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人生、消去法
世捨て人のつぶやき




今朝、見た夢は、すでに亡くなっている母が生きていて、その母に暴力を振るうという内容のものだった。
今年に入って、私は母への恨みの感情を克服できたのではないかと考えていたので(<参照>母を許す「母に感謝する」)、これは以外な出来事だった。

今まで、起きている時に意識的に父や母への恨みの感情から、想像の中で暴力を振るう、もっと言えば、殺すようなことはしばしばあったのだが、夢のなかでこういう内容のものが出てきたのは初めてのことである。

夢のなかで母はうずくまった状態で、私の方に背を向けており、その母に向かって私はその頭や背中を殴りつけ、脇腹を蹴りあげたりしていた。
そして、同時に言葉で積年の恨みを口にしていた。

不思議と母は苦しむでもなく、ただじっとうずくまったまま耐えていた。

父は出てこなかった。

この夢は何を意味するのだろう?
やはり、母への恨みや怒りの感情は克服されていたのではなく、単に抑圧されていただけだったということだろうか。
そうなのだろう。
きっと、これは一生背負っていかなくてはならない性質のものなのだろう。

一方で、起床して、夢のなかであった恨みの感情を想起しようとしてもできない。
意識がはっきりしている状態では、もはや繰り返すたぐいのものでもないのだろう。
しかし、恨みと怒りの感情は完全には消えたわけではないのだから、これからも時々こうやって夢に顔を出すようになるのかも知れない。

重荷だなぁと感じると同時に、それがすでに私という人間のアイデンティティにまでなってしまっているのかもしれない。
もしそうだとすれば、背負っていかざるをえないのだろう。

しんどいが、仕方がない。

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ここのところ、親や親戚が高齢になったのを実感して
寂しさのようなものを感じるようになるとともに
自分の家族がほしいと思うようになってきた。

これは自分でもびっくりしているのだが
シゾイド性が弱まってきているのかもしれないと思った。

かつてはあれほど遠ざけてきた他人というものを
今は欲しているということなのか・・・

とはいえ、実際には、他人との距離はつめられないままだし
現実問題としては、家族を持つのは難しいだろう。

なにせ、うつ病で無職の男である。
どんな女性も振り向いてはくれないだだろう。
もし振り向いてくれても、私はそれを受け入れる能力がないし。

このまま年老いて、孤独死するしかないのだろう。

人生とはなにか。
改めて、そんな問題を考えるようになってきている。

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昨日は母の日だった。
私はこの歳になっても、母の日や父の日を覚えられない。
厳密には、覚えることを拒否しているのだろう。
こどもの日や誕生日を祝ってもらえなかったことへの復讐である。

こどもの日といえば、うちには兜があった。
これが去年家の片付けをしていたら出てきて、父からこれが母方の祖母からの贈り物だったということを聞かされた。
そんなことは初耳だった。

この兜は、私が物心がつくころに1度だけ(1度だけなのだ!)飾った記憶がある。
その後、こどもの日が近づくと、この兜を出そうと探すのだが見つからないということが続いて諦めた。
父も母も真剣に探そうとはしてくれなかった。
それが私には何よりも悲しいことだった。
母方の祖母がわざわざ買ってくれたものをどうして、父も母も大事にしなかったのだろう。
可愛くない私に対するあてつけだったのだろうか。
何か無意識の憎悪のようなものを感じる。

昨日のTwitter上には、いわゆる毒親に育てられた人たちの怨嗟の声がちらほらとあった。
「お母さん、ありがとう」と言えない人の気持ちは痛いほどよく分かる。
「死ね!地獄に落ちろ!」と私などは、母がすでに死んでいるのにもかかわらず思ってしまう。

愛されなければ、愛せないのだ。

どこでそのすれ違いが生じてしまったのか、今となってはどうすることもできない。

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昨年の11月くらいからアモキサンを処方され飲んでいる。
<参照>アモキサンとは
この薬は、2011年くらいから2013年までかつて飲んでいて効いたような気がする薬である。
一時は意欲も出て、仕事にも短期間だが就くことができた。

