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marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その25)狭き門、結局は人間の『質』なのか!?

2025-02-26 15:17:57 | 日記

 今の僕らに大切なことは、第一に『知りたいという願い』だった。そして『その意味を考えること』だった。

この自らの内面の『語り』は祈りに通ずるものだった。それを、異邦人ではない彼らの歴史に学ぶこと。この思いは、今のこの世界にも続いているものである。神が彼らを導くストーリーはまさに現在も明らかになりつつある。

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イエスの来られた意味は、まさに『自分の根』はどこにあるか、を自問自答させるものだった。これには深い意味がありそうだ。そして、すべてのしがらみから離れよと語り続ける。古来からの謂れも、父、母、すべの親族からのしがらみをも離れて我に従えと言われる。

これは事実、親族を捨てるなど、その通りにすればいいということではない。そのあとの文が主眼だ。わたしに従いなさい、と。今、彼は見えないではないか。司祭や牧師になれということか。そう思い、慕う人は幸いである。

・・・従うにも彼の時代で2000年以上も前に姿を消されている。見えなくなるが、『聖霊』を送るという。それに聴け!と。『その意味を考えること』の回答が得られるだろうと。

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あなたの思い通りにならない人生があるとすれば、肉体と思考とのずれがあるとすれば、それは何か。そのことを考えよ。誰も親を選べないように、皆が大谷翔平のようにはなれないのであるから。

DNA的不完全、思い通りではない自分の身体、気づく、気づかぬにに関わらずそれぞれの人生の宿題を背負って生きている。人生一度きりで、ひと瞬きの人生に比べ、そこに苦難があり解決策を見出さんとすれば、私に来なさいと彼は言う。

その苦難は私に会うための苦難だった。人はすべて体験しなければ自分のこととして真摯に考えないものであるから。イスラエルの歴史はそうだったのではないか。

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イエスの冷たいともとれる言葉の意味を我々は深く考えて診なければいけない。人権や人格や、民主主義などの考えもそうだ。イエスの冷たい言葉を吐いた物語こそ、いつも我らが考えなければならない話なのである。人の神の思いの獲得という錯覚は、必ず生ぬるく怠慢にする。

世界は広がり、地球の出来事が周知されてきた世界になったのだから。真にあなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。しかし、峻別があることを知れ!

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『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにとってふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである』(マタイ10:37-39)・・・


(その24)宗教的人間<その1>

2025-02-25 16:13:37 | 日記

 聖書の言葉を読んでいただくには、沸き起こる障害を実に個人として突破してほしいと思っているのですが、これを肯定するにも上から目線になってしまうし、あれこれと関連ごとを書き連ねると知識をひけらかしているようにも考えられてしまう。

知識を得て、都合よくつじつまがあえば、一段、あるいは数段、思考レベルがあがったような思いにさせられるので、人という生き物は、如何とも仕方がないものです。

どうにかこの国と言わず、第一に求める心を人々に起こしてくれれば、生きたもう神は、必ずやその意味を与えてくださるであろう。しかし、あまりリキんで背後に神の言葉を知ったからと言って都合よく、解釈すればとんでもない方向へ行ってしまうと思う。

昨年は、仏教(〇田〇作も非難される宗派)やキリスト教の方が何度か来会された。自宅に! 特にお二人で、訓練の為か、割り当てがあるらしいが定期的に何度も回って来た。僕が教会に行ってますと当初から話したにも拘わらず・・・。

 

宣教に熱心なのはいいけれど、彼らはもう来ることはないだろうというのは、次のことを話したからである。第一にyoutube では『〇ホ〇の証人』は間違いですよ、と多く語られていますね。どこが間違いかは見られたらどうでしょう。

いただいたテキストには、イエスは全能ではない(p64)と書かれていますね。従って、三位一体は間違いであるとも言われている。文字としてはそうでしょう、イエスご自身が私の父と言われてますから。しかし、『わたしを見たのは父を見たのだ』と言われたのは、もっと深い意味があると思いますよ。

