◎2019年1月14日(月)
西吾野駅(8:52)……白山神社(9:16)……北川尾根に乗る(9:37)……460m標高点付近(10:08)……オバケ山(10:26)……636m標高点付近(10:58~11:13)……車道・グリーンライン(11:43)……飯盛峠(11:58)……飯盛山(12:04~12:12)……関八州見晴台(12:50~13:16)……高山不動尊(13:37)……石地蔵(14:16~14:23)……車道(14:47)……西吾野駅(15:00)
関八州見晴台(高山不動尊奥の院)には行ったことがない。かなり以前、オーソドックスなコースで黒山三滝を経由して向かったが、滝の先で同行者がダウンして引き返した。歩き慣れした相方だったから、暑さのせいで体調が悪くなったのだろう。結局、行かずのままになっていた。
何で今頃になって関八州見晴台が出てきたのか。ぶなじろうさんのブログで、越生町の「ハイキングのまち宣言」なるものを知り、ちょっと気になって、町のHPを調べると『越生町ハイキングガイドブック』がダウンロードできるようになっていた。そんなものよりも現物の冊子が欲しくて役場に問い合わせると、ガイドブックの在庫はなし。その代わりと、観光パンフレットが大量に送られてきたが、別にこれはこれでいい。それを眺めていて、そういえば関八州は行っていなかったなと思い出して行く気になった。
昭文社地図を広げて眺めていると、「北川尾根」なる実線はおろか破線もない名のみ記載の尾根を見つけた。これを登ってみようか。里山の尾根だ。歩かれていないわけがない。ネットで調べると、やはり歩いている方はいるものだ。敢えてその記録の深読みはしなかった。楽しみも半減する。ただ、グーグルマップのストリートビューを追いかけると、車を置けそうな路肩はないし、尾根末端部は人家が並んでいて、神社あたりから取り付くしかないようだ。微妙に舗装した道が奥に入り込んでもいるのも見える。人家の間だし、その先はビューされていないので不透明。使わない方が無難だろう。
西吾野駅には駐車場がない。関八州まで行って、気分次第でどうなるかもわからないので、芦ヶ久保の無料駐車場を利用することにする。
芦ヶ久保駅に着くと、8時台の電車は一本だけ。それも20分待ち。別にトイレに用事もないし、時間つぶしにタバコを吹かしながらハイキングマップ看板を眺めていると、駅員さんがつかつかとやって来て、「ここは駅構内ですから禁煙です」と注意される。これは失礼とタバコは消したが、中から見張られている感じがして落ち着かず、さっさとホームに入ってベンチで震えながら電車を待った。単線区間での列車交換か、電車は早くやって来て乗ることはできたが、下り線の電車からはかなりのハイカーが吐き出された。そういえば、「氷柱」と記された幟があちこちに立っている。お祭りでもやっているのか。戻ったら見に行こう。
(西吾野駅から出発)
(あれが北川尾根のようだ)
(白山神社)
西吾野駅で降りたのは自分だけ。芦ヶ久保駅の賑わいに比べたらかなり寂しい。駅から下り、川沿いに車道を歩く。歩いているのは犬の散歩のジイサンだけかと思ったら、その先で大がかりな法面工事をやっていて、休日にもかかわらず、工事関係者がかなりたむろしていた。
白山神社に到着。向こうから地元らしい方が歩いて来た。ここで素直に尾根の取り付きを聞くなりやり過ごせばいいだけなのに、おかしためらいが出て、神社にお参りするふりをして階段を上がった。小さい特徴のない神社だ。実はもう少し先から入りたかったが、そんなタイミングの悪さで、神社の裏から入ることになった。地形図を見れば一目瞭然だが、北川尾根との間には谷筋が一本あり、これを越えるのに余計な労力を使いたくはなかった。ところで、この「北川」だが、歩いて来た道沿いの川が高麗川の支流の北川で、東側の山中の地名にも北川というのが地図に記されている。
(いきなりだったが、これはまだ序盤戦)
(こんな道が左から通っていて、してやられたといったところだ)
先の苦戦を予想してストックを出して入り込む。周囲はすでに杉の植林が始まっている。踏み跡はない。斜め左方向に向かう。ここはまだ始末も良かった。せいぜい落ちた杉の葉がうっとうしいだけ。先は緩い尾根状になっているが、これが北川尾根に合流するわけではなく、うやむやの斜面になるはずだ。これは乗り越える。
下に舗装の道が見えた。ストリートビューで見た道の先だろうか。一旦、降りる。左下に通りと人家が間近に見えていて、少なくとも神社からここまでの歩きはまったく意味のないものだった。だが、道はすぐ先が終点になっていて使えない。向かいの斜面に取り付く。ここからしばらくヤブじみた歩きを強いられる。
(谷筋越え。沢になっていて細い水が流れていた)
(ここの登りは間伐で熾烈だった)
(本尾根に出る。)
間伐地獄だった。倒れた樹だけならともかく、その枝が張り出し、杉の葉もうず高く、間隙を歩くのもかなり厳しい。斜めに登って行くと、やはり谷筋が出てきた。遠く先の上に本尾根は見えている。バックは青空。谷に下って這い上がる。地獄状態はさらに悪化した。
ようやく本尾根に出た。ぐったり。かなりの神経と体力を使ってしまった。もっと楽な歩きはあったろう。白山神社裏からの歩きはお薦めしない。自分のような周囲の目を気にした器の小さな歩きはせずに、世間に密着した堂々とした歩きができれば、末端から容易く登れたかもしれない。
北川尾根は迷うようなところもない一本筋の尾根だったが、ここを歩くのはやはり物好きな人たちだろう。合流した時点で下ヤブも続いていた。明瞭な踏み跡が出てくるのはしばらく先で、それとて作業道だろう。最後まで、黙々とした植林の中の尾根だった。後で思うに、12月の武甲山の登りも植林の中の歩きで、ずっと古道のジグザグだったが、ここは尾根上のストレートだ。その辺が違うのか、むしろ自分には同じ植林とはいえ、好みの歩きだったかもしれない。印象は決して悪くはない。
(古いリボンや)
(標識)
(いきなりの急坂がまめに出てくる)
(下ヤブがたまに出てくる)
間伐は尾根下斜面に追い落とされ、尾根上は下ヤブも去って静かになった。古いリボンを見かけ、手書きのプラスチック標識もあった。「北川 西吾野」と書かれている。わかってはいるが、間違いなく北川尾根を登っている安心感でほっとする。
たまに薄いヤブも出てくる。植林の中ではちょっとしたアクセントだ。しかし、この尾根は緩急の著しい尾根だ。正直のところ、自分の不具合な足には少々つらい。急登り斜面では、地面へのかかと付きを意識しても、左足はついツマ先立ちの歩きになってしまう。右足はかかとに力点を置いているからなおのこと、左足のふくらはぎあたりに負担もかかり、このままでは左足が攣るかもと、無理にかかとに比重を移そうとすると、今度は歩きづらい。足具合との格闘がもどかしい。
(460m標高点付近。中の樹にひっかきが見えている)
尾根上の踏み跡が明瞭になって最初のポイント、460m標高点に着いた。こじんまりしたピークで、その先は下っている。ここにマツの樹があり、その木肌に爪跡のようなひっかきがあった。シカが角をこすった痕ではない。こんな植林帯でもクマがいるのだろうか。長居している気分にもなれず、さっさと先に進む。
