玉川な日々

一日の疲れは玉川に流して・・・

「現代人の悟り」-(6)それぞれの開悟

2013-04-29 16:44:37 | 日本人の悟り

 盤珪と道元の開悟への道を辿り、その厳しい修行の道に想いを巡らせるだけでも清浄な気持ちなる。そして、開悟はその人その人により表現が異なることも知ることができる。僧として修行されている人に敬意をもつものですが、この激しい修行を一般のわたくしたち衆生ができるはずもない。そこで釈尊の悟りの原点を振り返ってみる。

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ここで、釈尊が開悟した際のウダーナ(偈)をみてみましょう。

〔初夜(夕暮れ)の偈〕
「実にダンマ(法)が、熱心に入定しつつある修行者に顕わになるとき、そのとき、かれの一切の疑惑は消滅する。というのは、かれは縁の理法をしっているから」
〔中夜(夜中)の偈〕
「実にダンマ(法)が、熱心に入定しつつある修行者に顕わになるとき、そのとき、かれの一切の疑惑は消滅する。というのは、かれはもろもろの縁の消滅を知ったのであるから」
〔後夜(明け方)の偈〕
「実にダンマ(法)が、熱心に入定しつつある修行者に顕わになるとき、かれは悪魔の軍隊を粉砕して安立している。あたかも太陽が虚空を照らすがごとくである」

ダンマとは、のちに如来となづけられるものである。修行者に如来が顕わになり、通徹するとき煩悩、私心は消えさり、そして如来は修行者の内から外に光を放つようになる。これが、ブッダの禅定による開悟である。

また、ブッダは入定中に、

「わたしによって証得されたこのダンマは、甚深であり、理解しがたく、悟りがたく、寂静で、すぐれており、分別の領域を超えており、微妙であり、賢者によって知られるべきである」

と述べ、

「しかるに世の人々は、アーラヤを楽しみ、アーラヤを喜び、アーラヤに喜悦する。実にアーラヤを楽しみ、アーラヤを喜び、アーラヤに喜悦する人々には、ダンマはとうてい理解できない。たとい私が説いても、私はただ疲れ果ててしまうだけであろう」

と沈黙する。ブッダは人間に絶望するが、梵天サハンパティの懇願によって、山を下りて説法活動に入る。そして、次第に自分が初めて目覚めたのではなく、すでに過去の諸仏もおなじようにダンマに目覚め、また未来の仏道者たちも同様に目覚めることを知るのである。

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無明におおわれ、渇愛に結ばれ、流れさまよっている衆生。わたしたちが生をうけ、どのように如来に目覚め、その真理を生かすことができるのかは、永遠の如来の一切衆生にたいする永遠の説法に示されている。

日本にまだ仏教の宗派もない時代に開悟、ダンマ顕現したといわれる聖徳太子。仏教のかなから真理を発見し、その真理を大衆ともに実践に移そうと努力された。まさにブッダ滅後千年の時を経て太子に顕わになるのである。

伝えるところによれば、太子はしばしば夢殿で三昩に入ったといわれる。月に三度、お沐浴して夢殿に入り、七日七夜、戸を閉めて入定した。太子の師は慧慈法師。

太子自身の句、(『維摩経義疏』より)

「若し至聖を論ずれば、即ち智、真如の理に冥し、永く名相の域を絶つ。彼もなく此れもなく、取りもなく捨もなし。既に大虚を以て体となし、万法を照らす心となす。何ぞ名相として量るべきことあらん。・・・大悲息むことなく、機に随って化を施す。則ち衆生のある所、至らざる所なし」

太子が、あつく三宝(仏・法・僧)に帰依せられたことは、十七条憲法の第ニ条に「篤く三宝を敬え」とあることによりわかる。ここに太子が、自分ひとりだけが目覚める道ではなく、かならず大衆とともに生き得る道を問われたことの証でもある。

