人生、消去法
世捨て人のつぶやき




シゾイド型の典型例としてキルケゴールやウィトゲンシュタインがあげられている訳ですが
もっとさかのぼって考えてみると
「隠れて生きよ」の言葉で知られるエピクロスに行き着くのではないだろうか?
↓参考
http://www.ne.jp/asahi/village/good/epikuros.html

さて、エピクロスの
「死はわれわれにとって無関係である。なぜなら、われわれが現在するときには死は現在せず、死が現在する時にはわれわれは存在しないから。」
という言葉は示唆的である。
というのも、おおよそ大部分の人間というものは、自らの消滅を恐れるのであり
その「未だ来らず」の「自らの消滅」=「死」を想起しては
恐れを抱かずにはいられないものだろうから。
そして、その基準を逸脱し、その恐れに対して距離をとり
それをもはや「リアル」とは感じないという感性
それを持ち得た人で初めて歴史に名を残したのはエピクロスだったのであろう。

私の感覚で言うと
「死」とは思い描けないものである。
この場合の「死」は「私の死」である。
これはどうやってもリアルには感じられない。
「消えるはずがない」などという不遜な感覚ではない。
「存在している」ということの確信が希薄なために
なにかこう、脅かされるはずのものが形成されていないという気がする。

それに比較して、他人の死というものは「リアル」である。

私は大学2回生のときに祖母を亡くした。
私は全く「おばあちゃん子」ではなかったし
そして、祖母も(基本的にはかわいがってくれていたにせよ)
そんなに気にかけてくれていた訳ではなかったと思う。

しかし、入院して具合が悪いということで病院に見舞いに行った。
ところが、そこで展開されるのは滑稽な(あるいは悲劇的な?)光景だけだった。
実の娘二人が甲斐甲斐しく世話をしている。
私の祖母は昏睡状態である。
呼びかけにも全く反応はない。

ところが、である。
私が声をかけたところ、祖母は反応を示した。
そこで、長姉であるおばは言った。
「私ではやっぱりあかんのや」と。
末妹のおばがまたこう言った。
「なんで私が呼びかけたときには反応してくれへんの!」

末妹のおばは明らかに怒りの感情を表していた。
姉のほうはなぜか自分が悪いんだ、自分が至らない所為なんだと
そういう感じを示していた。

私が健全さを感じたのは末妹のほうであるが
感覚として理解できるのは長姉のおばのほうであった。

二人のおばについて言えることは
どちらも「相手にされない」といことについて
なにがしかの感受性を持ち合わせているということ。
そして、それを根拠づける際に
「私のせい」だと思うかそうではないと思うか。

長姉は自分のせいだと認識し、
一方で末妹は、自分のせいではなく不当なものとして感じている。

どちらも、同じような境遇だった可能性はあるが
結果には決定的な違いが発生している。

これはいったいなぜなのか?

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