今朝は寒く冷え込んだ。
京都市内から見るわたしの住む方向の山々の峰は白いらしい。
先程、我家を訪ねようとする友人からの連絡で分かった。
昨年の今頃、私は全国を旅する事を始めて1ヶ月が過ぎようとしていた。
その時は閉塞感ににもがいているようでもあったが、
何かしら行動する事により周りから偶然にも全国を旅をし、
又、今後の自分の行動に新たな風を呼び込むことが期待できるであろう
仕事の斡旋も受ける事ができたので、喜んで全国を飛び回っていた。
即ち、往路又は復路はその斡旋を請けた仕事。
その仕事を終了又は始業前に自身の仕事を行っていた。
1週間で5000kmを超える移動をも難なくこなしていた。
その一例はこうである。
月曜日の午後、新潟県新発田市へ出発し、火曜日の午後、京都に帰ってくる。
水曜日の午後、福岡県福岡市へ出発し、自身の営業活動を済ませて夜行高速バスで
木曜日早朝、北九州市小倉から帰ってきて短い我家での休息を得て、
木曜日午前、青森県八戸へ金曜日の午後遅くに到着し夜行高速バスで
土曜日、東京都内まで戻り京都へ在来線で戻る。
このような状態で1週間が終わる。
これを、11月~3月末まで。
この仕事をしながら多くの方と出会いその土地の風情を感じ思いつくままに
このブログでも記してきた事は周知のとおりであろうかと思う。
そんな中で、今も印象が深いところがある。
北から述べると、
八戸・仙台・門司・阿蘇
阿蘇に関しては全くこの請け負った仕事の流れの中ではなく、
自身の高校時代の思い出を思い起こしたく思った事が出発のきっかけである。
今もその阿蘇や九州の自然や風景や言葉や人柄や食に惹かれて続けて
その九州への探究心は止まないでいる。
関西圏で住む私の食感に対しての欲求に近いものがそこかしこに
溢れていて珍しくお土産にお金を使ってしまう。
一言で言うと・・・・・・
原料が好く見えて素朴!
九州の中でその中でも影が薄い熊本・大分が農産加工の取り組みの中で
マーケティングを最先に考えた商品開発能力すごいと思う!
これは行政の力添えも実に系統として誰でも取り組め参加できる解放的な
民力(民間資本)に素直なシステムである事が実に効率よく発揮されている
からの結果であろうであろう。
冠二郎 - 旅の終りに
そんな心中と観点を持つ私は、この頃よく言われる農業の農商工連携、
六次産業化の推進を国は声高らかに農業の現況打破のために
起業の推進を言いその補助・助成を言うのであるが・・・・・・
常にそのコロコロと変わる施策のこれでもかという打ち出し方に
信任できない本当に大丈夫なのか????とが付きまとう。
なぜなら、どうも民の動きを助力するという事を法制化する事自体に
型枠が見えてしまい足取りが重く、反って進捗が遅れ、製造者と販売者の思う
製品にこめられた思いが消費者への伝播拡販がスポイルされてしまう
かえってアリガタ迷惑なものになるような気がしてならないし
制度自体の真髄を見る事が薄い霧に包まれてしまうのではないであろうか?
などと危惧の念すらこの頃では芽生えだしてきた。
実際、国の制度は育てていこうとする構造改変について、
物の流れ、金の流れ、資金調達(提供)、関わる人、
《官僚の天下り先の支援ファンドを実施する組織を作った!》
ようにしか私には映らない。
これに対して、多くの商工会議所や経済団体が賛成を唱えている事も
不思議ではならない。
《儲かる》などと稚拙な考えではいけないのである。
まして、
《六次産業化を一次産業従事者である農業者は二次、三次産業者と協調して
推進する事により、農業の基本的構造を変えて利益を得る》
という事自体が机上の論議でしかないところも考えなければいけない。
一次産業者が二次三次産業者の産業部門に二次三次産業者と手を組んで
起業し侵攻していき、二次・三次産業者の商粋に食い込もうというのである。
戦略が稚拙極まりない。
食い込まれて困るものがなぜ手を組むことができる????
その言える根拠は、私は二次産業者であり、三次産業者でもある。
その私が一次産業を実践しているからだ。
私は、だから農業を分離独立させている。
六次産業化を国の施策に従い起業して、もし失敗したら・・・・
責任を取るのは。一次・二次・三次産業者だけであり、
国がバックアップしている六次産業を起業するときに
出資ファンドを提供した株式会社はその設立に関与する資本と
取締役を引き上げるだけでよい。
掛けた梯子をはずす事ができる仕組みでもある。
道義的責任はどうなる?経営上許されない卑怯なシステムを国は推進している。
農業者はこれに気付く事ができるか?
言葉は悪いが、《民・百姓はいつも殿様の下》
甘い言葉には発する《輩》の下心と策略がある。
まともな農業者向けへの施策は県庁や府庁など地方行政に
派手な打ち上げ花火は無いが手で持って家族で楽しめる花火のような
優しく現状の事業規模に即した適量の作戦と適量の幸福、
苦労の実例、先史が多々埋もれている。
先人の知恵と幸福の価値を実感しようではないか!
