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人生、消去法
世捨て人のつぶやき




講談社選書メチエ『パーソナリティ障害』(八幡 洋)を読了した。

この手の本では久しぶり。
それなりに今までの、岡田尊司氏の著作より詳しい歴史的経緯などもあって、興味深く読むことができた。

私は基本的に自分を「シゾイド型人格障害」だと思っている。
また、同時に診断基準からすると「回避型人格障害」傾向も強く持っているということは分かっていた。
今回この本を読んでみたところ、改めてその認識を強くする結果となった。。

まずはメインである「シゾイド型人格障害」について。
この本の中では「統合失調質人格障害」とされるが、中身は同じである。

順に「これはそうだな」と思ったところを列記していこう。

「愛情ですら、彼らは自らの処理能力を超えたものであるかのように思ってしまう」(P.116)
「彼らにとっての人間関係は、喜びどころか、疲れるだけである」(P.116)
「彼らの願望と言えば、「なるべく人間関係に揉まれず、静かな生活をひっそりと送りたい」という控えめなものであることが多い」(P.116)
「他人に対して無頓着で、「対人関係が煩わしい」と苦手意識を持っていることもある」(P.116)


いやぁ、あるある(笑)。

さらにはこんなのも
「他人からの情報を解釈するにあたっては、相手がなんらかの反応を期待したほのめかしを行っても気がつかないままに終わることが多い」(P.116-117)
「周囲には目立たないように距離を置いて、なるべく周辺的な位置にとどまっていようとする」(P.117)
「エネルギーやバイタリティーに乏しい彼らは、たった一人で静かな活動に耽ることを好む」(P.117)
「それも、回避型人格障害のように、人間ドラマ的なものは好まない」(P.117)
「「人間のいない」世界に行きがちである」(P.117)



まさに自分のことだなと思う。

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Wikipediaの統合失調質人格障害の項はなかなか更新されない。
しかも、なんか眉唾なことが書いてあるんだが・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/統合失調質人格障害

いわく、
特に、田舎から都会へ出てきたばかりの人物に発症しやすいとされている。田舎の、特にムラ社会が色濃く残っている地域では、自由やプライバシーが保障されない代わりに「自分は自分の人生をどうしたい」などの意思表示を求められることも少ない。こうした文化の中で生まれ育った人が都会において急に「自己表現」を求められてパニックに陥り、それを求められるような社交的な場を避け、引きこもりに近い精神状態に陥ってしまうものと考えられる。
だそうだ。なんだかな。

この部分の最後には「要出典」とつけられているので、私と同じような感想を持った人がいるということだろう。
しかし、それにしてもひどい記述だと思う。差別的・侮蔑的な視線を感じる。
そもそも、人格障害は病気ではないはずなのに、「発症」という単語を使ってしまっているのが、もうダメダメでしょう。
要出典とかそういう問題じゃないと思う。

そもそも、シゾイド型を含めて「人格障害」の概念自体は主にアメリカのDSM-IVで定義されていたのではなかったか。
この項の冒頭の記述にも「DSMの人格障害のなかで、大きな区分である「クラスター A」に属する一型である。」と書いているのに、なぜか診断基準にはICD-10のものしか書いていない(ICD-10はWHOが策定しているものだから、こっちのほうが主流なのだろうか)。

履歴を見てみると、一番最初のほうではDSMについても記述するつもりだったようだが、途中で削除され(2006年6月25日)、その直後の2006年8月13日に冒頭で引用した問題の一節をchikumayaさんというハンドルネーム(というのだろうか)のひとが書き込んだようだ。
このchikumayaさん、wikipediaでは、「プロジェクト医療」と「プロジェクト病気」に参加していらっしゃるようで、医師なのだろうかと思ってしまうが、それにしても出典も明らかではない(というか偏見に満ちた)文章を書いてしまわれましたね。
しかも、それから結構な時間がたっているのに、修正されていないところを見ると、Wikipediaの信頼性というのもあやういな、と思ってしまう。

しかし、やはりこのシゾイド型人格障害というのは、医学的にも問題にされることも少なく、当の本人も世の中や他人に働きかけようとしないため、なかなか理解も進まないし、こういったWikipediaの記事でも内容が充実しないのかもしれない。