(この繰り返しで)
(オバケ山)
(山名板)
少し下って一気の登り。地形図の等高線はのんびりしているが、かなりしんどい。左足のかかとがまったく地に着かない。長い登りを終えると、樹の切り株と森林公社の石柱が置かれた平らなピークに出た。ここに山名板があった。「オバケ山 500M」。オバケとはお化けのことか? 何かいわくでもあるのか。この北川尾根で見かけた唯一の山名板だ。秋葉山というのもあったらしいが、自分には気づかなかった。おそらく、その上に出てしまったからだろう。下りで使用すれば、ほぼ尾根の末端付近には出られるし、秋葉山の山名板も見られたろう。
(636m標高点ピーク)
(一時的に明るくなって、こうなるとほっとするわけだが…)
やや平坦ながらも起伏が続くと、右手先にこんもりしたピークが見えてくる。地図をあてがうと636m標高点だろう。周囲は明るくなり、雑木も混じってきたので、植林ももう終わりかなと期待したが、密度が薄くなっただけのことで、やがてまた薄暗くなる。地形図では針葉樹マークとともに広葉樹も入り込んでいるが、実際のところ尾根上は針葉樹というか、杉の植林が続いている。
(かなりいやらしく長い登りで)
(636m標高点付近。休憩)
左側の景色が少しばかり覗くようになると、また急登になった。636mへの登りだ。ここは間伐放置やら、落ちた杉の葉も多く、登りづらい。ここの登りが、本日一番のつらいところだったか。
636m到着。そろそろくたびれてきた。斜めに切られた細い木株に腰をかけたがかなり不安定。あちこちと腰掛けを探し回ったが、平らで太いのはない。幾分ましな木株で落ち着く。菓子パンを食べ、一服する。風があるわけでもないが、日陰の植林の中は寒い。ゾクゾクし出して休憩は切り上げるが、それでも15分ほど休んでいた。あと120mも登れば北川尾根も終わりだ。
(ここはあっさりと左から巻いた)
(不明瞭だが、左に巻き道があり、直登は岩場になっている)
(一応の岩稜帯)
尾根から巻き道が出るようになった。目の前には間伐だらけの小ピークがあって、これは巻く。次の巻き道は、尾根を見上げると岩場のようだ。たいした岩場には見えない。ただ急ではある。ここは巻かずに直登。岩場は何ら障害にもならず、岩の間をあっさりと登れた。この先も点々と岩が現れるが、これまでにないアクセントになる風景だ。ただ、急で、さっきの636mへの登りの苦痛に等しいが、長々としたものではない。
(白いガードレールが見える。ここは踏み跡に合わせて登る。北川尾根の終点になる)
(車道に出る。車でここまで来て関八州に向かっても何ら問題はない。苦笑いしてしまう)
下ヤブが出てきて、見上げると植林から空が抜けている。バイクのエンジン音が聞こえてくる。終点は近い。少し下るとガードレールが見えていた。ここの登りも厳しいなと思ったが、右斜めにトラバース道が付いている。これを利用する。
車道に出た。ちょうどガードレールの切れ目だった。目の前を自転車男がコンニチワーと言いながらが通り過ぎて行った。ある程度以上に苦労して登った結果が車道では情けない気分になるが、これが奥武蔵の山の現実だ。嘆いても詮方なく、受け入れるしかない。
(左手に秩父を象徴する山が見える。もしかして、秩父の山からならどこからでも見えるのではないのか)
(ふれあい道に入っている。まぁ、何というか、人様の歩きルートに勝手に入り込んで標識を置かれた気分がしないでもない)
このまま関八州に行ってはおもしろくもない。せっかく来たのだから、昭文社マップに級数が大きくゴシックで記された飯盛山に行ってもたいした迂回にもなるまい。車道に沿っているようだし、険しい山には思えない。マップには括弧書きで(龍ヶ谷富士)とある。北川尾根の終点近くで左に見えていたピークだろう。
すでにふれあい道のゾーンになっているようだ。車道をテクテクと歩いて行くと、左に武甲山が見える。そして、右には山道分岐で戻り方向に関八州見晴台、左は飯盛峠の標識が現れた。このまま車道歩きかと思ったが、かろうじて脇道が設えられている。登っては車道に下り、車道歩きのあとはまた脇道。
(飯盛峠。標識だけアップというわけにもいかなかった)
飯盛峠は車道側にあった。標識のすぐ横にスバル車が駐まっていて、何をやっているのか知らないが、バッテリーのような物を外に出して、車にコードで結び付けエンジンをかけたままにしている(エンジン音かバッテリー音かはさだかでない)。さりとてボンネットを上げてはいない。何をやっているのだろう。とにかく、標識の写真を撮ろうにも、この車が邪魔になる。その時は、バッテリー上がりかと思っている。
マップでは飯盛峠の先、左に「飯盛山」があり、右には級数の小さい「飯森山(センズイ)」がある。峠は越生町、ときがわ町、横瀬町の境になっている。どうでもいいことだが、越生町には独自の飯盛山がある。よほどにご飯好きな方が多いのかは知らないが、今回の目的は関八州だし、こんなところでまめに飯盛つぶしをするわけにもいかず、級数の大きな飯盛山は、この峠からすぐそこだ。そこで結構。
(左が無理してつくったらしい山道。すぐ電波塔らしき施設がある)
(飯盛山山頂)
(電波塔らしきタワー)
本来の車道は左に逸れているが、分岐の直進車道には進入禁止のガードがある。100mもないところに電波塔のようなタワーが立っている。並行してわざとらしいように設えた、あまり意味のなさそうな歩道があった。ここもまた植林で、飯盛山の標識はすぐそこだ。平らな部分が50mほど続いている。山道の途中といった感じで、ちょうど、通りすがりの矢岳の山頂のイメージに近い。
三角点を探した。先の尾根下りのところまで行ったがない。普通は地理院の標識とセットになっているがその標識もなく、落ちた杉の葉もまた低い。草に隠れたりもしていることもあるが、ここには草ヤブも落葉もない。見つけられなかった。三角点は飯盛山ではなく飯森山の方だろうかと、GPSを取り出すと、やはりここにあることになっている。執着してもしょうがないので下る。
電波塔らしき方に下りる。何かよくわからないが、変電施設、発電施設と記されているだけで、テレビ埼玉もNHKも見えない。
車道歩きの再開。飯盛峠を過ぎた傍らの樹に「飯盛山の表記について」と題する張り紙があった。読むと、飯盛山は二つあり、一つは飯能市とときがわ町の境にある峰。これはふれあい道に沿っているとあるから、自分が行った飯盛山だろう。もう一つは、さらに越生町が加わった三市町の境にあって、この張り紙の位置からはすぐそこだ。飯盛峠を境にして、前者は北西、後者は南東ということになるが、これに昭文社マップの「飯森山(センズイ)」が加わると、もう混乱する。地図を見ると、電波塔マークのすぐの816.3mに三角点マークがある。こだわることもあるまい。自分は関八州が目的で来たのだからとわりきる。ここで一々、三角点の標石探しをしているわけにもいかない。この張り紙で、この車道は「グリーンライン」というのだと知る。
(引き返して、車道歩きからふれあい標識に従って関八州)
(山道っぽいが、すぐ右に車道あり)
(あれが関八州見晴台のピークらしい。その右に両神山が見える)
