人生、消去法
世捨て人のつぶやき




哲学的な問題になってしまうが
心というものは、つまるところ一体何なのだろうか?

昨今の風潮からいえば、それもこれもすべて「脳」のなせる技であるということか。
ま、究極的には、なにがしかの形で
「脳」という物体と「心」というものの間に
何らかのつながりが見いだされるようになるであろうという予測は
確かに、私も漠然とではあるが、持ってしまっている。

しかし、やはりそれだけでは解決できない部分が残る。
私が今こうやって感じたり、考えたりしている、この状態
これは確かに脳の中での電気的・化学的変化の総体であるのかもしれない。
今こうやって、パソコンの画面を見、キーボードを打ち
次に書こうとする言葉を探しながら
論理の一貫性をチェックしている、この「私」。

この様々であるが、その一方でひとつに束ねられている
この「私」という現象。

事故などで脳に障害を負ったことで
特定の機能が失われるということがある。
失語症・失読症などなど。

そこで言われることは
脳はその部位によって機能を分担しており
ある部分が破壊されることによって
特定の機能が失われることになる、ということ。

たしかにそうであろう。

そのとき、それまでは当然のように私たちの中にあった感覚や認知が
突如として、消えてしまい、思い出すことさえかなわないのだ。
もはやそこにはかつて何もなかったかのように・・・

つまり、ここから言えることと言えば
我々の「意識」あるいは「心」というものは
無数の部品からなりたっており
その部品の一つで壊れてしまうと
その欠落を「客観的」には捕え返すことができなくなってしまうのである。

損なわれたある「入力」情報
それはあくまでも「外部」を指し示す。
その起源は究極的には外部であるが、
その実、それを一つの「情報」としてまとめあげているのは
脳のある部位である。

生の現実というのはどこにもないのかもしれない。

それでは、我々のさす「現実」とは一体何なのか!?

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする


« ものの貸し借... 記事一覧画像一覧読者一覧フォトチャンネル一覧 だめだ。やる... »
 
コメント
 
 
 
心とは (sun)
2006-07-29 14:05:56
我々のさす「現実」って,無数の部品でなりたつ一つの物語じゃないですか?

だから違う部品をもっている人間同士では話が合わないのでは?
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。