これでは、新約聖書の弟子たちの願いはすべて否定されてしまいます。良し悪しではなく、そう判断したのは誰か、その判断基準はなにか が問われますね。介在物を入れ込むと更に判断材料が入り込み、雑音が入り込むのです。最終問われるのは、聖書(自分たちの)にはこう書いてあるから、ではなく『あなたはわたしをどう思うのか』と問われるのです。

独自の『新世界訳聖書』の内容は都合のいい解釈です。長年に渡り原典ギリシャ語に極力同期するように努力してきた世界の神学者らの努力と願いが、まったく無駄となり、きわめて危険と言えるものです。(・・・ここまでキツイこと言いませんでしたが)

テキストは細かに解説しすぎ、人の言葉の介在なしに(人から与えられるものではなく)自分の言葉で読むことです。それから、正当な教会へいくことです。しかし、実在したイエスではなくエホバ(文語訳ではあるが、これは今は訂正されているもので間違いです)では、会話がそもそもできないですね。

以上のように、読み、判断する『自分とはどういうの人間か』(イエス自身が言われる『自分の根』)を考えることなしに知識だけの満足とすれば非常に危ない。『十字架』でなく『杭』であったとしているのは、なんというか??

人という者は、背後に神を背負った知識をもつと如何ともし難く、しかも、世においては苦難がある、とそれ、又、神が背後で激励しているとすれば・・・「自分を捨てて我に従え」という言葉も分かるというものである。・・・が、彼らはイエスは全能ではない、としているのだった(p64)・・・宗教は真摯に追求しないと本当に大変な事態になるものです。・・・


(その23)必ず結局死ぬんだから、すべての人に読んで自分の物にしたい世界のベストセラー

2025-02-24 13:09:58 | 日記

世界の言葉に訳されている新約聖書

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言葉の宗教と言われるキリスト教は、それだけにそれなりに言葉を習得した気持ちになると、無論、生き物としての思考のレベル、レンジが数段アップするので(そういう気持ちにさせられるので)、何故か偉くなった気分にさせられるのか、ましてや背後に神など背負えば、怖い物なし、などという気持ちになってしまう。

カルトが実に危険というのはこのことだ。本来、『無』(言葉や文字以上のもの)を思想する僕ら国民の宗教性(西欧のように人の言葉=哲学で考え抜いてみようとして来た歴史にない国民の宗教性)に外来の真摯では宗教掌握ごとが入り込むと、ききとして物知り状態、我が物なりになってしまう。

<『○ホ○の証人』のお二人が、それ訓練なのか義務なのか、一応丁重にお話していると、キリスト者である事を表明しているのにも関わらず昨年から五度も訪問して来た。最後にきちんとお話したのでもう来ないと思うけどねぇ。これも時代が迫っているのかなぁ。>

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しかし、人間に対しては、その言動など全てお見通しで、それが旧約の切った貼ったの物語に書かれているし、さらにはその完全や不完全、天使や悪魔の事まで書かれているという内容だ。最後はこうだ。『私(神)は生きて、働いているんだよ。古来から、今も、将来も!』旧約は歴史をとおして、神は世界の人々よ、彼らの深刻な歴史に学べであるし、新約は、『人よイエスを通して彼に学べ!』ということなのである。

そもそも、何故に人が読んですぐ分かりやすくはなく、人の世界に闘いが起こったり、正義が我々の人と思うものとは全く同じではないようだ、ということやご都合主義で前後書かれているのではないかとか、その長期にわたる(PCがない時代にこれも何故か不思議なのだが)その話が、天地創造来から今このときも続いている(信仰者はそう理解している)のだということを語っているのだと。

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ちなみに旧約のヨブ記などを読むと何が正しいのかわからない。つまり、一時的に人の先入力ともよべる善良な意識を持ってよむと、つまるところ全ては、良くも悪しくもひとの人生のドラマであれ、これは全て世界と地上を見ておられる唯一の神様が居られて、私を認め信じなさい、と言われて居ることが、地上の短い人生での『幸』なのだと宣うているということになる。

