marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(303回目)キリスト教会の一致(教会のかしらについて) Ⅲ (M・ルター)

2017-03-28 18:56:32 | プロテスタント
 すべてのしがらみから解放されて命のことばをひとりひとりのものに! すべてのしがらみとは、行き着くところ自分自身も入るのではないか・・・と言おうとされているのが次のイエスのことばのようで、僕はこの言葉をそのように受け取ったとき僕の中のキリスト教的に言えば肉のしがらみという障害から吹っ切れた思いにさせられたのです。
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「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。(ヨハネによる福音書12:25)
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◆ひとりひとりがイエスの言葉を自分の言葉で聞く。我々はとても弱いから、ある組織や決まり事に依存して満足してしまいやすい生き物です。そのために、また、しきたりができて、教派の分裂や争いが起こったりするのです。それでは、命のことばは我々に知らしめられねば良かったのだろうか。この国のように! しかし、世界ニュースに上がらずともこの国でも同じような争いはあったのだから。
◆漫然とした心情の中でみんな仲良く漂うだけでいいのだろうか。”そうではない”と言えます。命のことばは我々に委ねられて、自らの足で生活の場を立ち上げ、天になるごとく地にもなさせ給えと多くの者が神と格闘(無論、意識せずとも)を行ってきて、これほど豊かになったのだと僕は考えているのです。だからこそ、それを維持し続けるためにも僕らは戦い続けねばならないのです。
◆そこで、掲題文章の最後、ルターの文章を読んでみましょう。ここには、やはり、イエスの前にはひとりひとりが自ら立たねばならないことが述べられています。宗教改革から500年、本当にM・ルターが述べているこの神髄は揺らぐ事はありません。前回からの続きです。
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 さて、キリスト教会のかしらについて見てみよう。上述(前回まで)のことから結論されるのは、第一のキリスト教会が唯一の真実の教会であって、地上においてはかしらを持ち得ず、司教であろうと教皇であろうと、地上においてはだれによっても支配されえないことである。ここでは天にあるキリストのみがかしらなのであって、主のみが支配したまう。人間は自分で知りも、認識もしていないことをどのようにして支配できるだろうか。だれが真実に信じており、誰が信じていないなどということをわかるのだろうか。〔・・・・〕さらに、この教会においてはキリストはひとりの代理者もお持ちになることはない。〔・・・・〕
 この〔真の〕教会がこの世のどこにあるかを外的に認めうるようなしるしは、洗礼であり、聖餐であり、福音であって、ローマとか、こことか、かしことかの場所ではない。なぜなら、洗礼と福音のあるところには、たとえゆりかごの中に赤ん坊だけしかいなくても、そこに聖徒がいるということをだれも疑うべきではないからである。ローマとか教皇の権力とかはキリスト教会のしるしではない。なぜなら、洗礼や福音はキリスト者をつくるが、そのような権力はキリスト者をつくりはしないからである。従って、教皇の権力は真のキリスト教会の一部をなすのでなく、人間的な秩序にすぎない。〔・・・・〕キリストは、信仰のある者も悪しき者も、天使も悪魔も、乙女も売女も、すべてのものの主であるが、しかし霊において集められた敬虔で、かつ、信仰のあついキリスト者以外のもののかしらではない。   (『ローマの教皇制』6・292-302 ) 
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                          (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p106)・・・ Ω