ずっと車道歩きかと思ったが、ふれあい道は車道を迂回してくれるところもあり、短時間だがまた車道に復帰したりする。車道に下ると、またバッテリーを外に出した車があった。いったい何をしているのだろう。あれはバッテリーではないのか。この辺から越生町の石標が出てくる。
山道をふれあい標識に合わせて歩いて行くと、人家の脇を通過する。人は住んでいないだろうと思うが、ガスボンベはあるし、車も置かれている。もっとも、ナンバーははずされている。また人家。ここは住人ありの気配がある。この先が高みになっていて、おそらく、あそこが関八州見晴台であることに間違いはないようだが、やはり予想どおり、こんな環境に位置していたピークだった。
(まずは東屋が見えた)
(続いて山名看板。ふれあいデザインになっているのが気に入らないが)
(これは西の展望。カメラはコンデジだから、武甲山を入れればこの程度の範囲)
(その続きの秩父市方面)
(これは南側。相模の方は霞んで見えない)
(北川。谷川岳方面でしょう)
東屋が目に入り、お宮(高山不動尊奥の院)が置かれ、周囲は台地状になっている。ハイカーは5~6人はいるか。東以外の三方に展望が開け、それぞれに展望図が設置されている。西は丸山、両神山、武甲山、奥秩父、富士山、日ノ出山等が記され、富士山は見えない。南は丹沢、高尾山、新宿の高層ビル群、そして北は筑波山、日光連山、谷川岳を含んでいる。北に関しては、目の前に木立があって、展望を妨げ、かろうじて白い頭の峰々が遠望できる程度だ。これでいくと、安房、上総、下総を含む千葉県が見えないようだが、空気が澄んでいれば太平洋でも見えるのか。
(高山不動尊奥の院。傾いていた)
ダラダラと時を過ごした。関八州というと、時代劇の見過ぎもあってか「八州廻り」(関東取締出役)を思い出す。足軽クラスの軽輩が任務にあたるようだが、時代劇の中では無宿人に恐れられ、領民にはあくどい代官と同じ役柄になっている。実際はどうだったのか。
風もなく陽あたりも良くてぽかぽかし、つい長居したくなる。おにぎりを食べ、タバコを吸い、コーヒーでも飲む気でいたら、肝心のコーヒーを持ってくるのを忘れていた。確かにザックに入れたはずなりになぁと、中身をひっくり返すも見つからない。仕方なく、コーヒーカップで熱い白湯で済ませた。
(下る。山道といったイメージからは遠い)
重くなった腰を上げて高山不動尊の方に下る。行き先は気分次第でと思っていたが、地図を広げても、どこに下っても魅力に乏しい感じがするし、あちこちに林道や車道が通っている。北川尾根に取り付く前に「パノラマコース」と記された古ぼけた標識を見かけていた。あれを下ろうか。名前ほどに期待はしていない。おそらく植林だらけの山のパノラマだろう。もしくは、見えても武甲山だけということもあり得る。昭文社マップでは、高山不動尊から南西に西吾野駅に下る途中、石地蔵からコースが二分する。その南側のコースの別称かと思う。
下る途中で空身の二人連れが2組上がって来た。関八州見晴台はやはりそんなところだったのかとがっかり。車でグリーンラインを使って不動尊に車を置けば、汗が出る前に山頂に出てしまう。もう来ることもあるまい。どうでもいいと思えばどうでもいい。
車道に出て、ふれあい道の標識「高山不動・顔振峠」の方向に車道を歩く。一応、ここもまた三角点峰の虚空蔵山にでも登ろうかと思ったが、どこをどう歩けばいいのかわからぬままにパスしている。地図上では車道から標高差20m未満のピークらしく、飯盛山もその程度だったから、わざわざの気分もあった。そういえば、飯盛山からの途中に「稚児ノ墓」というのが記されているが、これには気づかなかった。
(丸山)
(道標。読めないが、すべて漢字と思って読もうとするから余計に無理がでる)
山道に入り、ピークの巻きがあったが、ここをピークに登ると丸山と記された標識が置かれている。どんどん下る。道はハイキング道としては立派すぎるほどに歩かれている幅広の道になっている。標識を見ると、このまま行けば西吾野駅に出られるようだ。おそらく、「休暇村奥武蔵こもれびの湯」に至るのだろうが、高山不動尊は左になっている。
途中、古い石の道標を見た。「西 ●●神●の道」と読めるが、肝心の●は何と読むのか。自分の頭では虫食いだらけだ。大きな石灯籠が置かれた車道に出た。ここにもバッテリー出しの車。いったい何なのだろう。当人に聞いてみたいが聞かなかった。
(高山不動尊。正面は右。この角度でしかカメラに収まらなかった)
(この階段は急で、手すりを使ってしまった)
(大イチョウ)
あとは車道歩きで高山不動尊に出た。大きな寺だ。来る前に解説板を読んだが、藤原鎌足の第二子が654年に創建したらしい。修験道の寺のようだ。下調べもしないままに来ているから、見るべきものを見たのは、急な階段を手すりで下った広場にあった樹齢八百年とかの県指定天然記念物の大イチョウだけだった。
ここでいつもの横道に逸れる。決して知識を披露しているわけではない。疑問に思って調べただけのことだからご容赦を。中臣鎌足が中大兄皇子と組んで大化の改新を企てたのは645年であることは高校受験時の暗記年号「ムシゴ」で覚えている。そこで気になったのが、寺の創建が654年で、下二桁が逆さの9年後であること。スマホを取り出す。鎌足の生年は?マークなしの614年。大化の改新の時は31歳。654年は鎌足40歳。なら、二番目の子供の年さえ知れたものだ。今の時代とは違うとはいってもせいぜい二十歳前後だろう。看板通りなら第二子の創建ではなく、鎌足自身が次男坊のために建ててやった寺と考えるのが自然だ。ついでに調べると、公式の記録では、長男は644年生まれ(鎌足30歳)の真人で、後に僧侶になり665年に百済で死去(真人21歳)。二男は659年生まれ(鎌足45歳)の不比等になっている。この不比等が代々の藤原家始祖になる。他の子供は女児ばかりで、数字だけを追うと混乱するが、高山不動尊を鎌足の第二子(不比等であろうはずがない)が創建したという由来は、年代的にもかなり無理があるような気がするし、事実だとすれば、中臣の姓の時の子をあちこちに流したのかなぁといった感じもしてくる。蛇足はここまでにしておこう。これでもくど過ぎる。
(標識にしたがって西吾野駅方面に)
この先でかなり迷う。確かに西吾野方面への標識はいくつかあるが、そのすべてが、滝を経由して高畑林道歩きになるコースに導かれるに違いないと思ってしまう。広い境内で余計な登り下りを繰り返し、結局、あきらめて元に戻って標識に合わせて入り込むと、次に出てきた標識は「不動三滝・西吾野駅」と、中黒が入り込んでいる。つまり、滝への分岐はこの先で、また無意味なさまよいをしてしまった。
(西山ノ神祠)
(右から来ている。滝を見物すればここに出ていたようだ)
木のお宮(「西山ノ神祠」というらしい)を過ぎて分岐にやって来た。下に向かうのは「西吾野駅」標識で、上は「不動三滝・西吾野駅」。不動三滝を見たい気持ちもあったが、おそらくがっかりして林道歩きになるだろうことは想像できる。一瞬ためらったが下に向かう。すると、今度は上に向かって「不動滝・白滝・大滝方面」の標識が出てくる。何だ、遠回りながらも滝を見てここに下りられるようになっているじゃないか。昭文社マップにも地形図にもこの道は記されていない。今さら戻る気になれず、そのまま下る。