それは、人生において幸せという意味だけでなく、死後も永遠の命に招かれていることである、と。更には、苦難を与えてまでも知らしめんとされるということだなぁ。神の演出のドラマには、いろいろな配役が必要でだれ一人欠けることを望んではおられないということ。演出者には、個人の出番が終われば(つまり人生を終えると、ご苦労さんといって)永遠の命への祝会の地上劇の打ち上げ式が行われ、同時にその招待状が与えられるという訳だ。

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それで、普段の「ひと」が早わかりで、旧約聖書には何が書いてあるのか知りたい場合、使徒言行録第7章のステファノがとりまとめて同胞に語った物語になっているので読まれることをお薦めする。そしてこれが、イエスの時代になり詰まるところ、それがイエスが地上に生まれ、十字架に死なれた理由でもあったのだが、結局、異邦人の僕ら、命ある全ての者が永遠の命への招待状を受け取るに何が必要かを語っているのが、ヘブル人への手紙第11章なのです。・・・


(その22)世界のベストセラーを読むときに異邦人の僕らが考えておくべき事!

2025-02-22 16:04:59 | 日記

 素人であり、なおかつ異邦人である僕らが、普段の生活において恐れ多くも天地創造界の歴史が書かれてきたと言われる一読ではさっぱり分からない世界のあらゆる言語に訳されている聖書をものにするには、多くの壁があるようにも思われるが、不思議にすとんと信じて生涯をかけて信仰を貫き、生涯を終える人もおられることをどう思えばいいのか。

聖書の言葉などはいつも上から目線の言いようになってしまうのは、普段、僕らが安穏と考えている事柄の基になることの数段上の総括的な言葉をつかみ取ったという思いにさせられるからであって、しかも、それは決してシェアーできない個人的な負の体験を含んだ事柄を消化したい思いが、その人の心の底に存在しているからであると思われる。

誰でも、個人的体験から始まるのだ。

だから、どんな高尚なキリスト教神学者であっても、始まりはその方(イエス)との出会いであるけれども、その先駆けには先の個人的体験がその神学の基底に眠っているものだ。

しかもその場面の多くは喜びであることは少なく、それは彼が自分を含めた人の罪と呼ばれる欠陥が、あらゆる不幸をもたらしているがゆえに十字架にかかられ、その身に負ったという考えが暫時深められ、命ある人類へ広がるにつれ、その出会いが『自分』(今、生きている人間として)としての有機的に彼(イエス)の思いに投影するのだ考えられる。

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つまり、相矛盾するように読めるイエスの『自分』という言葉について、先に僕ら異邦人は特に、宗教抜きに考える哲学が起こってきたわけなのであったが、イエスがもっとも大切な教えは何かと問われた時、『全力で神を愛し、自分を愛するように他者を愛せ』と言われたこと。

さらに『自分を捨て。我に従え』と言われた言葉が、矛盾する言葉ではなく、今生で生きつつあるのは、次の世界に向かって、あらゆるDNAからの霊の引きずりや、思考への様々な雑音を捨てて(自分を真に愛することは、不浄な自分を捨てることを心がけよ!ということか)。

天に昇られるイエスがたまわる霊、『聖霊』に繋がっていなさいとの命を心がけるようにと言わんとしたものであろう。

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先のブログに『自分とは何か?』と書いた。生まれそのままの僕らは、突き放して自分自身を考えたりしない。ここで異邦人でない彼ら、つまり先祖伝来の神の選民族としての謂れがしみ込んでいる彼らとは違い、自分自身を客観的視点、対象物として考えざるをえない異邦人のユダヤ人以外の僕らは、『自分の根』とは何か?をそもそも考えなければならないのであった。

マタイ伝13章:6節『日が上ると、自分の根がないために枯れてしまった。』

自分の根、自分とは誰か。神の言葉なるものをそもそも聞き得る自分の基礎があったのか? 僕ら異邦人は、そのことから問わなければならない。

人が人の言葉で人の思考するそのこと自体を精緻に突き詰めていく。余命いくばく、僕がフッサールの現象学やハイデガーの『存在と時間』をボケ防止のために読み始めたのはそういう理由からであった。・・・

 

 


(その21)<その2>異邦人の僕らがベストセラーを読む時、注意すべき事!

