玉川な日々

一日の疲れは玉川に流して・・・

武士道の達人

2012-11-24 21:03:21 | 左様出尾蛇瑠

「大剛に兵法なし」- 柳生但馬守 

あるとき、旗本のある者が但馬守殿のところへ来て、弟子入りしたいと言った。但馬殿が、「あなたはお見受けするところ一流に達した方のようである。何流を学ばれたのか知ったうえで、師弟の契約をしよう」と申されると、

「私は、武芸は何一つ稽古をいたしておりません」と旗本は答えた。

「但馬をからかいにおいでになったのか。将軍家の御指南を勤める者の目がねが、はずれると思うのか」と重ねて申されたが、その者は、神明に誓って嘘は言わぬという、そこで

「それでは、日ごろ何か心に悟っておられることはなか」と尋ねた。

「幼少のころに、武士は命を惜しまぬことなりとふと思いついて、それから数年のあいだ絶えず心にかけ、いまでは死ぬことも何とも思わないようになりました。これ以外に悟ったことはございません」と答えた。

但馬殿は感心して、「私の目がねに狂いはなかった。柳生流兵法の極意は、その一事である。ただいままで数人の弟子に、まだ極意を免許した者は一人もいなかった。木刀をとるにはおよばない。あなたに極意皆伝を差し上げよう」と、即座に印可の巻物を渡されたという。

村川宋伝の話である。

・・

有名な話なので、ご承知の方々も多いのではないでしょうか。

本質を分かっている人に教えを請うことがいかに大切なことかということですね。

武士道は禅匠に教えを請い悟りを開いた北条時頼にその源流をたどることができるようです。

竹刀をいくら振っても武士道がわかないように、いくらお経を諳んじても、苦行をつんでも悟りは得られない。

時頼が悟りを開いたとき、師である兀庵(時頼が南宋から招いた禅匠)が弟子の時頼に詠んだ詩は、


 我 無 仏 法 一 時 説
 子 亦 無 心 無 所 得
 無 説 無 得 無 心 中
 釈 迦 親 見 燃 燈 仏

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日本人に生まれて、よかったですね。


引用 

「葉隠」 奈良本辰也、駒 敏郎著、中央公論新社
「禅と日本文化」 鈴木大拙著 北川桃雄 訳 講談社インターナショナル

武力を超える力

2012-11-20 21:34:30 | 左様出尾蛇瑠
ロシアが片付いたので次はシナの予定ですが、その前に日本武士道の源流にかかわる話をいくつか・・

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建久三年(1192年)、武蔵国の御家人、甘粕太郎忠綱が武器を取って戦場に馳せ向かわんとして、「弓箭の家業」と「徃生の素意」に何やら矛盾を感じ、帰依する法然上人を訪ねて問うた。

「武士のならい、進退心にまかせざれば、山門の堂衆を追罰のために、勅命によりただいま八王子の城に向かい侍り。忠綱武勇の家に生まれて弓箭の道にたずさわる。すすみては父祖の遺塵をうしなわず、しりぞきては子孫の後栄をのこさんがために、敵をふせぎ、身をすてば悪心熾盛にして念願発起しがたし。徃生のはげむべきことわりをわすれずば、かえりて敵のためにとりこにせられなん。長く臆病の名をとどめて、たちまち譜代の跡をうしないつべし。いずれを取るべしということ、愚意わきまえがたし。弓箭の家業もすてず、徃生の素意をもとぐる道侍らば、願わくはご一言を承らん」

と申しければ、上人曰く

「弥陀の本願は機の善悪をいわず、行の多少を論せず、身の浄不浄をえらばず、時処諸緑を嫌わざれば、死の縁によるべからず。罪人は罪人ながら名号を称えて徃生す。これ不思議也。弓箭の家に生まれたる人、たとい軍陣にたたかい命を失うとも、念佛せば本願に乗じ来迎に預らんこと、ゆめゆめ疑うべからず」

「さては忠綱が徃生は、今日一定なるべし」と云い、上人の御袈裟給わりて、鎧のしたにかけ、八王子の城に向かった。

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これは、「無学」の武人と法然 *1)の一節である。

武人家業ならば、下命があれば多勢に無勢でも逃げるわけにはいかない。

究極の選択がつねに隣り合わせの時代、そのとき何が必要なのか?