その後、2013年に担当医師が変わり、違う薬にしてみましょうということで変えられたのだが、結局それは効かず、担当医も元に戻してもらって薬も元に戻ったような形だ。
飲む量は徐々に増やしてきていて、現在1日5錠。
かつては7錠まで飲んでいた。
以前は、5錠くらいから効き始めていたような気がするのだが、現在のところ効いてない。

2011年以前はサインバルタを飲んでいた。
<参照>サインバルタとは
が、これも効かなかった。
サインバルタはいわゆるSNRIの新薬(当時)ということで勧められたのだが、結果的には無駄に終わった。

私の場合は、多分に性格上の問題があるので薬ではなんともしづらいというのが実情だろう。


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今朝、生まれて初めて自殺する夢を見た。
起きている時に自殺を考えたことはたびたびあるが、そんなに差し迫ったものとして考えたことはない。
要は、生きるのやだなぁ、くらいの感じ。

今朝の夢はそんなものじゃなくリアルだった。
阪急電車に乗っていて、その車内で仕事の同僚らしきひとたち数人に「じゃ、仕方ないね」と諦めムードで送り出される。
その際、同僚の持っている新聞に金メッキされたボールペンで小さく丸をつける(確認しました、的な)。
そして、その場所は、先頭車両から3両目くらいなのだが、歩いて先頭車両まで行く。
先頭車両はドアの部分が実際とは違って新幹線のように別ブロックになっていて、左のドアを開けて、そこから身を投げる。
吹きすさぶ風の風圧がリアルだった。
飛ばされるとき、歯か骨がコキッと音を立てた。
次の瞬間、ベッドに私はいて、自殺が未遂に終わったことに気づく。
周りには同僚がおり、私に「駅のあたりで発見されたらしいよ」と教えてくれる。
体に痛みは全くなく、五体満足のままのようだ。

というところで目が覚めた。

近頃、よく夢を見るのだが、心が弱まってきているせいか、昔なら一瞥だにしなかった夢占い系のサイトを確認したりする。
今回も「夢分析 自殺」で検索したら、意外と自殺の夢はいい意味らしい。
生まれ変わって、新たなステージに突入する的な意味で。

他にも、ここのところ、トイレで大便する夢を2回見たり(これは金運上昇らしい)、仕切りのないトイレの夢を見たり(これも金運上昇)、オカルト的には運勢上昇中のようだ(笑)。

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むかしは人格障害関連の話題をよく書いたものだが、最近は関心がなくなっている。
いつのまにやらシゾイド型という呼び方はスキゾイドのほうが優勢になったようである。

しかし、今日、ふとWikipediaを覗いてみると、日本版の記事が以前に比べだいぶ良くなっていた(むかしに英語版の記事を訳して追加したことがあったが、何故か即刻削除され、つまらない短い記事(動物を手懐けるのがうまいとか)にされていたものだが)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/スキゾイドパーソナリティ障害
とはいえ、英語版の長大さ、充実ぶりとは比べるべくもない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Schizoid_personality_disorder

それにしても日本語版の方には「はてブ」が55も付いているのは、プログラマとかにこういう性格の人が多いせいだろうか。
英語版も2つ付いている。

いつか、英語版を全部訳してこのブログに掲載しようと思っていたが、いつまでたってもその気力が回復しないまま年月だけが過ぎていった。
関心自体が薄れ、このままペンディングが続きそうである。

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今日のクロ現でEMDRが紹介されていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/EMDR

私は以前、苫米地英人の本に出ているのを見て知っていた。
そして、自分で効果があるか試してみたが、なんとなく効果はあるような気がしたが、長続きしなかった。
専門のカウンセラーにやってもらうと違うのかもしれないが。

さっそく、クロ現を見たあと、風呂に入りながら、自分でまたやってみた。
明日からもちょっと続けてみようと思う。

ここ数日調子が悪く、困っていたところに調度よい番組に出会えたものだ。
これで調子が上向いてくれればよのだが・・・

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私淑するfinalvent氏が夢にうなされて絶叫して目覚めたと書かれている。
finalventの日記 20120815/1344995785