とはいえ、海外ではけっこう研究はされているようだし、少なくとも英語版の内容を翻訳して載せるくらいはしてもいいのではないだろうか。
これ → http://en.wikipedia.org/wiki/Schizoid_personality_disorder
(ていうか、内容多いな。英語圏ではやはり研究進んでるんだな)

お前がやれって言われそうだが、なかなか精神的な余裕もなく難しいんですよ。
そのうち時間が取れたら、一度書き込んでみようと思いますが。

ただ、できればちゃんとした研究を行っている方にしっかりした記述をして頂きたいところだ。
見ている研究者の方がいらしたら、ぜひ執筆にご協力頂きたい。
書いて頂ければ、お礼に私が観察対象になってもいいですよ。研究に貢献できるなら喜んで。

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先のエントリで書いたのだが、なんか、PTSDと似ててややこしいかな、なんて・・・
でもないか。

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おもいのほか英語版Wikiのシゾイド型人格障害が充実していたのでご紹介。
http://en.wikipedia.org/wiki/Schizoid_personality_disorder#SPD_and_other_disorders

だいぶ前に見たとき、こんなに充実していなかったような気がするのだが、結構なボリュームになっている。
日本のほうはいまだ貧弱だが・・・(専門家の皆さん、お願いしますよ)

まだ全文を読めてはいないのだが、今までの認識から若干それる感じも受けた。
Salman Akhtar, M.D.氏がまとめた症状一覧的な表は、なかなか興味深い。
と、同時に、以前からこのブログでも紹介しているDSM-IVの基準とは微妙なずれを見せている。
ま、同じシゾイド型でも、やはり結構な幅があると言うか、変動の振幅みたいなものがあるのだろう。

で、この記事を読んでいて思ったのだが、シゾイド型(統合失調質)人格障害という名称は、やはり誤解を招きやすいものなので、ここに出てきているように「SPD」にしたらどうだろうか。
これなら、不要な誤解(統合失調質との近縁性等、否定されているにもかかわらず出てきやすいもの)を防ぐことができるのではないか。

しかし、国は違えど、シゾイド型って、やっぱ、生きにくいのだね・・・

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私は、ずっと「他者」というものを理解したいと願ってきた(※)。
と同時に、どうやらそれが難しいものであることも薄々は感じていた。

おそらく、生まれつき目の見えない人が、「目が見える」ということはどういうことなのかを理解したいと考え、「目が見えるとはどういうことなのか?」とずっと考え続けるようなものなのだろう。
そして、どこまで行ってもそのひとには「目が見える」ということがどういうことか理解できないように、「他者」というものも詰まるところ、私にとってはどこまで行っても理解することのできないものなのだろう。

また、そもそも「理解」できるような事柄ではない、ということでもあろう。

細かいことを言い出せばきりがない。
目というひとつの感覚器官によって実現される「視覚」と、(おそらく)様々な感覚や判断力を総合して実現される「他者認識」とは、そもそも次元が違うのだし、視覚でさえかなり複雑な情報処理と判断力を要するものだから、他者認識なんていうものは、とてつもなく複雑でとてもじゃないが歯が立たないともいえる。

ところが、「普通の」人々はこれができる。
というか、できてしまっている。

目の見える人間が、「目が見える」ということの内実を言葉にするのが困難であるように、「他者」が「わかる」ひとはその内実を言葉にすることが困難である。

いや、困難なんていう持って回った言い方は止そう。
そんなことは不可能なのだ。

目の見えない人が目の見えるひとから「目が見えるとはこういうことなんだよ」と、どんなに説明をしてもらっても、おそらく「なるほど。目が見えるということはそういうことか」と納得することはないだろう。

ひととひとは、おたがいの間に認識の基盤となる共通した経験が存在しない場合、上記のように言葉による認識の共有は不可能となる。
そして、私と「普通」の人たちとの間には、「他者」という経験の有無により、決して言葉による共通認識を構築できない部分が残るいうことになる。

