。そうすると、「人間だもの(あいだゆうじ)」のように、本来、他者も生まれて来た人間で完ぺきではない、ということが理解されて来る。相手の欠点が見えてくるということである。

よって、「人を裁いてはいけない。その裁きの思いで自らが裁かれるであろう」ということばも理解されてくる、とう訳である。ただ、何に基づいているかが問われる。自由と許容の中には、また、実に多くの悪魔の手下が入り込むのは、理解されてくるだろうなぁ。独裁は、これを上から抑え統一整理しようと目録が、民主主義といえども、そのように何に実はもとづいているかによって(自己抑制、向上、理解)、自由という言葉は、実に障害のある言葉ともなっているのである。

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全知全能と言われる神の独り子であるキリストは、陰府(よみ)に行かれたというのである。不思議なことに、聖書には陰府(よみ)のことが書かれているのである。理解できないから教会では決して語られないことなのだが??。僕らは、実はその世界からの語り掛けであることを知らなければいけない。(ここで次元のことと言っているのである。今、僕らをとりまく見えない次元のことだ)。

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『使徒信条』 

我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり、かしこより来りて、生きる者と死ねる者とを審(さば)き給わん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。 アーメン

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(その4)東京神学大学学長にお尋ねしたこと・・・聖書私的見解を!

2024-02-10 21:12:30 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 緊急! この(その4)が『公開』から『下書き』に切り替わって'23年11月03日からず~と眠り込んでいたので、改めて公開します。僕にとってはとても重要な神学めいた内容なので追加分を含め公開したいと思います。現在の学長は芳賀力(つとむ)先生から替わり神代真砂実先生。

内容は'23年10月30日の(その1)のブログから続いていある内容です。これは、キリスト者の内容だけではなく、仏教者の方へも死後の世界、だれでもが必ず行くであろう『よみ』の国のことを別に(その5)として別に書きたいと思います。

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(その3)からの続きとして・・・講演の内容に尋ねたことは、次の一点であった。

▶異なる宗教を持って生涯を終えた方や、今まで福音に与れずに亡くなった方はどうなるのであろうか、ということ。

伝道、その ”いのちのことば” やらを広め、信じてもらうことを広めるのであれば、我々の国の何となくの次の世界へいくではなく、明確な自覚、理解をもって今生の人生を歩んでもらうためにも、できる限りのモヤモヤの払拭が必要であろうと思っていたからである。

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▶死んだら、どうなるのか? という講演内容には、信仰を与えられることなく世を去った者については、はっきりとした答えをするのは難しい。ただ、ロマ14:9、Ⅰペト3:19によればはっきりとしたことを語るのは難しい。・・・ということであった。

「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマの信徒への手紙14:9)

Ⅰペトのその個所については、18d~20節の箇所を記載する。

「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、囚われた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱船が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかったものです。」(ペテロの手紙Ⅰ3:18d~20a)

▶そこで、僕は質問した訳だ。

「~死にて葬られ、黄泉に降り、三日目に死人の中よりよみがえり~」と『使徒信条』にあるようにイエス(主)は、今までに福音を知らず亡くなった人へ宣教されていたに違いない、と思われませんか、と。

そこで、(その2)の表題となるわけだ。『イエスは黄泉にくだった後、3日間も眠りこけていたんか?』とね。いくら死後にキリスト者はイエスが再臨されるまで、『死んだ』のではなく『眠る』と言われるが、死後の中間層でもある黄泉の世界で、これは仏教にもある考えだからキリスト者でない方は、よく考えるべしである。

その世界を信じない人は、墓参りはまだしも毎年周期的に行われるお盆や、法要やお仏壇にお花やお水を備える熱心な方も、死後の人々は霊魂として生きていると考えておられるのだろうから。

100回忌?ほどの法要で、涅槃の世界に行くようなのだが。それまで転生先を探してさまよっているのだろうか、ということになる・・・いったいどこで、どのように? そうすれば、確かにその世界はある、ということにならないか。

▶聖書私的見解:イエスは黄泉の世界に降られて、その世界でも福音、復活に関わるいのちの言葉を宣教していたのである、というのが僕の見解である。

全てを包括して、統べ収めておられる神の世界の御支配に空隙はない。無視されているような不明な魂の所在なる空隙はありないのである、ということだ。ヨハネ黙示録には、第一の死、第二の死というのもあるようだ。最後の審判というのも・・・。

来月は、クリスマスである(この下書きは'23年11月3日)。イエスの誕生を祝う。そのイエスの死の意味を象徴する十字架の掲げられる教会で、イエスの誕生を祝う。死と誕生。今生での伝道は第二の死に多くの人が行かないようにと、使徒たちの使命となった。

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すべての言語に訳されている世界のベストセラーを自分の言葉で読まれる方が、ひとりでも多く起こされされますように願って、講演の冒頭に語られた聖書の箇所に戻り終わりとします。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる、生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネによる福音書11章25~26節)

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(’24年2月の追加)

