marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(288回目) 肉と霊についてⅡ (M・ルター)

2017-03-13 20:16:31 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 先の(287回)にM・ルーターのローマ書を読む為の序文の後半を書かせてもらいました。しかし、今の僕らはというか、ルター以降の神の言葉を用いられた方がたは、現在までこのルターの書かれた意味をきちんと理解していたのであろうかと思わされます。
このような語「肉や霊」についてのきちんとした理解がなければあなたは、聖書のどの書であろうと決して理解することはなかろうとあります。そして、今の僕らにとっては、当時の、否、現代でも読めるその著名な教父たちの書についての忠告までしてあります。
◆宗教改革はカトリックに対する反抗だけでは決してなく、結果としてそのようにはなったけれど、第一に「いのちのことば」を我らに、と同時に、その神の言葉を不完全な肉なる人間が手中に取り扱うことによる、常なる注意事項を神が伝え知らしめるために起こされたことで、それは必然的な神の計画の中において行われたものであろうと思わざるを得ない。
そして、思うのですが、なんとなくの理解で実はよく分からない、イエスの言葉などにおける先理解としての序文の忠告事項は、今のその道の方々は、自ら体験として自分の言葉で分かるように信者さんたちに伝えることができるであろうかと思わされるのです。もし、それが可能であれば、根が腐るといわれたこの国だけではなく(実際は僕にはこの遠藤周作の「沈黙」のなかの転んだ宣教師の言葉には異論があるが)いずれのどの地においても、命ある被創造物なる肉なる人間の信仰にしっかり根を張るに違いないと僕には思わされるのだ。この宣教師の言葉は訂正されるべき内容である。”映画「沈黙」を見る”の回を再読ください。
◆ところで、先の回の霊と肉についてのルターの忠告内容がどれだけの人が分かるだろうか。いろいろな難しい神学的な解釈、解説よりもこの重要なことと思われるイエスがニコデモに「よくよく言っておく」と念を押したように、その解説を丁寧に解説して欲しいなと思っているのです。僕には次のように思う。ルターが言うには、パウロの霊と肉は同時に存在していて、(僕らには当然、霊の世界の方は見えないけれど)それは「違う世界が同時に今ある」ということなのではないだろうか。肉とは、二分される一方のものではなくて僕らが普段考える人間にかかわるすべてのことのように書かれていますね。”肉とはからだと魂、理性と全感覚を備えた人間全体のことである”と。その肉の性質として、ふしだらな傾向を備えるのが肉であるという見方。そこで、同時にある霊については、同時にある肉に対してよくも悪くも影響するものがあるという見方。
◆先の回、”内的にも外的にも、肉に役に立つこと、この世の生活に役立つことをめぐって生き、行為する人間は肉なのであり、内的にも外的にも、霊に役立つこと、来るべき生に役立つことをめぐって生き、行為する人間は霊なのである。”とあります。(ルターがいうここでの霊とはよい霊のことだろうけれど・・・)イエスが、「聖霊を受けよ」と言われたのは、まったく霊の世界においても神の力ある純粋な復活の力を備えた潔い神からの霊のこと、であれば我らは、この地上において見えない浮遊する霊にもてあそばれたりすることは決してなくなるということである。
◆イエスは、”真の人”と言われる。人間の形をとり、欠点のない方であれば、その方の霊は、神の元にあり、かつ同時にイエスご自身が私は見えなくなるが、かわりに聖霊をあなた方に送るといわれた、事実、ペンテコステ(聖霊降臨日)におこるのであるが以来、彼は目には見えないが、聖霊としていつも願えば、そのものと共にいる。僕はこれらのことを、震災で肉体は消えたが霊として、行き場を探しておられる方々を思いながら書いている。と同時に、イエスが地上のことを話しているのに、それが理解できなければ天上のことはなおさら分からないとニコデモを叱責されたことを考えながら書いている。よみがえったイエスが疑い深い弟子トマスに現れたという事実がなければ彼がインドまで(中国までもと言われているが)行き殉教することもなかったろうなども考えながら・・・。
◆イエスは彼(トマス)に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである」。(ヨハネ伝 20:29)・・・