Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

COSI FAN TUTTE (Tues, Nov 9, 2010)

2010-11-09 | メトロポリタン・オペラ
先週金曜のドレス・リハーサルに続く、シーズン初日の公演。

ドレス・リハーサルでは、相当な頻度のディスコーディネーションに、クリスティとオケの息の合わなさを感じましたが、
一方で、音楽が心に訴えかけてくる部分もあって(それをドレス・リハーサルの記事では
モーツァルトの”僕は愛したい!”という思いが籠っている、と書いたわけですが、、。)、両者相殺、という感じでした。
今日はリハーサルではなくて、本公演なのだから、少し良くなるのかな、、と期待していたんですが、、。
はっきり言って、ドレス・リハーサルよりも悪くなってしまいました、、

リハーサルが問題だらけでも、いつも本公演、特に初日やHDの日には気合と集中力で乗り切ってきたメト・オケ、
序曲の前半はなんとかその姿勢で乗り切ろうとする前向きな雰囲気を感じたのですが、
クリスティがリハーサル時と変わらず、彼らに”猛速”を押し付けた時、彼らの中で何かが壊れたように感じます。
私は思いました。”やっちまいましたね、クリスティさん、、、。”



私が感じたのは、オケの方に、ただ綺麗に演奏するだけではなく、何かをきちんと表現したい、という気持ちがあって、
それをやりながら演奏するには、速く弾けるのはここまで、という、コンフォート・ゾーンがあるのに、
クリスティはそれを超えてもっと速く演奏させようとするのです。
リハーサルでそれが全く上手く行かなかったのを重々承知の上でか、
リハーサルの時にあまりにテンパってそんな事態になったことにすら気づいてなかったのか、
もしくは今もテンパってしまってその記憶が吹っ飛んだか、、、
おそらく重々承知の線だろうと思うのですが、その場合、なぜ?という疑問が浮かびます。
一つには、古楽器に出来る同様のことをモダン・オケにも求め過ぎている、というのもあると思います。

メト・オケが決して物理的に彼の指示するスピードで演奏できないわけではありません。
けれども、それをやるとこのオケがモーツァルト作品の演奏において出せるであろう
良さや味も吹っ飛んでしまうことは、奏者だけでなく、トーシロの私が聴いていてもわかります。
その辺りが、リハーサルの時は、クリスティとオケの間で、水面下のせめぎあい、といった風に進行していましたが、
オケもさすがに今日の本公演では、自分たちが出来るだけ彼の意図を汲み取って演奏しようとしているように、
クリスティも少しは自分たちに歩み寄って、一緒に音楽を作っていくという姿勢になるだろう、と
期待していたところもあったんではないかと思います。
それを、クリスティはこの序曲の指揮で、”私はあなたたちの考えなど知ったことではないし、
音楽を一緒に作るつもりもありません。あんたたちの方が私に合わせるのです。本公演でもそのようにやります。”
というメッセージを出したのです。
この瞬間にオケから出てくるエネルギーがふっと変わってしまったのを私は感じました。
努力して結婚生活を続けようとして来た女性が、ある日突然、
”この人はこのままずっと変わらないんだわ、、。”という思いに覚醒し、冷ややかな表情で夫を見始める、、そんな感じ。



この記事を書いているのはまたまたいつの間にこんなに?と思うほど日時が経ってしまった12/3のことですが、
昨夜(12/2)は『コジ』のシーズン最後の公演があり、私もシリウスで聴いておりましたが、
この初日以降も順調に(?)関係は冷却の一途を辿って行ったようで、
演奏を聴いていると、メト・オケの方は着々と離婚届に判を押し、
荷物もまとめ始めている、といった雰囲気で完全な決裂状態。
一ヶ月弱でよくこんなにお互いに冷え切った状態になったもんだ、、と私は感心しました。

強情で妻の心にいつまで経っても無神経な夫クリスティは、相変わらず猛スピードでオケを煽りまくり、
妻メト・オケの方は”じゃ、あんたの欲しいもの(2人の間に生まれた子供?)くれてやるよ!もってきな!”という調子で、
全く思いの入っていない調子で乱暴に彼のスピード”だけ”に合わせて、意地になってものすごい速さで演奏していますし、
そんなところに、モーツァルトがこの音楽に託したかった表現が可能になるわけがありません。
気の毒なのは歌手たちで、この”夫婦問題”に巻き込まれて、そのままの調子で振り続けるクリスティの指揮に、
そんな異常な速さに合わせて歌うことが出来るわけもなく、途方に暮れているのが手に取るようにわかります。
(特に序曲からなだれこむ最初のアルフォンゾと男兄弟2人組のシーンにそれが顕著で、
女性陣が現れてからは、ほんの少し、クリスティも冷静さを取り戻しましたが、、。それにしてもかわいそうなガンとブレスリク、、、。)