これまでにもそういう事を書かれていたので驚きはない。

幼児期のトラウマについて、いままでよりはっきりと書かれている点が印象に残る。
身体に痕跡がのこるような一種の虐待があったそうだ。

我が身を振り返ると、これまでも不思議に思っていたのだが
私はこれまで悪夢と呼べるような夢を見たことがない。
絶叫どころか寝汗をかいたという記憶すらない。

これは幸福なことなのだろうか?
とりあえず幸いであるとするしかないのだろうが
否定しがたい引っ掛かりのような感覚もある。

というのも、どうも私の場合、感情が麻痺しているという側面が強い気がするからだ。

以前にも書いたような気がするが、私の感情では「怒り」が基調になっており、
それ以外の、とくに恐怖や寂しさという感情がひじょうに希薄なのだ。
しかも、その怒りというのも、どうも普通の人に比べるとずいぶんと希薄な方のようである。

もちろん、普段の生活では笑いもするし、ごく普通に振る舞える(たぶん)。
しかし、正直な気持ちという意味では、怒り以外はウソッぽく感じる。

怒りはリアルなのだが、じゃあ夢で怒りを爆発させたりするといえば
そんなことは一度もない。

私の夢はいつも淡々とした、現実の延長線の風景のようでしかない。
夢のなかでも感情は平坦なままだ。

今まで見た夢である種の感情を喚起されたのは
何やらブラックホールのようなところに吸い込まれそうになって
おっとっと、危ない!と感じたことくらいだろうか。
それも、ひやっとする程度で、恐怖と言うにはあまりにちゃちなものだったが。

finalvent氏の場合、「見捨てられることへの不安」が強いように感じるが
私に場合は、見捨てられるも何もはじめから受け入れられたことがないので
見捨てられる不安という物自体が成立しないのかもしれない。
不安そのものをシャットダウンしているといったほうが正確だろうか。
その意味では、病理性は私のほうが優っている印象。

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「心の理論」に敏感すぎるのがシゾイド
鈍感すぎるのがアスペなのかもしれない。

自分の場合は、どうも自分の心の理論に基づく「直観」に対して自信がなく
その自信のなさ故に、自然なコミュニケーションが取れなくなるところがある。

だから心の理論以前の形式的なやりとりではスムーズに対応できるし
逆の極度に親密で心の理論の核心に触れるような場面では
自分の中に強い葛藤が生まれてグダグダになる。

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ずっと前から不思議だったのは、
昔の僧侶たちはけっこう旅したりしているのだが、
宿や食料、水、それに川を渡るとなれば渡し船とかを利用する必要もあっただろうに、
そのへんの費用的なことがまったく話題にならないようだ、ということである。

ま、昔は坊主というだけでそれなりに尊敬され、
既存の経済秩序に従わなくともよかったのだろうということはわかる。
基本的にお布施に頼る、と。

しかし、そんな感じに本当にやっていけたのだろうか?
今の世ならさしずめヒッチハイク&居候で生きていくなんて無理なんだが。

よっぽどタフじゃない限りは無理。
というか、そんなことできるやつなら普通に生きていける。

さらに、親鸞に関する本で読んだのだが、
僧侶でない流罪人でも自分で食い扶持を稼がねばならなかっとか。
それ本当かよ?と・・・。

もし今の日本でそんなふうに生きるとしたらどうしたらいいだろう、
と考えて、ふとそれってニートかうつ病しかないんじゃないかと思った次第。

扶養者がいる場合はニートで(これは子どもである期間の延長だろう)、
いない場合はうつ病という形で「お布施」に与るのである。

ま、全国を旅して回るのは無理にしても。

現代におけるアジールは、その個人の「病態」という形をとって現れているってことじゃないのか。

暴論ですけど、あながち間違ってもいなさそうな・・・

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この手の本はもうあまり読まないようにと思っていたのだが、つい購入してしまった。
自分で自分の古傷を開いて塩を塗るようなものなのだが、
それがやめられないというのがまさに「病んでる」ってことなのかも。やれやれ。