生まれつき目の見えないひとは「目が見える」ということがどんなことなのか、おそらく最後まで理解できない。
にもかかわず、自分が「目の見えない人間である」ということは理解できる。
「目が見える」ということがどんなことかはわからないが、とにかく「それ」が自分には与えられてはいないこと、自分からはあらかじめ「奪われてしまっている」こと、そのことは、おそらく理解できる(むしろ、理解するように仕向けられると言った方が正確かもしれないが)。


くどいようだが、これを翻案すれば次のようになる。

生まれつき「他者」というものがわからない私は、「他者」というものがどんなものなのか、おそらく最後まで理解できない。
にもかかわず、自分が「他者というものがわからない人間である」ということは理解できる。
「他者」というものがどんなものかはわからないが、とにかく「それ」が私には与えられてはいないこと、私からはあらかじめ「奪われてしまっている」こと、そのことは、確かに理解できる(むしろ、理解するように仕向けられると言った方が正確かもしれないが)。



アナロジーとしては、出来が良くないと言われるだろう。
しかし、現時点で私が言語化できるぎりぎりの限界はここまでである。


※念のため説明しておくけれど、ここでいう「他者」を「認識する」とか「理解する」というのは、相手の気持ちを理解するということではない。
そうではなくて、「他者」というものの「意味」(あるいは「存在」とでもいえばいいのだろうか・・・)をつかむ、ということだ。
私の<世界>の中に「存在」として「他者」をとらえることが私の悲願であり、また、逆に言えば、私にとって「他者」というものはつねに、私の<世界>の中にぽっかりと口を開けた「空虚」なのだ。
それは見ようとすればするほど見えなくなる、ある種の「消失点」のようなものだ。

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ここのところ、仕事で忙殺され、なんかこう余裕がなくなってしまって、本もろくに読めていない。
本だけじゃなく、ブログも飛ばし読みの飛ばし読みといった感じで、正直ダメだなーという感慨ばかりが募っている・・・
眠りが浅くなり、明け方に仕事の夢を見るようになってしまった。やれやれ。
眠りが浅いせいで疲れがとれないというサイクルがついてしまったので、昨日は一念発起して病院で安定剤をもらってきた。
なので、今日の朝は眠ったという充実感を久々に感じた。
といっても、昨日の晩は発泡酒3リットル飲んでるから、なんだかな、ではあるが。

で、本題。
久々にちょっと頭が動き出したら、久々にこのブログを読めた(なんかRSS登録してんだが、読めないのね。ずっと)。
↓これ
http://charm.at.webry.info/200702/article_7.html

そこで、こんな箇所がある。
シグムンド・フロイトの精神分析では、男性原理(去勢不安・男根羨望)に基づくエディプスコンプレックスの体験と克服を重視して、幼児期(4-6歳頃)の正常なリビドー発達と超自我の形成に欠かせないものと考えます。母親への愛情欲求を断念して父親の権威に屈服するという意味合いを持つエディプスコンプレックス(エディプス葛藤)は、自分の思い通りにならない『社会的な他者の原型』である父親によって、子供の持つ幼児的な全能感や魔術的な思考が打ち砕かれる経験です。

ま、一時はよくフロイトも読んだものだが、今回ふと、これって基本的に近代的な家族形態を前提にしてるだけか、と思った。
このくらい誰でも知ってるレベルの話なんだろうが、私の鈍な頭には分かっていなかったのだ。
父親が外に働きに出て、母親が家を守る。
父親は社会に繋がる役割、母親は家庭を守る役割。
フロイトが言ったエディプスコンプレックスの克服とは、世間的には「マザコンの阻止」みたいな印象を与えているだろうが(笑)、それは比喩的に言えば、家族という「第2の子宮」から社会という「第2の外界」への誕生のことをいってるんだろうな、と。

なんだ、そういうことかよ、と今さらながら思った。
未熟な状態で第1の生を受ける人間、そしてそこから第2の生としての社会への誕生。
そこでようやく人間は「人間」になるということなのだろう。