考えてみれば、笑えて来るような、くだらない、子供っぽい事態じゃないですか?
クリスティが最初にほんの少しだけ、メト・オケの特性に配慮し、彼らの気持ちを尊重しつつ、
出来るだけ自分のやりたい方に近づけていれば、100%彼の望むようにはならなかったとしても、
少なくとも85%くらいの出来にはなって、”決して悪くはない”~”なかなか良い”くらいの結果にはなっていたはずなのです。
それが、自分のスタイルに固執し過ぎて、85%どころか、
このラストの公演では40%にもおぼつかないような出来になってしまうとは、、。
彼は彼で気負いがあって、それがバックファイヤーしたというのもあるのかもしれません。
それにしても、このシーズンだけの話ならまだいいですが、彼は来シーズン、メトに再び登場する予定で、
例の新作パスティッチョ・オペラ(ペイストリー・オペラ。こちらの記事のコメント欄をご覧ください。)の
指揮にアサインされているんですから、離婚問題している場合じゃないんですけれども、、。
結局彼にはレザール・フロリサンが最高の妻であり、彼らと一緒にいるのがみんなのため、ということなのかもしれません。



初日の公演に話を戻すと、父さんと母さんがそんな諍いをおっぱじめているところを、
いたいけな瞳で見つめつつも、普段の生活を送ろうとする健気な子供のように、
プロフェッショナリズムに徹し、自分の出来る役目をきちんと果たそうと努力しているのが歌手陣です。
歌手の方がわがままだったり実力不足だったりで、
指揮者やオケの方がそれに振り回されるというのは良くあるケースですが、
事態が逆になると、誰かが大人にならねば、と、歌手の方が成熟した行動をとることもあるのだな、と感慨深い。
(まあ、メンバーにもよるのかもしれませんが。)

ドレス・リハーサル時の出来と一番大きな差があったのは、フィオルディリージ役を歌ったペルション。
今日は高音の伸び、響きともに、ドレス・リハーサルよりも数段良く、歌に熱さもあり、
アリアに含まれる技巧がとても綺麗に処理されていたのが印象的で、
今まで私が勝手に思い込んでいたよりは、しっかりしたテクニックも持っている人なのかもしれないと思いました。
今まで別の役で聴いた時はあまり思ったことがなかったのですが、
この役での彼女は、佇まいといい、歌唱といい、どこか、”こじんまりとしたフレミング”みたいな雰囲気があって、
実際、音域によっては音の響きが少し似ているな、と思う時があります。

デ・ニースは相変わらず、マイ・ペースに突き抜けたデスピーナを演じ、
レナードはリハーサルに続いて、安定した歌唱と美しい歌声で、安心して聴いていられますが、
レナードの場合、逆に、これからのキャリアにおいて、そこをほんの少し超えられるような、
何か、人の心に引っかかるような歌を歌えるようになることが課題かもしれません。
それがないと、歌が綺麗過ぎてつまらない、という、せっかくの素質が実にもったいない事態になってしまいますので、、。




ガンは、フレーズの回し方などに結構自己流なところがあって、モーツァルトのオペラの歌唱としては、
私の感覚では決して上品とも美しいとも思わないのですが、
それでも役がそれなりに魅力的に見えるのは、ハンプソンみたいな俺様キャラではない、
必要とあらば自分を落とすことができる、彼の気取らない個性のせいかな、と思います。

その点では少し気取り感を感じるブレスリクですが、今回の作品の場合は、
とぼけたガンのグリエルモとはいいコンビネーションです。

この演出は本当に色彩が鮮やかで美しいんですが(照明のせいもあると思います)、
メトの日本公演の時はこんなに綺麗だった記憶がありません。
この物語の舞台がナポリであることを観客に忘れさせない、海と空の青を意識した舞台美術に、
巧みに計算された衣装の色、、、。

この公演の後に参加したパネル・ディスカッションで、
2009年のザルツブルクの公演の映像(同じくペルションとレナードが出演しています)を見ました。
第二景の二重唱”ああ、妹よご覧”だけなので、ごく短い映像でしたが、
それで見る限りはナポリであるとわかるものはなにもなく、カクテル・ドレスで大はしゃぎする姉妹の様子に、
なんと作品の雰囲気が変わってしまうことか、、、と愕然。

カクテル・ドレスの姉妹はそれはそれでよろしいですが、メトは別に似たことをする必要もないと思います。
私は、このメトの演出で船の模型が浮かぶ海を眺めながら、
アンニュイな雰囲気の中で姉妹が歌うこの二重唱に、すでにこの作品のアンダートーンが現れていて、とても好きです。


Miah Persson (Fiordiligi)
Isabel Leonard (Dorabella)
Nathan Gunn (Guglielmo)
Pavol Breslik (Ferrando)
William Shimell (Don Alfonso)
Danelle de Niese (Despina)

Conductor: William Christie
Production: Lesley Koenig
Set & Costume design: Michael Yeargan
Lighting design: Duane Schuler
Stage direction: Robin Guarino
Dr Circ C Odd
OFF

*** モーツァルト コジ・ファン・トゥッテ Mozart Così fan tutte ***

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14 コメント

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le Grand Condéさん (Madokakip)
2010-12-14 12:36:47
>madokakipさんはブログを書いてオペラに行ってブログを書いてオペラに行って, ….ブログを書いて

その後やはり“短い生涯を終えた、、”と続くのかと、とどきどきしてしまったではありませんか!(笑)
いつもと同様とても濃い内容のコメントありがとうございます。

私も客観的な事実上のスピードそのものが音楽性に関係ないというご指摘には全く同感です。
聴いている方(そしてもちろん演奏している方にも)に、すとん、と落ちる、しっくり来る、
エキサイティングである、と感じられるようであれば、
亀のようにゆっくりでも、ローラーコースターのように早くても、私はかまわないと思います。
今回の記事で速度について多くふれているのは、やはり、“しっくり来なかった”というところに帰結するのだと思います。
しかし、この『魔笛』のデータは興味深いですね。6分半前後の曲で5‘58“から7’23”の幅、、かなり広いと思います。
私の聴いたことのない音源がほとんどですので、実際にどのように違って感じられるかをコメントすることは出来ませんが、
これだけの幅があっても、きちんとそれぞれ演奏として成立しているわけですし、
少なくとも指揮者はしっくりと来ると感じているからこのスピードで演奏しているわけで、
そうなると、“しっくり来る”のスペクトラム自体、かなり幅広いことが示唆されていると思います。