また、太子は真の善はいかなる人にも行い得るものでなければならないと考えた。仏教の教義からいえば、大乗を理解することが先であり根本で、その理解の上に善を行う。しかし大衆の側からいえば、理解は大衆にとって普遍的なものではない。能力に優れたものも劣ったものもあるからである。しかし善は、善を行うという意思さえあれば誰にでもできる。むしろこちらの方が普遍的である。そこで太子は、善を根本とし、解を枝葉とされたということだ。

経典を読んで理解できるものはこれを行い、できなければその教えをまずは生活の中に活かせと教える。

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太子の教えに従い、多くの経典から何を学び、どう活かすのかを次から考えてまいりましょう。

参照
1)「悟りと解脱」-〔宗教と科学の真理について〕-、玉城康四郎著、法蔵館
2)「永遠の世界観 華厳経」 玉城康四郎著、筑摩書房

「現代人の悟り」-(5)それぞれの開悟-道元

2013-04-28 18:26:28 | 日本人の悟り

 「世の中に真の人やなかるらん限りも見えぬ大空の色」

 道元が、執権北条時頼の招きにより鎌倉に半年滞在したとき、菩薩戒とともに送った十首のひとつである。「真の人」は仏教を真に学ぼうとする人で、そういう人が世にいるものの、大空の色が青くどこまでも深いように「真」もはてしなく、究めるのは容易ではない。という内容で、四十七歳の道元が、二十歳の時頼に、若かりし日の自分が建仁寺に入った頃の思いと、宋の禅僧でさえ先師如浄のような真の人は稀だとの実感が入っている。

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 明全一行が宋の天童山景徳寺をめざして京都建仁寺を出発したのは1223年の2月末で、三月下旬南路(種子島、奄美大島へ南下し東支那海を横断する)で明州慶元府に着いたのは四月はじめで、途中台風に合い船内が水浸しになり、それを手桶で掻きだすのも間に合わない、船がこわれかかり、道元は何度も吐きながら、船も幸いにしてもちこたえた命がけの航海だった。明全はすぐに上陸できたが、道元らは天童山掛錫の手続きのため三カ月船で待機をよぎなくなれた。晴れて許可が下りて掛錫すると、明全、道元は辺夷外国の人という扱いで末座に遇せられた。
 この不条理な扱いに道元の真価が発揮される。直接天童山侍局抗議したが却下され、道元はおさまらず、皇帝寧宗へ直訴上奏の挙に出る。
 仏法沙界に偏く、威光十万を照らす、わが国(日本)はすでに仏国、人はみな仏子。国の名、中外で差別するとは何事か、仏教は政治の外にあると、訴えた。道元は、得意の漢文で抗議する。すると、帝は表を見て道理ありとし、「倭僧の表、まことに正理あり。これを案ずるに戒位仏制をみだすなかれ、天童すなわち綸旨(りんじ)に応えよ」と勅して聴許されたという。

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 道元は、修行に励むとともに、正師をもとめて天童山を出て遍歴するうちに、釈尊の正法の核心がどこにあり、それがどのゆおにして正しくつたえられるのか、さらに悟りの実体にどのように迫ればよいのかを知るために、直接嗣書から学びたいと志して見せてもらった。最初に、臨済宗の開祖臨剤義玄から四十五代の名が連なった嗣書だった。また、雲門宗の嗣書も見せてもらったが、書式が甚だしく違うことに気が付き、天童山の首座(雲水の主席)に理由を尋ねた。すると、「大切なのは悟りそのものであって、嗣書の様式ではない。」と教示される。そして嗣書には由緒正しいものから、得法のいかんにかかわらず買収して作らせたものや、書式のでたらめなものまで、仏法とは名ばかりの腐敗した現実をみることとなった。
 道元が巡錫した諸山は、北は杭州の径山から、南は台州、温州のおよぶ。杭州の五山第一の名刹径山の興聖万寿寺では禅問答と臨済公案を学び、台州天台山の万年寺(この寺は栄西が山門を寄進した、ゆかりの深い禅寺)ではりっぱな嗣書はあったが、道元のめざす古風な禅風はみられず、貴族に迎合する禅風で、弟子になるように勧められたが辞去した。明州の大梅山護聖寺、台州の小翠岩、温州の雁山能仁寺を尋ねたが見聞が広まっただけであった。このまま、日本に帰ろうかとおもったとき、径山羅漢堂の前で一人の老人から天童如浄のことを知る。巡錫に失望して天童山に帰る途中であった。