その事だけを悩む農業者・商工業者の皆さんへお伝えしたい。
《旅の終わり》に見つけた事
私は、ばかばかしい日本での旅は終わる。
京都市内から見るわたしの住む方向の山々の峰は白いらしい。
先程、我家を訪ねようとする友人からの連絡で分かった。
昨年の今頃、私は全国を旅する事を始めて1ヶ月が過ぎようとしていた。
その時は閉塞感ににもがいているようでもあったが、
何かしら行動する事により周りから偶然にも全国を旅をし、
又、今後の自分の行動に新たな風を呼び込むことが期待できるであろう
仕事の斡旋も受ける事ができたので、喜んで全国を飛び回っていた。
即ち、往路又は復路はその斡旋を請けた仕事。
その仕事を終了又は始業前に自身の仕事を行っていた。
1週間で5000kmを超える移動をも難なくこなしていた。
その一例はこうである。
月曜日の午後、新潟県新発田市へ出発し、火曜日の午後、京都に帰ってくる。
水曜日の午後、福岡県福岡市へ出発し、自身の営業活動を済ませて夜行高速バスで
木曜日早朝、北九州市小倉から帰ってきて短い我家での休息を得て、
木曜日午前、青森県八戸へ金曜日の午後遅くに到着し夜行高速バスで
土曜日、東京都内まで戻り京都へ在来線で戻る。
このような状態で1週間が終わる。
これを、11月~3月末まで。
この仕事をしながら多くの方と出会いその土地の風情を感じ思いつくままに
このブログでも記してきた事は周知のとおりであろうかと思う。
そんな中で、今も印象が深いところがある。
北から述べると、
八戸・仙台・門司・阿蘇
阿蘇に関しては全くこの請け負った仕事の流れの中ではなく、
自身の高校時代の思い出を思い起こしたく思った事が出発のきっかけである。
今もその阿蘇や九州の自然や風景や言葉や人柄や食に惹かれて続けて
その九州への探究心は止まないでいる。
関西圏で住む私の食感に対しての欲求に近いものがそこかしこに
溢れていて珍しくお土産にお金を使ってしまう。
一言で言うと・・・・・・
原料が好く見えて素朴!
九州の中でその中でも影が薄い熊本・大分が農産加工の取り組みの中で
マーケティングを最先に考えた商品開発能力すごいと思う!
これは行政の力添えも実に系統として誰でも取り組め参加できる解放的な
民力(民間資本)に素直なシステムである事が実に効率よく発揮されている
からの結果であろうであろう。
冠二郎 - 旅の終りに
そんな心中と観点を持つ私は、この頃よく言われる農業の農商工連携、
六次産業化の推進を国は声高らかに農業の現況打破のために
起業の推進を言いその補助・助成を言うのであるが・・・・・・
常にそのコロコロと変わる施策のこれでもかという打ち出し方に
信任できない本当に大丈夫なのか????とが付きまとう。
なぜなら、どうも民の動きを助力するという事を法制化する事自体に
型枠が見えてしまい足取りが重く、反って進捗が遅れ、製造者と販売者の思う
製品にこめられた思いが消費者への伝播拡販がスポイルされてしまう
かえってアリガタ迷惑なものになるような気がしてならないし
制度自体の真髄を見る事が薄い霧に包まれてしまうのではないであろうか?
などと危惧の念すらこの頃では芽生えだしてきた。
実際、国の制度は育てていこうとする構造改変について、
物の流れ、金の流れ、資金調達(提供)、関わる人、
《官僚の天下り先の支援ファンドを実施する組織を作った!》
ようにしか私には映らない。
これに対して、多くの商工会議所や経済団体が賛成を唱えている事も
不思議ではならない。
《儲かる》などと稚拙な考えではいけないのである。
まして、
《六次産業化を一次産業従事者である農業者は二次、三次産業者と協調して
推進する事により、農業の基本的構造を変えて利益を得る》
という事自体が机上の論議でしかないところも考えなければいけない。
一次産業者が二次三次産業者の産業部門に二次三次産業者と手を組んで
起業し侵攻していき、二次・三次産業者の商粋に食い込もうというのである。
戦略が稚拙極まりない。
食い込まれて困るものがなぜ手を組むことができる????
その言える根拠は、私は二次産業者であり、三次産業者でもある。
その私が一次産業を実践しているからだ。
私は、だから農業を分離独立させている。
六次産業化を国の施策に従い起業して、もし失敗したら・・・・
責任を取るのは。一次・二次・三次産業者だけであり、
国がバックアップしている六次産業を起業するときに
出資ファンドを提供した株式会社はその設立に関与する資本と
取締役を引き上げるだけでよい。
掛けた梯子をはずす事ができる仕組みでもある。
道義的責任はどうなる?経営上許されない卑怯なシステムを国は推進している。
農業者はこれに気付く事ができるか?
言葉は悪いが、《民・百姓はいつも殿様の下》
甘い言葉には発する《輩》の下心と策略がある。
まともな農業者向けへの施策は県庁や府庁など地方行政に
派手な打ち上げ花火は無いが手で持って家族で楽しめる花火のような
優しく現状の事業規模に即した適量の作戦と適量の幸福、
苦労の実例、先史が多々埋もれている。
先人の知恵と幸福の価値を実感しようではないか!
その事だけを悩む農業者・商工業者の皆さんへお伝えしたい。
《旅の終わり》に見つけた事
私は、ばかばかしい日本での旅は終わる。