>もし、クリスティのスピードが「トーシロー」的に早い、ということであれば

? この「」は私の文章からの引用を示すために用いられていますでしょうか?
トーシロは“私”であって、クリスティーがトーシロだとは一度も申し上げていないと思いますが、、。

>彼のスピードにMETがついていけなかったことにより、彼の本来の演奏が発揮できなかったことにあると考えます

でもこれはメトのオケの責任でもないのではないでしょうか?
le Grand Condéさんがおっしゃるようにクリスティの指揮が独特で、
古楽器オケを編成してオリジナルへの理想を追求し、
普段自分の演奏し慣れていないスピード・テンポに変更などして、うまくいく訳がないなら、
(そして、私はこれ全部、全くその通りだと思っていますが)
同じことはメトのオケにも言えますよね?
彼らの側だって、演奏しなれない古楽器オケ的アプローチに突然数週間でスイッチしろと言われても、
うまくいく訳がないと思います。

私はこの記事で、クリスティが優れた指揮者じゃない、と言っているのではありません。
彼が優れた指揮者かどうかは、私自身は、彼の理想とするに最も近い環境
(それがレザール・フロリサンであるんでしょうが)で聴くまで、判断は出来かねます。
私が言いたいのは、今回のこのクリスティーとメトのコンビというのは、
組み合わせとして全く理想的でなく、私はゲルブ支配人やアーティスティック部門が
話題性だけで指揮者を連れて来るのは反対だ、ということが言いたかったんです。
フローレスをワーグナーの作品にキャスティングするど間抜けなオペラハウスはどこにもいないでしょう?
同じようなスタイルに関する知識、センスはオケと指揮者の間にも適用されるべきだと思います。
また、フローレスやクリスティーは自分が出演、指揮する作品を選べますが、
オケの側には全くその権利がないということも忘れてはならない点だと思います。
(他のオケはどうか知りませんが、少なくともメトのオケにはありません。)
ですから、その分、支配人、アーティスティック部門、それから契約をするアーティスト、指揮者が良識を働かせることを求めたいのです。
そうでないと、関わる全ての人と観客にとって後味の悪い経験になってしまいます。

クリスティの場合は今回がメト・デビューですし、実際にメトに来てみるまで、
困難が予想できなかった部分があるのは良くわかります。

>madokakipさんの仰るとうりであれば、彼はもう2度とMETを指揮することはないと思います.

来年の『魅惑の島』(仮題)にはすでに契約もされているみたいですし、
その部分で、クリスティーが自分の感情を優先させるタイプの方なのか、
契約上の責任を優先させるタイプの方なのかは良くわかりません。
コジよりは自身の得意とするジャンルに近いと言える『魅惑の島』で大挽回を!という考え方もありますから、、。
ただ、今回のコジについては、彼自身、オケ側がハッピーでなかったことは良くわかっているはずです。
あと、編成のお話ですが、二管だったと記憶しています。

>モーツァルトの音楽に抵抗を感じたり、『コジ・ファン・トゥッテ』があまり好きになれないというようなことを聞くことがありますが

これなんですけれども、他の方はまたそれぞれで理由があられるでしょうが、
私の場合はもしかすると、あまり良い演奏を聴いて来なかったからではないかな、、という風に思い始めています。
確かにモーツァルトの書くメロディーは単純であるというような偏見も一般にはあると思いますが、
私の場合は、むしろ、その単純さゆえの難しさのせいで、作品の良さを引き出せる歌手や演奏家というのが、
なかなかそう多くはない、そこに原因があるんじゃないかという風に思うようになりました。
(娑羅さんが以前ブレハッチの記事だったかで書いてくださった意見がヒントになって、
この考えにいたりました。
実際、ブレハッチのリサイタルの時は、モーツァルトの曲ってこんなに良い曲なんだ!と思いましたから、、。
その一方で、死ぬほど退屈な演奏を聴かされる可能性があるのも、またモーツァルトの作品なんです、、。)

>モーツァルトのオペラアリアはそもそもカスタムメイドなので、その歌唱に本当に相応しい人、《モーツァルト歌い》が歌わない限り、本来の良さはなかなか現れないものと思います.

そういうことなんでしょうね。そのふさわしい人というのがなかなかいない、という、、。


>作品を書いた時に作曲家がプライベートでどのような状態だったか、ということは私はあまり考えたくない
>作品を好きになると考えたくなりますよ

ここは私自身も迷うところではあるんです、、。
最初の文の心は、もし、それを考え始めると、聴き手側の持っている知識によって、
随分作品から受ける印象が変わってしまう可能性がありませんか?
ということなんです、、。
(実際今回のコジのように、、もしモーツァルトの境遇を考えなかったら、
ここまで胸に迫ったかな、、と確信を持てない部分があります。)

でもどんな聴き手も、人生経験など、演奏会や公演に背負って来ているものが違いますから、
作曲家に関する知識もそれとはなんら変わることがないとも言えますし、、。
この議論は、以前、ボリスで議論されたポイントにも少し近いかもしれませんね。
返信する
COSI FAN TUTTE (le Grand Condé)
2010-12-12 11:11:00
モーツァルトは作曲して演奏して作曲して演奏して,......作曲して, 短い生涯を終えた .
madokakipさんはブログを書いてオペラに行ってブログを書いてオペラに行って, ….ブログを書いて, ちょっと違うけどこの先もずっと続けられるのでしょう.