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 道元が天童山に戻り、如浄に相見したのが1225年5月1日、道元25歳、如浄62歳であった。如浄の修行は、朝は二時半、三時頃から夜は十一時ころまで坐禅するというきびしいものだった。居眠りするものがあれば拳で打ち、あるいは履をぬいで打つ、これは仏に代わって打つもので許せと詫びるので、衆僧も涙する。

 兄弟子の明全が病に倒れ、正身端坐のまましずかに入寂したのが五月二十七日である。

たとい発病して死ぬべくとも、なおただこれを修すべし。病まずして修せずんば、この身労しても何の用ぞ。病して死なば本意なり・・修行せずして身を久しく保ちても詮なきなり。何の用ぞ。

明全の示寂を見送った道元の思いであった。

 道元の開悟は、夏の風のない夕方だった。道元の隣で坐禅する僧が、耐えがたい眠気に襲われて、思わずあくびをした。とたんに、僧の右肩に発止と警策が打ちおろされ、
「参禅はすべからく身心脱落なるべし、只管に打睡して什(いんも)を為すに耐えんや」と、如浄の大喝が飛んだ。
 道元は座を立ち、如浄の方丈に参じて、焼香礼拝した。如浄が見たところ、道元の面上ただならぬ清光が感ぜらる。如浄はただちにその意味を悟った。
「焼香のこと、作麼生」 
如浄は誘導の口火をきった。
「身心脱退し来る」
道元は、打てばひびくように答えた。
「身心脱落、脱落身心」
如浄は力のこもった声で応じた。そして、
道元「みだりに印することなかれ」
如浄「われ、みだりに印せず」
 道元「いかなるかこれ、みだりにそれがしを印せざるの底」
 如浄「脱落身心」
このとき如浄から道元への嗣法の単伝はみごとに完了した。

九月十八日、侍者広平、知客宗端らを従えて、如浄主宰の伝戒の儀式が営まれた。
仏祖正伝菩薩戒脈が道元に授けられた。
「大宋宝慶元年乙酉九月十八日、前住天童如浄和尚示して曰く、仏戒は宗門の大事なり。霊山・少林・曹渓・洞山みな嫡嗣に付し、如来より嫡々相承して吾に到る、今弟子日本国僧道元に付法す、伝付既に畢んぬ」1)

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道元が開悟したとき、蝉が羽化するとき幼虫の背が二つに割れるように、道元の背は縦に裂け、真っ白な肉が見えたという。

今わたくしたち門徒が永平寺に参ると、修行僧が観光ガイドとしてやさしく案内してくれる。

寺の壁には、

一、われら共に、仏子として正信に目覚める
二、われら共に、行持を怠らず節度守る
三、あれら共に、報恩を旨とし温かい心で人に接する
四、われら共に、水道、電気をはじめ物の扱いに気を付ける
五、われら共々に心平静にして、そのところに落ち着く

中学生の合宿所のようにわかりやすい訓もある。

総本山は、大衆化し沢山の観光客が喜んで下さる施設となりました。曹洞禅の隆盛に、さぞ禅師も涙を流してお慶びではないかとお察しいたします。

誠に有難きことです。



参照
1)「道元」倉橋羊村著、講談社

「現代人の悟り」-(4)それぞれの開悟-盤珪

2013-04-26 14:44:54 | 日本人の悟り

 釈尊が禅定により悟りを開いたことから、菩薩の行の基本に禅定があることは疑いのないことで、仏教の一派として、坐禅を悟りの道の中心におく禅宗がうまれたことも自然な流れであるとおもわれる。