(マークポイントの石地蔵)
ここもまた踏み固められた道だ。先に行くと、古の石碑が2本。一つは石地蔵で、もう一つもまた凹凸があるから地蔵なのだろうか。ただの石碑ではないようだ。石地蔵には天保の年代が入っている。ここからパノラマコースが分岐する。手書きで「パノラマコース入口」とある。ここで休んで一服。
さてと、このままパノラマでもいいが、どうも道なりの方が古道のようだ。せっかくだし、古道のままに下ろうじゃないか。他の年代物の遺物があるかもしれない。そういった期待はあった。
(萩ノ茶屋跡)
どこにでもある作業道風の道をくねくねと下った。つぶれかかった小屋の前を通る。屋根のトタン板ははがれて散乱し、ベンチが置かれている。昭文社マップを見ると「萩ノ平茶屋跡」とある。この辺一帯は萩ノ平と言われ、昔は茶屋もあったのだろうが、この廃屋に往時の面影はない。
(古道の雰囲気はない。意識と期待しようとするからなのか)
(人家の脇にある石標)
(慈光寺道と高山不動尊道の分岐)
期待した遺物は出てこないまま。古道っぽい雰囲気も感じない。そのうちに、工事音が間近に聞こえるようになり、大声も聞こえる。例の法面工事だ。そして電車の警笛。
人家が見え出し、その脇に標識とともに何とか道と記された石があった。ようやく遺物を見つけたが、もう日常の世界に入り込んでいる。さらに、橋を渡ると二面に文字が彫られた石が置かれている。一面は読めないが、もう一面には「左志くわう道 右たかやま道」とでも書かれているのか。たかやま道はわかるが、志こう道とははて? と思ったが、調べると、志こうとは、ときがわ町にある慈光寺のことらしい。ぶな峠越えの道が続いていたのだろう。
(西吾野駅へ)
工事現場の喧騒の脇を通過すると、また静かになり、今朝見かけたジイサンがまた二匹の犬の散歩をしていて、これに、一匹連れのバアサンが加わって談笑している。
西吾野駅に着くと、西武秩父行きは15分待ち。ここは喫煙可能なのか。「吸殻捨てるな」とあったから、吸うにはいいのだろうとタバコを出しかけたら、「構内禁煙」のステッカーが貼ってあった。
西吾野駅の下り線、他にハイカー3人ほどの乗車があった。その一人のオジサンに話しかけられた。伊豆ヶ岳に行って来たとか。本当は大菩薩に行くつもりでいたんだけどと言うから、雪目当てですかと聞くと、いや、南アルプスの雪景色を見たくてね。雪が深そうだからやめたんだって。こちらのコースを言うと、あまり興味は示されなかった。関八州ではその程度のものだろう。オジサンは車を置いているからと次の正丸駅で降りた。
芦ヶ久保は混んでいて、車を置いた無料駐車場には警備員がいて、駐車待ちの車が行列になっていた。氷柱祭りの賑わいだ。氷柱見物に行く気がしなくなった。もう帰ろう。車をバックさせると、警備員がさっさと車を入れ込んで待機させ、おかげで、こちらは出るのに3回切り返すはめになってしまった。
(本日の軌跡)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)、数値地図25000(地名・公共施設)、数値地図250mメッシュ(標高)、数値地図50mメッシュ(標高)及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 平24情使、 第921号)」
※今回の北川尾根コースだが、後でネットで調べると、取り付きは白山神社先にある中組自治会館脇の道を上がり、左先にある階段状になっているところから尾根に上がるのが正解らしい。そして、大岩を巻いて登ると秋葉大権現の碑に出会う。そこが秋葉山。686mへの尾根は直登せずに東側に迂回し、南の尾根から686mに登れば、途中に前坂峠があって、そこには大日如来碑、石仏、庚申塔が置かれ、古道が通っているとのこと。また、ぶな峠から南西に下りながら松尾山(620m)に立ち寄ったりすれば、かすかな踏み跡ながらも古道歩きの雰囲気をさらに感じられたようで、冒頭に、事前調べは「楽しみも半減する」と記したが、よく調べてから歩いていればコース取りも違ったものになり、楽しみも倍増したものになっただろう。ただ、今回の目的は関八州でもあったし、古道歩きという概念はさらさらになかった。この辺の古道探索は次回の課題として残しておきたい。
西吾野駅(8:52)……白山神社(9:16)……北川尾根に乗る(9:37)……460m標高点付近(10:08)……オバケ山(10:26)……636m標高点付近(10:58~11:13)……車道・グリーンライン(11:43)……飯盛峠(11:58)……飯盛山(12:04~12:12)……関八州見晴台(12:50~13:16)……高山不動尊(13:37)……石地蔵(14:16~14:23)……車道(14:47)……西吾野駅(15:00)
関八州見晴台(高山不動尊奥の院)には行ったことがない。かなり以前、オーソドックスなコースで黒山三滝を経由して向かったが、滝の先で同行者がダウンして引き返した。歩き慣れした相方だったから、暑さのせいで体調が悪くなったのだろう。結局、行かずのままになっていた。
何で今頃になって関八州見晴台が出てきたのか。ぶなじろうさんのブログで、越生町の「ハイキングのまち宣言」なるものを知り、ちょっと気になって、町のHPを調べると『越生町ハイキングガイドブック』がダウンロードできるようになっていた。そんなものよりも現物の冊子が欲しくて役場に問い合わせると、ガイドブックの在庫はなし。その代わりと、観光パンフレットが大量に送られてきたが、別にこれはこれでいい。それを眺めていて、そういえば関八州は行っていなかったなと思い出して行く気になった。
昭文社地図を広げて眺めていると、「北川尾根」なる実線はおろか破線もない名のみ記載の尾根を見つけた。これを登ってみようか。里山の尾根だ。歩かれていないわけがない。ネットで調べると、やはり歩いている方はいるものだ。敢えてその記録の深読みはしなかった。楽しみも半減する。ただ、グーグルマップのストリートビューを追いかけると、車を置けそうな路肩はないし、尾根末端部は人家が並んでいて、神社あたりから取り付くしかないようだ。微妙に舗装した道が奥に入り込んでもいるのも見える。人家の間だし、その先はビューされていないので不透明。使わない方が無難だろう。
西吾野駅には駐車場がない。関八州まで行って、気分次第でどうなるかもわからないので、芦ヶ久保の無料駐車場を利用することにする。
芦ヶ久保駅に着くと、8時台の電車は一本だけ。それも20分待ち。別にトイレに用事もないし、時間つぶしにタバコを吹かしながらハイキングマップ看板を眺めていると、駅員さんがつかつかとやって来て、「ここは駅構内ですから禁煙です」と注意される。これは失礼とタバコは消したが、中から見張られている感じがして落ち着かず、さっさとホームに入ってベンチで震えながら電車を待った。単線区間での列車交換か、電車は早くやって来て乗ることはできたが、下り線の電車からはかなりのハイカーが吐き出された。そういえば、「氷柱」と記された幟があちこちに立っている。お祭りでもやっているのか。戻ったら見に行こう。
(西吾野駅から出発)
(あれが北川尾根のようだ)