クリスティの『コジ・ファン・トゥッテ』,madokakipさん的には散々な結果のようで、せっかく行かれたのに楽しまれず残念でしたね.(「コシ」表記の方が本当は馴染みがあるのですが伊語「コジ」にしましょう)

> 歌手やオケの一部のセクションに全く指示が出ていない
> 歌手が何度も彼のキューを見失うという場面が散見

彼の指揮法は独特ですので、METがついていけないのは当然でしょう.初めて彼の指揮を見たとき、今までに全く見たことのないような指揮なので感動したものです. 何といいましょうか彼のバロック的指揮法研究の成果かなにかを感じさせるような、記号的な不思議な指揮です.また、レザール・フロリサンなどでは指揮をしながらチェンバロを弾くので、結構目線のみで、指揮している.

彼の演奏スピード“猛速”?について沢山、触れられてますが、新聞記事でも初日については似たようなことが書かれてました. ただ、それらの基準は全く個々人の感覚によるので(少なくともクリスティはそれでいいと考えている)、私個人は実際聴いていないので全くなんとも答えようもありません. ただ客観的にどうなのか、一応知っておきたく(こんな比較は音楽的にはなんの意味もないのですが)、残念ながらクリスティの『コジ・ファン』はなく、私の好きな『魔笛』(勿論、彼の他のオペラも好きです)録音の序曲について、手持ちのもので簡単に比較してみました.早い順です. 決して、好きな順ではありません.

1. W. Christie@RadioFrance 1995 ( 5’58)
2. C. Abbado@Modena 2005 (6’05)
3. N. Harnoncourt@Zurich 1987 (6’27)
4. C.Mackerras@Edinburgh1991(6’30)
5. W. Sawallisch@Munchen1983 (6’42)
6. B. Walter@MET 1956 (6’59)
7. C Davis@CoventGarden 2003 (7’07)
8. O. Klemperer@KingswayHall 1964(7’17)
9. K. Bohm@Berin1964 (7’17)
10. W. Furtwangler@Salzburg1949 (7’18)
11. R. Muti@Saltzburg2006 (7’23)

なるほど確かに相対的に見てクリスティは早い. これで納得です.絶対的な基準とは何か. もちろん、モーツァルト自身が指揮するテンポです.でもそれはわからない.

比較する前は、B.ワルターが一番早いかなと何となく思っていたのですが、結果はそうでもなかった. 彼は緩急のつけ方が天才的だから、早い部分がより一層効果的に聴こえてしまうということです.
ここで1.と2.が、殆ど同程度で近いことはお分かりになると思いますが、実は個々のアリアについても、トータル時間について見ても(多少乱暴な見方ですけど)、殆ど同じで、むしろアバドの方が数分早いくらい. 

もし、クリスティのスピードが「トーシロー」的に早い、ということであれば、クラウディオ・アバドも「トーシロー」ということになる.

今回の問題は、スピードが問題なのではなく、彼のスピードにMETがついていけなかったことにより、彼の本来の演奏が発揮できなかったことにあると考えます.(個人的に、クリスティのモーツァルトに、モーツァルトが聴こえるかどうかは別として、そのように問題のある演奏とは考えられません.)

1はレザール・フロリサン、2は、マーラー・チェンバー・オーケストラ、共通点としていずれも小編成.
1つ、気になるのは、今回のMETオケはどういう編成だったのでしょうか? つまり、モーツァルト当事の編成スタイルでいけば小編成(2管編成:50人くらい)、つまり古楽器編成となり、新国立歌劇場で演奏する際も知る限り、2管編成で演奏されています. 総客席数は1814ですが、METともなると3800席の大空間を埋める音響が必要とも考えられなくもないので、まさかとは思いますが、3管編成(100人くらい)を取っているなどというようなことはなかったでしょうか?

>コンフォート・ゾーン
それはあります. スピードの問題よりも、肝心な聴かせどころで、表現をとらずに次に進んでしまう、というようなのが私の場合は不快なポイントです.ショパンの『小犬のワルツ』を1分で演奏されようが、1分半で演奏されようが、そんなことは問題ではないのです. その中に込められている表現、ニュアンスの方がよっぽど大事です.しかしながら、ことモーツァルトとなると、彼(モーツァルト)自身がいうように
テンポというのは音楽にとってものすごく大事な要素なのです.個人のコンフォート・ゾーンを、モーツァルトの意図する本当のゾーンに合致させるには、モーツァルティアン演奏家の音楽をひたすら聴き続け、彼のスコアを読み、あるいは彼の人間像、育った環境、音楽観を知る以外に正しい結果には近づくことは出来ないでしょう.