 シナにおける禅宗は、達磨を祖とし、五祖弘忍(601 - 674年)、六祖慧能(638- 713年)により禅宗として確立し、慧能の弟子・青原行思の系統から禅宗五家-曹洞宗(洞山良价)、雲門宗(雲門文偃)、法眼宗(法眼文益)、イ仰宗(イ山霊祐と仰山慧寂)、臨済宗(臨済義玄)-にわかれていく。

 日本に仏教が伝わったのは欽明天皇(在位529-571年)の時代で、釈尊の開悟をはじめて体現した日本人は聖徳太子(572-622年)といわれる。シナで禅宗が確立される前である。

 日本精神といえば武士道ですが、その源流をたどれば北条時頼(1227-1263年)がシナから招かれた禅匠兀庵の許、二十一年のたゆまぬ修行により開悟したことまでさかのぼる。この開悟が北条時頼に受け継がれ、元寇の侵略から日本を守ることにより日本武士道の発芽を迎える。

 武士道の精神の中心の一つである禅宗における日本人の開悟について、道元(1200-1253年)、盤珪(1622-1693年)を例に、悟りの過程をみていくことにしましょう。まずは年代が近く、不世出の禅者でもっとも独創的で、その表現は簡単直截(ちょくせつ)で透徹していると言わしめた、盤珪から。

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 盤珪は、元和八年(1622年)播州揖西群浜田郷に儒医を業としている家に生まれた。腕白もので二、三歳のころより死ぬのが嫌いだった。十一歳で父が死去し、兄に命ぜられて村の学校へ入り、また大覚寺に書を習いに行ったが、いつも早く帰ってきてしまう。兄が責めてもいうこをきかないので、川の渡し船の船頭に弟が来ても乗せるなと頼む。しかし盤珪は、川底をくぐって帰ってきた。兄に叱られると、自殺をはかって毒蜘蛛をくったという豪傑だった。

 盤珪が最初につきあたった疑問は、「大学の道は明徳を明らかにするに在り」という「大学」の一句だった。(前回の禅定の意訳「定」の意味として引用した)
明徳とは何か、儒者、禅僧に尋ねてあるいたが、言葉の意味だけで何かということは教えてもらえなかった。十五歳のとき生家の菩提寺である西方寺(浄土宗西山派)の一室にこもって「白業を修す」といって修行遍歴をはじめる。
 十七歳のとき、赤穂の随鴎寺に雲甫全祥の下で得度、練行苦行をつづける。その後、京都五条の橋の下で乞食四年・・各地を放浪、二十四歳のとき再び雲甫の許へ帰る。雲甫に「擬欲すれば即ち差う。是れ汝が為に、根元を掲開し了れり」とさとされ、春日山の興福寺にある草庵に入り、門を閉ざして坐禅三昩に専念する。いつか数年の疲れに大病になる。養生するも食ものどを通らぬようになり死を覚悟した。そんなある日、
 「折節ひょっと、一切事は不生で調ふものを、さて今まで得知らいで、むだ骨折ったことかな、と思いつきまして、漸々と、従前の非をしった事でござったわいの」
と、ある朝戸外に出て、梅の香がただよってきたとき疑情が晴れ、快方にむかった。開悟した。ときに盤珪、二十六歳であった。

 その後、諸方の禅僧を尋ね、開悟の内容を確かめようと努めたが満足できなかった。慶安四年(1651年)に長崎に明の道者超元が来朝したことを知り、当地を訪れ、開悟をたしかめようとしたが、道者は盤珪に、
 「汝、己事に撞著すと雖も、未だ宗門向上の事を明らめず」と述べた。
盤珪は道者のすぐれていることを認め、道者の許で修行することにした。そして、三十一歳の三月に豁然として大悟する。さっそく道者の方丈に至り、問答の末、両手をひろげた。道者が筆をとって書こうとすると、盤珪はそれを奪い取ってなげうち、決然として出て行った。道者はあとで、他の僧に、かれは大事了畢した、堂を出て長養せよ、といった。