過去にこのブログで何度か取り上げた岡田尊司氏の新著である。
「脳内汚染」騒ぎで毀誉褒貶相半ばする感じのひとになってしまったが
個人的には人格障害を扱った新書2冊は良書だと思っているので信頼はしている。
(「脳内汚染」本は読んでない)

さて、本書のタイトルにもなっている「愛着障害」であるが
このあいだまで人格障害で今度は愛着障害ですか、と少々眉をひそめつつ読み進めたのだが
意外と大事なことを言ってるような気がした。

著者が指摘する通り、精神分析や認知行動療法というのは
客観的・理性的に自らを反省することを通して治癒を目指すものだが
これまでそうしたやり方ではむしろ悪化する事例が多いという事実があった。
(はいはい、おれのことね)

これに対して、「愛着」という視点を導入することによって
より有効な治療が可能になるという。
そして、心理療法の世界ですらまだまだその認識が遅れおり
技法の開発などもまだまだということである。

基本は、愛着を脅かされない「安全基地」を確保して
その上で試行錯誤を重ねることが大切ということになる。

後半の試行錯誤を重ねて自己肯定感を高めていくというのは
少し前に宮台真司が若者向けに説いていたのと同じなのだが
そもそも「安全基地」のないやつがこれをしたら多分自滅するだろう。
その点、この本の主張は医療関係者らしく周到に考えて書かれているといえる。

実際にできるかどうかはまた別問題だけども・・・。

ちなみに巻末に自己診断用の心理テストがついており
試しにやってみたところ、見事にアウト(爆)。

よくある質問形式の心理テストで
A.安定型愛着スコア・・・正常さの度合い
B.不安型愛着スコア・・・異常さの度合い
C.回避型愛着スコア・・・異常さの度合い
をそれぞれ計測する。

それぞれ10点以上でその傾向が強い、15点以上で非常に強いとされる。

で、私の結果。
A. 1点 _| ̄|○
B. 13点 _| ̄|○
C. 16点 _| ̄|○

もういいよ。

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)
クリエーター情報なし
光文社


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2chのメンヘル版の【健常以下】スキゾイド(分裂病質)4【メンヘル以上】にてNYTのこのような記事を知った。
Like a Fish Needs a Bicycle: For Some People, Intimacy Is Toxic

意訳すると「お断り!一部の人には親密さは毒になる」ってな感じか。
(Like a Fish Needs a Bicycleってフェミニズムから出た表現だそうで。http://www.usingenglish.com/reference/idioms/like+a+fish+needs+a+bicycle.html
フィミニズムへの当てこすりか、それとも・・・ま、いいや。

海外だとやはりこういう形で認知も進んでいるのだなぁと改めて感心。
天下のニューヨークタイムズだもんなー。朝日や読売にこんな記事が出るのはいつのことでしょうか・・・
興味深い記事なので、そのうち元記事が消えるだろうし、簡単に訳しておくかな、と(長いが)。


It is practically an article of faith among psychotherapists that an intimate human relationship is good for you. None other than Freud himself once famously said that health requires success in work and in love.

心理セラピストのあいだでは、親密な人間関係というものはひとにとって良いものだというのが事実上の信念のようになっている。誰よりもフロイト自身がかつて周知の通り、健康は仕事と愛での成功を必要とすると言ったのだ。

I’m not so sure. It seems that for some people, love and intimacy might not just be undesirable but downright toxic.

はたしてそうだろうか。一部の人にとっては、愛情や親密さは望まれないものであるばかりか、まったくの毒であるかもしれないのだ。

Not long ago, a man consulted me about his 35-year-old son, who had made a suicide attempt.

近頃、ある男性が、35歳の自殺未遂をした彼の息子の相談にやって来た。

“I was shocked, because he never seemed depressed or unhappy in his life,” the man said of his son. “He always preferred his own company, so we were relieved when he started to date.”