> 一つには、古楽器に出来る同様のことをモダン・オケにも求め過ぎている
> 自分のスタイルに固執
これも、私から見れば当たり前です . 彼は古楽器オケを編成してオリジナルへの理想を追求する人ですから. METの実情に合わせて、普段自分の演奏し慣れていないスピード・テンポに変更などして、うまくいく訳がない.また、現実に併せて自分の理想を曲げて妥協するという行為そのものに共感が持てない.

> メト・オケの方は着々と離婚届に判を押し、荷物もまとめ始めている、といった雰囲気で完全な決裂状態。
> 彼は来シーズン、メトに再び登場する予定で
もし、madokakipさんの仰るとうりであれば、彼はもう2度とMETを指揮することはないと思います.

ところで、madokakipさん以外にも、モーツァルトの音楽に抵抗を感じたり、『コジ・ファン・トゥッテ』があまり好きになれないというようなことを聞くことがありますが、ある種の「偏見」ようなもの、つまり、モーツァルトは女・子供の音楽である(古風な表現)、とか、子供の練習曲である、とか、ライト・ミュージックであるとか、BGM.… が、本人が否定したとしても、以前そんな風潮の時代があってそれらが深層意識に残っている、犯されている、ということがあるとなかなか拭いきれないのかも知れない.

『コジ・ファン・トゥッテ』は、ベートーヴェンやヴァーグナーがその内容(台本)に関し道徳的な理由で、
否定したことがそもそも大きいこともあり、(但し、彼らはモーツァルトの音楽の賛美者であり、最大級、頭上に戴いている) もし、台本がよいものであったなら、モーツァルトはすばらしい作品を書けた筈などと言われる. ダ・ポンテ自身も、モーツァルトと共作したオペラで一番不出来だ、などと言っている.

モーツァルトがこの作品を作成した過程というのは、よくわからないのですが、ただ彼自身は、つまらない台本で作曲するような人間ではない. ウムラウフの新しいオペラの台本が持ち込まれた際も、くだらない作品だとして依頼を断っており、イタリアの詩人(ダ・ポンテ?)が台本を持ち込んだ際も、もし彼が望むように裁断して使ってもよいのなら、と条件をつけて考えている.

『コジ・ファン・トゥッテ』のプローベには自宅、劇場ともに、彼の尊敬するヨーゼフ・ハイドンを招いているので、いいかげんな作品な訳がない.

作曲されたのが1789秋ですので、フランス革命の直ぐ後か…. ウィーンの将校、とフェラーラ姉妹の2カップルが主人公、他2名. シンプルなストーリ、新しい風が吹き始めている、自由恋愛??、モダンな印象を受ける作品です.

> 作品を書いた時に作曲家がプライベートでどのような状態だったか、ということは私はあまり考えたくない

作品を好きになると考えたくなりますよ.彼の音楽を知る上では知っておいた方がいい、彼の人生の出来事、ドラマがあると思います.それまで聴いてきた感覚を裏付けることにもなりますし、あるいは補うものになります.

> 音楽の中から、モーツァルトの、女性を愛したい、
> 失望させられても、まだ信じ続けたい、という、そういう心の叫び
> モーツァルトが決して妻に大事にされていたわけではなかったことを思って、とてもせつなくなりました。

この頃、作曲された作品で、彼の友人クラリネット奏者シュタードラー用の『クラリネット五重奏曲K581』というのがあるのですが、第2楽章ラルゲットを聴きますと、モーツァルトとコンスタンチェの甘い対話にしか聴こえてこないのですね.モーツァルトの声は低かったのではないかと想像します.

彼の理想の女性像として、聖母マリアと云われますが、確かに彼のミサ曲などを聴くとそう思います.
『フィガロの結婚』のアルマヴィーヴァ伯爵夫人のアリアの中に、『戴冠ミサK317』のAgnusDeiが潜んでいるのはモーツァルト聴きなら知るところと思いますが、『コジ・ファン』のフィオルディージのアリア《Come Scoglio immoto resta(岩礁のように)》の中にも、同じくKyrie eleison(主よ、憐れみたまえ)が、サブリミナル効果のように潜んでいるように私には聴こえます.モーツァルトは秘密結社フリーメイスンに既に1784年末頃に入団しており、以前話題になった『ダ・ヴィンチ・コード』で、ダ・ヴィンチが同じように秘密結社シオン修道会に所属し、作品『最後の晩餐』の中に彼のマリア信仰の秘密を隠す点とオーバーラップしていて興味深い.

映画『アマデウス』のサリエリは、つまりは=ピーター・シェーファー. 彼は自分の感動をサリエリを通して表現している. あの映画で使われる選曲、サリエリがモーツァルトの音楽に接した時の驚き、動揺、感動は、まさにモーツァルト好き、モーツァルト聴き、モーツァルティアンそのものです.