しかし、それは今の時代にとって前提とできるものなのだろうか?
おそらくはそうではない。

夫婦共働き、シングルマザーにシングルファーザー、いや核家族化自体がそもそもの前提を掘り崩すものなのではないだろうか・・・?
ドゥルーズ・ガタリを待つまでもなく、こんな図式自体が有効性を持ったのは、もう遠いむかしの出来事なのだ。
って、ま、それは言い過ぎか。ていうか、ま、今になって初めて誰もが認めざるを得ない状況に到ったというか。

ま、今日のところはこんなところか。
復活できたら、また。

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だいぶ前から積ん読状態だった『ひき裂かれた自己』(R.D.レイン)を、年末の休みに入ってから少しずつ読み出した。
いやぁ、面白い。
とはいっても、ここで語られるのは副題に「分裂病と分裂病質の実存的研究」とあることが示すように、「分裂病質」とはあるものの、それはいわゆるシゾイド型(統合失調質)人格障害のことではない。
しかし、ま、まったく違うわけもなく、重なりあう部分も多いと思われる。
重症例って感じ?(人格障害は病気じゃないからこの呼び方は厳密には間違いなんだろうが)

しかし、やはり分裂病と背中合わせな感じに書かれているので、不安感は生じるので、その辺はご注意を。

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年末くらいからアクセス数が若干だが増えた。
ちょっと前に柄にもなくアルファブロガーにTBしたせいかと思っていたが、先日「シゾイド型」でググったらなんと2位(!)にあるではないか、このブログ。
いやはや、いままで完全に無視されているっぽかったのにこれはどうしたことか。

しかし、『パーソナリティ障害の診断と治療』(ナンシー・マックウィリアムズ著)について書いたところのほうが参考になると思うので(でそこは検索には引っかからない)、ちょっとご紹介しておきたい。

導入
読書メモ1
読書メモ2
読書メモ3
読書メモ4
読書メモ5
読書メモ6
読書メモ7
読書メモ8
読書メモ9
読書メモ10

いやはや、こんなに書いたっけ?
とか無責任に思ったりするが、ま。

検索に引っかからないのは、やはり本からの引用ばかりだからかな。
いい本だけど、専門的だし、シゾイドだけについて書いたものでもないしねぇ。高いし。

でも多少は宣伝にもなっていると思うんで大目に見ておくんなまし。

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以前からシゾイドとアスペルガーには
何がしかの関連があるのではないか、
というか単純におんなじなんじゃねーの?という
ま、その辺は今後の研究にゆだねるしかないわけだが。

しかし、今日こんなのを見つけた。
自閉症の極端男性脳理論

その中のこの一節
>Empathising共感することは,他人の精神状態を認識することを含み,また,他人の感情状態に対し適切な感情反応をすることを含む.

ちょっと、ぎょっとした。正直言って。
というのは、これまでの私の認識では、
自閉症の圏域にある人というのは
単に他人の気持ちやこれからとるであろう行動の予想ができないという
そういった前提があったので。

で、この一節で分かるのは
「他人の意図が分かっても、それに適した行動がとれない」というのは
あきらかに「共感できていない」ということなのだ。

つまり、「感じる」だけではダメなのだ。

木村敏の著作をはじめ、この辺のことは
いろいろと面白いことが分かりそうだ。

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このところ職場で、とある中年女性のジコチュウな態度に大変なストレスを感じ、今までになく鬱な気分がひどくなっている。
といっても、その女性が常軌を逸しているというほどではないのだともいえる。
私の適性ととにかく「合わない」のだ。

ちょっとしたことで話しかけてくるのだが、もろに承認欲求を前面に出した、子供じみた態度で、そういった態度について嫌悪感を強く感じるタチの私にとっては、まさに拷問のようだ。
で、何がいやなのか、というと表題の「コミットされること=何かを奪われること」だからではないか、と思っている。
どういうことか?