「ショックでした。なぜなら息子は日頃からまったく沈んでいるようにも不幸せそうにも見えなかったからです。」その男性は彼の息子についてこう語った。「息子はいつも友達付き合いを好んでいましたし、それで息子がデートを始めたときわれわれはほっとしたものです」

He went on to tell me that he and his wife had strongly encouraged their son to become engaged to a woman he was dating. “She was perfect for him,” he recalled. “Warm, intelligent and affectionate.”

その男性は続けて、彼とその妻は息子にデートしているその女性と結婚するように強く勧めたという。「彼女は息子にぴったりでした」彼は思い出しながら続けた。「あたたかく、知的で、愛情深い」

Everything seemed to be going well until, one day, the father got a call from his son’s girlfriend. She had not heard from the son for several days, so she went to his apartment and found him semiconscious in a pool of blood. He had taken an overdose of sleeping pills and slit his wrists.

すべては順調に進んでいるかのように見えた。ある日その父親に、彼の息子のガールフレンドからの電話があるまでは。彼女は数日間彼から連絡がないので彼のアパートへ行ったところ、意識を失いかけて血の海に横たわる彼を発見したのだった。彼は睡眠薬を過剰摂取し、手首を切っていた。

After a brief hospitalization, where he was treated for depression with medication, he returned home and broke off the relationship. Soon after, he moved to Europe to work but remained in frequent e-mail contact with his family. His messages were always pleasant, though businesslike, full of the day-to-day details of his life. The only thing missing, his father recalled, was any sense of feeling.

短期間の入院ののち、うつ病の投薬治療を受け、彼は家に戻り、恋人との関係を終わらせた。そのあとすぐ、彼はヨーロッパで仕事についたものの、家族とは頻繁にメールで連絡を取っている。彼のメッセージはいつも陽気に、ただしビジネスライクに、毎日の生活の詳細を綴っていた。彼の父親が思い出すただひとつの欠けているものと言えば、感情の手触りのようなものだった。

I got a taste of this void firsthand when his son came home for a family visit during the holidays. Sitting in my office, he made little direct eye contact but was pleasant and clearly very intelligent. He had lots of interests: computers, politics and biking. But after an hour of speaking with him, I suddenly realized that he had not mentioned a single personal relationship in his life.

彼の息子が休暇のあいだに家族に会いに家に戻ったときに、わたしはじかにその空虚さを味わった。彼はわたしのオフィスでいすに腰掛け、ほとんどアイコンタクトを交わさなかったが、しかし快活で明らかに知的に見えた。彼はたくさんの興味を持っていた。コンピュータ、政治、そしてサイクリング。しかし、彼と1時間にわたって話したあと、わたしは突然彼が彼の人生におけるただのひとつの個人的人間関係についても言及しなかったことに気付いた。

“Who is important to you in your life?” I asked.

「あなたの人生で大事なのは誰ですか?」とわたしは彼に尋ねた。

“Well, I have my family here in the States and some friends from work,” he said.

「そうですね、わたしにはここアメリカに家族と仕事で知り合った友人が数人います」と彼は言った。

“Do you ever feel lonely?”

「寂しく感じたことはありますか?」

“Why would I?” he replied.

「どうして(寂しく感じなくてはならないのか)?」と彼は答えた。

And then I suddenly understood. He wasn’t depressed or unhappy at all. He enjoyed his work as a software engineer immensely, and he was obviously successful at it. It was just that human relationships were not that important to him; in fact, he found them stressful.

そうして、わたしは突然理解した。彼はふさぎ込んでも不幸せでもなかった。彼はソフトウェアエンジニアとしての彼の仕事をとても楽しんでいたし、明らかにまったくうまくやっていた。それはただ、人間関係が彼にとっては重要ではないということだったのだ。実際、彼は人間関係をストレスフルなものだと見なしていた。

Just before he made his suicide attempt, he remembered, he had been feeling very uncomfortable with his girlfriend and the pressure from his parents. “I wanted everyone to go away,” he recalled.

彼が自殺未遂をする直前、彼は彼のガールフレンドと両親からのプレッシャーに対してとても居心地の悪い思いをしていたと彼は思い出した。「わたしはみんなどこかへ行って欲しいと思っていました」と彼は回想した。

Typical of schizoid patients, this man had a lifelong pattern of detachment from people, few friends and limited emotional expressiveness. His well-meaning parents always encouraged him to make friends and, later on, to date, even though he was basically uninterested in social activities.