(白山神社)
西吾野駅で降りたのは自分だけ。芦ヶ久保駅の賑わいに比べたらかなり寂しい。駅から下り、川沿いに車道を歩く。歩いているのは犬の散歩のジイサンだけかと思ったら、その先で大がかりな法面工事をやっていて、休日にもかかわらず、工事関係者がかなりたむろしていた。
白山神社に到着。向こうから地元らしい方が歩いて来た。ここで素直に尾根の取り付きを聞くなりやり過ごせばいいだけなのに、おかしためらいが出て、神社にお参りするふりをして階段を上がった。小さい特徴のない神社だ。実はもう少し先から入りたかったが、そんなタイミングの悪さで、神社の裏から入ることになった。地形図を見れば一目瞭然だが、北川尾根との間には谷筋が一本あり、これを越えるのに余計な労力を使いたくはなかった。ところで、この「北川」だが、歩いて来た道沿いの川が高麗川の支流の北川で、東側の山中の地名にも北川というのが地図に記されている。
(いきなりだったが、これはまだ序盤戦)
(こんな道が左から通っていて、してやられたといったところだ)
先の苦戦を予想してストックを出して入り込む。周囲はすでに杉の植林が始まっている。踏み跡はない。斜め左方向に向かう。ここはまだ始末も良かった。せいぜい落ちた杉の葉がうっとうしいだけ。先は緩い尾根状になっているが、これが北川尾根に合流するわけではなく、うやむやの斜面になるはずだ。これは乗り越える。
下に舗装の道が見えた。ストリートビューで見た道の先だろうか。一旦、降りる。左下に通りと人家が間近に見えていて、少なくとも神社からここまでの歩きはまったく意味のないものだった。だが、道はすぐ先が終点になっていて使えない。向かいの斜面に取り付く。ここからしばらくヤブじみた歩きを強いられる。
(谷筋越え。沢になっていて細い水が流れていた)
(ここの登りは間伐で熾烈だった)
(本尾根に出る。)
間伐地獄だった。倒れた樹だけならともかく、その枝が張り出し、杉の葉もうず高く、間隙を歩くのもかなり厳しい。斜めに登って行くと、やはり谷筋が出てきた。遠く先の上に本尾根は見えている。バックは青空。谷に下って這い上がる。地獄状態はさらに悪化した。
ようやく本尾根に出た。ぐったり。かなりの神経と体力を使ってしまった。もっと楽な歩きはあったろう。白山神社裏からの歩きはお薦めしない。自分のような周囲の目を気にした器の小さな歩きはせずに、世間に密着した堂々とした歩きができれば、末端から容易く登れたかもしれない。
北川尾根は迷うようなところもない一本筋の尾根だったが、ここを歩くのはやはり物好きな人たちだろう。合流した時点で下ヤブも続いていた。明瞭な踏み跡が出てくるのはしばらく先で、それとて作業道だろう。最後まで、黙々とした植林の中の尾根だった。後で思うに、12月の武甲山の登りも植林の中の歩きで、ずっと古道のジグザグだったが、ここは尾根上のストレートだ。その辺が違うのか、むしろ自分には同じ植林とはいえ、好みの歩きだったかもしれない。印象は決して悪くはない。
(古いリボンや)
(標識)
(いきなりの急坂がまめに出てくる)
(下ヤブがたまに出てくる)
間伐は尾根下斜面に追い落とされ、尾根上は下ヤブも去って静かになった。古いリボンを見かけ、手書きのプラスチック標識もあった。「北川 西吾野」と書かれている。わかってはいるが、間違いなく北川尾根を登っている安心感でほっとする。
たまに薄いヤブも出てくる。植林の中ではちょっとしたアクセントだ。しかし、この尾根は緩急の著しい尾根だ。正直のところ、自分の不具合な足には少々つらい。急登り斜面では、地面へのかかと付きを意識しても、左足はついツマ先立ちの歩きになってしまう。右足はかかとに力点を置いているからなおのこと、左足のふくらはぎあたりに負担もかかり、このままでは左足が攣るかもと、無理にかかとに比重を移そうとすると、今度は歩きづらい。足具合との格闘がもどかしい。
(460m標高点付近。中の樹にひっかきが見えている)
尾根上の踏み跡が明瞭になって最初のポイント、460m標高点に着いた。こじんまりしたピークで、その先は下っている。ここにマツの樹があり、その木肌に爪跡のようなひっかきがあった。シカが角をこすった痕ではない。こんな植林帯でもクマがいるのだろうか。長居している気分にもなれず、さっさと先に進む。
(この繰り返しで)
(オバケ山)
(山名板)
少し下って一気の登り。地形図の等高線はのんびりしているが、かなりしんどい。左足のかかとがまったく地に着かない。長い登りを終えると、樹の切り株と森林公社の石柱が置かれた平らなピークに出た。ここに山名板があった。「オバケ山 500M」。オバケとはお化けのことか? 何かいわくでもあるのか。この北川尾根で見かけた唯一の山名板だ。秋葉山というのもあったらしいが、自分には気づかなかった。おそらく、その上に出てしまったからだろう。下りで使用すれば、ほぼ尾根の末端付近には出られるし、秋葉山の山名板も見られたろう。
(636m標高点ピーク)
(一時的に明るくなって、こうなるとほっとするわけだが…)
やや平坦ながらも起伏が続くと、右手先にこんもりしたピークが見えてくる。地図をあてがうと636m標高点だろう。周囲は明るくなり、雑木も混じってきたので、植林ももう終わりかなと期待したが、密度が薄くなっただけのことで、やがてまた薄暗くなる。地形図では針葉樹マークとともに広葉樹も入り込んでいるが、実際のところ尾根上は針葉樹というか、杉の植林が続いている。
(かなりいやらしく長い登りで)
(636m標高点付近。休憩)
左側の景色が少しばかり覗くようになると、また急登になった。636mへの登りだ。ここは間伐放置やら、落ちた杉の葉も多く、登りづらい。ここの登りが、本日一番のつらいところだったか。
636m到着。そろそろくたびれてきた。斜めに切られた細い木株に腰をかけたがかなり不安定。あちこちと腰掛けを探し回ったが、平らで太いのはない。幾分ましな木株で落ち着く。菓子パンを食べ、一服する。風があるわけでもないが、日陰の植林の中は寒い。ゾクゾクし出して休憩は切り上げるが、それでも15分ほど休んでいた。あと120mも登れば北川尾根も終わりだ。
(ここはあっさりと左から巻いた)
(不明瞭だが、左に巻き道があり、直登は岩場になっている)
(一応の岩稜帯)
尾根から巻き道が出るようになった。目の前には間伐だらけの小ピークがあって、これは巻く。次の巻き道は、尾根を見上げると岩場のようだ。たいした岩場には見えない。ただ急ではある。ここは巻かずに直登。岩場は何ら障害にもならず、岩の間をあっさりと登れた。この先も点々と岩が現れるが、これまでにないアクセントになる風景だ。ただ、急で、さっきの636mへの登りの苦痛に等しいが、長々としたものではない。
(白いガードレールが見える。ここは踏み跡に合わせて登る。北川尾根の終点になる)
(車道に出る。車でここまで来て関八州に向かっても何ら問題はない。苦笑いしてしまう)
下ヤブが出てきて、見上げると植林から空が抜けている。バイクのエンジン音が聞こえてくる。終点は近い。少し下るとガードレールが見えていた。ここの登りも厳しいなと思ったが、右斜めにトラバース道が付いている。これを利用する。