2025-02-21 14:36:46 | 日記

 僕らが、キリスト教に触れ、聖書を素直に読んだ時、イエスの言葉が相矛盾するのではないかと思うことを改めて書きますので、みなさんも考えてほしい。悪魔の手引きが入り込まないために!

そして、安直に理解するならば最も危ないイエスの言葉でも有りえる。(実は需要な言葉でもあるのだが・・・)その言葉の箇所を文末にあげる。

つまるところ哲学が長年戦ってきたのはここにある。『自分とは何か?(聖書を読む自分の判断基準はあるのか?)人間とは何か?』

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曰く、巷の本来の信仰の他力思考から実に大きく外れて、自己喪失や情緒不安定になってしまいがちになるのは、まさに聖書のこのイエスの言葉にあると思われるのだ。ブログ(その18)で述べたことの更なる詳細。この国ばかりでなく、いづこの国民でも『神』という存在を背後に背負った人の言葉として読み込むと、畏れ多くて自己を見失うと思われる。

介在物なく聖書の言葉を自分の言葉で読むことを推奨するが、いかなる解説書でもこの不可解なイエスの言葉を適切に理解できるように書かれた物を読んだことがない。

僕らの国には、成功譚や教訓話はいろいろあるけれど、宗教性を基盤にした実践生活の『生きる哲学』(若松が書いた書には同名の物があるが)というもののメジャーな書物はない。やはり西欧の哲学に依存しなくては巷に流布する解決策は見えないのではないか。つまり、他者の言葉ではなく自分自身の言葉で命ある人の有り様を解析し格闘する自分の言葉の、人間という生き物の頭脳を通しての思考しての言葉の獲得。

宗教性に基ずく教訓話は、お寺さんやキリスト教会でも無論、お話しされる。ここで言う哲学とは、宗教性抜きの人が、自らの言葉でどこまで精細に物事の有り様を(数学や物理学などの実証学ジャンルのことではない)突き詰められるのかという学のことである。

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神はパウロは当時の哲学発祥の地マケドニア(今のギリシャ)に、神のみ心として乗り込ませる。当時の文明の地、離散した同胞ユダヤ人も多く居たその地、彼らに古来からの預言の実現を知らしめんとして。

科学も先んじていた繁栄の地。そういう歴史的に布石を先に作りつつ、異邦人への神の言葉を宣べ伝えるべき、世界宣教(神が創りたもうたの全人類の救済の言葉を伝えんとして)さらなる布石の地としてギリシャの国、哲学の国へ向かわせられた・・・。

『主の祈り』の中に『~天におけるごとく地にもなさせ給え~』とある。それは、天からの啓示により、イエスのたまわれた聖霊の導きによって、地上の人が感化を受け、実際に意識するしないに関わらず、イエスを再び地上に迎えるべきその布石を全地上に整えるべく、その前進であったように思われる。今、福音は全世界にすでに広がっている。

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イエスの言葉、さらにマタイの10章38-39節であり、マタイ16章24-26の言葉。自分を捨てたところに、カルトや異端が紛れ込むのである。また、精神的に弱くなったり、情緒不安定なとところに悪魔が声を紛れ込ませるのである。

イエスが問われた最も重要な教えとして、マタイ22章37-40節 と応えている。『自分を愛するように~』との『自分』とは一体どこの誰で、どういう自分なのか?

自分を愛することができれば、イエスの為に捨てる自分はいなくなるのか? さて、私はどこにいるのか・・・?

このイエスの言葉は相矛盾してないか!

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実は、ここから『人格』や『人権』という思想が派生してくるのです。

イエスのこの言葉は、今、語られるひとり一人に、あなたの今生の命は一度きりで、あなた自身を永遠の命へ向かしめんとして実に大切な一人の命として愛し抜かれている のである・・・ということが感じとれるのであれば、あなたは永遠の命のパスポートを得ることができたと思っていいと思います。・・・