統合失調質の患者に典型的なように、この男性は人生全般にわたって、人からのデタッチメントやわずかな友人そして限られた感情的表出というパターンを持っていた。彼の両親は善意からいつも彼を友人を作るよう励まし、その後にはデートをするようにと励ましたが、それにも関わらず、彼は基本的に社交的な活動には関心を持っていなかった。

“We thought he was just shy but had lots of feeling inside,” his father told me.

「私たちは息子がただシャイなだけで、内面にはたくさんの感情を持っていると思います」と彼の父親はわたしに話した。

That’s what his son’s therapist believed too. When I telephoned her, she explained that she had been pushing him over the four years of treatment to be more social, make friends and finally date. She attributed his failure to do this in any significant way to his underlying anxiety and low self-esteem. “With time,” she said confidently, “I expect he’ll make progress.”

それは彼の息子のセラピストが同じく信じていることだった。わたしが彼女(セラピスト)に電話したとき、彼女は4年以上にわたる治療期間中ずっと、かれをもっと社交的にし、友人を作り、最終的にはデートまでさせようとしてきたと説明した。彼女は彼の重要な局面でのこういうことにおける失敗は全て、彼の根底にある不安と低い自尊心に原因があるといった。「時間を掛ければ」と彼女は自信を持って言った。「彼はきっと進歩を見せるでしょう」

When I got off the phone, I wondered if we had been talking about the same patient. I found him calm, detached and self-confident about his abilities and work.

電話を切ったあと、わたしは同じ患者について話していたのだろうかと感じた。わたしは彼が落ち着いており、世間から遊離し、自らの能力と仕事に自信を持っていると見なしていた。

His therapist apparently believed that no one could genuinely prefer solitude and that there must be a psychological block preventing this patient from seeking intimacy.

彼のセラピストは明らかに、人は誰も純粋に孤独を好むことはなく、それゆえそこにはこの患者を親密さを求めることから遠ざける心理的な壁があるに違いないと信じていた。

But after four years of weekly therapy the patient had basically failed to reach any of these goals. You would think that for this reason a therapist would question whether the treatment was really the right type for the patient. After all, if your doctor gives you an antibiotic that doesn’t kill an infection, he or she should question the diagnosis, the treatment or both.

しかし、4年にわたる毎週のセラピーの結果、患者は基本的にいかなる成果にも辿り着かなかった。このため、セラピストはその患者にあった治療だったのか疑問に思うと考えられる。結局、医者が感染症を抑えられない抗生物質を出したのなら、彼・彼女はその診断あるいは治療法、あるいはその両方を疑問に付すだろう。

Granted, psychiatric illnesses are generally more difficult to treat than simple bacterial infections, but why should psychotherapy be any less self-critical and self-correcting than the rest of medicine?

なるほど、精神医学的な病気は一般的に単純な細菌性の感染症よりも治療が困難だろうが、かといってどうして心理セラピーはそれ以外の治療法に比べてより自己批判的でも、自己修正的でもないままであってよいのだろうか。

I had a hard time explaining all this to the patient’s father. Finally, I came up with an analogy that I had some hesitation about, but since I discovered that both of us were dog lovers, I gave it a try. I explained that some breeds, like Labradors, are extremely affiliative; other breeds are more aloof and will squirm if you try to hold them.

わたしは苦労してこれら全てのことを患者の父親に説明した。そしてついに、わたしはあるひとつの類比を思いついたのだが、それは少々口にするのがためらわれるものだった。しかし、わたしとその患者の父親はどちらも犬好きだと分かっていたので、わたしはその類比を話してみることにした。いくつかの品種、例えばラブラドール等はひじょうになつきやすいが、他の品種ではもっと無関心で抱きかかえようとすると身をよじらせるものもいると説明した。

“You mean my son is detached by nature,” he said. “I guess we all pushed him too hard to do something he couldn’t do and didn’t want.”

