marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(294回目)神の力について〔使徒パウロの手紙から〕 (M・ルター)

2017-03-19 23:17:36 | プロテスタント
 「神の力」については、(僕は簡単にこう書いているけれどとても畏れ多いという思いが内心にあることをまずは告白・・・第一、簡単に書ききれるものではないものですしね。時代という制約も当然ありますから・・・)
◆「神の力」については2月18日の266回目の日記に、パウロのローマ人への手紙第1章16節に「福音は神の力である」にてルターの解説を書きました。そこでは、ルターもパウロがこの箇所で用いている「神の力」とは・・・と一部としての説明をしています。そこでは、神から来る能力であることを書いていました。う~む、やはり高尚な話は、僕には分かってもなんとなく理解できる程度だな・・・ルターはそこで、神御自信が能力ある者、力ある者を造り出すものであると書いておりました。ルター先生の当時の聴衆たちは、どのように理解したものなのだろうか・・・。素直に聞けば、自分の「よし、これをやろう!」というインスピレーションをもって意欲に燃えた人が「これは、神様がわたしに今、与えてくれた力なのだ」と理解し、自分の個性を周囲に発揮した人もいたのだろうなと思う。
◆僕などは、『神の力とは、生きとし生けるもののその生命のエネルギーの源となっているもの、その生命とは、すべての命は無論、善なる意欲、希望、創造・・・、この世の実態においては本来の姿に有効なる機能を働かせるエネルギーとなっているその全体の姿を包括するのであり、またその本源』などという風に解説されると分かるような気持ちがする。・・・と書いても聞かされる人や理解しようとする人がその理解の土台としてどのようなことを先理解として当時の聴衆が、共通認識として考えていたかによるでしょうけれど。
◆さて前の回(293回)にルターは、「神の力」という言葉を次のように採用しておりました。コリント人への手紙(4:20)に書かれた当時のコリント人を叱責する言葉としての採用です。
『それゆえ、今や私たちの思いはこうでなければなりません。私たちが、すべての憐れみと慰めの父である神に感謝し、私たちの信仰がことばにおいてでなく、力においてであるよう、これからは私たちの身を整えるという思いです。すなわち、聖パウロはコリント人への手紙で、「神の国はことばにおいてではなく、力においてである」と言っているからです。』
◆あらためてこの言葉は、宗教改革時の真のキリストのことばに信頼するする者たちは、なんら外見、形式にこだわりそれが行われなければ天国にいけないなどの御触れなど恐れることなく、キリストの言葉に立っていれば無論、言うや書くだけではなく身を整えて、生活の行いにおいて証(あかし)、つまり証明していくことが大切ですよと勧めの中で採用しているのです。
◆パウロ当時に遊興の町、コリントの人々がなかなかピンとこないどうしようもない理解不足の人々に叱責としての言葉に採用しているのですが、ルターが当時、この言葉で対抗しようとした相手は、言わずもがなです。(あくまでも当時のことです)
◆僕らは、今、このルターの言葉を違和感なく読んでいますが、500年経過した今でもルターのその言葉が違和感なく読めるということ
にも神の力が示されているのではないかとも言えるのではないでしょうか。当時のキリスト教に対して、何にルター激怒したのかを少しでもふれると、ええっと思わされるような事柄もたくさん出てきます。聖体拝領という奴は特にひどいですが、あまりに脱線してしまいますので今回はこれまでとします。
 あまりに大きな事柄なので「神は細部に宿る」として静かにうやむやとして終わります。・・・