フルート吹きの物思い

趣味のフルートと、それに関わるもろもろのこと。

アドリブのために何をしてみたか

2007-02-07 | レッスン
リットーミュージックの、「はじめてのジャズ セッションで困らないための必修スタンダード50曲」なる伴奏CD付きの本。
この本の中には、アドリブ挑戦指南がある。第一章の序文。の、イラスト。

「アドリブできない」→「飛んでみる!」→「アドリブできる!」
アドリブに慣れてから、ジャズの要素(理論)を覚える。

と、ある。

形や結果はどうあれ、まずはこの「アドリブできる!」に飛んでみるのが、入門者にとってはものすごく、とてつもなく大きな壁。壁から下へ落ちてしまうなり、なんとか対岸にしがみつくことができるなり、とにかくこの「飛んでみる」がとにかく大きくて高くて困難。
しかし、とにかく、超えようとしてみないことには、ジャズ理論をかじっても、なんのことやらさっぱり。

アドリブ入門書の常として、リズムを崩してみる、コードやスケールを練習する、とある。
でもさあ、我々フルーティストは既に吹奏楽で意地の悪いリズム練習してみたり、タファネル・ゴーベールやらトレバーワイの2巻やらでスケールやコードの指の鍛錬してみたり、はすでに履修済み。

だったら誰でもアドリブできるってことでしょ? でも現実は違う。

上述の本では、
>「私はクラシックをバリバリ弾けるのに、”デタラメで良い”なんていうジャズはくだらない」というプライドは、アドリブの大敵です。
とある。

私はこの本を気に入っているが、この部分の記述にはちょっと違和感を覚える。
少なくともジャズに興味を持っているのだから、くだらないなんて少しも思っていないよ。もしクラシック奏者がそのようなプライドを持っているとしたら、単にジャズが好きでないか、自由に演奏を楽しんでいるジャズ奏者に対する嫉妬ではないかしらん。

変なプライドはない(はず)なのに、壁がある。
なぜか。

本人に全く自覚はないのだけれど、深層心理のどこかに、譜面から少しでも逸脱して演奏することに罪悪感のようなものが深く深く深く根付いてしまっている。
メロディーを吹くだけ。但し、「譜面通りに吹かないように」。そう言われても、最初の4~8小節はがんばってみるのだけれど、いつのまにかどこからか罪悪感のようなものが芽生えて葛藤し、最初の1コーラスの半ばには気持ちがすっかり負けて息絶え絶え。音も当然のことながらスカスカ。

ジャズで通常使う楽譜。リードシートと呼ばれ、コードと、簡素化されたメロディーのみ書き込まれたものである。自分なりに崩したり、即興的にアレンジしたりして演奏することが大前提の、曲の覚えとかメモとかネタ的なもの。
そうとは頭ではわかっているものの、なかなかリズムを崩すことさえままならない。
どうしても、頭の中を何か罪悪感のようなものがちらついてしまう。

長年の?クラシック歴で、譜面は忠実に演奏されなければならない、という強迫観念が無意識に根付いてしまっているのだな、と他人事のように感心してしまった。それは自分が想像していたよりも、ずっとずっと強烈な植え込みであった。

そうとわかれば、そこんところ、どうにかしないとね。
で、どうしよう。

演奏が息絶え絶えに至る過程を考えると。

リズムを崩したり、アドリブもどきをしてみる。 → (デタラメで何も問題がないにもかかわらず、何故か)罪悪感が芽生える → 気持ちが凹む → 音が死に体になる → もっと凹む → 曲が途絶える・・・

ということ。
この悪循環をどこかで断ち切る必要がある。
で、どこから手をつけようか?

そこで私は、「音が死に体になる」に手をつけようと考えた。なんとか1コーラスの間に音をキープさえできれば、あとは「気持ちが凹」まないような精神鍛錬(!)に集中できるのである。

ところが管楽器は、どうしても音に気持ちが出てしまう。
そう、鍵盤楽器を使えばいいのだ!
こんなことを言ったらシリアスな鍵盤楽器奏者に怒られてしまうかもしれないけれど。

鍵盤楽器(私の場合はクラビノーバを使用)は、どんなに気持ちが凹んでいようと、それなりにちゃんと音が出る。
意外に管楽器は「デタラメ」に吹くのも技術が要る(!)のであるが、鍵盤楽器は本気でデタラメに弾くことが容易である。

レッスンで先生から頂いた「枯葉」などの伴奏CDに、(フルートではなくて)クラビノーバでひたすら気持ちが凹んでも凹んでも、とにかく最後まで気持ちを萎えさせず、デタラメにも罪悪感を感じず(笑)に演奏し続ける(というよりは叩き続ける)精神力を維持する訓練をしてみた。

その甲斐あってか、レッスン開始数ヶ月後には多少のお褒めの言葉も得られたので、全く無駄な練習(というより精神鍛錬)ではなかったのだなぁ、と今は思う。