モーツァルトのオペラアリアはそもそもカスタムメイドなので、その歌唱に本当に相応しい人、《モーツァルト歌い》が歌わない限り、本来の良さはなかなか現れないものと思います. 
『コシ・ファン・トゥッテ』の重唱、2,3,4,5,6重唱、いずれも、これらのハーモニーの相性が最良である機会が望めると理想的ですね….
返信する
シャンティさん (Madokakip)
2010-12-11 12:34:12
クロスオーバーかロックかというのは、あくまで歌っている曲のジャンルによる区分けに過ぎなくて、
良い歌を歌えるか、歌えないか、ということとは本来あまり関係がないんじゃないかな、と私は思います。
まあ、中途半端なものしか歌えないから、結果としてクロスオーバーになってしまう、という例はあるのかもしれませんが、
グリゴーロ君の場合は、クロスオーバー的なプロジェクトに関わったことで、
そういう実力がないからクロスオーバーするしかない人たちと一緒にされてしまったところで苦労しているんだと私は思っていますが。

>叱られるかもとは思っても、書いてもおりません。

でしたら頂いたメールからきちんとコピペすれば良かったですね。失礼しました。
まあ、私の日本語が拙いのもあるのですが、それぞれの方でどのように言葉が違って受け取られる可能性があるか注意せよ、という、
国会議員に求められるような一語一句の正確さ・如才なさに注意しながら
コメント欄と記事の両方を今のペースで書き続けるのは残念ながら、私の力の及ばないところです。
ここは国会議事堂ではなく、オペラ・ブログですので、皆様には大目に見て頂きたくお願いいたします。
返信する
素人耳さん (Madokakip)
2010-12-11 12:33:22
楽しそうですー!シャッフル機能を使うとより楽しそう、、。
そういえば、以前、チエカさんのサイトで、
ルネ・フレミングの『椿姫』でのE tardi!の歌い方がすごく変だ!というので話題になって、
そこだけの音源だけを20名くらい集めてどのソプラノが歌ったものか当てる、というのもやってましたね。
しかもステレオ録音ではなくて、ほとんどがライブ音源だったので、まあ、難しいこと、難しいこと!
あと、私がいつか試してみたいと思っているのはいろんなオケのここ数年の演奏を並べて、どのオケの演奏によるものかを当てる、というものです。
さすがスカラの音、ウィーンの音!とよく言われますが、
ヨーロッパの他のオケはもちろん、日本やアメリカのオケも混ぜて、
実際どれ位当たるものなのか、というのを確かめてみたいです。
返信する
keyakiさん (Madokakip)
2010-12-11 12:32:10
そうですね、“誰も寝てはならぬ”よりも“人知れぬ涙”の方が難しい、という点、わかる気がします。
“誰も寝てはならぬ”は、自己流に歌っても、それが個性になる余地みたいなのがありますが、
“人知れぬ涙”はそれで切り抜けることの出来ない曲なんじゃないかな、と思います。
メロディー自体はシンプルですが、それゆえにしっかりした基礎がないと惨憺たる結果になってしまうし、
ベル・カントの曲ほどそれがはっきりわかる曲はないですね。
私の感性ではその点でやはりマイケル・ボルトンはグリゴーロ君よりも他の3人に近いと思うんですけれども、、。
ラッセル・ワトソンなんて、今回keyakiさんのコメントで初めてこの世に存在していることを知りました。
ポール・ボッツは以前どこかのコメント欄に書きましたが、うちの妹が“こんな人がいるけど、
どうなの?”と彼の歌ったNessun dormaの映像を送って来たので、
(ちなみに彼女は私と違って全然オペラに興味がないんです、、。)
“代わりにこっちを聴きなさい!!”と、コレッリの音源を送りつけてしまいました。

http://www.youtube.com/watch?v=1k08yxu57NA

http://www.youtube.com/watch?v=Eg-59NoES2o

歌も顔もより優れた人(故人ですが)がこうして存在している(た)のに、
なんだってボッツを聴くのか?と、、、。
返信する
こんな人 (シャンティ)
2010-12-10 22:09:32
いつの間にか白熱していてびっくりしております。”こんな人”というのはボルトンがバリバリロック歌手なので、オペラ歌手とは対極にある歌い方をするということで、別に歌手としての実力がないという意味ではなく、中途半端なクロスオーバー歌手とボルトンとはわたしの中では分けられてます。
なので、ボルトンに似ていると思ったことで、>叱られるかも
とは思っても、書いてもおりません。
*わたしのメールが届いていないかも?と思ってこちらのコメント欄に問い合わせを書いてしまって失礼いたしました。
返信する
『誰も寝てはならぬ』100% (素人耳)
2010-12-10 12:00:13
また、横から出てきて、まことに申し訳ない。

マイケル・ボルトンでこのCDを思い出しました。

『誰も寝てはならぬ』100% 
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2633706

昔買ったとき、歌手の名前を見ないで誰だか当てられるか、と遊んだものじゃ。
返信する
表現的歌唱 (keyaki)
2010-12-10 10:30:52
なるほど....です。
クラウスが基本になっているシャンティさんには正統的?オペラじゃない...というところでしょうか。メーリとかフィリアノーティは合格ということですね。

私のブログのコメントに、グリゴーロのCDを聞いて、「人知れぬ涙」はたいくつな曲だと思っていたが、はじめていい曲だと思いました....と言っている方もいました。
私が、グリゴーロに惹かれたのは、声だけでなくてそのへん(表現的歌唱)にあることは間違いないです。クラシック=たいくつ...というのが一般的なイメージで、私なんかもオペラのアリア一曲でさえ、たいくつで途中でやめてしまうこともあります。

クラシックと非クラシック、アーティストの方は、垣根がないと思っていても、受けての方にあるんですね。売れていないから話題にもならずにポップを歌っていると非難されていませんが、多くのオペラ歌手が非クラシック系のアルバムをリリースしてるんですよ。

