池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

争いの虚しさや無意味さは愛の究極完結と死を目撃して変化する。

2012年12月10日 | 言わせてもらいます。
私の長閑な山村にも衆議院選挙が公示されて候補者の選挙カーが
登場するようになった。いつものごとく「闘っている!」そうだ。
しかし、街中で住んでいた頃とは大違い、一度来たら全くその候補者は現れない。
人口の少ない地域での選挙活動自体が効率が悪いからだと思う。
いわゆる、大票田での得票を争うほうが効率が良いわけで、
うるさくないのは嬉しくもあるが、なんか少し政策からの疎外感を感じるのも
さびしい気持ちもまたある。

《日本国は重大な問題を抱えている。》

この言葉は私が選挙権を持ってから毎回全く変わらなく30年以上の政治課題として、
政治家は選挙の度に言っている。
いつまでも重大な問題を抱えているのもおかしく思えてしまう。
その解決策を任した事に大いに裏切られた国民は、
政治家に託して実際に良いのか?
この国の進むべき道の真理はどこにあるのか?を
現在、見極めきれずに居るのが今の有権者の実際なのであろう。
少なくとも政治と日本の将来を真剣に突き詰めて考えている有権者の方々に
あって限定される事であるが。

政治という言葉が現状日本国では、本当に良い方策を見失っているから、
国自体の足元が不安定で、他国から付け入る隙を当てえてしまうのである。
又、政治家がしがらみが多すぎるのも問題。
支持を受ける団体の顔色を伺いながらの政治がほとんどに感じるが?

とにかく分析力に乏しい我が日本国。
もう少しまともになって欲しいと思う今日この頃の現状である。

さて前置きが長くなったが、その重大な問題を抱えているところに
今回焦点を合わしこのブログで気ままに論じていく。

決して、思想的に《右・左》だとか《赤》だとか、《白》では無い事を
先に基本として確認していただきたいし、弁明をしておく。

国に付いて考えてみた。

我が国日本国は《帝国》である。
異論を唱える方もいようが、私はこのように思う。
神話の世界を信じたくは無いが、遠く昔から一国の国王として
不幸にも分裂の時期はあったが2672年続く一統不滅の帝国である。
日本国憲法では、日本国の国王=天皇は下記のとおりは御承知であろう。

≪天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、
         この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。≫

日本国憲法第1条は、日本国憲法の先頭に置かれた条文として、
その内容は、天皇が「象徴」の地位に有り、象徴であり続けられるか否かは
主権のある日本国民の総意に基づいて決定される。
この一文は、日本国が国民が主権者である事の根拠である事、
象徴とは日本国の象徴であり日本国民の秩序とまとまりをもった状態の象徴で
あって【日本国民の象徴】ではない。

その、日本国民の秩序とまとまりを持った状態の象徴である天皇に対して
非礼極まりない事を言う外国要人が居る事に怒り心頭である。

だから私はその国が嫌いだ。
そして、それをないがしろにして自己の選挙の事を優先する政治家も嫌いだ。
正直でないどこか知識階級エリートを気取るマスコミはもっと嫌!

旧中山道を≪一日中山道(いちにちじゅうやまみち)≫と読む
アナウンサーが居るような在京テレビ局の程度の低い脳内の持ち主が作る
発信一方向性であるテレビ番組は最悪である。
どうも見ていて馬鹿になりそうな気がする。

Romeo y Julieta: Los infantes de Verona (Acto 1)



物語は下記のごとく進展を見せる。
≪ロミオとジュリエット≫発音では「ロメオとジュリエット」
この方が何となくしっくりする。
周知のとおりシェイクスピアによる戯曲。

舞台は14世紀のイタリアの都市ヴェローナ。ヴェローナは、
1239年に神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世の協力を得て、
近隣のロンバルディア同盟諸国を征服しその絶頂期にあったが、
ローマ教皇グレゴリウス9世はフリードリヒ2世を反キリストであると非難して
近隣ロンバルディア同盟諸国を擁護し、再破門したことから戦争となってしまう。
物語ではヴェローナの支配層は教皇派の属する(キャブレット家)と
皇帝派に属する(モンタギュー家)に分かれて争いが繰り広げられて抗争を
繰り返す事に巻込まれていた。

一昔前の関西ヤクザの分裂による抗争の様相に似ている。

モンタギュー家の一人息子ロミオは、ロザラインへの片想いに苦しんでいる。
気晴らしにと、友人達とキャピュレット家のパーティに忍び込んだロミオは、
キャピュレット家の一人娘ジュリエットに出会い、たちまち二人は恋におちる。
私はここで気の早い男とイマイチ好きではない男子像でもあるのだが(笑)
二人は修道僧ロレンス(物分りの良い親父)の元で秘かに結婚。
ロレンスは二人の結婚が両家の争いに終止符を打つきっかけになる事を期待する。

しかし、その直後、ロミオは友人と共に街頭での争いに巻き込まれ、
親友・マキューシオを殺された事に逆上したロミオはキャピュレット夫人の甥
ティボルト(ジュリエットに片思いしている。)を殺してしまう。
ヴェローナの大公エスカラス(争いを止めることのできないこの土地の権力者)は、
ロミオを追放の罪に処する。
一方、キャピュレットは悲しみにくれるジュリエットに大公の親戚のパリスと
結婚する事を命じる。