車道に出た。ちょうどガードレールの切れ目だった。目の前を自転車男がコンニチワーと言いながらが通り過ぎて行った。ある程度以上に苦労して登った結果が車道では情けない気分になるが、これが奥武蔵の山の現実だ。嘆いても詮方なく、受け入れるしかない。
(左手に秩父を象徴する山が見える。もしかして、秩父の山からならどこからでも見えるのではないのか)
(ふれあい道に入っている。まぁ、何というか、人様の歩きルートに勝手に入り込んで標識を置かれた気分がしないでもない)
このまま関八州に行ってはおもしろくもない。せっかく来たのだから、昭文社マップに級数が大きくゴシックで記された飯盛山に行ってもたいした迂回にもなるまい。車道に沿っているようだし、険しい山には思えない。マップには括弧書きで(龍ヶ谷富士)とある。北川尾根の終点近くで左に見えていたピークだろう。
すでにふれあい道のゾーンになっているようだ。車道をテクテクと歩いて行くと、左に武甲山が見える。そして、右には山道分岐で戻り方向に関八州見晴台、左は飯盛峠の標識が現れた。このまま車道歩きかと思ったが、かろうじて脇道が設えられている。登っては車道に下り、車道歩きのあとはまた脇道。
(飯盛峠。標識だけアップというわけにもいかなかった)
飯盛峠は車道側にあった。標識のすぐ横にスバル車が駐まっていて、何をやっているのか知らないが、バッテリーのような物を外に出して、車にコードで結び付けエンジンをかけたままにしている(エンジン音かバッテリー音かはさだかでない)。さりとてボンネットを上げてはいない。何をやっているのだろう。とにかく、標識の写真を撮ろうにも、この車が邪魔になる。その時は、バッテリー上がりかと思っている。
マップでは飯盛峠の先、左に「飯盛山」があり、右には級数の小さい「飯森山(センズイ)」がある。峠は越生町、ときがわ町、横瀬町の境になっている。どうでもいいことだが、越生町には独自の飯盛山がある。よほどにご飯好きな方が多いのかは知らないが、今回の目的は関八州だし、こんなところでまめに飯盛つぶしをするわけにもいかず、級数の大きな飯盛山は、この峠からすぐそこだ。そこで結構。
(左が無理してつくったらしい山道。すぐ電波塔らしき施設がある)
(飯盛山山頂)
(電波塔らしきタワー)
本来の車道は左に逸れているが、分岐の直進車道には進入禁止のガードがある。100mもないところに電波塔のようなタワーが立っている。並行してわざとらしいように設えた、あまり意味のなさそうな歩道があった。ここもまた植林で、飯盛山の標識はすぐそこだ。平らな部分が50mほど続いている。山道の途中といった感じで、ちょうど、通りすがりの矢岳の山頂のイメージに近い。
三角点を探した。先の尾根下りのところまで行ったがない。普通は地理院の標識とセットになっているがその標識もなく、落ちた杉の葉もまた低い。草に隠れたりもしていることもあるが、ここには草ヤブも落葉もない。見つけられなかった。三角点は飯盛山ではなく飯森山の方だろうかと、GPSを取り出すと、やはりここにあることになっている。執着してもしょうがないので下る。
電波塔らしき方に下りる。何かよくわからないが、変電施設、発電施設と記されているだけで、テレビ埼玉もNHKも見えない。
車道歩きの再開。飯盛峠を過ぎた傍らの樹に「飯盛山の表記について」と題する張り紙があった。読むと、飯盛山は二つあり、一つは飯能市とときがわ町の境にある峰。これはふれあい道に沿っているとあるから、自分が行った飯盛山だろう。もう一つは、さらに越生町が加わった三市町の境にあって、この張り紙の位置からはすぐそこだ。飯盛峠を境にして、前者は北西、後者は南東ということになるが、これに昭文社マップの「飯森山(センズイ)」が加わると、もう混乱する。地図を見ると、電波塔マークのすぐの816.3mに三角点マークがある。こだわることもあるまい。自分は関八州が目的で来たのだからとわりきる。ここで一々、三角点の標石探しをしているわけにもいかない。この張り紙で、この車道は「グリーンライン」というのだと知る。
(引き返して、車道歩きからふれあい標識に従って関八州)
(山道っぽいが、すぐ右に車道あり)
(あれが関八州見晴台のピークらしい。その右に両神山が見える)
ずっと車道歩きかと思ったが、ふれあい道は車道を迂回してくれるところもあり、短時間だがまた車道に復帰したりする。車道に下ると、またバッテリーを外に出した車があった。いったい何をしているのだろう。あれはバッテリーではないのか。この辺から越生町の石標が出てくる。
山道をふれあい標識に合わせて歩いて行くと、人家の脇を通過する。人は住んでいないだろうと思うが、ガスボンベはあるし、車も置かれている。もっとも、ナンバーははずされている。また人家。ここは住人ありの気配がある。この先が高みになっていて、おそらく、あそこが関八州見晴台であることに間違いはないようだが、やはり予想どおり、こんな環境に位置していたピークだった。
(まずは東屋が見えた)
(続いて山名看板。ふれあいデザインになっているのが気に入らないが)
(これは西の展望。カメラはコンデジだから、武甲山を入れればこの程度の範囲)
(その続きの秩父市方面)
(これは南側。相模の方は霞んで見えない)
(北川。谷川岳方面でしょう)
東屋が目に入り、お宮(高山不動尊奥の院)が置かれ、周囲は台地状になっている。ハイカーは5~6人はいるか。東以外の三方に展望が開け、それぞれに展望図が設置されている。西は丸山、両神山、武甲山、奥秩父、富士山、日ノ出山等が記され、富士山は見えない。南は丹沢、高尾山、新宿の高層ビル群、そして北は筑波山、日光連山、谷川岳を含んでいる。北に関しては、目の前に木立があって、展望を妨げ、かろうじて白い頭の峰々が遠望できる程度だ。これでいくと、安房、上総、下総を含む千葉県が見えないようだが、空気が澄んでいれば太平洋でも見えるのか。
(高山不動尊奥の院。傾いていた)
ダラダラと時を過ごした。関八州というと、時代劇の見過ぎもあってか「八州廻り」(関東取締出役)を思い出す。足軽クラスの軽輩が任務にあたるようだが、時代劇の中では無宿人に恐れられ、領民にはあくどい代官と同じ役柄になっている。実際はどうだったのか。
風もなく陽あたりも良くてぽかぽかし、つい長居したくなる。おにぎりを食べ、タバコを吸い、コーヒーでも飲む気でいたら、肝心のコーヒーを持ってくるのを忘れていた。確かにザックに入れたはずなりになぁと、中身をひっくり返すも見つからない。仕方なく、コーヒーカップで熱い白湯で済ませた。
(下る。山道といったイメージからは遠い)
重くなった腰を上げて高山不動尊の方に下る。行き先は気分次第でと思っていたが、地図を広げても、どこに下っても魅力に乏しい感じがするし、あちこちに林道や車道が通っている。北川尾根に取り付く前に「パノラマコース」と記された古ぼけた標識を見かけていた。あれを下ろうか。名前ほどに期待はしていない。おそらく植林だらけの山のパノラマだろう。もしくは、見えても武甲山だけということもあり得る。昭文社マップでは、高山不動尊から南西に西吾野駅に下る途中、石地蔵からコースが二分する。その南側のコースの別称かと思う。