「つまり息子は生まれつき冷淡だと言うことですか?」と彼は言った。「なるほど私たちは彼ができもしないししたいとも思っていないことをあまりに無理にやらせようとしていたのですね」

Emotional intimacy, it seems, is not for everyone.

感情的な親密さはどうやらだれにとってもいいものではないらしいのである。


いかがだったでしょうか。誤訳等ありましたらご指摘ください。
繰り返しになりますが、欧米ではこういう認知が進んでおり
日本でも何がしか注目されるようになってほしいと思う今日この頃なのです。

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わたしは「つきあう」ということが「わからない」とこの前書いたが
翻って考えてみれば、結局のところ、親とすらわたしは「つきあわなかった」のだろう。
(現在は、ほぼ絶縁状態。5年ほど前から)

親との間でさえ、交流することができず
孤独を体の芯にまでしみ込ませて、それに慣れていくことよってしか
生き延びることができなかったのだろう。

もういいかげん、ラクになりたい・・・

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シゾイド型人格障害(統合失調質人格障害)のひとは
一般的に孤独で、性的にも不活発であると言われる。

わたし自身もその特徴を備えているが、
ではなぜ孤独で、性的にも不活発なのか?と考えてみるに
根本的には結局「つきあう」ということが「わからない」ということに尽きる気がした。

人付き合いが苦手というのはもちろんあるのだが
そもそもなぜ人付き合いをしなくてはならないのか
(それもこんなに苦しい目をしてまで)
その理由が自明なものではないという点に問題があるのだろう。

簡単に言ってしまえば、他人を必要としていないのである。

必要としていないから、孤独でも寂しくないし
セックスのパートナーがいないということも苦にならないのだ。

その原因はなんだろうか。

これはわたしの個人的な生育歴からの勝手な推測に過ぎないが
おそらくは養育者(親)とのあいだの交流の失敗にあるのではないかと思っている。

わたしは他人とコミュニケーションをとる際、
特に他人のほうから急に何かを言われたり、されたりしたときに
とっさに出そうになる自分の反応を、無意識のうちに
というか反射的にぐっと押さえ込んでしまい
ワンテンポ遅れて、反応をしてしまうことで
不自然な感じを出してしまっていることがよくある。

なにか自分の体が自然に反応することに不安があるというか
何かしら、そのまま反応してしまってはマズいという恐怖感のようなものがある。

その原因を永らく考えて来たのだが
これは、子供の頃(それもものごころつく前の幼少期)の
親との交流のなかで、自然な反応を示すことが不快な事態を引き起こすのを
何度も何度も経験したために、ほとんど生理的なレベルで
自分の「自然な反応」というものを「不適切なもの」と捉えるようになったのではないか、
と考えるようになるに到った。

この場合の「自分の「自然な反応」というものを「不適切なもの」と捉えるようになる」という状況は
一体どのようなものだったのかは今となっては分からないのだが、
その後の経験から逆算するようなかたちで推測することはできる。

わたしのようなくだらない男にも好意のようなものを抱いてくれる女性がまれに現れる。
その女性は、たまたまわたしと目が合ったりすると輝くような笑顔を見せる。
比喩的にではなく、まさに文字通り「輝く笑顔」であり
とびっきりの笑顔だと言うしかない、そんな笑顔だ。

そんな笑顔を目にしたわたしはもちろんパッと明るい気持ちになる。
そしてそれは振り返ってみると、中学のときの初恋がはじめてで
それ以前には、どうやってもさかのぼることができない。

しかし、同じ経験を何度か重ねるうちに、どうも世間の「普通の人たち」というのは
小さな頃からそういった経験を積んで来ているようだと気付くことになった。
それはとても「基本的なこと」なのだということがなんとなく分かった。

ここでの鍵はおそらく母親の笑顔なのではないか。
それも、子どもの全てを承認して受け入れる、そんな笑顔なのではないか。

そしてそこで交わされる親子の交流が自然であれば
子どもは自分の存在や感覚や反応について安心感を抱くことができ
その結果、その後の他人との交流においても不安感や不快感に苛まれずに
自然に交流できるのではないか。