引用
*1)「日本的霊性」 鈴木大拙著、中央公論

ロシア的人間(3)

2012-11-13 18:27:43 | 左様出尾蛇瑠

                             ハンス・ホルバイン作 「墓の中の死せるキリスト」


 ロシアは「最高の真理」を捧持する地上唯一の民族であって、やがてロシアが中心となって世界は救済されるだろうというこの特徴ある思想 - というより幻想 - をロシア人が抱くようになったのは韃靼人時代につづくモスコウ時代のことであった。この民族主義・国家主義的な世界救済のメシア思想を理解することは、ロシア文学のみならず一般にロシア的現象をというものを正確に解釈する上にきわめて大切である。

 韃靼人の支配下にあった三百年の間にロシア人が「虐げられた人々」として次第に濃厚な黙示録的幻想をいだくようになった。その後、イヴァン三世が韃靼人を撃破して「ロシア人のロシア」モスコウ公国を実現したが、神権政治の形態をとる中央集権国家で、韃靼人とは形態が異なる奴隷時代がその後二百年続き、この時代に黙示録的精神はいよいよ決定的な形となり、いわゆる「第三ローマ」という、ロシア民族のとてつもない世界全人類救済という夢想に結晶した。

 元来、モスコウ・ロシアは、四隣から完全に孤立して自己の殻の内に固くとじこもった東洋の国に過ぎなかった。メシア的な世界救済の夢を抱いてはいたが、それは世界歴史の現実とは縁もゆかりもない白昼夢で、世界を救うどころか、実は今にも世界から圧しつぶされそうな情勢になっていたのだった。これにただ一人気づき、骨の髄まで腐敗したロシアを救済し、西ヨーロッパの技術文化を導入し、国家機構を根本的に改造し、東洋からヨーロッパの東端ロシアにしたのがピョートル大帝である。

 ピョートル大帝はたんに暴力革命の象徴としてロシアの政治史に無類の位置を占めるばかりでなく、あらゆる問題の中で最もロシア的な問題といわれる「自由」の問題をはじめて主題的にロシア民族の前に提起し、ロシアを「自由」にした。モスコウ・ロシアを一挙に破壊し去った彼は、それによって過去五百年にわたる奴隷精神を一思いにたたきつぶした。しかしあまりに急に上から押し付けられるように解放されたために、「自由」に戸惑い狼狽した。奴隷状態は屈辱的で苦しいが、見方によれば、この上もなく呑気で気楽な状態だ。厄介な自由意思を少しも働かせる必要がない。自由がなければ責任もない、この呑気な生き方はすこぶるロシア人の趣味にあっていた。そして強引に与えられた自由は、百年後に最高潮に達し暴走をはじめる。あまりに一度に激しい創造性が目覚めすぎて、支離滅裂になってしまい、自由というより無秩序、混乱と錯雑に陥る。この無軌道に疾走するトロイカの前に大手をひろげて立ちふさがったのがレーニンである。

 ピョートル大帝から与えられた自由を持て余したロシア人は、レーニンの共産主義の奴隷として再び歓喜の時代を迎えるのである。ギリシャ政教に代わって共産主義というイデオロギーによって世界救済を実現するという幻想に酔って。
 
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 「ロシア的人間」がはじめて出版されたのは1953年早春で、1988年に書かれたあとがきに井筒は次のように記している。「大学を卒業したての未熟な若者が、要するに自分だけのために書いた私記であるに過ぎない。学問とはどうゆうものであるべきかも分かっていなかった。ただロシア語を学び、始めてロシア文学に触れた感激を、ひたすら文字に写しとめようと夢中になっていた。だがそれだけに、私個人にとっては、実になつかしい青春の日々の記録ではある。」

 中央公論は朝日新聞とともに大東亜戦争という敗戦共産主義革命を推進した昭和研究会の主要メンバーを構成しておりましたので、井筒のするどいロシア人の精神的解体新書をどうしても受け入れがたい人(左翼の読者)のためのエクスキューズもわすれなかった。というわけで最後に袴田茂樹の読後感を載せている。袴田と聞けば、思い起こすでしょう、父は日本共産党員1940年にソ連に亡命、伯父は日本共産党幹部の袴田里見。生粋の共産主義者ですから、共産主義ロシアをどう弁護したらと本質を外した書評についてはご想像におまかせします(笑)。

 さて、1991年12月25日にソ連が崩壊してからの20年、共産主義独裁から解放されたロシア人はどんな国を作ったでしょう。ピョートル大帝から突然与えられた自由をもてあましたように、井筒の見方がとても本質をついていることを証明しているように私には思えますが・・

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引用、「ロシア的人間」井筒俊彦著、中公文庫 より
 

ロシア的人間(2)

