いま一度、「摩訶般若波羅蜜多心経」(このリシーズ(8)に示した)にもどると、
偉大な智慧の完成の行を実践したいと願うなら、五蘊皆空(存在するものの、五つの構成要素(色、受、想、行、識)、それらはもともと空である)ことを見通すことだ。
形あるもの(色)は空の性質をもつものであり、空の性質を持つものこそが、まさにかたちあるもの。感受作用(受)、表象作用(想)、意志作用(行)、認識作用(識)も、これとまったく同じと説いている。
まさに否定の哲学-即非の論理-である。この矛盾を見通すことから悟りが開かれるというわけである。
五蘊(色、受、想、行、識)は、人間の意識の階層で五識(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)、六識(意識-前頭葉)、七識(マナ識-自分に執着する心の働き、フロイトが考える無意識)までに属するもので、仏教はその先、八識(アラヤ識-生に執着する心の働き、ユングの無意識)、九識(真如)に悟りの境地があるとするからだ。
七識までを第一の心、八識から上を第二の心という。フロイトがそうであるように欧米人は第一の心に住む人々だ。東洋哲学、とりわけ仏教を信仰する人々は第二の心に住むといってもいいかもしれない。
金剛経(般若経の一部)に「応無所住而生其心」という有名な句がある。シナに禅宗をひろめたといわれる六祖慧能(えのう)が、他の僧がこの金剛経をとなえているのを聞いて、この句で開悟したとされる。
「応(まさ)に住する所なくしてしかもその心を生ずべし」と読み、何か一つの場所、事柄にとらわれてそこから離れられないのが住である、これが貧者ということ。すなわち、無念、無心になれとおなじことで、名とか、権力とか、利とかというものに縛られて居るので、その縄のはしを誰かに掴まれれば、その人は他によりて自由に動かされるのである。
いまの政治家と経営者は、貧者の代表ということ。
では「その心生ず」の心とは、先にのべた第二の心なのである。無念、無心になってこそ、その心が生ずるのである。
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以上で、「現代人の悟り」シリーズの前半の導入部を駆け足ではありましたが終了としましょう。
ここから先が本論であり、その悟りを私たちの生活にどういかすのかということですが、どうしても意識論でこむずかしい語彙を多用するのでほとんどのみなさんには興味もないとおもわれますので、しばらく間をおいて結論だけにしたいと考えています。
盤珪が説いたように、なんの苦行も修行もいらず悟りの境地に到ることができ、それを実践すると、間違いなく成仏し極楽に往生できるわけです。
私に現代仏教への扉をひらいたのは、明治から昭和前期までの偉人であった。鈴木大拙、井筒俊彦、玉城康四郎、それから岡潔、先生方が残したおおくの書籍を通してであった。あらためて大先輩に感謝するとともに、日本人に生まれた幸運に感謝するものです。
参照
1)「日本的霊性」鈴木大拙著、角川ソフィア文庫
2)「般若心経」- テクスト・思想・文化- 、 渡辺章悟著、大法輪閣