玉川な日々

一日の疲れは玉川に流して・・・

信仰は論理矛盾を越える

2014-01-25 12:56:32 | 日本人の悟り
悪とは、文化、宗教、時代によって、何を悪とするか変わるもので、実に多様なものらしい。

悪とは何かを、キリスト教の場合について述べたものを一例としてその論点を。1)

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 キリスト教の場合、ここに悪の問題に関して最も厄介な問題が生じる。人間を造ったのが神であり、人間は神から離反し、罪に堕ちた。これが人間の悪である。とすれば、悪のそのものの原因は神になりはしなきかということである。

 罪は人類の始まりと同時に始まったとされる。原罪である。いわゆる失楽園の物語として、創世記において語られることになる。原罪は、自由意思、洗礼、十字架のイエスの死、キリストの恩寵など、キリスト教の主要な教義と深い関連を有する。たとえば、洗礼は聖水に宿る聖霊が原罪を洗いおとすとされるのだが、洗礼を受けているにもかかわらず、罪を犯すという現実に対して、洗礼の意義をどう弁護するのか。

 さらに、イエスの十字架の死は、人類の罪を贖うためのものであった、と教えられる。とすれば、原罪は廃棄されたのではないか。洗礼の必要はもはやないのではないか。幼児は原罪を負って生まれ、したがって洗礼が必要であるとすれば、イエスの十字架上の死は無意味だということになるのではないか。イエスは十字架上で死んだ。それゆえ、ペラギウスの言うように、救われるためには、善行を積みさえすれば良く、しかも人間は自分の力でそれをすることができるのではないか。

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 論理の矛盾を越えるのが、信仰の力であり、神はその不完全さ愚かさにより、信仰の大切さを人間に示したのでしょうか?

 
参照
1)「悪を哲学する」 北樹出版


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