聖書的な文字としての学びからはここまでが限界でどの先生方もそれ以上は話されないかもしれない。しかし、すでに旧約の物語でしかも新約でもイエスご自身が語っていたのであると・・・(その5)へどうぞ、一読ください。


近代社会における『女性の不幸』

2024-02-03 14:38:14 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 矢田津世子・・・『凍雲』の冒頭である。

『秋田市から北の方へ、ものの1時間も汽車に揺られてゆくと、一日市(ひといち)という小駅がある。ここから軌道がわかれていて、五城目という町にいたる。小さな町である。封建時代の殻の中に、まだ居眠りをつづけているような、どこやら安閑とした町である。現に一日市で通っている駅名も、元々、この町の名で呼びならされていたものだったけれども、いつのまにか奪取(とら)れてしまっていた。居眠りをしていたせいである。居眠りをしながら、この町は、老いて萎えてゆくように見える。

町の人たちの中には、軌道を利用する人が尠(すくな)い。結構足で間に合うところへ、わざわざ、金をかけることの莫迦らしさを知っていたから、大ていは軌道に沿うた往還を歩いて生き帰りした。

軌道の通じない頃は、この往還を幌馬車が通っていたし、雪が積もはじめると、これが箱橇に代えられた。町の人たちにとっては、そのころのほうが、暮らし良かった。文明というものは、金のかかるものだよ、とこぼしあった。』

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◆今はその軌道はない。その当時の駅の跡に五城館というレストランを兼ねた展示会場があって、そこに矢田津世子文学記念館がある。僕が春になると出かける田舎の山がわにあり、そこからも僕が生まれてから見続けて来た森山が見える。近くには有名な歴史ある朝市がたつ場所がある。軌道が通ていたころ、僕のお袋はその朝市に真坂部落から、それに乗ってナマズを売りに来ていたそうだ。あの泥の中にいる鯰である。

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 矢田津世子・・・『茶粥の記』の冒頭から

『忌明けになって姑(はは)の心もようよう定まり、清子と二人は良人の遺骨をもって、いよいよ郷里の秋田へ引き上げることになった。秋田といってもずっと八郎潟寄りの五城目という小さな町である。実は善福寺さんとの打ち合わせでは五七忌前に埋骨する手筈になっていたけれど、持病のレウマチス姑が臥せりはちだったし、それにかまけてとかく気がすすまない様子なので、ついにこれまで延びてしまった。それというのが四十九日の間は亡き人の霊が梁のところに留まっている郷里の年寄り衆の言い習わしに姑も馴染んでいためで、その梁の霊を置き去りにすることが姑にはどうにも不憫でならないらしかった。

荷をあらかた送り出して明日たつという前の朝、清子は久し振りで茶粥を炊いて姑と二人で味わった。・・・・』

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◆ところが小説は、帰郷のとちゅうから姑と長野の温泉に行く話に切り替わっていく。良人は実食はしていないが文章だけの食レポ作家という設定である。津世子は志賀直哉に心頭していたから、文章についての書き方や表現の仕方などを、心がけて作品にしていたのだろうと思われる。

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それで、坂口安吾の記念館は山形にあるので、津世子とのいきさつの何かが残っているものか、性懲りもなく尋ねたことがあった。その経緯は、当然、受付の方も知っていたのだが、津世子に関するものは何もありません、とのことだった。五城目の矢田津世子文学記念館には、安吾からの手紙や葉書が結構展示されている。けれど、津世子がどのように返事をしたとかの関係を示すものは一切ない。

◆1936年(昭和11年)29歳 3月、同人誌『日暦』より『人民文庫』へ移る。同日5日、「私が彼を愛してゐるのは実際にあるがままの彼を愛してゐるのではなくして、私が勝手に想像し、つくりあげてゐる彼を愛してゐるのだ。だが、私は実物の彼に会ふと何らの感興もわかず、何らの愛情もそそられぬのだ。」というメモを書き、6月、坂口安吾と絶縁。9月『神楽坂』が第三回芥川賞候補になった。

ところがビックリというか、『神楽坂』や『父』などはあの家父長制時代の「お妾さん」の話なのだ。これでは普遍性はないからのちの時代まで残らんだろう、というものではない、その時代の事実として背景があるのだなぁ。主人公たちは、当たり前のようにそういう時代に浸りきっている。

不遇、不幸な女性たち。男性優位の近代社会にあって「女性の不幸」が書かれて何という時代だったのかと思わされて来る。そういう根っこが今も世界のあちこちで、この日本でも続いているのではないか、と思わされて来るのだ。

彼女は1944年37歳で亡くなった。肺病だったらしい。・・・あの時代。女性の地位が低くみられていた時代。

◆僕のお袋も人生は一度きりだと必死になって自分の自由を求めて生きぬいていたんだろうな。まったく、小説になりそうな人生を掛けぬけた人だったから。

世界で初めてよみがえったキリストにあったのは不幸な生い立ちのマグダラのマリアという女性だった。 僕はキリスト者になったのである。・・・