2012-11-10 10:47:26 | 左様出尾蛇瑠

                              ホルバイン作「墓の中の死せるキリスト」

 地獄の呵責が三百年も続けば、どんな民族でも、その魂に決定的な刻印を受けざるを得ない。しかしその経験が何か積極的な精神を生むか否かはまたおのずから別の問題だ。屈辱は骨の髄まで奴隷的な、矮小な人間を生むこともあるだろう。ロシアでは、この苦悩の経験から、あの特徴ある巨大な反逆児が生まれ、黙示録的人間が生まれた。「地下室の住人」や「永遠の夫」は虐げられ踏みつけられた「奴隷」の反逆を典型的な形で具現している。徹底的に虐げられた敗北の人の魂の中からでなければ、あのような反逆は生まれない。魂の深部で淡々と燃える恐ろしい怨嗟、忿恚、羨嫉、嫉妬。上べには諂いの笑いを浮かべながら魂の底で殺人を犯すのだ。
 謂われなくしてあまりにも残酷な暴行、拷問、折檻を受けた敗者の恨みは、頑固な、恐るべきひねくれとなって内攻する。しかもこの怨恨だけが、一切を剥奪されてしまった赤裸の魂の、最後に残った一点なのである。怨恨は外にむかって爆発せず - 爆発したくとも外面への途は固く閉ざされているのだ - 深く深く内面へこもって行く。ひと思いに恨みを返し仇をうってしまえば胸もせいせいするだろうに、そうする代わりに、誰も知らないようなうす暗い部屋の片隅にひっそりと身を隠して、そこから四六時中じっと相手をみつめている。そしてまた、そうしていることが当人にとっては死ぬほど苦しいと同時に、その裏では、身顫いが出るほど劇しい快楽でもあるのだ。こんな非合理的な、根深い反逆はロシア的人間だけのものである。

 しかしながら「奴隷」の体験は、こういう執拗なひねくれ者だけを生みだしたのではなかった。それは同時にあの特徴あるロシア黙示録的人間をも生んだ。一見するとまるで相反するように見えるけれど、神への反逆と神への帰順とはここでは同じ一つの根から出た二本の幹である。ロシア的反逆とロシア的信仰とは双生児だ。イヴァンとミーチャが兄弟なら、スメルジャコフもまた同じ血をひいている。三百年の奴隷生活、その深い絶望と苦悩のどん底から、救済への希救が、神への熱い祈りとなって湧き上がる。

 ロシアが形式的に基督教を受け入れたのは基督教会の東西分裂以前の古い昔であるが、それが本当にロシア人の血となり肉となったのは韃靼時代を通過してからであることは注目に値する。あまりに平穏無事な日々をおくっている人は自己の存在の危機を自覚しない。ところが、ひとたび、思いもかけぬ悲境に投げ込まれる時、彼は愕然として存在の危機を自覚し、魂の救いを憶いはじめる。韃靼人支配下のロシア人もそうだった。深い憂愁と絶望の淵から、大いなる「汝」にむかって呻吟とも祈りともつかぬ悲痛な叫び声を捧げるボードレールのように、彼らは生まれてはじめて心の底から、真剣に神を憶い、神を喚んだ。

 わが陥りし幽暗の深淵の底より
 われ汝の憐みを乞い求む、「汝」わが愛する唯一のものよ。
 世界は陰鬱に、見はるかす地平は鉛にとざされ、
 恐怖と冒瀆は夜の闇に漂う。

 自分で苦難の十字架を背負ってみて、はじめて基督の十字架の意義もわかった。自分で本当に苦しみ悩む身になった今にして、彼らは「苦しみ悩む人」基督に対する狂おしいばかりの愛に目ざめた。

・・ 以上、「ロシア的人間」井筒俊彦著 中公文庫 から。

かくして、ロシア人は過酷な奴隷時代を経て、魂の救いを求め宗教に目覚めた。

韃靼人(モンゴル)に侵略される前のキーエフ公国時代の日本はといえば平安時代。

文化の中心は京都に限られ、宮廷を中心にして、これをめぐる貴族たちの文化が当時の日本文化の全部であった。

平安文化の特徴は、「古今集」にみられるように四季の歌と恋歌が半分以上を占めているように、繊細で、女性的で、優美閑雅、感傷的である。

とにかく男は涙にくれて、泣いて長袖を濡らしている。女々しい。

思想において、情熱において、意気において、宗教的あこがれ、霊性的おののきにおいて、学ぶべきものはなにもない(鈴木大拙、「日本的霊性」)。

救いがいらないということは幸せなことだったが・・

 

ロシア的人間(1)