下る途中で空身の二人連れが2組上がって来た。関八州見晴台はやはりそんなところだったのかとがっかり。車でグリーンラインを使って不動尊に車を置けば、汗が出る前に山頂に出てしまう。もう来ることもあるまい。どうでもいいと思えばどうでもいい。
車道に出て、ふれあい道の標識「高山不動・顔振峠」の方向に車道を歩く。一応、ここもまた三角点峰の虚空蔵山にでも登ろうかと思ったが、どこをどう歩けばいいのかわからぬままにパスしている。地図上では車道から標高差20m未満のピークらしく、飯盛山もその程度だったから、わざわざの気分もあった。そういえば、飯盛山からの途中に「稚児ノ墓」というのが記されているが、これには気づかなかった。
(丸山)
(道標。読めないが、すべて漢字と思って読もうとするから余計に無理がでる)
山道に入り、ピークの巻きがあったが、ここをピークに登ると丸山と記された標識が置かれている。どんどん下る。道はハイキング道としては立派すぎるほどに歩かれている幅広の道になっている。標識を見ると、このまま行けば西吾野駅に出られるようだ。おそらく、「休暇村奥武蔵こもれびの湯」に至るのだろうが、高山不動尊は左になっている。
途中、古い石の道標を見た。「西 ●●神●の道」と読めるが、肝心の●は何と読むのか。自分の頭では虫食いだらけだ。大きな石灯籠が置かれた車道に出た。ここにもバッテリー出しの車。いったい何なのだろう。当人に聞いてみたいが聞かなかった。
(高山不動尊。正面は右。この角度でしかカメラに収まらなかった)
(この階段は急で、手すりを使ってしまった)
(大イチョウ)
あとは車道歩きで高山不動尊に出た。大きな寺だ。来る前に解説板を読んだが、藤原鎌足の第二子が654年に創建したらしい。修験道の寺のようだ。下調べもしないままに来ているから、見るべきものを見たのは、急な階段を手すりで下った広場にあった樹齢八百年とかの県指定天然記念物の大イチョウだけだった。
ここでいつもの横道に逸れる。決して知識を披露しているわけではない。疑問に思って調べただけのことだからご容赦を。中臣鎌足が中大兄皇子と組んで大化の改新を企てたのは645年であることは高校受験時の暗記年号「ムシゴ」で覚えている。そこで気になったのが、寺の創建が654年で、下二桁が逆さの9年後であること。スマホを取り出す。鎌足の生年は?マークなしの614年。大化の改新の時は31歳。654年は鎌足40歳。なら、二番目の子供の年さえ知れたものだ。今の時代とは違うとはいってもせいぜい二十歳前後だろう。看板通りなら第二子の創建ではなく、鎌足自身が次男坊のために建ててやった寺と考えるのが自然だ。ついでに調べると、公式の記録では、長男は644年生まれ(鎌足30歳)の真人で、後に僧侶になり665年に百済で死去(真人21歳)。二男は659年生まれ(鎌足45歳)の不比等になっている。この不比等が代々の藤原家始祖になる。他の子供は女児ばかりで、数字だけを追うと混乱するが、高山不動尊を鎌足の第二子(不比等であろうはずがない)が創建したという由来は、年代的にもかなり無理があるような気がするし、事実だとすれば、中臣の姓の時の子をあちこちに流したのかなぁといった感じもしてくる。蛇足はここまでにしておこう。これでもくど過ぎる。
(標識にしたがって西吾野駅方面に)
この先でかなり迷う。確かに西吾野方面への標識はいくつかあるが、そのすべてが、滝を経由して高畑林道歩きになるコースに導かれるに違いないと思ってしまう。広い境内で余計な登り下りを繰り返し、結局、あきらめて元に戻って標識に合わせて入り込むと、次に出てきた標識は「不動三滝・西吾野駅」と、中黒が入り込んでいる。つまり、滝への分岐はこの先で、また無意味なさまよいをしてしまった。
(西山ノ神祠)
(右から来ている。滝を見物すればここに出ていたようだ)
木のお宮(「西山ノ神祠」というらしい)を過ぎて分岐にやって来た。下に向かうのは「西吾野駅」標識で、上は「不動三滝・西吾野駅」。不動三滝を見たい気持ちもあったが、おそらくがっかりして林道歩きになるだろうことは想像できる。一瞬ためらったが下に向かう。すると、今度は上に向かって「不動滝・白滝・大滝方面」の標識が出てくる。何だ、遠回りながらも滝を見てここに下りられるようになっているじゃないか。昭文社マップにも地形図にもこの道は記されていない。今さら戻る気になれず、そのまま下る。
(マークポイントの石地蔵)
ここもまた踏み固められた道だ。先に行くと、古の石碑が2本。一つは石地蔵で、もう一つもまた凹凸があるから地蔵なのだろうか。ただの石碑ではないようだ。石地蔵には天保の年代が入っている。ここからパノラマコースが分岐する。手書きで「パノラマコース入口」とある。ここで休んで一服。
さてと、このままパノラマでもいいが、どうも道なりの方が古道のようだ。せっかくだし、古道のままに下ろうじゃないか。他の年代物の遺物があるかもしれない。そういった期待はあった。
(萩ノ茶屋跡)
どこにでもある作業道風の道をくねくねと下った。つぶれかかった小屋の前を通る。屋根のトタン板ははがれて散乱し、ベンチが置かれている。昭文社マップを見ると「萩ノ平茶屋跡」とある。この辺一帯は萩ノ平と言われ、昔は茶屋もあったのだろうが、この廃屋に往時の面影はない。
(古道の雰囲気はない。意識と期待しようとするからなのか)
(人家の脇にある石標)
(慈光寺道と高山不動尊道の分岐)
期待した遺物は出てこないまま。古道っぽい雰囲気も感じない。そのうちに、工事音が間近に聞こえるようになり、大声も聞こえる。例の法面工事だ。そして電車の警笛。
人家が見え出し、その脇に標識とともに何とか道と記された石があった。ようやく遺物を見つけたが、もう日常の世界に入り込んでいる。さらに、橋を渡ると二面に文字が彫られた石が置かれている。一面は読めないが、もう一面には「左志くわう道 右たかやま道」とでも書かれているのか。たかやま道はわかるが、志こう道とははて? と思ったが、調べると、志こうとは、ときがわ町にある慈光寺のことらしい。ぶな峠越えの道が続いていたのだろう。
(西吾野駅へ)
工事現場の喧騒の脇を通過すると、また静かになり、今朝見かけたジイサンがまた二匹の犬の散歩をしていて、これに、一匹連れのバアサンが加わって談笑している。
西吾野駅に着くと、西武秩父行きは15分待ち。ここは喫煙可能なのか。「吸殻捨てるな」とあったから、吸うにはいいのだろうとタバコを出しかけたら、「構内禁煙」のステッカーが貼ってあった。
西吾野駅の下り線、他にハイカー3人ほどの乗車があった。その一人のオジサンに話しかけられた。伊豆ヶ岳に行って来たとか。本当は大菩薩に行くつもりでいたんだけどと言うから、雪目当てですかと聞くと、いや、南アルプスの雪景色を見たくてね。雪が深そうだからやめたんだって。こちらのコースを言うと、あまり興味は示されなかった。関八州ではその程度のものだろう。オジサンは車を置いているからと次の正丸駅で降りた。
芦ヶ久保は混んでいて、車を置いた無料駐車場には警備員がいて、駐車待ちの車が行列になっていた。氷柱祭りの賑わいだ。氷柱見物に行く気がしなくなった。もう帰ろう。車をバックさせると、警備員がさっさと車を入れ込んで待機させ、おかげで、こちらは出るのに3回切り返すはめになってしまった。