ジュリエットに助けを求められたロレンスは、彼女をロミオに添わせるべく、
仮死の毒を使った計略を立てる。
しかし、この計画は追放されていたロミオにうまく伝わらなかった。
(時間的相違いによる。)
そのため、ジュリエットが死んだと思ったロミオは彼女の墓で毒を飲んで死に、
その直後に仮死状態から目覚めたジュリエットもロミオの短剣で後を追う。
(物語的に現実的ではないはが、物語としてはこの方が悲劇的で観客も同調しやすい。)
事の真相を知り悲嘆に暮れる両家は無意味な事の反省を理解し悲劇の死を哀れみ
真実を理解し、ついに和解する。

全編で白装束で付きまとい踊るのが≪死≫のキャラクター。
開幕後、一番最初に星の元で青い光の下で踊る。
ここから登場する≪死≫は登場人物に絡む事に重要な意味を持つ。
この登場が、このミュージカルという娯楽劇でありながら深く考えると
その争いの意味を最後まで引きずり考えさせる。

しかし、演者の動き、動作、歌唱、舞台照明、どれも素晴らしくすごい迫力だった。

○主な登場人物
ロミオ - モンタギュー家の一人息子
ジュリエット - キャピュレット家の一人娘
ティボルト - キャピュレット夫人の甥。彼女に片思いしている。
ベンヴォーリオ - モンタギューの甥でありロミオの友人
マキューシオ - ヴェローナ公の甥でありロミオの友人
ロレンス神父 - 街の教会の神父。ロミオとジュリエットの秘密婚儀を取りなす。
ジュリエットの乳母 -
モンタギュー卿 - モンタギュー家の家長
モンタギュー夫人 - モンタギューの妻。キャピュレット夫人と対立している。
キャピュレット卿 - キャピュレット家の家長
キャピュレット夫人 - キャピュレットの妻。モンタギュー夫人と対立している。
ヴェローナ公 - ヴェローナの領主。モンタギュー家とキャピュレット家の対立に
頭を悩ませている。
ピーター - ジュリエットの乳母の従者
パリス - ジュリエットの婚約者


Romeo y Julieta: Los infantes de Verona (Acto 2)


ロメオとジュリエットは、登場人物の性格よりも、周囲の状況や偶然などの
「運命」と呼ぶべきものが、両者や周囲を悲劇的な結末へと物語を導いていく。
が、結末、いわばその運命に於ける犠牲者たる者たちの死によって
和解と理解が生まれる物語である。
即ち、殉ずる尊い犠牲によって間違った道筋や因習、考えが変化し
和解と理解と進展が生まれ、新しい恒久安定的な世界が広がるという事。
シェークスピアは争い事が無意味な事に気付いていて、
虚しさ、非生産性・非発展性について古に述べている。

人間の争い行動の本質とは何かを深く考える事をいつの時代にも
必要であるとこの物語は教えてくれる。

大陸の国との小さな島の所有権の争いは今に始まった事ではない。
島根県のあの島も沖縄県のあの島も・・・・・。

最近では少しおかしいと感じ始めている方々も多くなってきているのではないか?

では、その島に話し合いで考える事のできない方々が戦闘行動に出てきたらどうする?
日本が養ってきたアメリカ軍が追い返してくれる?
そして、
日米安全保障条約が発効し、アメリカが守ってくれる?

冗談じゃない!

アメリカには戦争権限法という法律がある。
大統領の権限で戦争を始めることができるが60日以内の戦争の期限がある。
60日以上戦争を遂行しようとするなら、議会の承認がいる。
日米安保保障条約の条文には・・・・・・
日本が防衛できる事は日本単独で防衛をすることが前提であり、
主権の及ぶところへの攻撃に対して安全を保障するという内容である。
上記を踏まえて、アメリカの議会があの小さな島を守る事が
アメリカ自体の利益を守る事になるのか?という事を考えれば・・・・

アメリカは絶対に出てこない。

先の大戦で、不幸にも≪特攻≫という言葉が美しく賛美される時代があった。
散華した方々は、本当に家族を守るために散華した。
家族を守れない事は恥なのである。
日本人は恥を知る民族である。
恥を知るなら≪死≫を選ぶ。=武士道の根本
日本人と大陸人との違いはこの道に関しての認識の違いを述べると的確では
ないだろうか?
道徳の中心を担うもの・・・・・・
≪道≫である
とにかく、フランス語訳もお付けしないが舞台芸術を2時間半程見ていただきたく思う。
私の日々の格闘的争いや不満に対する考え方が変わった原因はこの舞台のストーリーから
感じたものである。
機会あって、この舞台を見る機会に恵まれて劇場へ足を運んだ。
世界を巡演していて相当数の観客を動員しているようだ。

日本にこのような圧倒的迫力と美的演出と動作を持つものを
私は見受けたことが無い。
現状、日本のこのような舞台芸術は、芸術ではなく芸能にくくられる。
歌舞伎界も芸術ではなく今では芸能色が強い。
それも溢れていてメディアで流行るものは稚拙で世界の中で唯一日本固有ではなく
無国籍化をしている様にさえ写る。

昨今、その《道》を全ての物に感じる事ができないでいる。

その日本にいる私は不幸だ。

私はヴェローナに住みたい。

今回のブログは長文になった。




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