makoの喜怒哀楽

俳句は自分史・転記は禁じます

角川平成俳壇2017年3月号

2017年02月26日 | 入選俳句39・それ以降は日記に含まれる

 

3月号は並入選ながら二人の選者先生に採っていただきました♪

たとえ並入選でも1句に対し、二人の選者先生からの評があるのは

推薦で一人の選者先生に採っていただくよりも価値のあること。

私たちの句会の先生はそうおっしゃいます。

やったね^^v

お見舞いと言うと、元気な人が病気の人を見舞うが普通でしょうね。

しかしながらこの句、父も病身でありながら母を見舞うという句です。

時は今から35年前のこと。

一体どういうことが起こったのでしょうか。

父は喘息と心臓を患っていて長年の入院生活を余儀なくされていました。

そんな中、母も入院することになりました。

末期の膵臓癌でした。

当時、1歳8か月になる娘と病院通いをしていた私。

その時のことを書いて入選になったのはつい最近のことだと記憶してます。

「初乗りや膝に看取りの着替へ物   角川入選句」

 

今回の入選句もその折りのことに関連してしています。

迷いました。

入院中の父に母の病名を伏せるべきか・・。

日ごろから父の口癖はこうでした。

「俺が弱いからなぁ・・お前らに苦労かけるわぁ」

いつも母にこう言って負い目を持っていました。

その母の余命を知った父の気持ちを考えると悩みました。

母方の親戚の人、私の実父にも相談しました。

意を決して父に告げるべき父の入院先に出向きました。

病室から1階まで降りて来てもらいソファーに向かい合わせに座りました。

私は父の前では泣かないと心に決めていたので淡々と話すことだけを心して。

膝に置く父の両の指先が震えていたのを思い出します。

 

12月。

母のベッドの枕元に「着膨れ」の父が腰かけていました。

タクシーで来た父のコートの下はパジャマのままでしたが着膨れてブクブク状態でした。

母の余命を悟られないように父も精いっぱい淡々としていました。

それは私と父の約束だったからです。

母はその日、比較的元気でケチャップ味のスパゲティーが美味しいと食べていました。

酸っぱいものだけが口に合うようになっていたのです。

「いとまごい」の積りで父はその場所にいたと、後から聞きました。

ほんとにそうなりました。

月明けて1月3日に母は亡くなりました。

 

母の入院中。

それまであーだこーだと接触してきていた夫の両親は全く電話もありませんでした。

孫でもある私の娘はどうしているのかとか、心配もなかったのでしょうか。

「順調な時」「そうでない時」に手のひらを返すような人がいることを知りました。

 

当時の火葬場は地域の中にありました。

組の方が準備を整えてくださりいよいよ点火になりました。

役割として夫よりも私が点火ということだそうです。

ところが震える手でもってなかなかマッチが擦れないのでした。

やっと擦れてもマッチの火は消えてしまうのです。

みかねた隣のおじさんが代わってくださいました。

 

母の病名を告げた折り、膝を抱えた父の指の震え。

私が母に点火するときも震えてばかりだったこと。

そんなことが思い出されました。

前にも書いたけど、娘は酷い風をひいていてフラフラになっていました。

やっとおかあちゃんが居ると思えば、

葬儀の準備などで娘もかまってあげられない状態でした。

機嫌が悪くて私の背中でさえも泣いてばかりでした。

夫の兄の子供さんも来ていました。

娘の従妹にあたりますが。

そんな時、お義母さんはこう言ったのです。

「うちの子は機嫌よろしいでしょう♪」

??耳を疑いました。

その時の兄嫁さんの得意な顔と言ったら・・・・。

悪いけど、娘の方が遥かに自慢できる子に育ってくれました。

 

とまぁ、自慢話で話をしめくくりたいと思います^^v