マイケル・ボルトンでしたか....いいじゃないですか。ポップ系の人たちは本当に感情豊かに歌いますから。同好の方にMadokakipさんのヒントを言ったら、即座に「マイケル・ボルトン?全然似てないけど、オペラのアリア集を出したって話題になったことがある...」と言ってました。
マイケル・ボルトンだと「こんな人」発言にふさわしくないので、ポール・ポッツも入れたんですけど、ポール・ポッツだったら、叱ったりはしませんが、「どこに耳がついてるの....」と思ったでしょう。Nessun dormaは、皆さん軒並み歌っていて、それなりですが、Una furtivaの方は、かなり難易度が高いようで、歌っている人も少ないんですが、ラッセル・ワトソンのは、聞いちゃおられん....です。
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keyakiさん (Madokakip)
2010-12-10 06:07:04
これは私の考えなんですが、コメント欄はこのブログを読んでくださる方全員のための場で、初めてこのブログを覗かれた方にも意味がわかるのが筋であり、
私とコメントを下さる方だけで意味が通じるような会話は避けたいな、と思っています。
テレビなんかでも出演者が内輪話、内輪受けしているのって、視聴者も含めた他の人にすれば”は?っ”て感じで、置いてけぼりされたような感じになりますよね。
そういうのは嫌だな、と思って。
ですので、これまでも、あだ名などで歌手の名前を表記されている場合は、出来るだけお返事のほうに本名を含めたり、どなたがいつ読んでもわかるように工夫しているつもりなんですが、
今回も、ここまで話が出てしまったので、このまま意味不明な会話をするのは他の方に失礼かと思い、ディスクローズしました。

あくまで私の勝手な解釈ですが、別にシャンティさんはkeyakiさん個人に内緒で、というつもりで送られたのでは全然ないんですよ。
私自身、それからShevaさんをはじめ、このブログにコメントを下さったことのある方でグリゴーロ君の活躍を期待している方は結構いらっしゃいますし、
そんなわけで、プロ・グリゴーロ君の方が多いので、シャンティさんは皆様に気をお使いになったのと、あとは最初からここに”私はこう思うのですけれど、、”
という意見を書きづらくていらっしゃった、ということなんだと思います。
シャンティさんは忙しくていらっしゃって、全部のコメントや記事を読んでらっしゃるわけではない、と以前におっしゃっていました。
私を含む多くの方はkeyakiさんがそんな叱るような心の狭い方でないことは重々承知しておりますが、比較にあげられているのが非オペラ歌手ということもあって、
誰がどのような反応に出るかわからないので躊躇された部分もあったのではないでしょうか?
実際、クラシック以外の歌は歌と認めない!というスタンスの方がいらっしゃるのも事実で、以前keyakiさんが嘆いていらっしゃった通りですから、、。
こういう率直な意見がいいにくいという、オペラに時に見られる環境は変えて行きたいな、と思いますよね。

で、答えなのですが、さすが、keyakiさん、答えは一番のボルトンです!!
私、彼がオペラのアリアを歌っているなんて、全く知りませんでしたし、ドミンゴやパヴァロッティと共演しているなんてことも全然!
マイケル・ボルトンといえば、ちょうど私が大学生の頃にブレイクしたような記憶があるのですが、
私は当時から彼の歌うポップ(曲)も見た目もださい!と思っておりまして、デートに行って、この人の曲がカーステから流れて来るような男性とはその場でお別れ!と思っていたクチですので、
keyakiさんよりは彼のことを悪く言うことに抵抗がないのですが、普通に言えば、まあ、歌は上手い人ではあるんだろうな、と思います。
ただ、彼の歌う”人知れぬ涙”。これは、やはりオペラ歌手と比べることは残念ながら出来ないです。
やっぱりオペラ的なスキルなしで、この歌の良さを本当に引き出すことは私は個人的には難しいと思いますので、、。
しかし、私が気になったのは、そういったオペラを歌うにおける基礎歌唱力・スキルの不足よりも
(まあ、結局のところ、彼はオペラ歌手ではないのですから、それを期待するのも無茶というものです。)、
それを埋めるために感情表現が過多になる部分です。
グリゴーロ君の歌唱については色々言う方がいて、中には”は?”というようなこちらがスルーしたくなるような根拠のないものもありますが、
彼の歌唱に、聴き手によっては、感情過多ととられかねないエレメントがあるのは、彼の歌唱が好きな私でも、それほど的外れな指摘ではないなと思います。
(シャンティさんが似ていると指摘されているのも、歌のスキルそのものではなく、この感情の方がオーバーコンペンセートしてしまう傾向という風に私は解しました。)
私にとって興味深いのは、ボルトンの場合は、スキルだけで埋められない部分をエモーショナルな歌い方でつぎはぎしているように感じられるのに比べ、
グリゴーロ君の場合は、ものすごくスキルがあって、つぎはぎなんかする必要は全くないのに、歌が非常にエモーショナルな方に傾く点です。
私は彼の実際の舞台を見て、歌に関しては、音源だけで聴く時に比べるとその傾向は少ないように感じました。
というか、フレージングと声のプロジェクションがすごく綺麗なので、ちょうどいい感じで歌唱のエモーショナルさとバランスが取れていると思います。
むしろ、私は演技の方で、よりその傾向を強く感じていて、エモーションの方が若干空周りする場合が時にあるように感じられ、
もう少し抑えた方がより効果的な演技になると思っているのは、『ボエーム』の感想で書いた通りです。
でも、このあたりは好みもありますからね。ある人にとっては素晴らしい!と感じるものが、他の人にとってはやりすぎと感じることもあるし、
ある人にとって、ちょうど、と思うものが、他の人にとっては足りない、という感じることもある、、
そこはやはり、聴き手の好みとかテイストと深くかかわってくる部分だと思います。
まあ、でも彼は優れた歌い手ですよ。生で聴く人が増えれば、きっと彼への見方を変える人も多いんではないかなと思います。
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グリゴーロを好きな方に叱られるかも??? (keyaki)
2010-12-09 15:32:30
私にはわけの分らないやりとりですが、裏でのやり取りを急に表にって、内緒話は最後まで内緒にしておいた方がいいと思いますが....