この女性以外の普通の(?)人に対しては、私はあまり不快感を感じることはない。
なぜなら、それは他愛もない言葉のやり取りであって、その場の流れに合わせていれば(ま、それはそれで苦手だが・・・)基本的には問題はないからだ。

ところが、この女性の場合、他人に自らコミットするとき、その目的は「相手して!相手して!」という自分の欲求だけに従った態度で、かつその自分の欲求の絶対性をみじんも疑っていないという点が特徴になっている。
そこに私は、まさにこの女性が他人を他人としてそもそも認識していないという印象を受けるのだ。

いわば、乳児が母親のおっぱいを自分の身体の一部だと錯覚しているように、この女性は赤の他人である私を自分の欲求を満たしてくれるものとして、勝手にそれで当然だという態度でせまってくるのだ。
これはたまらない。

このとき私は、ひとりの独立した人間であることを否定され、「道具化」されたような気持ちになる。
なぜならこの女性は、私の意向などおかまいなしだから。
ここで私は、ひとりの人間であるという事実を奪われている。
ひとりの独立した人間であることを承認してもらえない。
この女性は自らが承認を求める前に、私をひとりの人間として承認するべきではないのか?
それなしには、理不尽な印象が拭い難くつきまとってくる。

もちろん、私の側に全く問題がないなどというつもりはない。
その程度の承認は与えてやればいいではないか、という意見ももっともだ。
しかし、残念ながらというか、私は承認をほとんど受けることなく育ってきたために、承認を与えることが非常に苦手なのである。
批判することはいくらでもできるが、ほめてあげることがどうしてもできない・・・

だから、私は遠回しに「わたしは承認するのが苦手なんですよ。勘弁してください」という意思表示をしてるのだが、この女性には通じない・・・
どうやら向こうは、「次はどうやって攻めようか」と思案しているようなのだ・・・

いやはや、一種のパワハラじゃないか、これ、とか思ったりもする。
「俺の酒が飲めないのか!」と強要するオヤジと変わらないじゃないか。

とまぁ、そんなこんなで出社拒否一歩手前の精神状態で過ごしていると、そりゃ鬱にもなりますわな・・・

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うまくは言えないのだがメモ程度に。

精神分析では、無意識の働きというか動き方というか
そういうものを意識化できれば、あとはなんとかできんじゃね、みたいな
ま、単純化し過ぎっていう批判はごもっともってことにしてですね
そういう楽観的な考え方があったわけですが
どうもそれではうまく行かないんじゃね、みたいな・・・

で、何が言いたいかというと
我々の生きている「意味」の網の目を編み変えるためには
なにがしかの「儀式」が必要とされるのではないか
ということだ。

その「儀式」そのものは意味がない。
より正確には、意識にとっては意味がない。

しかし、身体のレベル
そして、(かなりの暴論なのだが)物理的なレベルでこそ
その「儀式」は意味をもつようになるのではないだろうか。

やはりうまくいえないので
またの機会に・・・

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わたしは自分という人間を「これこれこういう人間だ」というふうに思っている。
おなじように、私を取り巻くこの世界は「これこれこういう世界だ」と思っている。

これは単に意識的な面の話ではなく、無意識にこそ当てはまるものだ。
だから、それは端的に行動に現れ、自分ではそのことには気づけないことがほとんどだ。

たとえば、人と話す時、わたしは話題に事欠くことがほとんどである。
これまで私は自分には話したいことがない、とか、会話が好きではない、とか、ま、単にそういうもんなんだよ、というふうに自分で解釈してきた。

これも、見方を変えれば(というか、ようやく見方を変えるってことができるくらい変化してきたってことなんだが)、わたしの話など誰もきいてはくれない、というある種の信念に縛られていた結果ではないか。

わたしには価値がなく、世界はわたしに関心など持ってはいない、という信念。
たとえ、目の前の人がわたしに関心を示していても、それはわたしの否定的信念連合に合致しない、いわばエラーのようなものとして認知される。
それはわたしに肯定感を植え付けるよりは、むしろ、どう対応してよいか分からなくするという困った結果を呼び起こす。
むしろわたしのことなど、無視してくれ、とか思うようになる。
そうすれば、わたしの無意識の否定的観念連合は脅かされることなく、「それでいい」ということになるからだ。

しかし、この信念の体系を編み直すという形で、肯定的なものに変えることはできそうである。
わたし個人はこの1、2年の間に少しずつ認知の体系が変化してきており(といっても劇的に何かが変わったわけではないが)、その変化する前の否定的な信念が少し見えてきた気がする。