2012-11-06 17:22:27 | 左様出尾蛇瑠

ドストイェフスキー「白痴」の中で、ロゴージンの陰惨な家の一室にかかっている絵である(ハンス・ホルバイン作 「墓の中の死せるキリスト」)。

・・それは完全に一個の人間の屍――十字架にかけられる以前に、十字架を背負って歩き、十字架の下に倒れ伏し、傷や拷問や番兵の笞打、民衆の殴打など限りない苦しみを受け、そしてそのあげく十字架の苦痛を六時間(少なくとも私が計算してみたところでは六時間という勘定になるのだ)の長い間堪え続けた人間の死骸だった。それは本当にたったいま十字架から取り外して来たばかりの人の顔、つまり、まだ充分生命の気配の残った、ぬくもりのある顔であった。まだどこも硬直していないので、この死人の顔面には苦しみの表情が浮かんでおり、今でもなおそれを感じているかとおもわれんばかりだった。しかしその代わり、顔の描き方は全く情け容赦なく残酷なものだった。完全に自然どおりなのだ。つまり、誰だってこんな苦痛を味わった後ではこうなるより仕方あるまいというような描き方だ。

 この余りにもなまなましく人間的で、「完全に自然法則に従って死亡した」基督の像は実にぴったりとロシアの基督教の性格を象徴している。信仰ある多くの人々を信仰の喪失に、信仰の拒否に導いて行くこのものすごい「死骸」こそ、同時に多くのロシア人の胸にあの狂乱のような信仰の陶酔を生み出す源泉でもあるのだ。

 西ヨーロッパ的表象においては、十字架は神の国の反照を浴びて空高く壮厳に輝いている。それに反してロシアの十字架は、蕭条たる髑髏(どくろ)が丘に無造作に突き立てられた貧れな棒杙(ぼうくい)にすぎぬ。神光の照映も、淨福の影もそこにはない。陰鬱に雲垂れこめる灰色の空のもと、颯々たる荒風のなかにそれは淋しく立っている。釘打たれた基督は足先をだらりと地上に引きずり、何事も気づかぬようにその前を往来する群集にさえぎられて、わずかに顔だけちらとのぞかせていた。しかもその顔つきの何という惨めなことか! ロシアの基督! 十字架の栄光はどこにあるのか!

 しかるにロシアの十字架において、我々は、人々と共に卑しめられ辱しめられた一個の人間を見る。それは「虐げられた人」としての人間基督だ。「虐げられた人々」の自覚に生きるロシア民族と共に虐げられ、共に苦しみ共に悩む基督の姿だ。そこには民族と基督の間に、他に類のない人間的共感がある。その共感が愛となり、愛はやがて熱烈な信仰になる。だからここでは、信仰は文字通り愛から始まる。人間基督にたいする熱狂的な愛が、そのまま復活の基督に対する熱狂的な信仰に変成する。しかも、共感と言い愛と言い信仰と言っても、それぞれが独立した別々の状態なのではなくて、実は全てが錯雑して一つに混ぜ合わさったような、狂激な情熱で、それはあるのだ。

 基督を最高絶対の「真理」として、生きた真理として把握してきた西欧の中世カトリック的世界から、ロシア的信仰の陶酔の世界のいかに遠く距っていることか。「もし誰かが、基督は真理の外にあるということを私に証明して見せたら、そしてもし本当に真理が基督を締め出してしまうなら、私は真理よりむしろ基督と共に留まるだろう」とドストイェフスキーは断言した。ロシア人における愛・即・信仰とはおよそこういう性質のものである。

 ニーチェは基督教を奴隷の宗教とののしり、奴隷的人間にこそふさわしい宗教だといったが、幸か不幸かロシア民族は事実上、一個の「奴隷」だった。しかも韃靼人という東方「蛮族」の奴隷だった。

 諺にも残るほど残酷な韃靼人の凄まじい侵略の前に、平和に富み栄えた往古のロシアはたちまち阿鼻叫喚の巷と変じて行った。当時、華の都と詩歌にも謳われたキーエフが灰燼に帰したのは一二四〇年のこと。陽気で何の屈託も知らぬロシア人は一夜にして奴隷の屈辱に叩き込まれてしまった。しかもこの韃靼人支配は十三世紀、十四世紀、十五世紀と三世紀にわたって続いた。文字通りそれは奴隷の三百年だった。しかしそれと同時に、この屈辱の経験は、プーシキンの言うように、「偉大な」経験でもあったのだ。何故なら後世の史家がロシア精神の特質として指摘するものの大部分は、正にこの屈辱と困難のうちにこそ形成されたのだから。ともかく、それ以前には、ロシア精神と呼べるものは地上に存在していなかった。本来の意味でのロシア精神は、ロシア民族が「虐げられた人々」となった時から始まるのである。

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なぜソ連が崩壊してから21年も経て、まだ共産党支配がつづくのか? その答えがこのを読むと理解できるとおもいます。予定は三回。


引用は、「ロシア的人間」井筒俊彦著 中公文庫 からです。