>シャンティさんが、グリゴーロを好きな方に叱られるかも、、とこっそり送って下さったので

「グリゴーロを好きな方」ってここ界隈では私しかいないとおもいますので、お二人のもともとは内緒話に加わらせてください。グリゴーロのことは、好きというよりは興味があるので、どんな話も興味があります。それと、叱るなんてそんなことするわけないじゃないですか。「叱る」というのは上下関係がはっきりしている場合に使う言葉ですし。

さて、Madokakipさんのヒント「知名度が高い、ポップ歌手、オペラのアリアを歌っている」ということで推測すると

1.マイケル・ボルトン
オペラアリアのアルバムを出しているポップ界の大御所。ドミンゴやパヴァロッティとも共演している

2.ラッセル・ワトソン
イギリスの人気歌手、オペラのアリアも歌ってます。

3.ジョシュ・グローバン
クロスオーバー系のアメリカの人気歌手

4.ポール・ポッツ
イギリスの携帯のセールスマンから歌手へ夢の転身

こんなところでしょうか。
どれか当たってますか.....
グリゴーロに似ているかどうか、ぜひとも聞いて見たいです。

>”ひど~い!こんな人といっしょにして!”とプンプンされているかと思っていましたが

「こんな人」って、言うこと自体が失礼なかんじもしますけど...両方に。
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シャンティさん (Madokakip)
2010-12-08 10:13:34
あ、そうだ、“人知れぬ涙”は『愛の妙薬』のアリアですね(早起きだったので、すぐに人知れぬ涙に発想が行きませんでした。)
いえいえ、全然プンプンしてませんよ(笑)
私は自分が好きだな、いいなと思う歌手をけなされてもあまり気にならないんですよ。
好き嫌いを越えて敬意を受けるべき歌手がけなされているのは頭に来ますけれど。
なのでカウフマンやグリゴーロがどうのこうの言われるのは全然平気で、
ドミンゴとかが悪く言われる方がむしろ腹が立つんです。
この二つはちょっと違うんですよね、意味合いが。私にとっては。

ちなみにこの会話の背景には、シャンティさんがグリゴーロの“人知れぬ涙”の歌唱はこの人の歌唱に似ている、と
言って送ってくださった、ある非オペラ歌手が歌った“人知れぬ涙”のYouTubeの映像があります。
このある歌手、何のジャンルに分類すべきか良くわからないので、
“非オペラ歌手”と書きましたが(強いて言えばポップなのかな、やっぱり、、)
オペラのアリアをいくつか歌っているんですね。結構知名度の高い人なんですけど、全然知りませんでした。
もともともは、シャンティさんが、グリゴーロを好きな方に叱られるかも、、とこっそり送って下さったので、
一応ここでは名前を出さずにおきますが、もしどなたかコメント欄で正解を出されたら名前を出してしまうかもしれません(笑)
シャンティさんが似ていると感じられる点に、私もなるほどな、、と思った部分はありました。
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歌手の正体 (シャンティ)
2010-12-06 07:34:13
11月14日にメールで”愛の妙薬”のアリアを歌った歌手の正体のYoutubeを送ったのですが、届いていませんでしょうか?
てっきり、”ひど~い!こんな人といっしょにして!”とプンプンされているかと思っていましたが。
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シャンティさん (Madokakip)
2010-12-06 03:29:28
ドレス・リハーサルの記事でのle Grand Condéさんへのお返事にも書きましたが、絶対的にクリスティーが指揮者として劣っていると言っているわけでは決してありませんので!
やはり、今回の場合はオケとの組み合わせ、レパートリーとの組み合わせ、、そこにも問題・原因があったのだと思います。

>バロックがお好きでなかったようなので、それもないかと...

モーツァルトもクリアせねばなりませんし、しばらくかかるかもしれません、、(泣)
NYはバロック・オペラ後進都市ですからね、、、(個人レベルでファンの方はたくさんいらっしゃるみたいですが、公演が少ない!)

>愛の妙薬の歌手の正体にも ....

ごめんなさい、私の脳が上手く機能していないようです。これは何のことを指していらっしゃるでしょうか、、?
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残念!!! (シャンティ)
2010-12-04 17:00:33
”リゴレット”のメーリに続き、今シーズンメトデビューする方達のなかで、わたしの好きなクリスティーさんがお気に召さなかったようで 残念でなりません。
かなり厳しいことを書いていらっしゃるので、悲しいです。正妻さんとのオペラを観て感動した身としては いつかmadokakipさんがヨーロッパにいらして、レザールとの演奏を観ていただければ”目から(耳から)鱗”かと願いますが、バロックがお好きでなかったようなので、それもないかと...
(愛の妙薬の歌手の正体にも ....でいらしたようですね)
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