それまでだって、さんざん精神分析的なスキームで自己分析はしてきたし、いろんな意味で親の悪影響というのは意識化できていたつもりだった。
しかし、漠然と親の批判的態度が自己否定感情を生んでいるというのでは、やはり足りなかったのだろう。

植え付けられた信念の束をいったんほどいて、そして、編み直す。
そのためには、大きな枠で「こうだよね」ではなく、小さな個別の場面場面のなかで、わたしの行動を規定している信念を行動を通して解体していくしかない。
それにはかなり時間がかかる。
いろんな場面で不適応を起こしていればいるほど、時間はかかる。

しかし、どうやらこの「変えられる」ということ自体は、確かなようだ。
この認識自体が私にとっての信念の編み直しそのものだともいえる。

ま、最終的に生きやすくなるかどうかは分からんけどね・・・

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さて、『火星の人類学者』(オリヴァー・サックス)を買って
いきなり最後の章から読み始めた。
自閉症だが動物学で博士号を取った人の話。
で、そこに「締め上げ機(だっこ機)」というものが出てきて驚いた。
わたしも(モノとしては全然違うのだが)触れ合うことで癒しを得る「機械」というものを考えていたからだ。

しばらく前に、自閉症時を無理矢理だっこし続けるという方針の施設を批判したが
これ
そのあと、自分の子供時代のことを思い出して、人間でないものに触れて癒されるってあるよな、と思った。
わたしの場合は、ぬいぐるみの肌触りだ。
毛布とかも同じで、ああいうふわっとしたものに触れるとなんか落ち着くというか(これだけなら他の人にもありそうだが)、子供時代、どうしても枕元からどけることができなかった。
で、翻って、先の無理矢理抱きしめなんていう暴力的なことをせずとも、こういう毛布みたいな生地で大人用の服を作って(ようはかぶり物みたいな感じのモノ)着れば、自閉症時のいやがる度合いが減るのではないか、それでもだめなら、すっぽり子供をだっこするような機械があれば、自閉症児でもいやがらずに、且つ抱きしめられるという安心感を得られるようになるのではないか、とかとか考えていた。

そしたら、やっぱりと言うかなんというかもうあったのね、と。

一体どんなものか分からんかったので検索してみると、これらしい(hug machine)。
なんかすげぇ・・・
材木とかの切り出しに使う機械みたい。

日本にも導入はされてるみたいで、この機械作ってる会社(米国)もあるようだ。

本の中でも書かれているが、実際に人に抱きしめられると「呑み込まれるような不安」を感じる人には、こういった一種のリハビリマシーンは必要だと思う。
もっとスマートなものを作れば普通の人にも売れるかも。
あ、でも、一種のオナニーマシンとかって言われちゃうのかなぁ・・・

そりゃ、普通に好きな人と抱き合って幸せな気分になれたらそれが一番なんだけれども・・・

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昨日のTOKIOと養老孟司の番組で出た、脳の中の感覚フィルターという話、
ちょうど今読んでる本にもそういう話があるのだが
ふと、このフィルターがうまく作動しないと自閉症になるんではないかと思ったのでメモ。

まず、人間は五感を通して脳に流れ込んでくる刺激を全て意識してはいない。
つーかできない(意識と言うもののキャパシティなんでしょうな。なぜかはわからんが)。
そのため、脳の中には情報のフィルターがあって
流れ込んでくる情報を重要なものとそうでないものというふうに重みづけして
重要でないものについては意識に上らないようにしている、と。

その結果として、人間の認識はつねに不完全で
さらには大人になるに従って、このフィルターは
思い込みやそれまでに経験したことによる概念体系によって
さらに強固なものとなってしまう。

で、子どもは大人と比較した場合、ずっと感覚そのものを素直に見てるよ、というのが
昨日のTOKIOの番組の流れだったわけだが、子どももしっかり生まれつきのフィルターを持っているでしょ、たぶん、と。
んで、この生得的なフィルタがもしうまく機能しない状態になった場合、どうなっちゃうのかな、とふと考えたら、あれ?それ、自閉症になるんじゃないの?と思った次第。