これとは逆に、母親が子どもを受け入れておらず
子どもと目が合っても自然な承認の笑顔が出ないような場合
その子どもがシゾイド型人格障害になるリスクが高まるのではないだろうか。

もちろん、これ以外の可能性も考えられる。
シゾイド型人格障害と高機能自閉症の一部(アスペルガー障害)には類似点が多いと指摘されており
その場合は、子どもの遺伝的にもって生まれたリスクというのが考えられる。

可能性としては、遺伝的要因と環境的要因の双方がそろったときに
もっともリスクが高くなるのだろう。

で、話を戻すと、わたしは中学のときの初恋ではじめてそういう「承認してくれている笑顔」というものに出会った。
逆に言えば、わたしの母はそういう類の顔を見せたことがなかったということだ。
そして、「承認してくれている笑顔」に出合っても、もう中学段階まで来てしまってからでは、
手遅れだということでもある。

おそらくある年齢を過ぎてしまうと、もう可塑性が失われてしまい
脳などの基質に何も異常がなくとも、機能的に正常になることはないのだろう。

ちょうど、生まれてすぐ目隠しをされた猫が一定期間が経ってからその目隠しをはずされても
目が見えるようにならないという実験と同じように。

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前回に続いて、今回は回避型人格障害のところを。

「なぜこのようになるのか。彼らの自己評価が極端に低いからである。必要以上に自分のことを「ダメ人間」「不適応者」「取り柄がない」「人とうまくいった例がない」などと自らをおとしめ、自分には対人魅力がないと決めつける」(P.98)

そうだよなー、と思う。
ただ、私の場合、そうはいってもそれなりにうまく行きもするとどこかで思っているようでもあるので、そこで少しは救われているのであろう。

続いて。

「だが、対人関係を回避したからといって、このタイプの人々に安息の隠れ家があるわけではない。自己評価が低すぎるため、その内面は決して慰めあるものにはなりえないのだ。苦悩・自己嫌悪・怒り・恨みつらみなどの感情で満ちている」(P.101)

うーん、これも当てはまる・・・
そういえば、中学生の頃に「自己嫌悪」という言葉を覚え、何か少し視界が開けたような感覚があった。

次の部分は、まさにというか、あまりにも自分に当てはまる。

「ミロンは、回避性パーソナリティ障害を発達させる幼児の親たちは、子供を過小評価しては叱責する傾向が強いとしている。彼らは好んで「お前は、意気地なしだ」「どうしてお前は、なにをやってもそんなにのろいのかね」などと露骨に子供をなじり、屈辱感を与える。そのため幼児は漠然と「世界は不愉快なことでいっぱいで、自分を歓迎してくれない場所である」というように感じるようになり、周囲に対する不信感、無力感や孤立感が生まれる」(P.103)

私の親はどちらも私に批判的だった。
父はどちらかというと客観的な批判で、たとえば「お前は協調性がない(から、そんなことでは生きていけない)」とか言われた。
母のほうは、こちらは主観的に気に食わないという感じで、たとえば「男の子のくせに色が白い」とか「私より絵がうまい」(というのをほめる口調ではなく、気に食わないという口調で)言ったりした。

自分で言うのもなんだが、私はどちらかと言えば我慢強いほうだったし、かつコツコツ努力するという一種の才能も与えられていたのだが、私の親が私を批判するのは、どれも努力ではどうすることもできないような類のもので、それが私をひどく落ち込ませ、苛みもした。
「世界は不愉快なことでいっぱいで、自分を歓迎してくれない場所である」というのは、まさに私の基本的な感情だ。

ただ、今考えると、どうも生来のシゾイド的な性質で私の反応が薄すぎたために、反応を引き出そうとして、一種の「煽り」のようなつもりもあったのではないかとも思う。
ま、それにしたところで、他にやりようはあったと思われるので、その意味では、あんまりな親だったとは思う。
少なくとも、すぐれた親でないのは確かだ。

子供ができれば自然と親として成熟するなどというのが、いかに荒唐無稽で、かつ無責任な言葉かがよくわかる。

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