(本日の軌跡)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)、数値地図25000(地名・公共施設)、数値地図250mメッシュ(標高)、数値地図50mメッシュ(標高)及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 平24情使、 第921号)」
※今回の北川尾根コースだが、後でネットで調べると、取り付きは白山神社先にある中組自治会館脇の道を上がり、左先にある階段状になっているところから尾根に上がるのが正解らしい。そして、大岩を巻いて登ると秋葉大権現の碑に出会う。そこが秋葉山。686mへの尾根は直登せずに東側に迂回し、南の尾根から686mに登れば、途中に前坂峠があって、そこには大日如来碑、石仏、庚申塔が置かれ、古道が通っているとのこと。また、ぶな峠から南西に下りながら松尾山(620m)に立ち寄ったりすれば、かすかな踏み跡ながらも古道歩きの雰囲気をさらに感じられたようで、冒頭に、事前調べは「楽しみも半減する」と記したが、よく調べてから歩いていればコース取りも違ったものになり、楽しみも倍増したものになっただろう。ただ、今回の目的は関八州でもあったし、古道歩きという概念はさらさらになかった。この辺の古道探索は次回の課題として残しておきたい。
北川尾根ですか!ただ今昭文社の地図で確認しました。全くのノーマーク尾根でした。古道ですか!慈光寺に繋がるルートであれば、チョット興味が湧いてきますよ。
蛇足の所、たそがれさんらしい追求で面白かったです。クド過ぎず、ほど良い感じですヨ。自分の場合、妄想が先行してしまい、オーバーランしてしまいます。
妄想もまた知識の前提があってこそのものですが、ぶなじろうさんの城址探訪のように、なるほどなとうなづける想定も、これは妄想やらオーバーランのレベルではないでしょう。確かにそうかもなといつも感心していますよ。
私にはせいぜいこの程度で、深入りもできませんね。それ以上のレベルに達せないのがもどかしいくらいです。
奥武蔵も、古寺がかなりありますから、それにつながる巡礼の道もかつてはかなりあったでしょう。ただ、惜しむらくは、その古道も今や植林の中にうずもれているということでしょうか。今回の歩きの事後調べで、古道に関するいろいろと興味深い記事を見つけましたよ。ただの平地を歩いているのでは面白くもないし、奥武蔵の山の興味の対象が増えたような気がしています。
まだ急斜面では骨折の影響が拭いきれない感じですか。私も足の付け根の切開痕が寒くなったせいで痛むのでどうも違和感を感じています。中々治らないものですね。
奥武蔵で古道探索ですか。私は作業道との区別がつかないので難しそうですね。日曜に歩いた栃木の地味尾根でも古道っぽいのが藪に還ってましたがああいうのも資料を調べないと年代同定は難しそうで。私はいつも通り帰宅してから今昔マップを見てあれがそうだったのかとなるパターンになりそうです。
なんとも山域が分からずに地図で確認してやっと分かりました。後追いは難しそうな気がしてます・・・気になって調べました、これは高出力の無線屋じゃないんでしょうか?法に触れないか素人なので分かりませんし、どうでもよいですが。バッテリー外だしの回答があるのかと思って探しましたよ(笑)お疲れ様でした。
遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします。
北川尾根ルートは気になっておりましたので参考になりました。松尾山ルートへの周回コースは楽しめそうですね。近いうちに歩いてみたいと思います。
飯盛峠では2年前もおそらく同じスバル車がアンテナ立てて停まってました。
関八州見晴台は先日の日曜日に歩いてきました。ルートは四寸道から蟻ノ戸渡りルートという個人的には定番ルートで目新しさはないのですが、人と会うことはほとんどないため、時間がない時など体力維持で歩いています。ただ、関八州見晴台は観光客も含めて30名近くおりました(笑)
足首の骨折は、日常生活はともかく、山歩きに関してはあまり響かないようになりました。以前は下りが恐ろしく感じたものでしたが、今はそれはなく、ただ、急斜面の登りはどうしても足裏全体が地に着かずちょっと苦労しています。
寒さは同じですね。手術の後遺症なのでしょう。私も、寒くなってから、改善がぴたっと止まってしまったような気がします。寒いうちは無理な歩きもできないでしょう。どうしてもカバーする形になりますしね。
古道ですけど、私の場合の古道は、単に古くからある山道というのではなく、見捨てられたかのように、さりげなく石仏や石祠がそっと置かれているといったイメージですね。そして、もうだれも通らない、かつては往来があった。と記しても、そんな古道を見つけるのは難しく、意識して古道を探せば何もない藪道だったといった方が多いでしょう。理想は、藪の中に石仏を見つけることですね。
おっしゃるように、奥武蔵の山は、すぐに車道に出てしまいますから、マニアックなルートを歩いても、結局は、帰路に車道にはまらないといけないといったパターンが多いですね。そういう面ではどうしても半端な歩きしかなく、関八州にしても、山頂に立てば、こんなところにわざわざ間伐を乗り越えてまで来る必要もないのになと思ったりもしますよ。
いろいろご面倒おかけいたしました。奥武蔵では、みー猫さんもなじみが少ないでしょう。何せこちらは足尾よりも近い山域なものですから、つい気軽に行ってしまいます。
今回の北川尾根は、後追いされるほどのところではないですね。これを選んだのも、周囲が車道だらけで、ここならましだろうと思ったからで、植林の中の黙々登りは、長引くほどに精神的な圧迫感は増しますね。むしろ、取り付くまでの間伐地獄を体験していたただきたいところです(笑)。
みー猫さんからコメントをいただき、写真をアップにして見てみました。3台のうち2台は、車の傍らにアンテナが立ててあります。やはり無線だったようです。3台目はアンテナがなかったですから、撤収時だったのでしょう。しかし、バッテリーまで使って、好きな方は本当に好きなんですね。感心します。
HIDEJIさんのブログは御座山で止まったままになっていますから、こちらから正月のご挨拶もできない状況でしたが、こちらこそ、よろしくお願いいたします。
やはり、北川尾根は気になっておられましたか。そんな感じはしておりました。行かれるなら、私の取り付きの失敗は繰り返さないようにしてください。
後になってから後悔しているのですが、例の『詳細図』。あれを見て行けばよかったですよ。楽しみは薄れますが、かなり詳しく出ていますよ。ついでながら、詳細図には松尾山周辺のコースも出ていますが、ブナ峠までの間に観音碑がいくつもあるようで、それは見ておきたいところです。
また、ただ松尾山にいくだけではなく、ヤマレコなんかを見ていると、線路の南側の尾根から大周回しているケースも多く拝見します。そこもまた含めてみたらいかがでしょう。
四寸道、蟻ノ戸渡り、関八州見晴台ですか。つい、地図を広げてみてしまいましたよ。なかなか渋そうですね。いずれ歩いてみますが、人の気配を感じたら、関八州は素通りということで(笑)。