V.S.ラマチャンドランの『脳の中の幽霊』にも出てきたことだが、
人間の意識はあらかじめフィルタリングされた感覚情報を受け取ることで
意識の中に作り上げられた「世界像」を揺るがされることなく生きることができる。
ところが、普通の人でも、どうしてもこの「世界像」に合致しない情報というのが入ってくることがあり
そういうときに人は、認識の枠組みを組み立て直すしかないという状態を経験する。

で、子どもは本来ならば適切にフィルタリングされた感覚刺激によって
徐々に「世界像」を組み立てて行くものなのだが
生まれつきフィルタに不具合がある場合
ほとんどフィルタリングされない感覚刺激がどんどん流れ込んでしまう。
その結果、「世界像」の構築がおくれ
ある程度大きくなったあとも、つねに脆弱な「世界像」が、感覚刺激の奔流に巻き込まれ続けるという、ある意味悲惨な状況となる。
で、このつねに不安定な「世界像」を少しでも安定させる企てとして「反復運動」が出てくるんじゃないだろうか?

なぜ、「反復運動」で「世界像」を安定させられるのか?
それはつまりこういうことだ。

ある一定の運動を繰り返すことで、感覚から入ってくる刺激が「繰り返し」の中で新規性を失っていく(ここは普通の人と同じという仮定。単調な繰り返しは慣れから退屈へと進む)。
さらに反復が単調であればあるほど、それ以外の感覚刺激が入ってこないようになるため、結果として刺激は減少する。

そのため、自閉症児は経験的にある行為を繰り返すと、一時的にではあれ、感覚入力の刺激が減殺されるということに気づき、ある行為の反復強迫を始めるのではないか。

如何?

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ふと、あれは子どもだった自分が出していた危険サインだったのではないかと思ったのでメモ。

それはいったい何かというと、小学校の低学年ぐらいだったと思うのだが
一時期やたらとふすまに向かって柄の尖ったくしを投げて
ダーツのような感じで遊んでいたことがある。

当時は別に何のことはないダーツ遊びという意識だったが
今になってみると、ふすまが一面中、穴だらけになるまで
しかもかなり力を入れて投げていたことを考えると
なんか一種の怒りの発散だったのではないか、と思えてくる。

また、憑かれたようにやっていたような記憶があるので
(ま、その記憶がどこまで正いかが怪しいわけだが)
無意識の力ってこういうのをいうんかな、とか思ったり。

あと、くしがふすまに突き刺さる時の「ドスッ」という音が
えらく気持ちのいいものだったような気もする。

それにダーツっぽいといっても「的」なんてなくって
ただふすまに向かって思いっきり投げつけるってだけだったし。
このへんもちょっと病的な感じはする。

親が辞めろと言っても効かないので親は黙認してしまっていたが
なぜ、ここで親は「この子はどうしてしまったんだろう」という疑問を抱かなかったのか不思議だ。
もし仮にそういう疑問を抱いていたなら、なぜ、何のリアクションもなく放置したのかが不可解。

明らかに問題行動のひとつだと今になってみると思うのだが
家の中でのこと(しかも2階のふすまだった)なので
ま、いいか、と思ったのだろうか。

考えてみれば親からコミットされたという記憶がない。
確かに父親のほうがわたしへの態度はマシだったが
じゃあ父親がわたしにコミットしていたかと言われると
どうも「していなかった」とこたえたい気持ちが強い。

ここで、わざわざ「コミットされた」なんていう言い回しを使ったのは
どうも最近、「愛する/される」という言葉が氾濫しすぎていて
なんでもかんでも「それは愛されていなかったせい」とかいって
それで何事かが説明されたことになってしまうというのが我慢ならんかったからだ。
何もそれじゃ説明できてねーよと。

「コミット」すなわち関わるということ
それが基本にあって初めて人間関係というものが作られる。

しかし、ここでやっぱり回り回って自分が悪かったのかも、という思いが頭をもたげてくる。
つまり、親はわたしに関わろうと努力したが
それをわたしが拒否し続けたがために
親はわたしに関わろうとすることをあきらめてしまったのではないか、という推論だ。

Coda...

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