・・

 盤珪は、不生の二字に思想と直観を盛り込んだ不生禅として知られた。しかしその「不生とは何か?」といわれると明確に示されるものはなく、本人の法話から意味を推定することとなる。

「身共が年二十六の時初めて、一切の事は、不生で調うということを弁へましたより、以来四十年、仏心は、不生にして霊明なる・・・」(法話集・6頁)

「不生不滅と白すことは、昔から経録にもあそこここ爰(ここ)に出てござれども、不生の証拠がござらぬ程に、それ故、皆人が唯だ不生不滅とばかり覚えていいますれども、たしかに骨随に徹し決定して、不生な事を得知りませぬわい」(法話集・159頁)

また盤珪は、中国も日本も禅法を誤解しており、坐禅して悟りを開こうと思い、あるいは見聞の主を見つけようとするのは誤りで、坐の時はただ坐したまま、経行のときは経行のまま、親の産みつけた不生の仏心には一点の迷いもないと、いう。

「明徳とは?」を追求していた盤珪。身も心も朽ち果て廃墟なればこそ、純粋生命が実現した。生まれながら人間が具しているといわれる明徳、さすれば、全宇宙の真理が盤珪に顕現したとき、不生という語に具現したといえる。

道者の許を辞し長崎から東にむかい吉野山にはいった盤珪、この吉野籠居の間に百姓のために与えたとつたえられる歌がある。

 不生ふめつのこの心なれば
    地水火風はかりの宿
 
 生れ来りしいにしへとえば
    なにもおもはぬこの心

 来るがごとくに心をもてば
    直にこの身が活如来

 悪を嫌ふを善じやとおもふ
    きらふ心が悪じやもの

 無為のこころはもとより不生
    無為がなき故まよひなし

 死んで世界に夜昼くらせ
    それで世界が手に入るぞ

 としはよれども心はよらじ
    いつもかはらぬ此こころ

・・

 師に頼らず、真理に体ごとぶつけて開悟し、多くの信徒を集め隆盛を極めた盤珪。骨を折って開悟した盤珪が、私たちに透徹した心で語りかける。骨を折らねば悟りが開けないと思うのは誤りで、皆の衆にはむだ骨を折らせずに、畳の上で楽々と法を成就させたいとねがい説法した盤珪。開悟とは何かを教えている。



参照
1)「悟りと解脱」-〔宗教と科学の真理について〕-、玉城康四郎著、法蔵館
2)「永遠の世界観 華厳経」 玉城康四郎著、筑摩書房
3)「日本の禅語録 十六 盤珪」 玉城康四郎著、講談社
4)「日本的霊性」 鈴木大拙 角川ソフィア文庫




「現代人の悟り」-(3) 禅定とは

2013-04-22 23:37:19 | 日本人の悟り

 釈尊が初めに弟子入りしたのはAl-ara K-al-ama で、師とおなじ境地-無所有処(なにもないという境地)に達した。次にUddaka R-amaputtaに師事し悲想非非想処(想うのでもなく想わないでもないとう境地)に至ったが、求める涅槃ではないと、自ら肉体を責める難行苦行をことごとく試す修行をするものの弱体化するだけでまったく涅槃の道とはほど遠いものであった。そして、かつて父王の儀式に伴うていた際、彼ひとり樹の蔭に坐って禅定に専念したときの意識を思いだし、これこそ悟りへの道ではないかと思うのである。その意識とは、入出息念定で、入る息、出る息に心を集中していく禅定である。
この禅定をつづけ、釈尊は解脱するのである。この禅定は、日本の禅宗の坐禅とは異なることに注意しなければならない。

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 禅定の語源は、サンスクリット語のdhyana(ドフャーナ)、パーリ語のjhana(ジュハーナ)で、瞑想、黙想の意味で、漢訳されるとき aが落ちてjhanから禅と音訳され、意訳として定が付加され、禅定となった。なぜ、定がjhanaの意訳になったのかは、玉城先生によると、中国古典の四書の大学のはじめの一節、

大學之道、在明明徳、在親民、在止於至善。知止而后有定、定而后能靜、靜而后能安、安而后能慮、慮而后能得。物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣。

からではないかということである。意味は、

「大学の道は、明徳を明らかにするにあり。民に親しむにあり、至善に止まるにあり、止まるを知りて后に定まることあり、定まりて后に能く静(しずか)なり。静にして后に能く安し。安くして后に能く慮る。慮りて后に能く得。物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば、則ち道に近し」

 わたしたちに本来そなわっている明徳を体得してみると、それが究極の善であると知られてくる。その善に安らっていると、身心ぜんたいが安定して静かになり、良く思慮できるようになり、物事の全体が見えてくる。すなわち「身心全体で思慮する」ということである。

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禅は音訳でそれ自体に意味は無い。坐禅の本来の意味は、「坐し、身心全体で思惟する」ことである。

インド思想一般では、禅定のことをヨーガ(yoga)と呼んでいるが、しかし禅定とヨーガは意味領域が異なっている。ヨーガとは結合の意味であり、実修、実践、修練、方法、道、身心統一というような、きわめて広い意味に用いられている。ヨーガは、人間精神の禅領域にかかわるといってよい。智慧のヨーガ、信愛のヨーガ、実践のヨーガ、ラージャ(王の意味)ヨーガなどがある。仏教の禅定は、狭い意味のヨーガ、ラージャ・ヨーガに相当するといわれる。



参照
1)「悟りと解脱」-〔宗教と科学の真理について〕-、玉城康四郎著、法蔵館
2)「永遠の世界観 華厳経」 玉城康四郎著、筑摩書房


「現代人の悟り」-(2) 解脱とは

2013-04-21 19:26:37 | 日本人の悟り

 当然のことでありますが、「悟りを開く- 解脱する」とはどういうことを確認しておかなければならない。

 まず、解脱という語の意味から考えてみましょう。原語は、サンスクリット語、vimoksa(ヴィモークシヤ)あるいはvimukiti(ヴィムクティ)である。いずれも、語根 vi-√mucから転化したもので、「解放されること」「解き放たれること」という意味である。つまり、煩悩の束縛から解放されること、あるいは、迷いの世界からの離脱である。(但し梵語の英語表記はフォントが無いため正確ではない)

 釈尊(俗名 Gotama ゴータマ)は解脱を実現してブッダ(Buddha 目覚めたひと)になった。印度の小国の王子として生まれ、何不自由ない生活をしていたが、生存そのものの悩みにとりつかれ、
 「私は自らうまれるものとなって、生まれるものにおいて患いを知り、不生なる無上安穏の涅槃をもとめよう。自ら老いるものとなって、老いるものにおいて患いを知り、不老なる無上安穏の涅槃を求めよう。自ら病むものとなって、病むものにおいて患いを知り、不病なる無上安穏の涅槃を求めよう。・・・」
といって出家する。

 釈尊は著名な宗教者に弟子入りし、師とおなじ境地に達するも、これは釈尊が求める涅槃ではないとして、自ら修行をはじめる。さまざまな難行苦行をつぎつに敢行しても涅槃への道は開けなかった。しかし、不退の精進と忘念しない念により、涅槃を求めて努力をし続けた。長年の難行苦行では涅槃は開けないと訣別し、樹の蔭に坐って禅定をつづけた。

 どれだけの歳月が過ぎたのかは分からない。連日連夜の禅定の後、開悟する。大爆発、木端微塵、茫然自失・・やがて時を経て歓喜の焔が腹の底からムクムクと噴き出すし、体全体を覆い尽くす・・・。ようやく激動が静まって、坐禅のままの姿で、ブッダの口をついて出た、最初の一節があり、それをウダーナ ud-ana(偈)という。それは夕方・夜中・明け方と三偈あり、これこそが釈尊の解脱にかかわる最大重要な意味をもつもので、開悟とは何かを示しているものである。1)


参照
1)「悟りと解脱」-〔宗教と科学の真理について〕-、玉城康四郎著、法蔵館